潮虎がうしおと共に連れてこられたのは、山の頂上にそびえ建つ大きな寺だった。
常識というものを学んでこなかった潮虎は知らなかったのだが、その寺はとても有名なものだった。
妖怪と人間が共存しあう世界を作り上げた宗派であり、妖怪にも人間にも強い人脈を持っている『光覇明宗』の総本山がここなのだ。
「どうぞ」
開けっぱなしになっているのであろう門の前には、二人の僧がいた。まるでうしおの帰りを待ち望んでいたかのように二人は深く頭を下げる。
潮虎と手を繋いでいる手に、わずかに力が入った。
「母さん……」
緊張しているのだということは簡単に想像ができた。
「大丈夫。大丈夫だからな」
微笑かけてくれてはいるが、その言葉はまるで自分自身に向けられているようだ。
始めて見る母親の姿に、潮虎にも自然と力が入る。
「こちらへ」
通されたのは大きな広間だった。
何十畳もあるであろう部屋の中央に二人は腰を降ろす。誰も何も話さない。痛いほどの沈黙。
ふいに、襖の向こう側から足音が聞こえてきた。足音はだんだんと近づいてきて、部屋の前で止まった。一呼吸置いて、襖が開かれる。
「――うしお」
「母ちゃん……」
襖の向こうから現れたのは、少々白い髪が混ざりつつあるが、うしおとよく似た黒髪を持つ女性だった。潮虎はその女性がうしおの血縁者であるということを雰囲気で感じ取る。
外見だとか、そういうものを抜きにしても二人は似ていた。
「あの……オレ……」
須磨子の顔を直視することができず、視線をあちらこちらにさまよわせるうしおに近づき、須磨子は抱き締めた。
「心配したのですよ……。便りも一つもよこさないで……!」
うしおを抱き締める須磨子の手は震えていた。
始めて会ったときよりも細く、弱々しい腕。白髪が増えた髪。しわも増えたように見える。
「ごめん……。本当に、ごめん……」
須磨子の背に手を回し、うしおは涙を流した。
残してきた者のことを考えなかったわけではない。しかし、自分の置かれた状況を説明して納得してもらえるか不安だった。いつでも罪の意識は感じていた。
それでも、罪の意識以上に今の生活が幸せだと感じていた。
「いいのですよ。
それよりも――」
うしおを解放し、須磨子は潮虎を見据える。
一番説明しなくてはいけないことをうしおは思い出した。
「あのな、聞いてくれるか?」
「当然だろ?」
恐る恐る尋ねた言葉に返事をしたのは、しわがれた声だった。だが、その声には懐かしい暖かさがあった。
「……親父?」
「さあ、話すといい」
記憶にある姿よりもずっと老いていた。しわは増え、髪も幾分か薄くなったように感じる。そんな老体だというのに、昔と変わらない力強さを感じるのはさすがといったところだろうか。
「……うん」
懐かしい家族の暖かさに触れ、心を落ち着ける。
「こいつは潮虎。
オレと、とらの子供だ」
一瞬、須磨子から凄まじい殺気が飛び出たような気がする。
「獣の槍を使って、妖怪を退治してたら、ある日自分の体が変わったんだ。見た目は髪が短くならないってこと以外は変わらなかったんだけど、なんか確実に変わってたんだ。
また始めて獣になったときみたいになるんじゃないかって怖かった。そしたら、とらがオレを誰もいない場所まで連れて行ってくれるって行ったんだ」
どこがどう変わったのか、うしおは説明する術を持っていなかった。ただ自分の体が人間ではなくなったということだけがわかり、不安に駆られたうしおをとらは人のいない山奥へ連れて行った。
万が一、うしおが暴走したとしても誰も殺さぬように。とらが命を賭けて殺してやれるように。
結果からいえば、うしおは暴走しなかった。とらと二人っきりで平和に暮らした。残してきたみんなには悪いと思ったが、もうしばらく二人で暮らしたかった。そんな風に、報告を先伸ばしにしていたある日、潮虎が生まれた。
どこをどう見ても二人の子どもであるのは間違いなかったが、うしおは産んだ覚えがなかった。そもそも男の体で子供が産めるはずもない。生まれた子供をどうすればいいのかわからず、二人はこっそりと東西の長に会うことにした。
長曰く、潮虎は二人の妖気が混ざりあって生まれた紛れもない二人の子供だということだった。それによろこんだのはうしおだ。元々子供が嫌いなわけではなかったし、とらとの間にできた子供なのだから嬉しくないはずがない。
できることならば、みんなに報告したかった。しかし、妖気から生まれた妖怪は禁忌の存在だった。しかも、うしおはつい最近まで人間だった妖怪だ。罪は重い。
「……そう、だったの」
全てを話した後、うしおは潮虎を抱き締めた。
須磨子と紫暮はそんな親子の姿を見つめる。
「何があっても、お前は私達の息子だよ」
そう言うと、紫暮は昔のようにうしおの頭を撫でた。
「ええ。またいつでもおいでなさい」
優しく須磨子は笑う。
二人が受け入れてくれたことが嬉しくて、うしおはふわりと微笑んだ。そんな顔を見て、潮虎も笑う。
「孫……か」
しみじみと呟いてみると、須磨子から驚くべきほどの殺気が溢れた。
知らぬところで、目に入れても痛くないほどの息子と妖怪の間に孫が生まれていたともなれば、怒りを覚えるのも無理はない。当然、怒りの矛先は妖怪へ向かっている。
「や、やっぱり怒ってるのか……?」
不安げに尋ねられ、須磨子は慌てて殺気を抑えた。
「いいえ。そんなことないわよ。さあ、潮虎の顔を見せて」
丸く柔らかい潮虎の頬を包み込むように手を添える。
「あ、う……」
本能的に、須磨子に逆らってはいけないと感じているのか、潮虎はされるがままになっていた。
「おい。なにやってんでぇ」
唐突に聞こえてきた声は、よく知っているものではあったが、ここには似つかわしくない声だった。
「とら殿……」
「よぉ。久しいな」
平然としているように見えるが、明らかに須磨子の方へ視線を向けないようにしている。殺気の断片がまだその辺りに飛散しているのかもしれない。
一瞬、気まずい空気が流れた。
「とら。帰ろう」
珍しく、潮虎がとらにしがみついた。
祖母と始めての顔合わせには、さすがの潮虎も緊張したらしく、家に帰りたいと体中でうったえている。
「――そうだな。
じゃあ、今日は帰るよ」
潮虎の肩に手を乗せる。
「……行ってしまうの?」
息子が消えてしまった日を思い出すのか、須磨子は悲しげな瞳を向ける。
「大丈夫。またくるよ」
とらの背に飛び乗り、うしおは空を飛ぶ。
「約束よ」
「いつでもきなさい」
両親に見送られ、うしおは我が家へと帰って行った。
END