その一歩を踏み出してはいけない。
 頭のどこかで、いつも誰かが騒いでいた。胸の内からあふれ出る言葉を口にしようとする度に、彼から答えを聞き出そうとする度に、その誰かが言葉を喉で押し留めた。誰かは満足しているだろう。誰かのせいで、ベルゼブブは未だに言葉を告げることができないでいるのだから。
「ほんまにアクタベの奴は腹たつで!」
 酒をあおり、仕事の愚痴を言うアザゼルに付き合うのは、これが始めてではない。むしろ、同じ職場にいる同僚として、よくこうして居酒屋で酒を飲みあっている。
 ベルゼブブは次々に吐き出される愚痴を耳にしながら、適度に相槌を打ってやる。彼とて、職場に不満はあるのだが、思っていることのほとんどをアザゼルが吐き出してくれているので、ベルゼブブは口に出す必要がないのだ。さらに言うのであれば、アクタベという恐怖の存在を差し引いても、あの職場に執着する理由がベルゼブブにはある。
「ベーやんは優しいなぁ」
 顔を赤くしたアザゼルの言葉に、ベルゼブブは嫌味のない微笑みを浮かべることができる。
 胸の内が暖かくなるのを感じた。これが恋なのだと知ったのは遥か昔の話だ。同じ職場で、同じように召喚されることに喜びを覚えている。イケニエのカレーも捨てがたいが、彼にとって、もっとも大きなイケニエは今、すぐ隣にいるアザゼルだった。
 愛しい存在が同じ空間にいる。それだけで、どのような苦行も幸せへと変わる。
「お世辞はいらないですよ」
「えー。お世辞とちゃうって。ベーやんなら、わかるんやろー?」
 間延びした声でさえ愛おしく思える。
「はいはい」
「適当にあしらうなやー」
 ずいぶんと酔いがまわっているのか、細められた目は眠そうだ。
 眠る彼を見つめている時間も貴重なものだが、居酒屋で寝られては後が大変なので、阻止することにする。
「アザゼル君。もうそろそろ帰りましょうか」
 居酒屋に誘うのはいつもアザゼルだが、料金はベルゼブブが払う。単純にベルゼブブの方が金を持っているということもあるが、愚痴を吐くごとに酒を飲むアザゼルは支払いのときまで理性を保っていられないというのが大きな原因だ。
 次に会った時にベルゼブブがこのことに関して文句を言うのは恒例のこととなっている。しかし、内心では悪く思っていない。むしろ、貸しを作ることによって、アザゼルをより己に近いところに置くことができる。と、喜びを感じてさえいる。
「うーん」
 アザゼルは気だるげに首を振る。
 どう見ても酔っ払っているが、そういった者に限って己は酔っていないと主張するものだ。アザゼルも例に漏れずに、酔っていない。帰らない。を主張した。わがままな部分も愛おしいと思わないでもないが、ベルゼブブも悪魔なので愛おしいからといって、甘やかしはしない。
「ダメです。ほら、私の車で送りますから」
 嫌がるアザゼルの腕を掴み、無理矢理立たせる。
 おぼつかない足取りは、彼がどれだけ酔っ払っているかを如実に示していた。
 やはり、自分の判断は正しかったのだと、ベルゼブブは自分を褒めた。今はまだ何とか歩いてくれているので、外へ連れ出すのも比較的楽にできる。以前、アザゼルが眠ってしまったときは、腕力のないベルゼブブが体格のいいアザゼルを背負わなくてはならなかった。密着は嬉しいものがあったが、それ以上に体力が持たない。
「ベーやんは優しいなぁ。アクタベとはえらい違いやで」
「そりゃそうでしょ」
 アクタベと比べれば、魔界中の悪魔が優しく見える。
「こーんなに優しくされたら、ベーやんのこと好きになってしまうかもしれん」
 酒の効果で潤んだ目を上目遣いにしてアザゼルが言った。
 彼は生まれながらに、誰かに愛される術を知っているのではないかと疑ってしまうほど、その動作は自然で嫌味がない。
「アザゼル君……」
 居酒屋にいたのだから、ベルゼブブも当然酒を飲んでいる。ほろよい気分程度しか飲んでいないとはいえ、アルコールは確実に彼の脳を侵していた。
 赤く染まった頬と、潤んだ瞳。そして告げられた言葉。
 ベルゼブブの胸が熱くなる。マグマのような熱を帯びたそこから、何か言葉が溢れだすのを感じた。いつもだったならば、どこかの誰かがそれを押し留めてくれる。しかし、今日に限ってその誰かはいなかった。アルコールによって、誰かは眠りについてしまったらしい。
 留めるモノを失くしたベルゼブブは、何の障害もなくその言葉を口にした。
「好きです。愛してます」
 冗談の色など微塵もなく、向けられた側としては、痛みを感じるほど真っ直ぐな声だった。
 向けられた側、アザゼルは酔いも吹き飛んだのか、目を丸くしてベルゼブブの目を見つめていた。
「え、ベーやん……」
 口を開いたアザゼルを見て、ベルゼブブは彼が嘘をつこうとしていることを知る。
 伊達に暴露を職能としていない。相手が嘘をつこうとしているのかはすぐにわかる。それが、ずっと見つめ続けてきていた愛おしい人だというのならばなおさらだ。
「アザゼル君」
 嘘をつかれるのが嫌だった。どのような言葉が飛び出すのだとしても、愛おしいアザゼルが真に思っている言葉が聞きたかった。
 だから、ベルゼブブは己の職能をつかった。
「気持ち悪いわ。ワシら男やで? 友達と違うかったんかい。きっしょ」
 オブラートに包まれることなく吐き出された言葉は、鋭い刃だ。
 吐き出した本人も顔を青くして、己の口を手で覆っている。職能で引きずり出された言葉とはいえ、言いすぎたと思ったのだろうか。それとも、魔界の中でも上位の力を持つベルゼブブの怒りを恐れたのだろうか。
 そのどちらでも構わなかった。ベルゼブブにとって大切なのは、これ以上ないほど拒絶されたという事実だ。
「……すみません。じいに送らせます」
「あ、あのな。ベーやん」
 弁解しようと手を伸ばしてきたアザゼルを無視して、近くで待機していた執事を呼び出す。
「忘れてくださって結構です。これから、私の近くに近づきたくないというならば……それも結構」
 それだけ言い、ベルゼブブは歩きだす。
 アザゼルと同じ車に乗るのが辛くて、徒歩で帰ることにしたのだ。どうせ、自宅までそう遠くない。
「ベーやん」
「ちゃんとじいに言いつけてあるので、大丈夫ですよ」
 顔を見られたくなくて、アザゼルに背を向けたまま言う。
 仕事のできるじいは、ベルゼブブの感情を察したのかアザゼルを半ば無理矢理車に乗せた。
 エンジン音が耳に入り、ベルゼブブはようやく振り返る。遠く、小さくなっていく車をじっと見つめる。そこに乗っているアザゼルに思いを馳せ、痛む胸に涙を流した。
 踏み出してはいけない一歩を踏み出してしまった自覚はある。誰か。と、いう名の理性が酒で鈍っていたこともわかっている。すべては己の責任だ。それでも、あの無防備な笑みや顔をこれからは見せてくれなくなるであろうことを思うと、涙を流さずにはいられなかった。


END