アザゼルが虚無に落ち、植物悪魔となってしまった時、ベルゼブブは顔のニヤケを抑えるので精一杯だった。
 真実の中にほんのわずかな欲望を含ませる。単純なようで、欲望を隠すのにはこれ以上ない方法だ。人間という生き物は悪魔の言葉の裏など知りもせず、口から吐き出された言葉だけを鵜呑みにする。周りの悪魔達も、ベルゼブブが紡ぐ情報に嘘偽りがなかったがために、そこに含まれていた欲望には気づかなかった。
 言葉に敏感であるはずのサラマンダーですら、彼の真意を知ることはできなかった。
「ベーやんマジで酷いわー。友達がいのない奴やで」
 魔界の一角で、酒をあおりながらアザゼルは言う。
 虚無に落ちたアザゼルはどうにか復活を遂げ、さしたる力も手にいれないまま今を生きている。
 同僚である悪魔達は、何だかんだと言いながらもアザゼルの帰還を喜んでいた。その場ではベルゼブブも同じように喜んでみせたが、心の奥底ではまったく逆の感情で溢れていた。すなわち、盛大な舌打ちと共に顔をしかめてやるような感情だ。
「我々は悪魔なんですから当然でしょう」
「それにしたかてー。ベーやん、モッさんが死んだときは泣いてたくせに……」
 唇を尖らせて言うその姿に、ベルゼブブはため息をついた。
 二人の共通の友人であるモロクが、天使によって殺されたとき、ベルゼブブは確かに涙を流した。しかし、それは一時的なもので、次の日にはベルゼブブだけではなく、アザゼル自身もモロクを話のネタに笑っていたはずだ。
 所詮、悪魔の友情などそんなものだ。
 例外があるとするならば、ベルゼブブがアザゼルへ抱いている思いだろう。
 どうでもいいのではなく、すぐに忘れてしまうのではなく、決して綺麗だとは言えない思いだ。
「ですから、こうして奢っているじゃないですか」
「うるさいわー! こんくらい当然じゃボケェ!」
 再び酒を一気に飲み干し、机に突っ伏す。
 耳まで赤くしているアザゼルを横目に、ベルゼブブは喉を鳴らした。
 彼の身体が熱くなっているのは、アルコールのせいではない。もっと原始的な欲求だ。アザゼルの本分でもある欲求は、単純極まりない性欲。
「……アザゼルくーん」
 ベルゼブブの呼びかけに、アザゼルはピクリとも動かない。
 今日は早い時間から二人で飲み耽っていた。ちまちまと酒に手をつけていたベルゼブブとは違い、ハイペースで酒をあおっていたアザゼルだ。潰れてしまっても何ら不思議ではない。むしろ当然の現象といえる。
 穏やかな寝息をたてているアザゼルを再度呼び、肩を軽く揺する。
「うーん……」
 かすかな呻き声が聞こえるだけで、起きる気配は全くない。
「キミは無防備ですね」
 首を無理矢理自分の方に向け、小さく開いている口を見つめる。真っ赤な舌が目に痛い。
 誘われるように、その赤に引き寄せられる。柔らかいとはいえない唇に、己のそれを重ね合わせ、わずかに舌を入れる。
 すぐに顔を離し、アザゼルを見るが、相変わらず眠っていた。今、己の見に起こったことなど知りもしないのだろう。実際、ベルゼブブはアザゼルが酔いつぶれる度にこのようなことをしてきていたのだが、ばれている気配は微塵もない。
「好きですよ」
 モロクには持っていなかった思い。
 アザゼルと二度と言葉を交わすことができないかもしれないと思いながらも、涙を流さなかった理由。もっと醜い欲望を抱いた理由でもある。
「あのまま眠っていればよかったんですよ」
 寝顔を眺めながら、誰に言うでもなく呟く。
 虚無から目覚めることがなければ、一生自分の物になるはずだった。と、ベルゼブブは考える。
 一生目覚めないということにしてしまえば、アクタベや佐久間がアザゼルを捨てることくらいわかりきっていた。碌なことをおこなわないアザゼルだ。事務所の中でも好かれているとは言いがたい。
 処分されたとみせかけて、アザゼルの身体を魔界に持ち去ってやろうと考えていたのだ。
 全ての世話をしてやり、ただただ眠るアザゼルの顔を毎日眺めるのだ。その顔は自分だけの物で、他の誰も見ることがない。時が経てば、アザゼルという悪魔がいたことすら忘れてしまう者の方が多いだろう。
 そうやって、ようやくアザゼルはベルゼブブだけの物になるはずだったのだ。
「残念です。本当に……」
 人間は、これを愛とは呼ばないだろう。
 悪魔は、愛など持っていないだろう。
 故に、ベルゼブブは己の気持ちに、愛などという名前はつけなかった。
 ただ好きであり、自分の物にしてしまいたかった。それは、子供が気に入った玩具を誰にも渡したくない。と、いう気持ちと酷似している。
「大切にしますよ。
 だから、次は――」
 機会があるのならば、いくらでも狙うつもりだ。もしも機会がこないのであれば、作ってしまえばいい。アクタベにはばれてしまう可能性もあるが、アザゼルの一人や二人で気を荒げる男ではない。今回、アザゼルを虚無に叩き落とした張本人なのだから、その辺りのことは間違いないだろう。
 ベルゼブブはもう一度だけ彼に口づけをした。
 舌を伝わるアルコールの味は、ベルゼブブが口にしてきた美酒よりも甘美だった。

END