久々の休日をフィアンセと共に過ごしていた。
 天気がいいのだから、外へ出ようと言ったのは彼女の方だった。
「やっぱり気持ちいいわね」
「そうだな」
 心地よさ気に目を細めている彼女を見るのは幸せだった。平凡ではあるが、十年間ずっと求めていたものだ。孤独の十年間と、独房の十年間。そのどれもが辛かった。今の状態が奇跡のように感じる。
 幸せを味わっていたヨミエルの前に、一匹の黒猫が現れた。首には赤いスカーフが巻かれている。ヨミエルはいつまで経っても子猫のままの黒猫を呼んだ。
「シセル」
 同じ名前である彼女は、自分が呼ばれているわけではないと知りつつもヨミエルの方を見た。視線をたどり、黒猫を見つけると彼女は嬉しそうに笑う。けれど、黒猫の方は不機嫌そうに尻尾を揺らす。
「尻尾を振ってるわ。可愛いわね」
 彼女は尻尾の揺れを喜びの表現だと思っているらしく、先ほどよりも嬉しそうに頬を緩ませる。違うのだとは告げなかった。黒猫も伸ばされた手を黙って受け入れていた。猫のシセルは小さく鳴く。おそらくはヨミエルに文句を言っているのだろう。
 コアをつなげれば会話ができるが、目の前の猫はそれをしようとはしない。
 気侭なだけなのか、ヨミエルにアシタールのことを思い出させたくないのか。本当のことを知っているのは彼だけだ。
「オレの愛するシセル」
 彼女に声をかけると、花のような笑顔が返ってくる。それにしても本当によく笑う人だ。ヨミエルは彼女のそんなところを愛していた。いや、愛していない部分などなかった。
 黒猫をそっと地面におろし、ヨミエルの方へ歩み寄る。おろされた猫はその様子をじっと見た後、どこかへ消えた。
「どうしたの?」
「いや、私の方を見て欲しくてね」
 照れながらも言葉を紡げば、彼女の頬は赤く染まる。恥ずかしげに両手で頬を抑える姿もまた愛らしい。
 こんな幸せを夢見ていた。今が夢だとしても、ヨミエルは笑えるだろう。
 この夢を心に置くだけで、生きていける。海の底へ沈むような不安にも立ち向かえるだろう。しかし、傍らにいる彼女は夢の産物ではない。確かな現実だ。生きて笑い、言葉を交わすことができる。
 不意に叫びたくなるときがある。この幸せを世界に伝えたくなる。間違いなく、この世で一番幸せなのは私だと主張したい。
「もう。どうしたのよ急に」
 頬を染めながら笑う彼女を見て、さらに幸せを味わう。ヨミエルはサングラスの向こう側で目をそっと閉じた。
 耳の奥では猫の鳴き声が聞こえる。子猫特有の鳴き声と、大人になった猫の鳴き声の両方が聞こえた。それらはヨミエルの耳から離れない。目蓋の内側に見える思い出も消えることはない。
 依存するかのように一匹の黒猫を愛した。死んだ彼女の代わりに愛でた。
 辛く、虚しい時間だった。
「愛してるよ」
 目を開けて、彼女へ告げる。
 彼女は先ほどよりも頬を赤く染め、走り去る。
「今日のヨミエルは変だわ」
 少し離れた場所から言葉が紡がれた。
 ヨミエルも今日の自分がいつもと違うことくらいわかっていた。感傷的になってしまったのだろう。
「そうだな」
 十年間を共にした黒猫は自らが起こした行動によって命を落とした。彼は今の幸せを運んできてくれた。どこかの国では、黒猫が幸運を運んでくると言われているらしい。
「…………」
 微笑みを消した彼女が再び近づいてくる。怒らしてしまっただろうかと思うが、何を言えば怒りが収まるのかがわからない。ただ眉を下げて彼女の動向を見ているしかできなかった。黙っていると、彼女の手が顔に伸ばされた。
「……しへる?」
 彼女はヨミエルの口端を指で上げていた。
「笑ってよ」
 そう言う彼女はお手本を見せるように笑っている。
 細い指で口を上げられたままシセルは彼女を見る。
「ああ」
 お手本に倣うように笑った。
 彼女はヨミエルの笑みを見て満足そうな顔をする。やはり幸せだ。
 この幸せだけは手放してはいけない。光を運んできてくれた黒猫のためにも。
「アイスでも食べようか」
「本当?」
 アイス屋へ向かって足を進める。
 これから何をしようか。アイスを食べて、散歩をして、手を繋いだり、好きだと伝えたり。できることは無限にある。


END