魔界にもいわゆる中学校というものは存在している。長い中学校生活も、小学生のときからの友人がいれば退屈なものにはならない。ベルゼブブやアザゼル、そして彼らの友人であるモロクはそのように考えていた。
 もちろん、現実もそのように流れて行った。
「あ、ベーやんとモっさんは先帰っといてや」
「何か用事でも?」
「そんな感じや。悪いなぁ」
「お前、最近いつもそれだな」
 三人はよく一緒に下校していたのだが、ここ最近はアザゼルが抜けることが多かった。最もよく口を動かし、明るいアザゼルが抜けると、二人の間に流れる空気はずいぶんと変わる。その空気が嫌いというわけではないのだが、どちらもアザゼルの騒がしさが懐かしくなるのもまた事実なのだ。
 すまんな、と謝罪をしながら何処かへ向かうアザゼルの背中を二人が見送る。
「……怪しいとは思いませんか」
「近頃のあいつは妙に怪我をしているとは思わんか」
 ベルゼブブとモロクは視線だけあわせ、小さく頷く。
 自分達を放っておくほどの用事とは何なのか。度々目にするガーゼの理由もそこにあるのか。それらを知るためにも、二人はアザゼルを尾行することにした。
「我が一族の職能を使えれば楽だったのでしょうけど」
「一族の代表として育てられているとはいえ、まだグリモアを与えられて無いだろう」
「あなたもね」
 アザゼルの気配を追いながら二人は言葉を交わす。こうやっていると、人間が悪魔の力を借りようとすることにも納得がいってしまう。便利な能力や道具があると知ってしまえば、人も悪魔もそれを使いたくてしかたがなくなるのだ。
 モロクは学校内でも巨体の部類にはいるので、いつか尾行がバレるのではないかと心配していた。だが、それは杞憂に終わる。普段から馬鹿だ、間抜けだと二人はアザゼルのことを罵っていたが、この状況に置いてその馬鹿さと間抜けさに感謝する。
「ふむ。アザゼル君のことですから、女関係かと思ったのですが……」
「あいつの顔を見るかぎり、そうではないだろうな」
 目的の場所に近づいているのかどうか、ベルゼブブ達にはわからないが、アザゼルの顔色はだんだんと悪くなっていっていた。二人の心配を他所に、アザゼルは体育館倉庫の扉の前に立つ。顔色は相変わらずだが、瞳は腹を括ったかのように鋭い。
 何が起こるのだろう。隠れながら二人は固唾を飲み込む。
「またしょーもない手紙入れよって。きたったやんから開けろや」
 アザゼルが扉を叩く。すると、軋んだ音を立てながら倉庫の扉が開いた。
 中にいたのは、この中学校で何度か見かけたことがある不良共だ。招かれたアザゼルは黙って倉庫の中へと足を踏み入れる。暗い倉庫の中に彼らが入っていくと、再び扉は音をたてながらその中を隠す。
「どう思います」
 ベルゼブブとモロクは物陰から姿を現し、扉の前に立つ。扉は思ったよりも薄いらしく、耳をすませば中の声や音が聞こえてくる。
「こんな色気もクソもないラブレター贈られたって嬉しくもなんともないっちゅーねん」
「こっちもてめぇなんぞに手紙を出したかねぇんだよ」
「お前がいっつもベルゼブブの坊ちゃんやモロクといるから、こういう手を使わなきゃなんねーんだよ」
「あいつらに守られててよかったでちゅねー」
「誰が守ってもらっとるや! ワシはあいつらに守ってもらわなあかんほど弱ないっちゅうねん」
「のわりに、いっつもオレらにボコられて終わってるじゃねーか」
「うるさいわ! 多勢に無勢っちゅー言葉知らんのかい」
「オレらだってよー。弱い弱いお前をボコボコにするのは気が引けるんだぜ?」
「だから、誰が弱いんや!」
「だからさ、ベルゼブブかモロク、どっちかでいいから弱味の一つ教えてくれりゃあいいんだよ」
「人の話聞けや!」
「お前がな。ほら、早く吐かないと、今日もボコボコにされちまうぞ」
「知るか。あいつらの弱味なんか知っとるわけないやろ」
「そうかい」
「んじゃ、今日もお仕置きコースけってーい」
 楽しそうな声だ。ベルゼブブは顔をしかめる。
「……ベルゼブブ」
「わかっていますよ」
 今の会話を聞くだけで全てがわかる。アザゼルは二人を庇っているのだ。その結果、あの不良共に暴行を受けている。ベルゼブブもモロクも、自分に弱味があるとは思っていない。アザゼルが二人の弱味を知らないというのは本当だろう。しかし、二人を人気のないところに呼び出すなどして、生贄に差し出せばアザゼルは助かるのだ。
 けれど、アザゼルはそれをしない。今も倉庫の中から殴られる音が聞こえてくる。
 中で行われているのは喧嘩ではない。一方的なものだ。中から聞こえてくるのはアザゼルのうめき声と、不良共の下種な笑い声だけだ。
 人を殴る重い音に混じって、ノックの軽い音が響いた。一瞬、倉庫内が静まりかえる。
 ノックした者は中からの返事を待たず、扉を開けた。軋んだ音は地獄への門を開けるときのそれとよく似ていた。
「おや、奇遇ですねアザゼル君」
「……な、んで」
 信じられない者を見るような目を向ける。アザゼルの視線とベルゼブブの視線が交差する。途端に、ベルゼブブは苛立ったような顔つきになった。思わず体を振るわせたのは不良共だけでなく、彼らに押さえつけられ、大量の痣を作っているアザゼルもだった。
「大丈夫か。アザゼル」
「モっさんまで……」
 不良共は二人の姿を視界に入れ、アザゼルを押さえつけていた手を離して後ずさる。
「モっさん。私、気づきましたよ」
 口元だけに、極上の笑みを浮かべてベルゼブブは言う。
「私の弱味」
 その瞳は修羅のようだった。
 邪魔をするのも悪いだろうと悟ったモロクは、立ち上がる力も残っていないのか、倒れたままのアザゼルを抱き起こす。
「先に行っているぞ」
「どうぞ」
 アザゼルを抱え、倉庫を出る。扉はしっかりと閉めた。助けて、という救いを求める声が聞こえたような気もしたが、それに耳を貸す者は誰一人としていない。しばらくすると、断末魔のような叫び声が廊下にまで響いてきた。
「……ベーやん怒らせたら怖いなぁ」
「そうだな」
 とりあえず、ベルゼブブが納得するまでの間は待たなければならない。モロクはアザゼルを視界に移す。
 すっかりいつも通りの笑みを浮かべているが、その体には驚くべきほど多くの傷痕がある。いくら悪魔の治癒力が高いとはいっても、これはニ、三日では治らないだろう。
「保健室にでも行くか」
「えー。保健の先生美人ちゃうし嫌やー」
「それ以上重傷になりたいのか?」
「すんませんでした」
 我が侭を通そうとすれば、間違いなくモロクにへし折られるだろう。アザゼルは素直に保健室へと連れていかれることにした。
 保健室でも呆れられ、それなりの治療を受ける。保険医は美人ではなかったが、中々に楽しい人物だったので、ベルゼブブを待つ時間は苦痛にはならなかった。
「こちらでしたか」
「おーベーやん遅かったなぁ――ってどうしたん!」
 保健室へやって来たベルゼブブの姿は、血まみれだった。いつもの青いスーツが赤く見えるほどの血だ。
 血が苦手なアザゼルは、その姿を目に映しただけで貧血を起こしそうになる。
「ああ。大丈夫ですよ。返り血ですから」
 何度も殴られ、憎しみの感情を向けていたアザゼルではあるが、これほどの血を流したのかと思うと同情の念さえわいてくる。
「とりあえず、これで拭きなさい」
 保険医から手渡されたタオルで顔や手、服に付着した血を拭っていく。渡されたときは真っ白であったタオルも、すっかり赤く染まってしまう。
「さて、すっかり遅くなってしまいましたね。帰りましょうか」
 服に染み込んだ血は拭いきれていないが、当初の姿と比べればずいぶんとマシになったベルゼブブが言う。モロクもアザゼルもそれに賛成して保健室を出る。いつもならばすでに家についている時間だった。
「ベーやんものっそい怖かったわー。何であんな怒っとったん?」
「お前、鈍いな」
「え? ワシの性感帯は超敏感やで!」
「馬鹿ですねぇ……」
 いつもの帰り道を、こうして三人で歩くのは久しぶりだった。
「そういや、ベーやんの弱味って何なん?」
「知りたいですか?」
「メッチャ知りたい!」
 尻尾を左右に揺らしながら、アザゼルが身を乗り出す。
「教えませんよ。アザゼル君に話したら、魔界中に広まりそうですしね」
「えー。ワシ、そんなに信用ないん?」
「はい」
「うっわ。傷つくわー」
 モロクは小さく笑う。どうやら、ベルゼブブの弱味を知っているのは自分一人のようだ。
「アザゼル君」
「ん?」
「……何でもないですよ」
「変なベーやん」
 彼の唯一無二の弱味は、今も隣にいる男だ。


END