静かに横たわる男をアザゼルは見下ろす。
金糸の髪は触れなくとも触り心地がよいのだろうと想像がつくほど美しい。今は伏せられている目も、冷たい光を宿した美しいものであることを知っていた。柔らかな唇にそっと触れてみる。それでも横たわっている彼は目を開けない。規則正しい寝息が聞こえてくるばかりだ。
寂しい、アザゼルは思った。
いつも吐き捨てられていた暴言が恋しくなる日がくるとは思ってもみなかった。
豪華なベッドで眠っている男は、美しい顔で、とんでもない暴言を吐いてくるのだ。少々受け入れがたい嗜好も持っており、彼を見るたびにアザゼルは、男はやはり顔ではない。と思っていた。
「ベーやん……」
ベッドの横に膝をつき、眠っているベルゼブブとの距離を縮める。物理的な距離は縮まったが、心は少しも近づいた気がしなかった。
何度も名前を呼ぶが、ベルゼブブが返事をすることはない。彼はずっと眠ったままなのだ。いつ目覚めるのかもわからない。まるで、人間界で読んだ眠り続ける姫のようだと思う。彼は魔界の貴族なので、あながち間違った表現でもないのかもしれない。
アザゼルは、彼が目を覚ますなら一番初めに見るのは自分であればいい、と毎日のようにここを訪れている。
無駄に豪華なベッドや部屋の装飾は、間違いなく眠っている彼の趣味だ。金持ちの趣味はよくわからないが、ベルゼブブにならばよく似合うと思ってしまうのが癪だった。彼自身が見につけるもので、豪華なものといえば王冠程度のものなのに、不思議なものだ。
二人はただの友人だった。特に親しいということもなかった。同じ職場でなければ、互いの携帯電話番号も知らなかったような仲だ。けれど、いつの間にか大切な存在になっていたことに、アザゼルは今さら気がついた。
隣にいるのが当たり前だと思っていたし、自分が何をしたところで、また彼が何をしたところで、互いを見限ることがないことはわかりきっていたのだ。それほど、二人の距離は密接だった。だから、今は開いてしまった距離が寂しく、心が寒々しく感じてしまう。
泣いてしまうのではないか。アザゼルは自分自身についてそう思った。だが、涙は出ない。泣けば、ベルゼブブが一生目を冷めないままになってしまうような気がした。
眠っているだけだというのに、血色のいい頬に触れる。ベルゼブブは貴族なだけあり、肌のケアもまめにしている。同じ男だというのに、彼の肌はアザゼルのそれよりもずっと柔らかく、さわり心地もよい。
「今度肌のケア教えたるって言うやん。嘘吐きやなぁ」
そんなことを言ってみる。
ベルゼブブがその話をしたとき、アザゼルは男がそんな女々しいことをしていられるか、と答えたような気がする。どこか曖昧な記憶なのは、それが遠い昔の話だからだろう。今さら思い出す自分も自分だが、結局アレ以来ケアの話をしないベルゼブブも酷い。そんな自分勝手な言葉を吐露していく。
そろそろ手が出るのではないか。そろそろ以前のような暴言が聞こえるのではないか。胸を高鳴らせるが、そんな瞬間は訪れない。
手から伝わってくる温もりだけが、ベルゼブブの生を教える。触れるたび、アザゼルはほっと息をつく。人の温もりが恋しくなるなど、淫奔が聞いて呆れる。
「ベーやん、ワシのこと、好きって言うてくれたやん?」
いつかの日を思い出す。
男同士でなど、ありえないとアザゼルは答えたはずだ。
好きというのは性欲を持つということだと、アザゼルは思っている。ならば、同性よりも異性にそれは向くはずだ。だから、ベルゼブブの言葉を受け入れることはしなかった。気の迷いだと言い、女を紹介してやったこともあった。結局、彼はアザゼルが紹介した女とは一度も寝なかったが。
女がベルゼブブに振られたと聞くたび、アザゼルは少しだけ嬉しかったのだ。彼には自分しかいないのだという、薄暗い優越感に浸れた。
それを『好き』だとか『愛』と呼ばれる感情だということに気づくのは今になってからだ。職能柄仕方がなかったのかもしれないが、それにしたってこんな時に気づかなくても言いのにと思う。
「……ワシも、好きやねんで」
知らんかったやろ。と震える声で言う。
正直にならなかったことの罰が、これだというならばあんまりだろう。アザゼルはもう二度と、好きだと思った相手の声も、表情が変わるところも見ることができない。眠ったままの相手を見続けることしかできない苦痛は、果てしない。
「好きやねん」
だから起きて欲しい。
ベルゼブブの額に、軽く唇をつける。それは目蓋へと続き、鼻先、頬、そして唇へと向かう。
人間界の物語では、眠り続けた姫は王子からのキスで目覚める。自分が王子という柄でないことはアザゼルも良く知っている。王子と言えば、目の前の姫に相応しいものだ。
唇を前に、アザゼルはわずかに躊躇する。少し考えた末、意を決したように目を固く閉じ、唇を寄せる。触れるだけだったが、温もりというには熱すぎるものを感じた。慌てて唇を離すと、そこにはベルゼブブがいた。
ただし、彼は目を開けていた。
「――アザゼル君」
懐かしい声。鼓膜を振るわせるその声に、アザゼルは目を丸くする。
伸ばされた手は、アザゼルの頬に触れ、頭の裏へと回る。
「この茶番はいつまで続くんだ? え?」
次に聞こえたのは地獄の底から響くような怒りの声だった。
「今ええ雰囲気やったやーん」
ベルゼブブの声に顔を多少青くしながらも、アザゼルは拗ねたように唇を突き出す。
「じっとしている私は暇でしかたがないんですけれど」
「最近の流行りやねんって。逆眠り姫」
事の発端はアザゼルの話だった。
近頃、淫奔の間では逆眠り姫なるシュチュエーションが流行っていると言う。人間界で言う眠り姫だが、キスをするのは姫だというものだ。
常識とは少し違う、女が優位に立てる、男はじらされ燃える。など、実際に体験した者達の間では話題になっているらしい。普段は、シュチュエーションなど全く考えないアザゼルではあるが、少々興味が引かれた。
知りあいの女相手にさせるのも面白そうだとは思ったが、どうせならば自分が優位にたってみたいと思ったので、ベルゼブブを誘ったというしだいだ。
実際、ベルゼブブとアザゼルは行為に及んだことが何度もあり、その際、アザゼルは女役をしていたので、今回の流行りを確かめるのにはピッタリだった。
「で、君は楽しかったんですか?」
「うーん。微妙」
「でしょうね」
性急を望むアザゼルに、こういったまどろっこしいシュチュエーションが合うとは思えない。
「なら、とっととヤッちゃいましょう」
「ベーやん、綺麗な顔でそういうこと言うのやめときって」
「黙りなさい」
そう言って先ほどの触れるだけのキスなどではなく、深いキスをした。
END