優雅なティータイムを満喫していたベルゼブブの耳に、嫌な音が聞こえてきた。ずかずかと人の敷地内に入りこみ、傲慢にも自分のところへまっすぐ向かってきている。
 ティーカップを置き、自室の扉を見つめる。心の中でカウントダウンを行えば、ちょうど0を数えたときに見知った顔が現れた。
「オレ様がきてやったぜ!」
「……私は君にきてもらいたいと思ったことなど一度もない」
「何言ってんだ。オレ様だぜ? この忙しいオレさまが! お前のためだけに」
「はいはい」
 相変わらずな態度にため息をつく。ついこの間、ここへきて災難にあったばかりだというのに、再びここへくるというのは馬鹿なのかもしれない。いや、馬鹿なのだろう。彼は傲慢ではなく忘欠だという説も有力だ。
 アクタベからの召喚を望んだのは初めてかもしれない。騒いでいるルシファーの声を右から左へ聞き流しながらぼんやりと考える。
「っつーわけで、あいつにはそのうちお返しをしてやるぜ」
「え? ああ、はい。そうですねー」
 全く聞いていなかったのだが、適当に返事をしておく。面倒なことは流すにかぎる。
「おお、そういえば」
 手を叩きニヤけた表情を浮かべた。馴れ馴れしく肩まで組んでくる。親しい友人ならばともかく、友人どころか知り合いという区分にさえ入れたくない人物とこの距離にいるのは辛い。どうにか抜け出そうと、押し返すがさらに強い力で引き寄せられる。いったい何がしたいのだと思っていると、耳元で彼の囁きが聞こえた。
「お前と一緒にいたあの間抜け面。オレ様にサインを頼んできた……あっくん? とか言ったっけか」
 友人の名前に、ベルゼブブは目を見開く。
 ルシファーは強く、傲慢だ。それゆえに、下の者の名前や顔を覚えることなどまずない。興味を持つことなどありえるはずがないのだ。
「……彼が、どうかしたのですか」
 ベルゼブブの目から見ても、アザゼルは三流悪魔だ。職能も彼自身の性質も使い勝手がいいとは言えないし、心惹かれるようなものでもない。
「お前の知り合いなんだろ? ケーバン教えろよ」
 ベルゼブブは渾身の力でルシファーを突き飛ばす。唐突にやってきた衝撃に、流石のルシファーも後ろへよろけた。態勢をたてなおし、ベルゼブブを睨みつける。いつかのような緊迫した雰囲気が部屋中に広がる。
「何すんだよ」
「貴方こそ何を考えているんですか」
 二人は睨みあう。きっかけさえあれば、本来の姿に戻り、魔界を破壊できるほどの力をぶつけ合うだろう。
「可愛い奴だったからよ、オレ様が貰ってやろうと思ったんだよ。あいつも光栄だろ?」
「下種が。ふざけたことを言ってんじゃねぇよ」
 貴族らしい整った顔を歪めて、汚い言葉を吐く。その様子を見れば、ベルゼブブがアザゼルに対してどのような感情を抱いているのかはすぐにわかる。ルシファーは顎に手を当てて、笑みの色をより濃くする。
 何せ、あのベルゼブブが欲しているような存在だ。奪ってみたいと欲が疼くのはしかたがないことだろう。
「オーケー。じゃあ、選んでもらおうぜ」
「はあ?」
「だからよ、あいつの所に言って、直接聞いてみりゃあいいじゃねぇか」
 善は急げと言わんばかりにベルゼブブの手を引く。
「貴方は馬鹿なんですか。ああ、すみません。聞く必要なかったですね」
 いつも通り、皮肉交じりの言葉を吐きながら、ルシファーの腕を払いのける。
 今からアザゼルのもとへ行き、どちらが好きかを聞くなどできるはずがない。決して、ルシファーに負けるのではないかと危惧しているわけではない。
「彼はノーマルですよ。完全に。家にはいつも人間界から攫ってきた女がいますし、同じ種族の女とも毎晩遊び放題。
 そんなアザゼル君が男になびくなんてありえませんね」
 自分で言っていて胸が痛んだが、今はその程度のことでへこんでいる場合ではない。アザゼルの貞操がかかっているのだ。
「ふーん。でも、そんなの関係ねぇよ」
 傲慢な彼はその職能に恥じぬ笑みを浮かべている。
 これは何があっても手に入れる気なのだろうと、経験上わかってしまう。
「何せ、このオレ様が欲しいっつってやるんだぜ?」
 こうなってしまっては諦めるということをしないだろう。ベルゼブブはルシファーをアザゼルに近づかせないことを決めた。いくら傲慢な彼と言えども、会えぬ相手を口説き落とすことはできないだろう。
 しかし、世の中にはバッドタイミングというものがある。
 ベルゼブブの携帯が鳴る。嫌な予感に、ベルゼブブが動けずにいると、ルシファーが我がもの顔で携帯を奪い取る。
「お、ナイスタイミング」
 嬉しそうなその声に、ベルゼブブは自分の予感が当たってしまったのだろうとうなだれる。
「もしもし? オレオレ」
『え、どちらさんですか? これ、ベーやんの携帯やんね?』
 わずかに聞こえてきた声はやはりアザゼルのものだ。
「あ? ああ、そうそう。つーかオレだよオレ様。ルシファー様」
『ルシファーさん? 何でベーやんの携帯持ってるんです?』
「今一緒にいるんだよ。つか、オレ様に会いたくね?」
『会いたいです! ワシ、今血の池前におりますけど、そっち行きましょか?』
「いや、そこで待ってな。すぐに行ってやるよ」
『わかりました』
 携帯の電源が切られ、ベルゼブブに投げ渡される。
「つーことで、オレ様は行くわ」
「お待ちなさい。私も行きます」
 ベルゼブブの言葉に、ルシファーはあからさまに嫌な顔をする。
「貴方とアザゼル君を二人っきりにさせたら何をしだすかわかりませんからね」
 羽根を広げ、ルシファーの後についていく。途中、何度かまかれそうになったが、その度に意地でも喰らいついてやった。そうして、ようやくたどり着いた場所にアザゼルはいた。彼の魔界姿を見るのが始めてだったルシファーは地上に降りたつとジロジロと眺める。
「あ、ベーやんもきたんや」
「私がいたら問題でも?」
「今日のベーやん何か棘あるで……」
 悲しげに尻尾が垂れる。
 それを引っ張ったのはルシファーだ。
「な、何しはるんですか!」
「いや、気になって」
 一度引っ張ったら気がすんだのか、ルシファーはあっさりとアザゼルの尻尾を離す。
「やっぱり滅茶苦茶格好いいですねー」
 目を輝かせるアザゼルの肩をルシファーが抱き寄せる。
「だろぉ? でよ、一つ提案があるんだ」
「おやめなさい!」
 彼が何を言おうとしているのか、ベルゼブブには手に取るようにわかる。
「オレと付き合わねぇ?」
 ベルゼブブの制止も虚しく、ルシファーはその言葉を投げる。
 アザゼルは目を丸くしたまま硬直していた。アザゼルは性に関することならば、他の悪魔よりも数段敏感だ。この言葉が買い物に付き合う類のものではないことはわかっているのだろう。
「……ワシ、男ですよ?」
「関係ねぇって。オレが欲しいってことは、お前はオレが好きだろ?」
 どのような理論を構築すればそうなったのか、アザゼルは詳しく聞いてみたかった。だが、現状が非常に不味いことになっていることだけはわかっていた。何せ、相手は魔界で最も強い悪魔とも言われている悪魔だ。下手に断れば命はないだろう。
「男に犯られるってのも、中々いいらしいぜ? 特にオレはかなり上手いらしいからな。お前が女遊びを止められねぇってんならそれもいいぞ?
 オレ様が犯りたいときに、必ず犯らせてくれるなら、な」
「え? 男とやったことあるんですか」
 ベルゼブブも初耳だったが、正直なところドン引きだ。勿論、自分のことは棚に上げている。
「おう。まあ、オレ様は突っ込む方専門だけどな」
 突っ込まれる方はいつも気持ち良さそうだったと囁く。性的な響きを込めた囁きに、アザゼルの体はわずかに反応した。
 このままではアザゼルの貞操が奪われるのも時間の問題だろう。一刻の猶予もない事態に、ベルゼブブが割って入る。
「アザゼル君。この男に毒されてはダメですよ」
「毒されるって、えらい言いようやなあ……」
 そんなことを言いつつも、アザゼル自身ルシファーに毒され始めていることを自覚しているのだろう。わずかにルシファーから距離をとろうと後ろへ退く。
「んじゃあよ、そいつとオレ。どっちが好きだ?」
 一変した問いに、思わずベルゼブブの顔に赤みがさす。
「ベーやんか、ルシファーさん?」
 アザゼルが首を傾げ、二人の顔を交互に見比べる。
 少しの沈黙の後、アザゼルが口を開く。気がつけばベルゼブブも固唾を呑んで答えを待っていた。
「悪いけど、やっぱベーやんかなぁ」
 それは付き合いの長さからか、先ほどのルシファーの発言から彼のことを警戒しての言葉なのか。どちらにせよ、ベルゼブブは勝ったのだ。こっそりとガッツポーズをしてしまったことは大目に見てもいいだろう。
「はあ? オレ様じゃねぇのかよー」
 ルシファーがアザゼルの肩にかぶさり、文句を言う。アザゼルの方はやはり先ほどの告白が後を引いているのか、どうにか逃げ出そうと弱々しいながらも抵抗していた。
「理由ですか? せやな……」
 考える素振りを見せ、突然顔を赤くする。
「や、やっぱ付き合い長いからですかねぇー。うん。そうに決まってます」
 言い訳するかのように重ねられていく言葉に、ベルゼブブは希望の光を見た。
「オッケー。オッケー。今日のところは、そろそろ時間だし退いてやるよ」
 鋭い眼光がベルゼブブを射抜く。けれど、彼はそれに屈しない。それどころか、アザゼルの反応から自分の勝利を確信し、優越感のこもった笑みを返すくらいの余裕があった。
 ルシファーが去った後、ベルゼブブとアザゼルは二人っきりになる。どちらもかけるべき言葉を捜し、沈黙を守っていた。
「あんな、ベーやん。ワシ、もしかしたら……って、やっぱええわ」
「そう、ですか」
 その先を聞いてみたいと思っていた。けれど、まだ心の準備ができていないのも事実だ。
 とりあえず、きっかけとなったルシファーにベルゼブブは小指の爪垢程度の感謝を向けた。


END