特にすることもないのに、人間界に召喚されるのには慣れた。
適当に用意された生贄で満足したフリをして、これまた適当に放置されているお菓子に手をつける。時々、思い出したかのようにくだらない命令を下され、文句をいいながらもそれに従う。
そんな生活にすっかり慣れてしまった己の姿に、アザゼルは時々泣きたくなる。しかし、彼も佐久間へのセクハラには余念がないので、泣いたところで冷めた目で見下されるのがオチだろう。
「そういえば、アザゼルさんってベルゼブブさんのこと好きなんですか?」
珍しく二人っきりになってしまった事務所で、佐久間がソファに座っているアザゼルへと問いかけた。
あまりにも唐突な質問に、アザゼルは口にくわえていたアイスを床に落としてしまう。
「何やねん急に。ビックリして、アイス落としてしもうたやないか! どう責任とってくれんねん!」
落ちたアイスを指差しながら言うと、床でへしゃげているアイスよりもずっと冷たい目をした佐久間と目があった。彼女の目は、ならば床を舐めて喰えばいいだろうと、ハッキリ告げている。
まだ事務所で働き始めたばかりのころの佐久間が恋しい。あの頃の彼女は、こうではなかった。何をするにも驚いたり、困ったような表情をしたりと、こちらに確かなアクションをくれていた。けっして、冷たい目で見下すような女性ではなかった。
それもこれもアクタベのせいだ。と、もしもここに本人がいれば、グリモアを突きつけられそうなことを脳内で吐き散らかす。そして佐久間の瞳から逃れるように、雑巾を片手に床を掃除する。
「で、どうなんですか?」
膝をついて床を拭いているアザゼルに、佐久間は重ねて問いかけた。
「いや、ベーやんは友達やけど、ワシらは悪魔でっせ?」
「じゃあ嫌いなんですか?」
「そういうわけやあらへんけどもやなぁ」
何とも言いがたい感情というものは、悪魔にも存在する。
ベルゼブブのことは嫌いではないが、他の友人達と比べて好きか、または同じような気持ちを向けているかと問われれば、首を傾げてしまう。腐れ縁というには、ベルゼブブとは離れている時間も長い。
「っちゅーか、いきなり何なん」
アイスを拭き終え、雑巾を持って水道へ向かって空を通っていたアザゼルが疑問を返す。
多少、他の人間と比べて感性がずれている部分はあるが、事務所にいる者達の中ではまともな部類にはいるはずだ。そんな佐久間の唐突な質問は、意味がわからなさすぎた。
「あー。女の勘ですよ」
明らかに何かを隠している風だったが、問い詰めたところで罰を与えられるのがオチだ。元々、それほど興味がある話題でもなく、さっさと終わらせてしまうことができるのならばそれに越したことがない。アザゼルはすぐに気持ちを切り替えた。
さよか。と、適当に流れを切り捨てて事務所に持ち込んでいるエロ本へと手を伸ばす。アクタベに見つかれば灰にされてしまうのは火を見るよりも明らかなのだが、アザゼルはいつもこりずにそれを持ちこむ。
佐久間としては、自分に見せつけてくるというセクハラ行為にさえ及ばなければ、多めに見てやろうというものなので、すぐにアザゼルから目を離し、自分の机に向かう。
整理整頓がきっちりとなされている机の上に広げてあるのは、アザゼルのグリモアだ。悪魔使いとなった佐久間は、時折こうしてグリモアに目を通している。見た目もやることも馬鹿な悪魔達ではあるが、彼らを甘く見て痛い目にあったことも多い。
「……すごいよなぁ」
アザゼルに聞こえぬ程度の声でそう呟き、グリモアの文字を指でなぞる。
グリモアには悪魔のことが、細かく書かれている。これらを盾に人間は己の身を守るのだ。
そこに書かれているのは、悪魔自身が自覚していないことも書かれている。
佐久間はアザゼルのグリモアの隣に、ベルゼブブのそれを置く。二つに書かれていることは当然ながら全く違う。だが、佐久間は何度か目を通しているうちに、二つに共通してしまったものを見つけてしまった。
『アザゼルはベルゼブブを想っている』
『ベルゼブブの初恋は同級生のアザゼルであり、新たな恋は未だにしていない』
二冊のグリモアに書かれている文章を信用するのならば、二人は両思いということになる。
一般人とはずれている感性を持っている佐久間とはいえども、年頃の女性だ。他人の恋愛沙汰に多少の興味があったりする。それが、普段はエロいことしかしない馬鹿な悪魔と、クールぶったスカトロ趣味の悪魔という、異端でしかないものだとすれば、興味は三割増しだ。
佐久間は横目でアザゼルを見た。
エロ本を片手にニヤニヤしている姿からは、グリモアに書かれているような様子は見られない。
先ほどの質問に対するアザゼルの様子から考えるに、自覚していないのだろう。第一、アザゼルに関してはグリモアにも『想っている』という、微妙なニュアンスでしか書かれていない。
友情以上、恋愛未満。そんな言葉が佐久間の頭に浮かぶ。
「ベルゼブブさんも大変だな」
「ベーやん?」
呟いた言葉に反応したアザゼルに、佐久間は少し笑う。
声の大きさは、先ほどの「すごいよなぁ」と変わらないはずだ。それなのに、こうして反応してしまうのは、一重にそれが想い人の名前であるからに違いない。
「何でもないですよ。ただ、そろそろ新しいカレーにも挑戦しようかなと思って」
「苺とか生クリームたっぷりの?」
「それはもうしないです」
エロいことしか考えていないはずのアザゼルが、本命に対しては鈍感なところを発見してしまい、佐久間は少しだけ彼に優しくなれるような気がした。そして、この周りにも本人達にもわからない恋の行方を想像することができるのが自分だけという事実に、多少の優越感を得た。
おそらく、アクタベという男ならばすべてをお見通ししているのだろう。と、いうかすかな予感は思考の端においやった。
END