幼い頃から好きな悪魔がいる。人間の時間感覚に合わせてやるのならば、もう数百年も続いている恋心だ。馬鹿な女ならば、それを純愛だと持て囃し、目を輝かせるに違いない。悪魔であるベルゼブブからしても、この恋が長いものであるということはわかっていたが、己の持つ思いが純愛などとは到底思えない。
 まってくもって馬鹿馬鹿しい。ベルゼブブはいつでも思っていた。
 純愛などという脆く、ただ美しいばかりの感情と、自分が持っている強固な感情を一緒くたにせれるのは気に食わない。第一、美しいばかりの純愛は、天使が持つものだ。悪魔を殺すばかりの、あの忌々しい天使が持つものが己の身に宿っていたのだとしたら、ベルゼブブは発狂してしまう。
 ベルゼブブが持っている感情は美しくない。
 しかし、実に悪魔的だ。
「名前をつけるならば、執着」
 一人、広いばかりの自室で呟く。テーブルの上に置かれた写真立ての中には、小学校時代に撮った写真が飾られている。写っているのはベルゼブブと、彼の想い人であるアザゼルだ。
 バカ面を下げているアザゼルと、表情らしい表情を浮かべていないベルゼブブは、写真で見ても対照的だ。正反対だからこそ惹かれるのだろう。
 つまらない悪事に、つまらない失敗しかしないような男ではあるが、どれほどいたぶられても諦めない不屈の精神は気に入っている。媚を売っても、隙があれば寝首を狩ろうとするところは面白い。その結果、また痛ましいほどの罰を受けるのだとわかっているはずなのに、アザゼルはこりようとしないのだ。
 貴族であるベルゼブブの周りには、アザゼルなどよりもずっと悪魔らしい悪魔が揃っている。身勝手な者や、姑息な者、人を引きずり落とす者。人間達がこぞって悪魔だと糾弾するような輩だ。
 けれど、暴露を職能に持つベルゼブブは、彼らの本質を知っている。
 どれだけ頭の回転が早かろうと、力が強かろうと、叶わないと察すれば、痛い目に何度かあえば、実にあっさりと諦めるのだ。無論、あからさますぎる隙や油断が見られれば動く者もいるが、彼らがアクタベに逆らうことができるとは思えない。事実、逆らわないだろう。白旗を振り、仕事を淡々とこなしていく姿が容易に想像できる。
 裏表があるところは、悪魔として何ら問題はない。問題があるのは、裏の部分が情けなく、愚かで、弱いところにある。
 奴らの中身を知る度、ベルゼブブは唾を吐きかけてきた。屈辱的であるはずなのに、彼らは一瞬の怒りだけで己の感情を押し殺す。一重に、ベルゼブブに敵わぬと知っているからだ。その媚びる笑みにベルゼブブは蔑みの目を与えてやる。それが欲しいのだろ? そうでないのならば、媚など売るな。そんな思いを込めて。
 そんな環境で育ったからか、ベルゼブブは早々に周りの悪魔に諦めをつけていた。あのような悪魔をすべて潰してやるためにも、己が魔界の王となるしかない。頭の上に乗せている王冠にかけて。小学校に入る頃には、その考えがすっかり固まっていた。
「何やねん自分。アザゼルさんを馬鹿にしてたらどつきまわすぞ」
 出会い頭にそう言ってきた彼は、雷撃のような衝撃をベルゼブブに与えた。
 アザゼルはベルゼブブの出生を知りながらも、暴言を吐いたのだ。周りの者達が彼を止めようとも気にせず、殴りかかってきた。当然、ベルゼブブはそれを打ち負かしたのだが、アザゼルは諦めなかった。
 馬鹿にする言葉を吐けば怒りをぶつけてくる。蔑みの目を与えれば唾を吐きかけてくる。痛みを与えれば涙を流すが次の日にはまた同じことを繰り返す。
 その行為に裏も表もなかった。いや、アザゼル自身に裏表がないのだ。どの角度から見ても、彼は情けない悪魔で、愚かな悪魔だった。そして、自分を曲げない悪魔でもあった。
 周りの悪魔に飽き飽きしていたベルゼブブが彼に惹かれたのは当然だったのだ。
 気づけば仲良くなり、中学校時代はモロクを加えて散々馬鹿なことをやってのけた。両親からきついお説教をもらい、高校進学受験を機に彼らとの馬鹿行為からは足を洗った。ベルゼブブが抜けた後も馬鹿なことをしていたアザゼルとはそれ以来疎遠になっていた。
 会いたいと願ったこともあるベルゼブブとは違い、おそらくアザゼルは彼のことを忘れてさえいただろう。何せ、アザゼルには友人が多い。馬鹿ではあるが、ベルゼブブが惹かれたように、彼の性格に惹かれる者は多かったのだ。彼の職能が男子から受けていたことも理由の一つではあるだろうけれど。
 それを何度忌々しく思ったことか。彼の素晴らしさに気づいたのは、自分が最初であるはずだと、ベルゼブブは自負していた。もっと幼い頃からアザゼルのことを知っている悪魔はいただろうけれど、そんな者の存在は目に入らない。
 ベルゼブブはアザゼルの特別でありたかった。友人が多く、すぐに己のことなど忘れてしまうとわかっていたからこそ、彼の弱い脳みそに己を刻みこんでやりたかった。
 卒業の後も、ベルゼブブは両親の監視を逃れつつ、その機会を見計らっていた。
 だからこそ、アクタベに召喚されたとき、アザゼルの姿を見つけたときは、小躍りでもしたい心持ちだった。同じ職場にいるのであれば、共にいることに誰が文句をつけるというのだ。今度は両親にも文句を言わせない。また、言わせないだけの実績と力をベルゼブブは得ていた。
「ねぇ、アザゼル君」
 写真立ての中にいるアザゼルに声をかける。
「私とお付き合いしてみませんか?」
 女好きの彼に言うにはためらいのある言葉。
 答えなど聞く間でもないような言葉。
 それでも、言っておきたかった。モロクが死に、己のグリモアが狙われていたことを知っているベルゼブブは、己という存在の危うさを思い知っていた。
 言わずに死ぬのを美しいとするのは、馬鹿の妄言だ。
 思いは言わなければ意味がない。
 欲しい者は手に入れなければ意味がない。
 閉じ込めて、自分だけの者にしてしまわなければいけない。
「ベーやん! 来たでー」
 玄関から声がする。
 豪邸には似合わない、マナーのなっていない大声だ。
「うるさいですよ。もう少しわきまえてください」
「えー。ワシとベーやんの中やん。
 今は両親もおらんのやろ?」
 執事に扉を通されたアザゼルが立っている。人間界にいるときとは違い、それなりに格好いい面立ちをしている彼の容姿も、ベルゼブブは気に入っている。一度惚れれば、すべてが気に入ってしまうのは、どの種族でも変わらない。
「ええ、いませんよ。しかし、ベルゼブブ家に入るのですから、それなりの態度でいてもらいませんと」
「かたっくるしいなぁ」
 ベルゼブブは呆れたような表情を作りながら、アザゼルを奥に通す。
「そういえば、ベーやんの両親、ずいぶんおらんなぁ。旅行か?」
「まあ、そんなもんです」
 自室に通し、執事に普通のお茶を運ぶように言いつける。
 アザゼルの言葉に、一瞬執事が肩を揺らしていたことにアザゼルは気づかない。自分の家とはまったく違う、ふわふわのソファを堪能するばかりだ。
「んで? ワシに言いたいことって何なん?」
「少しは落ち着きなさい。今、お茶を運ばせていますから」
 首を傾げるアザゼルにベルゼブブは返す。
「何や、もったいぶってー」
 笑いながらアザゼルも返す。
 そうやって、他愛もない話を少し続けていると、執事がお茶を運んできた。
 いつもベルゼブブが飲んでいるものとは違う匂いがカップがら漂ってくる。アザゼルはそれを受け取ると感動したように目を輝かせた。カップに入っているものは、彼の家ではお目にかかることのないような茶葉で淹れられている。
「やっぱり、金持ちはちゃいますなぁ」
「なら、キミも家族になりますか?」
 さらりと言う。
 その言葉の軽さとは裏腹に、ベルゼブブの心臓はうるさいくらいだった。顔が赤くなっている感覚はしないが、脳に血がめぐっていない感覚はする。
 時間の感覚が消え失せ、数秒しか経っていないのか、数分経ったのかがわからない。ただ、沈黙の苦しさに窒息しそうであった。
「……ベーやん」
「なんです」
 アザゼルが顔をうつむける。
 失敗だっただろうか。ベルゼブブが悲観した面持ちで彼を見た。そして気づく。
 アザゼルの長い耳が、ほのかに赤く染まっていた。
「ワシ、女も大好きやけどな」
 これは、もしかするのだろうか。ベルゼブブの心臓が、先ほどとは違う感覚を持って高鳴る。
「でも、ベーやんは、特別な感じがすんねん」
 これって、恋とか愛やろか? と、問いかけるアザゼルをベルゼブブは抱きしめた。
「ベーやん?」
「いいんですよ」
 強く抱きしめ、それだけを告げる。
 恐る恐るではあるが、アザゼルも腕を回してくれた。
 十分だった。アザゼルの持つ感情が、恋でも愛でも、まったく別のものだったとしても、己が特別であれる。それが幸福だ。
「本当に良かった」
 ベルゼブブは呟く。
 その後に続くはずの言葉は飲み込んで。
 ――両親を殺したかいがありました。
 
END