現在、部屋の中にはアザゼルとアクタベの二人だけがいる。昔、それこそ佐久間が悪魔使いとなる以前であれば、このような状況もあった。しかし、今となってはアザゼルは佐久間の使い魔であり、鬼のようなアクタベと二人っきりなどという恐ろしい状況下に置かれる理由など何一つないはずなのだ。
極力アクタベの気に触ることがないようにと、アザゼルはソファの上で雑誌を読みふける。それもこれも、喚びだしたくせにベルゼブブだけ連れて仕事に行ってしまった佐久間が悪い。魔界に還ってやろうかとも思ったが、帰ってきたら一緒に晩御飯を食べようと言われている。
何だかんだと言いつつも、アザゼルは人間界で騒ぐのが好きだった。佐久間と一緒にいるのも悪くはない。
彼女の姿を思い浮かべる。好みとはいいがたいが、脱がせば柔らかな四肢が見えるだろう。触れたときの感触や味を想像してみるのも悪くない。自分の妄想に下種な笑みを浮かべた瞬間、頭にペンが刺さる。
「あうっ」
もはやこの痛みにも慣れてしまった。
「何すんのー。心の広いワシかてそろそろ本気で怒りまっせ」
頭に刺さったペンを抜きながらアクタベの方を見る。この部屋にいるのは彼だけだし、容赦のない攻撃は今まで幾度となく浴びてきたものだ。この痛みを違えるはずがない。我ながら嫌な確信を持っているものだと気分が落ち込む。
怒った風なアザゼルをアクタベは無視する。声を返さないどころか、視線すら向けようとしない。ただ、苛立っているのであろうことは雰囲気でわかる。そこで退かないのがアザゼルだ。愚かで学習能力がないと言われる由縁でもある。
「なーなー。もしかしてワシの考えてることが気に入らんかったんとちゃいますの?」
下種な笑いを隠そうともしない。アクタベの苛立ちが膨れ上がるのがわかる。
普段は感情のかの字も見せないような男だ。彼の感情を揺さぶることができたなど、アザゼル自身信じられないことだった。しかし、目の前にある現実を受け入れ、尻尾を楽しげに振る。千載一遇のチャンスだ。今までの鬱憤を晴らしてみせよう。
飛ぶのは得意ではないので、ソファから降りて自分の足でアクタベのもとまで歩く。その間にも血が流れ、床を汚してしまったが気にすることでもない。
「いやー。やっぱりアクタベはんも男なんやねぇ」
取り出すのはお得意のエロ本だ。中身は眼鏡っ子特集。佐久間とよく似た顔立ちの女もいるだろう。
「紳士はな、どんな時でも冷静に対処しなあきませんで。
せやから、常日頃から性欲の処理はちゃんと――」
呻き声を上げることもできなかった。
十センチはあろうかという分厚い雑誌がアザゼルの口に詰め込まれたのだ。顎が外れる、と思い雑誌を抜こうとするが、存外深くまで差し込まれたそれは簡単には抜けない。
「あまり五月蝿いと殺すぞ」
本気の声だ。
だが、アザゼルは諦めない。彼は馬鹿だった。
「せやったら、さくにワシ渡さんかったら良かったんちゃいますの」
何とか雑誌を抜き、顎をさすりながら言う。
アクタベの目が一瞬、不機嫌そうにつり上がったのが確認できた。
「今はさくがワシの契約者やから、どうこうできませんけど、アクタベはんの使い魔やったらさくをメロメロにかてできたんでっせ」
ニヤニヤとした笑みは見る者を不快にさせる。アザゼル自身、今口にしたことなど心にも思っていないのだ。アクタベの使い魔として過ごすなどごめんであるし、さくとアクタベを上手くカップルにしてやろうなど思うはずがない。
契約者など、苦痛と脅しで悪魔を従わせている外道にしか見えないのだから、彼らのために何かをなしてやろうなどと思わなくともおかしなことではない。
「……そんな風に彼女を手に入れたいとは思ってない」
「へ?」
返事がくるとは思っていなかった。心を揺さぶれるだけ揺さぶってやろうとしか考えていなかったのだ。
目を丸くしたアザゼルに、アクタベは言葉を続ける。
「オレは彼女が、自分から、オレに寄りそうようにしてやりたいんだ」
その笑みは上級悪魔も慄くほど恐ろしいものだった。アザゼルは心の中で佐久間に手をあわせてしまう。アクタベという名の悪魔に彼女は囚われてしまったのだ。この現代社会に置いて、唯一の生贄という存在なのかもしれない。
アクタベは確実に現状を楽しんでいる。悪魔使いとして、助手として、着実に佐久間は馴染んでいる。近いうちに彼女はここでしか過ごせなくなるのだろう。一般社会とは違った感覚を植えつけられてしまった者の末路だ。
「……怖っ」
思わず呟く。それは本心からの言葉だった。
ストーカーだの、ヤンデレだの、そんな言葉で計れるような狂気ではない。
「まあ、オレのことを気にするくらいなら、お前自身のことを気にしたらどうだ」
これは反撃だ。言葉にこそしなかったが、アザゼルはそれを感じとった。
「お前の能力はお前自身にも、他の悪魔にも通用するだろ?」
彼は知っている。それがグリモアのもたらす情報なのか、彼自身の眼によって得られて情報なのかはわからないが。アクタベはアザゼルがベルゼブブに好意を寄せていることを知っている。いや、すでに二人は恋人という仲であることも知っているのだろう。その上で、ベルゼブブにもっと目を向けて欲しい、一緒にいて欲しいなどというアザゼルの女々しい心を見透かしている。
本当に恐ろしい男だ。
「……何を言うてるんかわかりませんなぁ」
目をそらす。
アクタベの目を見続けていれば、知られたくないことがどんどん流れ出てしまうような気がした。
「グリモアは全てを知っている。それだけは忘れるな」
いつか必ず仕返しをしてやろうと、心に誓った。
END