アザゼルは淫奔を司る悪魔だ。彼は性に対して貪欲であり、奔放である。それゆえか、彼の中には愛や恋などというものは存在していない。否、存在していなかった、というべきだろう。
彼は恋をしてしまった。いつからその思いを抱いていたのか、彼自身にもわからない。しかし、自覚をしたのはつい最近であった。アザゼルは自覚をしてしまったその日から、己の中に生まれた恋心、というものを持て余すことになる。
悪魔は愛や恋を知らないというのは、酷い偏見だ。嫉妬を司るアンダインを見ればわかるが、悪魔であったとしても、他者に恋をすること、愛を向けることは大いに有りうる。ただ、それが人間のものとは違った形をしているというだけの話だ。
従って、アザゼルが恋心を抱いたことも、さほど不思議なことではなかった。ただし、その相手が同性であるベルゼブブであったことは、常識的な考えに囚われることのない悪魔としても、驚くべきことではあった。
「何でや……」
自室で膝を抱えて呟く。
これが女に対しての気持ちだったならば、どれ程よかっただろうか。暴力的なセフレであるキヨコのことは気にかかるが、彼女もアザゼル一族の女だ。浮気程度でどうこう言うとは思えない。
だが、いくら性に対して大らかなアザゼル一族とはいえ、同性愛を抱いた者はそういない。長い歴史を紐解けば何人かはいるだろう。しかし、彼らの話が現在まで伝わっていないことを考えれば、歓迎されていなかったことは火を見るより明らかだ。いや、問題は一族からどのように見られるだとか、キヨコの暴力だとかいうものではない。
現在、胸の中でくすぶっている思いが、成就する可能性など殆どないことが問題なのだ。
「うー。ベーやんアナルセックスに興味あれへんかなぁ。
あったとしてもやってくれるやろか」
悲しきかな、アザゼルはどこまでいっても淫奔の悪魔だ。恋をすれば、相手と体を交えたくなるのは自然の摂理。この際、突っ込む側でなく、突っ込まれる側でもいい、というのは彼なりの惚れた弱味というやつだ。
アザゼルはため息をついた。
どのようなシュミュレーションをしてみたところで、ベルゼブブがアザゼルの誘いに乗ってくるとは思えない。馬鹿にされることや呆れられることには慣れているが、軽蔑されるのは嫌だ。想像するだけで心臓が痛む。
頭の中で考えがぐるぐると回る。元より出来の良い頭ではないので、碌な考えは浮かばない。しかし、体の欲求は解消したい。今までは適当な女やキヨコとの行為で発散してきていたが、それにも限界がある。
悪魔の長い一生の中で、どれだけの時間を片思いに費やすのかもわからない状況だ。打開策は少しでも早く編み出したい。
「せめてワシが女やったら……」
そう呟き、アザゼルは口を閉ざす。
しばしの沈黙。そして、彼は口角を上げた。正しく、悪魔の笑みであった。
「よっしゃ! ほなら善は急げっちゅうことで!」
ワシ悪魔やけどー、と言いながらアザゼルは家を出る。向かうのはベルゼブブの家だ。今日は二人して休暇を貰っているので、同僚である彼も自宅でのんびりとしているはずだ。
普段は近寄ることすらしない貴族の豪邸が並ぶ地区へアザゼルは足を踏み入れる。魔界の中でも生粋のエリートに分類されるベルゼブブの家は、豪華な家が立ち並ぶ区画の中でも、いっそ豪華な家だ。よく目立ち、魔界にいる低級悪魔共に彼の血筋の偉大さを示している。
「ベーやーん。ちょっと話あんねんけどー」
そこいらの悪魔ではできないような所業だが、アザゼルはそれをあっさりとやってのける。その度胸が、自称親友としての立場からきているのか、単なるアホさからきているのかはわからない。だが、どちらも似たようなものだ。
ベルゼブブ宅の者達も時折やってくるアホの扱いは心得ているのか、すぐに門を開けてくれる。放置しておくと無闇に大声を発し続けるので、素直に入れてやるのがベルゼブブ一族の威厳を保つためにもよいのだ。
「相変わらず豪勢やなぁ」
「今日は何をしに来たのですか?」
執事と共に豪邸の中へとやってきたアザゼルを迎えたのは、いつものようなスーツ姿ではなく、少しばかりラフな格好をしていたベルゼブブだ。突然やってきたアザゼルに対して不機嫌を示すこともなく、常の通り冷めためを彼に向けている。友人の奇行など、ベルゼブブからして見れば珍しいことではないということだ。
「あんな、ベーやんに言いたいことあんねん」
蹄を鳴らしながらベルゼブブに駆け寄る。
「わざわざ私の家にやってきてまで言うことですか」
「こういうことは直接言うって相場が決まってんねん」
言外にわざわざ来てるんじゃねーよ、と含ませていたのだが、アザゼルはそれに気づかない。ベルゼブブとしても彼が察するとは思っていないので気に止めない。この微妙な食い違いが二人の関係を今にまで続かせている。
アザゼルは照れることもなく、すっぱりと言い放つ。
「ワシ、ベーやんのことが好きやねん。
あ、セックスしたいっていう意味やで!」
彼の後ろにいた執事が思わず咳き込んだのも無理はない。
告白する場所も、タイミングも、全てがミスマッチだったとしか言いようのない状況だ。
「気色悪いことを言わないでください。このホモ野郎が」
「ギャッ! 目潰し!」
思考を停止させることもなく、迅速にアザゼルを罵倒し、目潰しを行ったベルゼブブは流石である。
「キミに突っ込むのも、突っ込まれるのもごめんです。
私はアナルから排泄される物は好んでいますが、アナル自体に興味はありませんので」
血の出ている目を抑え、床を転がりまわっているアザゼルへ冷たく言い放つ。
軽蔑の色こそ浮かんではいないが、彼への評価を友人、から友人であったモノ、にまで格下げされたのは見てとれる。
どうにか目を回復させたアザゼルは、ここまでは悲しきかな予想通りであったことを心の内側で嘆く。何かの間違いで受け入れられることを望んでいたのだが、ベルゼブブはそう甘くはなかった。
「じゃあ、これでどうや?」
そう言ったアザゼル。ベルゼブブは首を傾げ、すぐに目を見開く。
徐々にではあるが、確実に、目に見えてわかる程に、アザゼルの体は変化していた。
筋肉質な男の体から、柔らかな曲線を持つ女のそれへ。
「別に付きおうてとは言わんから、セックスだけでもしてくれへん?」
あっという間に、女版アザゼルの出来上がりだ。
「……キミは、職能をそんなしょうもないことに使って」
淫奔のアザゼルはホルモンバランスを弄ることができる。その気になれば、自身の性別を変えることなど造作もないのだ。それでも、気持ちは男のままなので、普段の彼ならば己を女に変えることなどまずしない。
彼の「普段」を捻じ曲げたのは、他ならぬ恋心だ。男としての意思を曲げる程度には、肉体的な欲望が切羽詰まっていた。
「妊娠はしないんでしょうね」
「当たり前やん。ワシかて出産なんぞしとうないわ」
「わかりました」
ベルゼブブはアザゼルの細くなった腕を取る。
呆然としたままの執事を放って、彼は自室へ入っていく。
「セックスだけならいいですよ。
私も気持ち良いことは嫌いではありませんし」
ベッドにアザゼルを導き、自身は服のボタンを外す。
貴族であるベルゼブブは、女からの誘いを受けることも多い。下種なたくらみが見え隠れしていたとしても、適当に抱いてやることは何度かあった。淫を司っていないとはいえ、彼も男だ。溜まるときは溜まる。そういったときの性欲処理機として、彼女達は実に有能であったというだけのことだ。
今回は、それが友人だと思っていたアザゼルに変わっただけだ。男とのセックスならばともかく、相手は女の体になっている。特に断る理由も見つからない。
「もし、ワシとのセックスが気持ちよかったら、またしてくれる?」
「考えておきましょう」
上手く事が運んでいることにアザゼルは笑みを浮かべた。
柔らかい胸が掴まれ、今までに体験したことのない行為が始まる。多少の恐怖、大きな喜び。奇妙な感情の渦に囚われながらも、彼はまた同じ行為が行われることを確信していた。
自信過剰でも何でもなく、彼は淫奔であり、性技に関してはそこいらの女に負けぬ自信があったのだ。
かくして、彼らはその後も幾度となく体を交えることとなった。
淫奔を司る悪魔は伊達ではなく、ベルゼブブも今までにない快楽に身を委ねることができたのだ。それも、相手は妊娠の心配がなく、こちらに惚れている女モドキ、デートはなし。これ以上ないほどうってつけの性欲処理機だった。
酷い扱いだと怒る者もいるかもしれないが、悪魔としてはこの程度のことは日常茶飯事だったりする。さらに、女役であるアザゼルも現状に満足していたので、他人にとやかく言われる筋合いはないというもの。どちらにせよ、表面上の彼らは以前と何一つ変わらなかったので、契約者である佐久間であっても、彼らの関係性に新たな一面が付け加えられたことには気づかなかった。
ただ、整然とした関係ではないことは確かであり、時間を重ねれば歪が生まれてしまうことは、回避のしようがなかった。
「……何故でしょうねぇ」
ベルゼブブはため息をつく。自室の窓から見える空は、相変わらず薄暗い。
彼は、ここ最近になって、誰にも相談することのできない悩みを抱えていた。
「今さら、好き……だなんて」
そう言って目を閉じる。
言葉の通りの悩みだ。ベルゼブブは恋をしてしまった。それも、現在セフレとしてお付き合いを続けているアザゼルに、だ。
決して、彼の性技に惚れたわけではない。勿論、それも原因の一つではあったのだろうけれど。しかし、元々ベルゼブブはアザゼルに対して好意を抱いていた。プライドが高く、三流悪魔なんぞ目にもとめていないような彼が、アザゼルなどという悪魔を友人、ときには親友とまで言っていた辺りからも、それは察することができる。
友人という立ち位置でさえ、ベルゼブブからしてみれば凄まじく高い地位なのだ。そのような立場にいる者と体を何度も重ね、それが至上の快楽に繋がっていたとすれば、恋をしてしまうのも無理はない。
共に仕事をするのは楽しい。涙を流す彼を見るのは幸福。笑顔を見れるのは胸が締め付けられるような甘酸っぱい心地よさ。どこを切り取っても、恋心しか生まれない。
「アザゼル君はどう思っているんですかねぇ」
現在、二人の関係はセフレだ。セックスをするだけの関係であり、恋人同士などとは口が裂けてもいえない。アザゼルはこの状態について何か文句をつけてきたことは一度たりともない。これがベルゼブブのネックなのだ。
告白をしてきたのはアザゼルであったが、現在の状況から考えるに、アザゼルの好きとは、単純にセックスをしたいか否かということだと捉えることができる。今さら普通の恋人のように付き合って欲しいと告げたところで、どこまで受け入れられるのかわからない。さらに言えば、実に今さらな話だが、ベルゼブブは本来の姿のアザゼルとセックスをしたいとまで考えるようになっている。つまり、男同士の状態でだ。
一時はホモ野郎と罵倒した彼であるが、恋心を抱いてみればあら不思議。本当の姿、本当の声をもったままのアザゼルを抱き締めたいと思うようになった。彼がよがる姿を見たいと思うようになった。
本当に何もかもが今さらな話だ。告白されたときに、それを受け入れていれば、こうはならなかっただろう。
告白することを恐れることも、現状を維持し続けた結果、どこの馬の骨とも知れぬ女にアザゼルを奪われる心配をすることもなかったはずだ。アザゼルから提案してきたセフレという関係は、彼がその気になればいつでも終わらせることができる。
「最悪の場合、すでに私のことは好きじゃないかもしれませんね」
気持ち良いからセフレを続けているだけ、というのはアザゼルに限っていえば多いにありえる話だ。
うだうだと悩むくらいならば、職能を使ってアザゼルの気持ちを確かめてやりたいとも考える。そうしてしまえば、アザゼルが現状をどう思っているのかも、ベルゼブブのことが好きなのかも、全てわかる。それをしないのは、もしも、アザゼルの気持ちが既にベルゼブブになかった場合、強大な弱味を彼に握られてしまうことになるからだ。
恋だの何だのに苦しめられながらも、ベルゼブブはどこか冷静だ。己の不利益になるようなことをする気にはなれない。
故に、いつ終わってしまうかもしれない現状に怯えながら毎日を過ごすしかないのだ。
「ベーやーん。ちょっと話あんねんけどー」
外から、いつか聞いたような声と言葉が聞こえてきた。
セックスの誘いならば、事前にメールか電話が入るはずだ。約束もなしにアザゼルがベルゼブブの家にやってくることは、最近ではずいぶんと珍しくなっていた。
仕事のできる執事がアザゼルを迎え入れ、ベルゼブブは以前と同じように家の中で彼を待つ。
「突然、どうしたんですか」
柔らかな声色を向けられるようになったのは恋の賜物だ。
「ベーやんに話があんねん」
対して、アザゼルはいつになく真剣な声をベルゼブブに向けた。
男の体のまま、いつも通りの声のまま、しかし何処か悲しげな瞳をしている。
ベルゼブブの背筋に悪寒が走る。まさか、恐れていた日が来てしまったとでもいうのだろうか。そんなことになれば、自分が何をしでかすかわからない。不安に脈を刻む心臓の裏側で、ベルゼブブは冷静に判断する。
「なん、ですか……?」
一瞬、言葉に詰まってしまったが、アザゼルはそれに気づいていない。
「……ワシ、もう限界や」
零された言葉に、ベルゼブブは終わりを悟る。同時に、いかなる方法でアザゼルをこの屋敷に留めるかという策を巡らせる。召喚という障壁があるが、誰の目にも触れさせず、どこにもいけないようにしてしまう方法はないものか。例え、それがどれほど残忍な方法であったとしても構わない。
ベルゼブブの手が動く。
何にせよ、まずはアザゼルを捕獲しなければならない。頭を掴み、引き千切ってやれば逃げる気など起きなくなるはずだ。
冷徹な瞳が、涙を浮かべたアザゼルの瞳とかち合った。
そこでベルゼブブは行動を止める。無意思のうちのことだった。
「セフレなんて嫌やねん!」
アザゼルがベルゼブブの手を取る。
「ベーやんは女のワシにしか興味ないかもしれん。
でも、ワシはワシ自身を好きになって欲しい。
セックスも好きやけど、それやなくても一緒におったり、出かけたりしたい。
ワシ……やっぱりベーやんが好きやねん!」
今まで溜め込んでいたらしい思いの丈を一気にぶちまけていく。
アザゼルは、女へと変化してセックスを続けていくのには限界を感じていたのだ。肉体的に満たされても、精神的には満たされない。むしろ、体を重ねるたびに精神が磨り減っていく思いだった。
これがこの先、ベルゼブブが拒絶するまで続くと思うと、発狂してしまいたくなるほどだった。
呆然とアザゼルの告白を聞いていたベルゼブブは、唐突に彼の手を握り返す。
「しかたないですね」
そう言って王子と称された顔に笑みを浮かべる。
「私も、好きですよ。アザゼル君」
妥協してやるのだといわんばかりに告げてやる。本当は嬉しくてしかたがないくせに、本心を隠す。他者の心を暴くベルゼブブにとって、己の心を隠すことは何ら苦にならない。
アザゼルは返された言葉が理解できなかったのか、ぼんやりとベルゼブブの目を見つめ返している。
「聞いてましたか?」
「え?」
声をかけられ、ようやく目が覚めたように瞬きを繰り返す。
「まったく。
もう一度だけ言いますよ?
私も、好きですよ。アザゼル君」
再び告白を返してやる。
すると、アザゼルは見る見るうちに背後に花を咲かせていく。
「ほんま?!」
「えぇ」
「今さら嘘とかなしやで!」
「はいはい」
今さらなのは、同じ気持ちを返してやれたことなのだが、ベルゼブブは何も言わない。
ただ、喜ぶアザゼルに肯定の言葉を返し続けてやるだけだ。
以前と同じく、存在を軽く忘れられてしまっている執事は、彼らの姿を見てそっと涙を拭った。いつの世も、爺やというのは坊ちゃんの幸せに弱いものだ。
END