アホで、小物臭しかしなくて、力もない。そんな男だった。
 まだ物知らずで、他人の力を頼ることしか頭になかった頃のエミーゼルは、それでも彼を頼っていた部分があった。父親に認めてもらうため、反逆者を討伐するのに彼の知恵と力を借りた。
 エミーゼルは、彼の持つ獄長という権力を過信し過ぎていたのだ。時間が経ち、精神的な成長を遂げた後、エミーゼルは彼のことを他のメンバーと同じく、アホなのだと認識した。そのとき、彼を頼っていたときのことは黒歴史として、記憶の奥底に封印してやった。
 今となっては、誰も当時のことを口にはしない。それこそがエミーゼルの成長の証ともいえるだろう。
 彼が、アクターレが、魔界大統領になったとき、あんな悪魔がこの魔界を支配することに前大統領の息子であるエミーゼルは胃が痛くなった。どうせならば、すぐにでも父が再び政権を握ってくれればと願ったほどだ。ヴァルバトーゼでもいい。この際、あのアホ以外なら! と、思わず天に祈りを捧げそうになったほどだ。
 彼が自称するダークヒーローなど、彼お得意のしょうもない嘘だとして認識していた。彼にカリスマ性ななどあるはずがなく、彼がカリスマを口にする度、鼻で笑った。魔界をアクターレ色に染めるなど無理だと呆れていた。そんなことは、奇跡でも起こらない限り無理だとあざ笑っていた。例外として、地獄に一人、彼を尊敬する悪魔がいたが、あれは特殊すぎる。
 ヴァルバトーゼやフェンリッヒを始めとして、ネモに立ち向かったエミーゼルの仲間達も似たような反応だった。
 けれど、全てが終わり、全く別の場所からやってくる者達と触れあい、自身もヴァルバトーゼ達とは別行動をすることが多くなった現在、エミーゼルはあの悪魔があながち特殊ではなかったのかもしれないと、思い始めている。
「アクターレ様ー」
「ん?」
「ねぇ、キミの権限でさぁ、ヴァルバトーゼにボクをもっと虐めるように言ってくれない〜?」
「うお! そんなもん知るかー!」
 今日も今日とて、大統領の仕事をしているとは思えないアクターレは大広場でギターをかきならしていた。その周りにはピンクや主役Bが集まっている。散歩の途中、その風景を見つけてしまったエミーゼルは、少し遠くからその様子を眺めてい。
 困ったような顔をしながらも、アクターレは楽しそうだ。勿論、彼の隣に寄りそうようにいる二人も同様だ。魔界に異変が起きていた日々のような奇跡でも起こらない限り、このような光景を見ることになるとは思いもしなかった。その幸福そうな光景に胸の奥が疼いた。じわり。と、熱を持つような感覚は、今までにないようなものだ。
 締まりのない顔で笑いながら、ピンクや主役Bと言葉を交わしている彼を見るのは嫌だった。自分の知っているアクターレではないような気がしてしまう。そこにいるアクターレが、他人のように思えてしまう。
「あ! 坊ちゃん! 何してるんですか?」
 ぼんやりとしていると、アクターレが声をあげた。
 どうやらこちらに気がついたようで、笑顔のままこちらへ足を進めてくる。普段ならば、彼が近づいてきたとしても無視しただろう。そもそも、彼をじっと見つめるなど普段ならばとうていありえないことだ。
 しかし、今日はアクターレを見ていたし、足は全く動かない。まるで呪いにでもかけられたかのようだった。
「どうしたんですか? 体調でも悪いんですか?」
 慣れた動作で、アクターレは膝を折り、エミーゼルと目線をあわせる。
 思えば、彼が獄長として働いていた頃から、これは自然と行われていた。今さらになって気づいた自分の観察力のなさを、エミーゼルは情けなく思う。
「べ、別に」
「んー?」
 首を傾げたアクターレは、心配そうに手を伸ばしてきた。
 驚き、エミーゼルは思わず体を退こうとしたが、アクターレが彼の腕を掴み、それを許さない。腕を掴んでいる方とは逆の手がエミーゼルに近づく。何をされるのかわからず、彼は思わず目を閉じた。
「熱はないみたいですねぇ」
 額に違和感を感じた。
 そっと目を開けると、先ほどと変わらぬアクターレの顔がある。彼の片手はエミーゼルの額に伸びていた。
「だから! 別に体調が悪いわけじゃないって言ってるだろ!」
 アクターレの行動の意味を理解したエミーゼルは、腕を振り払う。
「キミは相変わらず子供に甘いね」
 距離を取ったエミーゼルの耳に届いたのは、主役Bの声だ。近頃、アクターレの周りでよく聞くようになった声はどれもこれもエミーゼルの神経を逆撫でする。出会った当初からアクターレの隣にいたピンクの声も、最近では以前よりもずっと甘ったるく聞こえて気分が悪い。
 そんなエミーゼルだ。主役Bの声を聞いて、不機嫌にならないわけがない。しかし、アホのアクターレがそんな感情の機微に気づくはずもない。
「置いてきた弟を思い出すんだよ」
 彼が家族愛に溢れていると知ったのは、これまたつい最近だ。
 アホで、姑息で、媚を売ることしかできないはずのアクターレが、兄弟のためならば体を張るのだと、エミーゼル達に見せつけてきたのだ。それを知ってしまえば、自然に折られた膝のわけも、未だに自分に媚を売ってくるわけも、察しがついてしまった。
「ボクは……お前の弟じゃない!」
 怒声を一つあげ、アクターレの反応も見ずに駆けだす。一分一秒も同じ空間にいたくない。
 まるで特別扱いしているような穏やかな目の色は、子供に向けられるソレなのだともう知っている。時々ではあるが、真面目な顔をして行動をすることがあることを知っているのは、今やエミーゼルだけではない。
「何なんだ!」
 走りながら、エミーゼルは胸を抑えた。
 奥底がじくじくと痛みを持つ。目頭が熱くなり、今にも涙が零れてくるのではないかと不安になる。こんな風に自分の感情に怯えるのは、もう卒業したはずだったのに。
「……ちくしょう」
 人気のないところで足を止め、ポツリと呟く。
「何だよ、コレは」
 走ったがための動悸ではない。激しく脈打つ心臓に、エミーゼルはうなだれる。
 これではまるで、フーカ達が嬉々として話しているつまらない感情のようだ。
「坊ちゃん」
「え?」
 背後から聞こえた声に振り返れば、額に汗を浮かべたアクターレが立っていた。どうやら彼一人のようで、ピンクも主役Bもいない。
「もー。突然走り出すからビックリしちゃいましたよ」
「何追いかけてきてんだよ!」
 アクターレは笑顔を浮かべて、エミーゼルの前に膝をつく。しっかりと合わせられた目に、思わず目線をそらしてしまった。
「オレ様は、坊ちゃんのことを弟だなんて思ったことないですよ?」
 柔らかい声に、横目でアクターレを見た。
 いつものアホっぽい顔ではなく、本当に時々、見せるような真剣な顔をしている。その顔を目に映すと、エミーゼルの心臓はやはり激しく脈打った。
「なら、何でボクに付きまとうんだよ……。
 ボクはもう大統領の息子でもなんでもないぞ」
「だって、坊ちゃんはお父様のことが大好きでしょ?」
「はぁ?」
 質問の答えになっていない。
 思わずエミーゼルがアクターレの方を向いた。
「悪魔では珍しいじゃないですか。家族を大事にするって。
 オレ様も、よく変わってるって言われますもん。あ、それはそれで他人と違うってことなんでいいんですけどねー」
 家族を思うアクターレは、同じように家族を思う悪魔に優しくしたくなるようだ。それも、弟を彷彿とさせるような年齢の者ならばなおさら。と、いったところだろう。
 どうやら弟のようには思われていなかったようだが、それでも似たようなものだ。エミーゼルの気持ちが浮上するはずもない。
「そんなに、家族が大切なら……帰れよ」
 こんな簡単な言葉を喉から出すのが、何故か辛かった。胃から何かが湧き出てくるのではないかと思うほどの苦痛だ。
 目の前にいる男が、そうですね。と、言ったら、自分はどうなるのだろうか。エミーゼルにはわからない。服をギュッと握る。
「ダメですよ。まだこの魔界をオレ様色に染め上げていないですからね」
「……そんなの、奇跡でも起こらない限り無理だよ」
 そう言ってから、ハッとする。
 アクターレが尊敬されるなど、好かれるなど、それこそ奇跡でも起こらなければ無理だと思っていた。だが、現実はそんなものはあっさりと起きてしまった。ならば、この魔界全土が、アクターレ色に染まるということも、不可能ではないのかもしれない。
 魔界が一色に染まったとき、アクターレは何の未練もなく去っていくだろう。そんな姿は容易に想像できた。
 ファンに惜しまれることに快感を覚え、嬉しげに、楽しげに、この魔界から消えるのだろう。
「ふふふーん。坊ちゃんはまだまだオレ様の魅力に気づいていないんですよ。
 きっとオレ様のことをもっとよく知れば、オレ様色に魔界を染め上げることの容易さがわかりますよ」
「――バーカ」
 これ以上の魅力を見せつけられても困る。エミーゼルの心の内に、自然をわきでた言葉だった。
 そして、理解した。
「その前にボクが魔界大統領になってやるよ」
 これは、やはり恋だ。
「なあアクターレ」
「何ですか?」
 何も知らないアホに尋ねてみる。
「大統領が、自分勝手な感情で、悪魔を捕らえようとしたら、お前はどう思う?」
「とっても悪魔的でいいんじゃないですか?」
 ヴァルバトーゼのような高潔さを持っている男ではない。
 最後に立っているためならば、どのような行為でもやってのけてしまうタイプの男だ。
「そうか。その言葉、忘れるなよ」
「え? はい?」
 アクターレがそれを肯定するならば、その事象が己の身に降りかかったとしても、文句を言うのは許さない。
「よーし。一刻も早くお前を魔界大統領の座から引きずり降ろすぞー!」
「ちょっ。坊ちゃん。そんなに堂々と……」
 縛りつけるのが悪魔らしいと言うのならば、それをそのままやってやる。
 エミーゼルは、実に悪魔らしい笑みを浮かべた。

END