今日は還っていいと言われ、ベルゼブブとアザゼルは意気揚々と魔法陣の中へ入っていく。特に肉体労働をさせられたわけではないが、あのアクタベと同じ空間にいるということは精神を大きく削っていくのだ。実家へ還る瞬間が愛おしくなってしまうのはしかたのないことだろう。
「んじゃ、またねー」
 契約者であるさくまに手を振りながら還ったあの時間が懐かしい。アザゼルは魔界で思った。いつもならばこのようなことは考えない。今日、そして今、このようなことを考えたのには理由がある。
 端的に言ってしまえば、現実逃避だ。
 アザゼルは岩場に身を隠しながら、先ほどまで自分がいた事務所のことを思い出す。悪魔よりも恐ろしいアクタベがいて、近頃悪魔使いとしてのレベルを上げ始めたさくまがいて、わりと常識人な光太郎がいる。一般的な人間とはかけ離れているものの、それなりに平和で楽しい場所だ。今だからこそ言えるが、自分はあの空間がわりと好きだ。そんなことまで考え始める。
 現在、アザゼルの姿はとてつもなくプリチーだった。
「……いや、んなわけないし。これかて、どうせアクタベはんのせいなんやろ!」
 アクタベ事務所には結界が張られている。そのため、召喚された悪魔は否応なしに力を抑えられ、その姿も変わってしまう。いつもそのことを憎く思っていたアザゼルだが、今日ほどそれを実感した日はなかった。
 魔界に還ってきてもなお、彼の姿は人間界でのものと同じだったのだ。基本的には平和な人間界と違い、魔界の治安はよくない。恐ろしい姿をした悪魔も多ければ、中身が恐ろしい悪魔も多い。当然、その中には凶暴な奴もいるのだ。
 いつものアザゼルならば軽くあしらえるような相手だったとしても、この姿では分が悪い。いや、確実に殺されてしまうだろう。
 だからこそ、アザゼルは岩場に身をひそめているのだ。この現状を打破する方法は思いつかない。時間が解決してくれるかもしれないと思っていたのは始めだけだった。岩場の近くを誰かが通る度に身を小さくするのにはもう疲れた。
「せや! ベーやんはどないなっとんのやろ」
 携帯電話を取り出し、二番目くらいによく使う短縮ボタンを押す。無機質な音が鼓膜を奮わせる。機械的なこの音がこれほどまでに冷たく聞こえたのは生まれて始めてだった。早く出てくれと強く願う。
『もしもし? どうかしたんですか』
 思いが届いたのか、スピーカーからほぼ毎日聞いているであろう声が聞こえてきた。
「ベーやん? なあ、ベーやんはこっちに還ってきて、姿元に戻った?」
『はあ? 戻ったに決まっているでしょうが。何を言っているんですか君は』
 いつもと何ら変わりのない口調のベルゼブブにアザゼルは安堵の息をもらす。こうなってしまえば頼りになるのは彼だけだ。ベルゼブブまで人間界での姿をとっていたのなら助けを求めることすらできなかっただろう。
「ワシ今近所の岩場にきてんねん。ほら、昔よー遊んだやろ?」
『ああ、あそこですね』
「うん。迎えにきてくれへん? っちゅーか助けてくれへん?」
『……キミはこのベルゼブブをタクシー代わりにするつもりですか』
 電話越しだというのに、殺気が漂ってくる。隣にいないことが心細いはずなのに、隣にいなくてよかったと切実に思う。
「ちゃうちゃう。ワシ、人間界の姿のままやねん」
 返事がこない。嘘だと思われたのか、驚愕しているのか。どちらなのだろうかとアザゼルは何らかのリアクションを待つ。そうしていると、電話の向こう側からティーカップや壺の割れる音が聞こえてきた。少し遅れて、メイド達の悲鳴にもにた心配の声が聞こえてくる。
 この阿鼻叫喚の中で何が起きているのだろうか。知りたいような、知りたくないような気持ちにさせられる。そっと通話終了のボタンを押そうとする前に、ベルゼブブの声が聞こえてきた。
『アザゼル君、そこにいなさい。いいですか? 絶対ですよ』
 彼も焦っているのか、返事をする前に通話が終了した。
「……わーっとるっちゅうねん」
 携帯をしまい、岩場に隠れる。待つだけの時間というのは長く感じがちなものだが、今回はそれがさらに長いものに感じる。広い魔界で独りぼっちになってしまった感覚に、アザゼルは頭を垂れる。
 今にも泣きそうな顔をし始めたとき、アザゼルの耳に足音が聞こえてきた。こんな岩場に用事がある者などそうそういないわけで、となればこの足音はベルゼブブのものに違いない。
 心細さから解放されたアザゼルは思わず岩陰から飛びだした。
「あ? 何だコイツ」
 体が固まる。
 そこにいたのはベルゼブブではなく、この辺りのチンピラだ。
 こんなところに何をしに来たんや。という文句をアザゼルは飲み込む。そんなことを口にすれば、間違いなく殺されるだろう。ただでさえ、自分はこの男に見覚えがあり、恨みを持たれている確信さえあるのだ。
「……ほな、さいならー」
 ぎこちない動きで背中を向け、素早く逃げ出す。だが、コンパスの長さが違う。腕の長さが違う。アザゼルはあっさりと首根っこを捕まれてしまった。焦って手足をばたつかせるものの、その程度のことで逃れられるはずもない。
「なんだぁ、コイツ」
「ここらじゃ見ないッスねー」
 気づくなと心の中で念じる。今の姿は元の姿との共通点がいくつもある。バレない可能性がないわけではないのだ。
「……なんっつーかさ」
 アザゼルと掴んでいた男が呟く。
「こいつ、篤史の野郎に似てね?」
 思わず体がビクついた。
 男の言葉に周りの者達は同調する。羽根や山羊の足、尻尾などを見れば、少なくとも同じ眷属であることは一目瞭然だろう。
 このままではヤバイ。主に身が。
「そうだ。良いこと思いついたぞ」
 それはきっと、アザゼルにとっては良いことではないのだろう。
「へー? 何?」
 ニヤついた表情を浮かべ、周りの者達が男に近づく。彼らも男が何を考えているのかは予想がついているはずだ。
 こんなことになるのならば、近場にいる女を片っ端から引っ掛けるのではなかったとアザゼルが後悔する。しかし、次の瞬間には、それが自分の眷属の特徴であるのだからしかたがないだろうと思い直す。
 悪いのは、自分の女だと豪語しているわりにあっさりと奪われてしまう男達だろう。そんな華麗な責任転換で自分の精神を守ってみるものの、現状が何か変わったわけではない。
「こいつをあの野郎の代わりに――」
「残念ですが、それは私の物なのですよ」
 救いの声だ。
 その場にいた全員が声の方向、すなわちベルゼブブを見た。
「ベルゼブブ優一坊ちゃんが、こんなところに何の御用で?」
 男か顔を引きつらせながら尋ねる。
 彼はアザゼルとベルゼブブが友人同士なのを知っている。だからこそ、手が出しにくいということもあるのだ。
「ですから、あなたが手にしている汚らしい物は私の物なんです。
 不本意ではありますが、引き取らせてもらいますよ」
 冷たい目が男達を見下す。彼は天性の貴族だ。
「……いや、不本意ならオレ達がしっかり面倒みてやるよ」
「それにはおよびませんよ。ですから、早く渡しなさい」
 男に捕まれ、アザゼルは体と同じように心も不安定に揺れていた。
 何でもいいから助けてくれ。そう叫びたい気持ちを抑えるのが辛い。
「あんたは金も力もある。一つくらいオレらに譲ってくれたっていいんじゃねーのか?」
 下種い笑みを浮かべた男に、ベルゼブブはきっぱりと言い放つ。
「どれも譲ってあげる気はないですけどね、それだけは絶対に譲れないんですよ」
 不覚にもアザゼルはときめいた。
 あのベルゼブブがこのようなことを言うなど、誰が想像できただろうか。
「渡さないのなら……殺しましょうか」
 ゆっくりと腕が上げられ、アザゼルを掴んでいた男は手を離して怯えた声を共に走り去って行った。
「大丈夫ですか?」
「何とかねー」
 ベルゼブブはアザゼルを片手で掴みあげると、眉間にしわを寄せてじっと見つめる。
「本当に人間界での姿になってるんですね」
「信用してなかったん?!」
「ええ、まあ」
 あの姿はアクタベの結界により力を封じられた結果のものだ。魔界に還ってきてまで効力が残っていたことはない。
「一応、さくまさんにメールをして尋ねてみたんですけどねぇ。原因はわからないそうですよ」
「えー! じゃあワシ、ずっとこの姿なん?」
 あんまりや、と泣き叫ぶアザゼルを掴んでいた手を離す。重力に従い、地面に落ちた彼をベルゼブブが踏みつける。
「痛い! 痛いってベーやん!」
「話は最後まで聞きなさい。おそらく、キミの体が人間界モードに慣れてしまったんだろう。丸一日魔界にいれば戻りますよ」
「ほんま!」
「ええ」
 踏みつけられながらも嬉しそうにしているアザゼルの姿を見て、ベルゼブブはその丸一日をどうやって過ごすのか尋ねるのはもう少し後にしようと思った。


END