中学を卒業して、ベルゼブブは貴族としての道を歩んでいた。そもそも、小中学校と公立の学校に通っていたこと自体がおかしいのだ。とはいえ、その辺りのことは両親の教育方針などからきているのだろうと、今では納得している。 公立に通っていたからこそ知り合えた者がいるのもまた事実なので、特にそのことについて責めるつもりはない。
貴族が通うに相応しい高校は、魔界にあっても美しい。設備も充実しており、もう公立などには行く気にもならない。
ベルゼブブはその日の授業を全てこなし、後は家に帰るだけとなっていた。外はまだ明るく、これから遊びに行こうとしている者達も多い。
「やあ、ベルゼブブさん。ボクら喫茶店に行くんだけれど、キミもどうかな?」
悪魔のわりに爽やかな声が聞こえてくる。同じクラスの者だということだけはわかっているので、無下にして後に響くのも面倒だと思った。声の主の方を見れば、何度か見たことのある顔が目に映った。
「私は遠慮しておきます」
高校に進学してからは、毎日がこんなものだ。同じクラスの者が遊びに誘ってくる。
今までとは雲泥の差だった。ベルゼブブは小中学校時代、己の嗜好から他の悪魔とは距離をとられていた。しかし、高校生にもなれば相手を身分や能力で判断するようになる。ベルゼブブ家の長男として生まれた彼は、周りから媚びられ続けていた。それが嫌だとは思わない。むしろ優越感に浸れるのだから最高だ。
しかし、影では自分の趣向を基盤とした陰口で溢れていることを知っていた。
悪魔と言うところを考えれば別段咎める気も起きない。けれど、巧妙に隠されているはずなのに漏れだしているそれが酷く気に喰わなかった。そんな苛立ちを腹の中に抱えたベルゼブブは、ふと小中学校で一緒だったアザゼルのことを思い出す。
「そういえば、彼は馬鹿でしたねぇ」
独りぼっちの帰路でそんなことを呟いた。
アザゼルとて、隠すという努力はしているのだろうけれど、それが成功したためしはない。それも、本人の前でボロを出すのだから、こちらも制裁しやすいのだ。彼といるときはこのような苛立ちは生まれなかったと思い返す。
むしろ、彼そそういった間抜けなところに、日々のストレスを解消させられていたと言っても過言ではない。
全ての悪魔が彼のようだったら、と考えてからベルゼブブは首を横に振る。馬鹿と間抜けしかいないような世界はごめんだ。そのような世界に生まれるくらいならば、死を選んでみせるだろう。
中学を卒業するとき、彼はベルゼブブに名残惜しそうな顔を向けていた。それが友情からきていたのか、家柄に向けられていたのかは知らない。アザゼル自身にそれを問うてみたところで、答えがでないことは簡単に想像がついた。
何せ、彼は馬鹿だ。学習能力もなければ、自身の気持ちを知ることもない。
好きだった女の子を虐めたがために嫌われ、正面から死ねと言われて始めて己の恋心に気づいたこともあった。当時、ベルゼブブは、泣き喚くアザゼルにつき合わされ辟易としたことをよく覚えている。
ついこの間までは、共に帰路を歩いていたというのに、思い返してみれば全てが懐かしくあった。
我が家である屋敷がその目に映り始めたころには、ベルゼブブはアザゼルに会いたいという気持ちが抑えられなくなっていた。会って話がしたいという類のものではなく、あのニヤケた面を殴ってやりたいという、何ともはた迷惑な感情ではあったが。
思ったが吉日とばかりに、ベルゼブブは携帯電話のアドレス帳を開く。家柄や自分との関係で区分けされた中で、小中の知りあいの区分に目を通す。しかし、そこに彼の名前はない。まだ携帯電話を持っていない者もそれなりにはいたが、交友関係の広い彼は携帯電話を持っていたはずだ
おかしい。そう首を傾げてからすぐに気がついた。
「そういえば、アザゼル君の電話番号なんて知りませんでした」
学校へ行けば顔を合わせ、嫌というほど話し行動していた。だから、わざわざ連絡先を知ろうとも思わなかった。さらに言えば、ベルゼブブはアザゼルの家がどこにあるのかも知らない。庶民の狭い家になど興味がなかったのだ。
ベルゼブブはそっと携帯電話を閉じる。目的の番号がないのであれば、いつまでも開いている意味もない。
深いため息を吐いてから、思わず笑ってしまった。
「私としたことが、彼に会えない程度のことでため息なんて……いやはや」
忘れよう。会えない者のことを考えても焦がれるだけだ。そんなことを思った。
退屈で、苛立たしくて、ほんの少しだけ憂鬱な日々が過ぎていく。早くこんな時間が消えればいいのにと思った。そんなある日のことだ。執事がベルゼブブに一通の手紙を手渡した。簡素なそれは、ベルゼブブ家の関係者からではないということを示している。
丁寧に封を開け、中に入っていた手紙に目を通す。
手紙には中学校の同窓会について書かれていた。封筒の中にはもう一枚紙があり、そこには、「はい」と「いいえ」だけが書かれている。
ベルゼブブは少し考える。同窓会など興味がない。しかし、彼はくるだろう。あの間抜けな面を少しも代えず、ベルゼブブ家の長男に遠慮もなくあだ名で呼んでくるであろうことが用意に想像できた。
そして、「はい」の方に丸をつけて執事に渡す。後は手紙に書かれている日がくるのを待つだけだ。
彼の心は珍しく喜び、弾んでいた。
「お久しぶりですー!」
同窓会当日、ベルゼブブは手紙に書かれていた場所に少々遅れて到着した。古びた店の扉を開けると。どこかで見たことのあるような面々が口々に声をかけてくる。彼らも中学を卒業し、家柄の大事さというのを学んだのだろう。
今さら媚を売られたところで、冷めた感情がさらに冷たくなるだけだ。それもわからないほどここにいる者達は愚かなのだろう。ベルゼブブの気を損ねないようにと、顔色をうかがい距離感を計っている目に唾を吐きかけてやりたい。
「もー。そんなとこでつっ立ってらんと、さっさと座りや」
無遠慮にベルゼブブの手を引く男がいた。
見れば、よく知った顔だった。
「いやー。でもベーやんが来るとは思わんかったわ!」
「……キミは相変わらずですね。アザゼル君」
半ば強制的にベルゼブブはアザゼルの隣に座らされた。
「いやいや。ワシも超男前になったし」
「ははは。寝言は寝てから言え」
冷水のような言葉を浴びせてやれば、そんな風に言わんでもええやん。と、アザゼルは膝を抱える。その姿が鬱陶しかったので近くにあったお冷をかけておいた。物理的な冷水を浴びたアザゼルは悲鳴をあげて女達にタオルを持っていないかと聞いて回る。男達はそんなアザゼルの姿に惜しみない笑いを向けていた。
「あたし持ってるよー」
一人の女がアザゼルにタオルを差し出した。ふわりとした可愛さのある女だった。
「ほんまありがとー。もー。ベーやんったら、久々に会った親友にえげつないことしよるなぁ」
「ふふ。でも、仲が良いんでしょ?」
「せやでー」
矢印のような尻尾をふらふらを揺らす。
どうやら、彼女のことが気に入ったらしい。アザゼルのことなので、自分が気に入らぬ女からタオルを差し出されれば、それはそれは醜悪な面でそのタオルを叩き落としただろう。
「あ、せっかくやしメアド交換しようや」
「いいわよ」
二人が携帯電話を出す。その姿を見て、ベルゼブブはわずかに目を見開いた。
「ベルゼブブさん、私達もメアド交換しましょうよ」
顔はいいが、中身は下種な女が擦り寄ってくる。
「いいですよ」
吐き気がしたが、一先ずは抑えておいた。ベルゼブブは貴族であり、紳士なのだ。
けれど、心はアザゼルの方だけを向いていた。
「また連絡するな」
「待ってるわ」
楽しそうな二人を見て、ベルゼブブは胸の中に靄がかかったような気がした。そして、それはいつだったか経験したことがあるような気がした。
喉に引っかかったようなそれに、ベルゼブブは眉を寄せる。
「お前のアドレス帳女だらけだな」
アザゼルの携帯電話を覗きこんでいた男が言う。
「なんでむっさい男の番号なんて記録せなあかんねん」
そんなことを言いながらも、女よりわずかに少ないくらい、男の番号があの携帯電話には記録されているのだろう。そんなことを頭の片隅で考え、ベルゼブブは中学校時代のことを思い出した。
喉に引っかかっていたのはこれだ。
携帯電話が普及し始めたころ、クラスの中では番号を交換しあうのが流行っていた。ベルゼブブは当然のように携帯電話を所持していたが、これまた当然のように誰からも番号を聞かれなかった。それと対をなすかのように、アザゼルは様々な者に番号を聞かれ、彼自身も尋ねて回っていた。己のプライドが邪魔して言えなかったが、ベルゼブブはずっと言いたかったのだ。
私とも番号を交換しましょうよ。
たったそれだけのことを言えなかった。言えないのは今も変わらなかった。
中学校を卒業するころにはそのことを忘れ、媚を売ることを覚えはじめていた同級生がベルゼブブに番号を尋ねてきていた。そして現在に至る。
「……私も変わりませんねぇ」
相変わらずのマヌケ面を眺めながらそんなことを呟いた。
本当はこんな言葉ではなく、昔から聞きたいと思っていた言葉を吐きたかったはずなのに。
結局、ベルゼブブはその日、アザゼルの番号を聞きだすことができなかった。それが酷く悔しかったのは何故だろうか。
その数十年後、二人は同じ悪魔使いに使役されることになる。そうして始めて、アザゼルはベルゼブブに己の番号を教えたのだ。
仕方ないから携帯電話に登録しておいてやる。という姿勢をベルゼブブは崩すことがなかった。しかし、彼の携帯電話の区分で唯一『友人』という分類に入っているのは彼だけだった。
END