特に仕事が入っていなくても、事務所に悪魔がいるのは珍しいことではない。今日も、ベルゼブブとアザゼルがダラダラと会話している。
 悪さをしてくるわけではないので、さくまもアクタベもいつも通り放置している。
「こんの、クソ野郎がああああ!」
 突如響いた怒声に顔を向けると、顔を真っ二つにされたアザゼルの姿が目に入る。幼い子が見たらトラウマになるレベルのグロさがそこにはあるが、すっかりなれてしまっているさくまは掃除が大変だという感想しか抱かない。二人の喧嘩の理由も、またアザゼルが馬鹿なことを言ったのだろうという程度だ。
 アザゼルをぐちゃぐちゃにしたことで満足したのか、ベルゼブブは肉塊を見下してから冷蔵庫へ向かう。どうやら、今回の喧嘩はアザゼルがベルゼブブの地雷を踏んだことが原因らしい。
「もーいややあ! アクタベはんも、ベーやんも、さくちゃんもワシの扱い酷い!
 ワシは実家に還らせていただきます!」
 しばらくすると、どのような原理かはわからないが、ただの肉塊となったはずのアザゼルが復活し、涙を流しながら魔法陣へ向かって駆けて行った。アンダインのときのような演技や、引きとめて欲しいという考えのもと下された行動ではない。アクタベもさくまも、今日は特に用事があったわけでもなく、アザゼルがいたところで邪魔にしかならないので後姿を見送る。
「アザゼル君もいい加減、反省してほしいものですね」
 学習能力がないのか、彼はよく同じ理由で周囲の反感を買う。その度にろくな目にあっていないというのに、時間が経てばまた同じことを繰りかえすのだ。
「でも、あまり虐めるとアザゼルさんに嫌われちゃいますよ?」
 さくまが笑いながら言う。アザゼルはよく嫌いだという言葉を吐くが、それが本心でないことくらい誰もがわかっている。
「それはあなたもでしょう」
「えー。私は嫌われても良いっていうか。むしろ嫌われたいというか……」
 何を考えているのかわからない瞳から目をそらしながら答える。
 アザゼルに気に入られたところで、得することなどそうないだろう。気に入れられれば、それだけセクハラの矛先を向けられる。
「じゃあ私もですよ」
 悪魔らしい笑みを浮かべているが、彼とアザゼルは幼い頃からの友人だと聞いている。悪魔の価値観はよくわからないが、友人に嫌われたいなどと思うものなのだろうか。
「ベルゼブブさんはアザゼルさんのことが嫌いなんですか?」
「……あなたはどうなんですか」
 問いを問いで返され、さくまは少し悩む。
 嫌い。と言いきるには、この感情は複雑なものだ。セクハラをしてくる彼は確かに殺してやりたいと思うほど嫌いではあるが、普段から一緒に生活してきて情が移っていないわけがない。しかし、ならば好きかと問われれば否と即答できる。
「ちなみに、私は好きですよ」
 さらっと紡がれた言葉に目を丸くする。
「なら、どうしてアザゼルさんを虐めるんですか?」
「それとこれとは話が別です」
 断言され、やはり悪魔ならではの何かがあるのだろうと納得する。
 会話が一段落ついたところで、タイミングよくさくまの携帯が鳴る。どうやらメールのようだ。携帯を開き、メールを読む。差出人は魔界へ還ったアザゼルだ。
「……ベルゼブブさん」
「はい?」
 どうぞ、と携帯が手渡される。
 液晶にはアザゼルからのメールが表示されていた。
『ベーやんにはほとほと愛想がつきました。
 彼の着信は拒否にさせてもらいました。つきましては、さくちゃんの方も、ベーやんがおるときはワシを喚ばんようにお願いします。』
 そんな文章が書かれていた。
 ピシッと音を立てたのは、さくまの携帯だ。慌ててベルゼブブの手から奪い返す。
「嫌われちゃいましたね」
 ポツリと言うと、鬼のような形相が返ってくる。
「うるせーんだよ! んなこったあ見りゃあわかんだよ! 一々わかりきったことを言ってんじゃねーよ。ぶち殺されてぇのか!」
 さくまを攻撃しようと、ベルゼブブが飛び上がる。とっさに防御したさくまだったが、その必要はなかった。
 いつまで経っても襲ってこない衝撃に、恐る恐る顔を上げる。
「うるせぇんだよ」
 ベルゼブブはアクタベの手によって壁に縫いつけられていた。
「私としたことが、少々取り乱してしまったようですね」
 少々というレベルではないが、あえて何も言わない。壁と己を縫いつけていたナイフを抜き、ベルゼブブは懐から携帯を取り出す。アザゼルにかけるつもりなのだろう。
 短縮ボタンから電話をかけ、耳にあてる。
『この電話番号からのお電話はお受けできません』
 返ってきたのは怒りの声でも、間の抜けた声でもなく、無機質な声だ。
「ベ、ベルゼブブさん?」
 さくまには電話の向こうの声は聞こえない。だが、顔を俯けているベルゼブブを見れば察しはつく。
「……あの、クソ野郎。今回は許しませんよ。
 さくまさん。すみませんが、私も魔界に帰らせていただきますね」
 笑っていない目が怖い。ベルゼブブの背中が見えなくなってすぐ、さくまはアザゼルにメールを送った。内容はベルゼブブの様子と、今すぐ逃げて欲しいということ。追伸に、今回に限ってどうしてそれほど怒っているのかという疑問を書いた。
 メールを送信した直後、電話がかかってくる。
「あ、アザゼルさん? 今どこかは知りませんけど、逃げてください!」
『わーっとるわ! っちゅーか、なんでベーやんにあのメール見せたんや! わけわからんわ! 察しろや!』
 死ぬことはないが、痛みを感じるのは喜ばしいことではない。電話の向こうでアザゼルが泣きそうな顔をしているのが手に取るようにわかる。
「すみません。というか、何で着信拒否にまでしちゃったんですか?」
『そりゃ、今回は心のひろーいワシでも許されへんからに決まっとるやろ』
「ベルゼブブさんの食事に関してですか?」
『まあ似たようなもんやな。
 ベーやんに、ワシと飯喰うときはウンコ喰うなとか、抱きつくときは食後一時間以上で歯ぁ磨いてからにしろ言うたんや』
「それだけであの騒動ですか?」
『ちゃいますやん。まだ話は続きますんや。
 ワシがそない言うたらな、ベーやん何て言うたと思う?
 「アザゼル君ごときのために、私の嗜好を楽しむ時間や場所を考える必要があるとでも?」って言うたんや!
 そりゃこっちも怒りますで? ほんで思わずスカトロ野郎って言うてもうたんですわ』
 アザゼルの気持ちがわからないわけではない。だが、その言葉を紡げばベルゼブブが怒ることもわかっているので、素直に同情もできない。
『もーいやや。ベーやんなんて嫌いや』
『ほー。それほどまでに、このベルゼブブが嫌いだと』
『せやでー。
 …………え』
 電話の向こうからベルゼブブの声が聞こえた。
 もはや逃げることはできないだろうと思い、さくまはそっと通話を切った。


END