大谷は蝶が好きだった。
ゆえに、家紋に描かれた蝶をこよなく愛した。家紋に相応しい人物になろうと思っていた。
「大谷様は、真に蝶のように優雅でございますな」
そう言われると、世辞はよせ。と、言いつつも悪い気はしなかった。他の何に例えられるよりも、蝶に例えられることが嬉しかった。女のようだと言われていたのも知っているが、それはあの優美さをわからぬ阿呆共の言うことだと捨て置いた。それどころか、彼らを哀れだとさえ思った。同情もした。
蝶は美しい。
様々な色の羽根、それをはためかせ花に引き寄せられる。だが、この世のどんな花も、蝶には勝らない。どのような形状をしていようとも、どのような色をしていようとも、空を自由に飛ぶ蝶に敵いはしない。
そっと花にとまる姿は幻想的としか言いようがない。時折、開花したての花のような幻想さだと人が言うが、大谷から言わせればそれは逆だ。開花したての柔らかい花が、そっと花にとまる蝶のように幻想てきなのだ。
大谷は自身が纏う服や袴にも蝶をあしらえた。けっして目立たず、けれども埋もれることのない刺繍だ。
「そうよ。花より蝶よ」
彼は一人笑う。
蝶が花に引き寄せられるのは間違いだ。花が蝶に引き寄せられるべきなのだ。もっとも、植物にそれを言うのは無体だとわかってはいたが。
大谷は、二度、己は蝶になれないと悟ったことがある。
一度目は秀吉に仕え始めた頃、佐吉という小姓と出会い、仕事をするようになったときだ。
「紀ノ助? どうした。具合でも悪いか」
「いや、何でもない。ほれ、仕事を終わらせよう」
秀吉を妄信し、彼方のためならば死をも厭わないであろう若者は、いつもその瞳に光を宿していた。大谷は彼に惹かれた。人が地面に足をつけて生活しているように、昼の空が青いように、蝶が美しいように。それは至極当然に大谷の体に馴染んだ。
時に苛烈とも言える佐吉の姿を目に映しながら、彼のためならば己は何でもするだろうと知る。
「主は、ほんに太閤のことを尊敬していやるな」
「当然だ! 貴様はそうではないのか」
「いや、我も尊敬しておる。だがな、半兵衛様と主以上に太閤を見ている者もおるまい」
そんな話をしたのは、二人が元服して間もなくだった。紀ノ助と呼ばれていた大谷は吉継と名を代え、佐吉と呼ばれていた少年は三成という名の青年へと成長していた。
「私など、半兵衛様の足元にも及びはしない。
……だが、秀吉様以上のお方を見たことがない」
「さようか」
そして続けられる秀吉への賛美。
大谷はそれをじっと聞いていた。それが楽しかった。内容はほぼ毎日聞いているような事柄だったが、三成の口から言葉が紡がれているというのが、この上なく甘美で、心地良い感覚を呼び起こす。
幸福とは、このような時間を指すのだろう。大谷は目を細める。すると、三成は唐突に話を変えた。
「刑部、貴様は本当に蝶が好きだな」
「そうよな。蝶は美しい」
どうやら、大谷の羽織に刺繍させていた蝶が目に止まったらしい。
大谷は胸の辺りに描かれているそれを、そっと指でなぞる。今でも蝶は好きだった。三成の次に美しく、優美だ。大谷は三成を蝶と称することはなかった。蝶というには苛烈さがある男であったし、ゆるりと動かない男だった。
戦場を駆ける三成は、馬を思わせる。平然と血水を浴びて帰ってくる姿は般若か。
「美しかろ? 蝶は人の魂を運ぶとも言われていやる。
万が一、主が戦で果てることがあれば、我が主の魂を黄泉にまで運んでやろ」
「それでは貴様も死んでしまうではないか」
眉間にしわを寄せて言う。
「良い良い。主と共にあろ」
「……死ぬことは許さない」
「主が死なぬというのであれば、我も死なぬ」
「そうか」
三成がいない世で生きていく自信がなかった。大谷にとって、三成は光だ。それに向かってどこまでも飛ぶ様は、蛾のようにも思える。蝶に憧れていたというのに、行きついた先は蛾だったと大谷は小さく笑う。けれど、嫌ではなかった。三成を見ていられるのならば、蛾でも何でもよかった。
「貴様には蝶がよく似合う」
「嬉しや。嬉しや。主にそう言って貰えるとは……。我も果報者よな」
世辞を言わぬ三成の言葉だ。疑う余地などない。大谷は言葉を素直に受け取り、素直に喜ぶ。
「主はどのような蝶が好みよ。白か? 黄か? それとも――」
「私は物の美醜には疎い」
好きな蝶を一つ一つ思い浮かべながら言葉を紡いでいると、三成が憮然とした表情で口を挟んできた。その目はただ真っ直ぐ大谷を映している。
「私は、貴様が纏っている蝶だけが美しいと感じる。そして、それを纏う貴様自身もまた、美しい」
「……我を口説いてどうしやる」
「本心だ」
わかっている。だからこそ、性質が悪い。
三成もいずれは子を作らねばならない。それがわからない大谷ではない。第一、彼は三成を好いてはいたが、夫婦のような関係になりたいとは思っていない。ただ見守り、寄り添っていられれば満足なのだ。
「まあ、主が良いのならば、それも良かろ」
零した言葉は嘘ではない。
夫婦になりたいとは思っていないが、それを三成が望むのならば。大谷はそれを叶えるつもりだ。
そんな幸せにも、終わりはやってくる。
大谷が己では蝶にはなれないと二度目に悟るときがやってきた。
「刑部。刑部。刑部。ここを開けろ。私に姿を見せろ」
「来やるな」
病を得た。
「前世からの業」と呼ばれる何かが大谷の体を蝕んだ。
肌に発疹ができ、膿が溜まり、それは熱を持つ。時折膿は弾け、嫌な臭いを撒く。何度も何度もそれを繰りかえした肌はいびつな形になった。また、所々は爛れ、もはやそれが皮なのか肉なのかすらもわからない。
熱と痛みに浮かされ、夜もまともに眠れなくなった。眠りが不足した体は弱り、別の病につけこまれる。別の病に体が向けば、業が広がる。悪循環でしかない。
大谷が病を発症したとき、三成は遠征に出ていた。彼が帰ってくるころには、大谷は自身でもわかるほど変わってしまっていた。
誰に蔑まれようとも、疎まれようとも、指をさされようともよかったが、三成だけには、そうされたくなかった。
「刑部。死ぬな。死ぬことは許さない。私が生きている限り、貴様も死なぬと言ったはずだ」
障子一枚を隔てて、三成が言葉を零す。
大谷が病を得たことも、その症状がどのようなものかも、全て三成には伝わっているはずだ。だというのに、こうして自室へ足を運び、言葉を零してくれることが、大谷は嬉しかった。泣きそうなくらい、嬉しかったのだ。
「もう、我には構いやるな……」
この病は体の機能を徐々に蝕んでいくという。手足、目、耳、舌、鼻。全てが失われていくのだ。
「刑部。刑部。刑部」
「みつなり」
地面に足をつけて歩くこともできなくなる己は、一体何なのだろうか。大谷はぼんやりと考える。ふと、見れば、どこからか小さな蝶が入り込んでいた。
ゆらりゆらりと舞い、そっと机にとまる。その姿は相変わらず美しい。かつては憧れていたものだ。もう、二度とそんな夢を見ることすら適わない。
大谷は小さく笑う。
「アァ、そうか。我は虫であったか」
蝶でもなく、蛾でもない。ただ、地を這うだけの虫だった。
了