ベルゼブブとアザゼルは海辺に遊びにきていた。魔界では春夏秋冬の感覚などないが、彼らが仕事へと向かう人間界では夏真っ盛りだった。海へ行きたいと契約者達に言ったところで、それが受け入れられることはない。
 直接の契約者である佐久間には適当に流され、その上司であるアクタベには無言で撲殺される。何というブラック会社なのでしょうか。
 そういう事情があり、二人は故郷である魔界の海へと来ていた。彼らの住む土地から近いとは言えぬ場所にあったが、自前の羽根もあれば、ベルゼブブの車もあった。幸いにも今日は仕事の予定が入っていない。唐突に喚びだされる可能性も無きにしも非ずといったところだが、今のところはそれもない。
「海やー!」
「いやぁ。見事ですね」
 魔界の海は当然のことながら、人間界のものとは違う。禍々しさが溢れ、太陽よりも曇りが似合うような様相だ。人間がこれを見たのならば、気持ちが悪いと称するだろう。悪魔であるアザゼルとベルゼブブにはそれが美しく見える。
 早速海へと走って行ったのはアザゼルだ。一応存在している砂浜へ足を踏み入れたとたん、顔面から倒れこむ。
「……本当に馬鹿、ですね」
 アザゼルの足は山羊のそれだ。一点に体重が集中するため、砂浜のような柔らかな地面では歩きにくい。砂に足を取られ、倒れてしまうことは何の不思議でもない。それに気づかない彼に、ベルゼブブは呆れてため息をつく。
 人間と同じ形の足をしているベルゼブブは悠々とアザゼルの横を通り過ぎていく。手を貸すことなどする気もない。
 不意に態勢が崩れる。
 倒れる直前に足元を見ると、アザゼルが不敵な笑みを浮かべて足を掴んでいた。
「ぶはっ!」
「やーい! ベーやんもアホの仲間入りや!」
 先ほどのアザゼルのごとく、地面に顔から突っ込んだのを見届け、アザゼルは素早く立ち上がる。不安定ではあるが、そんなものは羽根を使ってしまえば解決する問題だ。普段は使わぬ羽根で軽く浮かび、海の方へと逃げていく。
「てめー。いい度胸じゃねぇか!」
 立ち上がったベルゼブブも羽根を羽ばたかせる。飛行能力は彼の方が圧倒的に上だ。自分一人を飛ばすのもやっとなアザゼルと違い、ベルゼブブは彼程度の重さならば二人分は持って飛べると自負している。
 F1並みの速さで迫ってくるベルゼブブに、アザゼルは泣きたい思いだった。いや、実際に泣いた。少々失禁したことも否めない。
「ぎゃああああ!」
「この、糞悪魔が!」
「糞はベーやんやんけ!」
「何ですって!」
 ベルゼブブの渾身の一撃がアザゼルの脳天を直撃する。
 鈍い音と悲鳴を上げた彼は真っ逆さまに落ちていく。高度も低く、下は海なので死ぬことはないだろう。そう思いベルゼブブは口角を上げたままその様子を見下ろしていた。
 一方、海に落ちたアザゼルは焦っていた。彼は泳いだことがなかった。そもそも、あの足で泳げるのかと聞かれると微妙なところである。どうすれば良いのかわからず、必死に手を伸ばしてもがく。水を吸った毛皮は重みを増し、アザゼルを海の底へといざなう。
「……おや」
 そこで始めてベルゼブブは彼の様子に気がついた。
 醜くもがく様子から、彼は泳げないのかと納得する。助けるべきか、放って置くべきか。少なくとももうしばらくは大丈夫だろうと算段をつけ、哀れな悪魔を見下ろしておくことに決めた。
 助けろや! と、アザゼルが心の中で罵倒を浴びせたことは仕方のないことだろう。
「あ、もう……無理」
 限界は唐突に来た。手足が動くのをやめ、海の底へと体が落ちて行く。こんなことで死んでしまうとは思ってもいなかった。もしかすると、グリモアの力で生き長らえたりするのだろうか。海の底で生死を繰りかえすのは辛そうだ。
 海へ沈みきる寸前、ベルゼブブの焦った顔が見えた。いつもは澄ましているその顔が歪んでいるのが見れて、少しだけ心が浮き上がる。しかし体は沈みこむばかりだ。
「アザゼル君!」
 水の中で歪んだ声が聞こえた。潮水が目に染みるので閉じていた目を薄く開けてみる。太陽など存在していないためか、海の中は暗い。上を見上げてみても黒が溢れるばかりだ。その中で、一つだけ違う色が見えた。
 青い色。美しいとは言えぬ色だったが、その色を持った者は美しかった。
 美しい者はアザゼルの手を取り、腰に手を回す。水の抵抗を感じ、上へ向かっていることがわかった。助けてくれたのだろうか。薄く開けた目には金色の長い髪が映っている。
「ぷはっ」
「アザゼル君、大丈夫ですか!」
 空気を肺一杯に吸い込む。鼻に潮水が入り、痛い思いをしたが、それどころではなかった。
「ベーやん見捨てるとか酷い!」
「まさかあれほど早く力尽きるなんて思わなかったんですよ」
 海から手を伸ばしたアザゼルの手をベルゼブブが掴む。引き上げられたアザゼルはようやく潮水からその身を離すことができた。体がべたべたして気持ちが悪いが、生きていて良かったと思わずにはいられない。
 見れば、彼を助けてくれたのであろう女が海から顔を出している。目元は髪で隠れているが、見えている部分だけを見ても美人だとわかる。
「ありがとうなー。姉ちゃんみたいな美人に助けられるとか滅茶苦茶嬉しいわ。
 よかったらワシと――」
「この手を離されたいんですか」
「すいませんでした」
 一瞬、アザゼルを掴んでいる手に力が入る。骨が悲鳴を上げたのは確かだが、それを追求することもできず、気のせいだったということにするしかなかった。
「……馬鹿じゃないの」
 女が口を開く。その声にはどこか聞き覚えがあった。
「あんた達が死ぬのはいいけど、アクタベさんに迷惑かけるのは止めなさいよね」
 この声、アクタベ、そして種族。それらを合致させた結果、二人の悪魔は同じ言葉を叫ぶこととなる。
「アンダイン?!」
「何よ」
 二人は改めて前にいる女を見る。
 言われてみれば面影はある。人間界にいるときの姿と、魔界の姿が違うことくらいは身を持って体験している。だが、この違いは何なのだろうか。見た目だけで言えば、美しいと言っていい。ただ、普段の彼女を知っている二人は顔を歪めた。
「なし」
「何がよ! 誰もあんたなんかに好かれたくないわよ!」
 アザゼルの言葉にアンダインが叫ぶ。
 女は見た目が大事と豪語するアザゼルでも、アンダインの性格を受け入れることはできなかった。
「て言うか、あんた達こんな所で何してるのよ」
「デートですよ」
「えっ」
 答えたのはベルゼブブ。驚いたのはアザゼルだ。
「デ、デート? あれ、ワシとベーやんってそんな関係やっけ?」
「そうですよ」
「あれ? えー? いや」
 穏やかな笑みを向けられたところで、流されたりはしない。流されたら最後な気がした。
「男同士なんて不毛ねー。ま、アクタベさんに色目を使わないならいいけど」
「ちょっ、それでいいんか? なあ! もっと色々あるんとちゃいますの!」
 そんな叫びは広い海に沈んで消えた。


END