半ば強制的に魔界へ送還されたベルゼブブは非常に苛立っていた。
 確かに、荷物を放ってしまったことは紳士にあるまじき行為かもしれない。しかし、それでも個人の嗜好を止めるだけでなく、侮辱してもよい理由にはならないはずだ。体をボロボロにした張本人であるさくまには当然、憎悪の感情がある。さらに言うならば、彼女の横で己を見下し、侮辱の言葉を放ったアザゼルにも怒りの感情があった。
 傷に張られたガーゼを取り替えている間も、苛立ちは収まらない。
 例え、今の状況が正当であるという理由が発覚したとしても、胸の中に生まれた感情が消えるわけではない。
 少しでも気分を変えようと、テーブルに置いていたカップを手にし、窓の外を眺める。
「……おや」
 窓の外にアザゼルの姿があった。
 彼がこちらの方へくることはまずない。この辺りは貴族が住んでいる区域なので、居心地が悪いとぼやいていたことがある。
 距離があるのでよくは見えなかったが、バツが悪そうな顔をしているのが何となくではあるがわかった。昨夜のことを謝りにでもきたのだろう。人間界にいるときのような、可愛らしい姿でない彼を見るのは久々だ。
 いつもならば、こちらから出迎えに行くところなのだが、昨日の今日で許す気にはなれない。首の一つや二つ切り落としてやればスッキリするかもしれないが、顔をあわせる気にさえなれない。
 舌打ちを一つしてカーテンを閉める。先ほどよりも勢いを増した苛立ちに、外なんぞ見るんじゃなかったとベルゼブブは思う。
 元々、アザゼルと喧嘩をすることは多かった。それが一方的な惨殺という結果を生み出したとしても、アザゼルが後々まで引きづるということは滅多にない。怒って見せるのはその時だけだ。それもあって、ベルゼブブは彼に謝罪というものをしたことがあまりない。
「私の崇高な嗜好に難癖をつけるなんて」
 今回も謝る気はまったくない。あちらが頭を地面につけても、許す気はなかった。
 カーテンを少しだけ開けて、窓の外を見る。アザゼルは未だに入ることを躊躇しているようでウロウロしていた。仮に決心がついたとしても、彼程度の悪魔がこの家に入れるとは思えない。
 玄関にまでたどり着くこともできず、門前払いをくらうのが目に見えている。古くからの友人とはいえ、招待がないと入ることができないのは貴族の家ならばどこでも同じだ。
「まったく。私が一流の貴族だということを忘れているんじゃないでしょうねぇ」
 呆れてため息が出る。
 本来ならば、友という言葉を向けられていることに喜び、平伏されてもおかしくはないのだ。
「……本当に愚かですね」
 立場の差に気がつかないアザゼルが愚かなのか、現状を良しとしている自分が愚かなのか。言葉を零したベルゼブブにもそれはわからない。ただ、無性に会いたくなってしまった。しかし、許せないという気持ちもまだ残っている。
 自分が本当はどうしたいのか悩んでいると、外にいるアザゼルと目が合った。しまった、と思い、カーテンを閉めようとするが、目を見開いた後、嬉しそうに目を細めたアザゼルから目が離せない。
 アザゼルは笑みを浮かべながら、右手を大きく振る。ベルゼブブはそれに返さなかったが、外にいる彼は満足したのか背を向けて歩きだす。
「お待ちなさい」
 窓を開け、彼を引き止めるための言葉を紡いだ。
 玄関から出ることすらもどかしく、ベルゼブブはこちらを向いているアザゼルの元へ向かうため、窓から飛び降りた。
「あなたは何をしにきたのですか」
 謝罪をするでもなく、会話をしにきたようでもない。あれはまるで、顔を見にきただけのようだった。だが、アザゼルがその程度のことでこの辺りを訪れるとは思えなかった。
「いや、ちょっと心配やったから顔見にきたんや」
 照れくさそうに頬を染め、頭を掻く。
「心配?」
「ああ、ベーやんはすぐに帰ってもうたから知らんのか」
 アザゼルは、ベルゼブブに昨夜のことを話した。己のグリモアが危機に瀕していたと聞き、ベルゼブブの顔は青くなる。誰でも死にたくないという気持ちは持っている。
 生命が危険にさらされているときに、自分はのん気に食事をしていたのかと思うと、ベルゼブブも頭が痛くなった。何だかんだ言いつつも、アクタベの結界の内にあるのだから、グリモアが持ち去られるはずがないと思っていたのだ。
「それで、キミは私が心配になったと」
「せやで。ベーやんは親友やしな」
 アザゼルの手がベルゼブブの頬に添えられた。
「やっぱり、こうやって触れれへんようになったら嫌や」
 頬に触れていた手が、首の方へと移動し、ベルゼブブはアザゼルに抱き締められた。
 いや、その構図はまるで縋っているようにも見える。
「いつもは臭いだと汚いだの言って、触れようともしないのに珍しいこともあるものですね」
「しょーもないこと言うなや」
 抱き締める腕に力が入る。泣いてはいないようだが、泣きそうには思える。
「まったく」
 小さく笑い、ベルゼブブはアザゼルの背に手を添える。赤子をあやすように軽く背中を叩き、自分はここにいると伝えてやる。
「……ベーやん、何か優しいなぁ」
 顔は見えないが、アザゼルが笑っているのはわかる。
「失礼な。私はいつでも優しいでしょ」
「えー。いっつもワシにむごいことしとるやーん」
「それはあなたが余計なことをするからでしょ」
 二人の悪魔はしばらく、抱き締めあいながら他愛も無い話を続けていた。


END