オレはずっと兄者が好きだった。断っておくが、オレの性癖は至ってノーマルだ。この「好き」は、恋愛感情ではなく、一人の人間として、そして、オレの双子の兄としての「好き」だ。正確に言えば「好き」ではなく「好きだった」だ。過去形であり、現在進行形ではない。
昔の兄者、中学に入学してしばらくしてからよりも前の兄者は、とても優しかった。頭がよくて、運動もできて、それでも威張ったりしない兄だった。
兄者がそういう風だった頃のオレは、劣等生とまではいかずとも、双子の兄の優秀さからは信じられないほど、平凡で暗かった。親戚や友人達からも、兄者と比べられては馬鹿にされていた。すると、オレはますます卑屈になっていく。そんな悪循環がぐるぐるとずっと続いていた。
そんなオレにも、兄者は優しかった。兄者だけは、いつもオレ側に立ってくれていた。
「オレはお前になれない。お前はオレになれない。
それでいいじゃないか。オレがお前で、お前がオレだったら独りぼっちになっちまうだろ」
落ち込んでいるオレを兄者は励ましてくれた。兄者は周りから褒められているのに、見た目が似てるからって、比べられるのは気分が悪い。と、オレ以上に顔をしかめて言ってくれる。オレはそれがすごく嬉しかった。
誰よりも兄者はオレの近くにいて、オレを支えてくれて、オレとは違うけど、もう一人のオレだった。兄者がいるだけで、救われる気さえしていたんだ。
だからオレはずっと兄者の傍にいた。いつの間にか兄者の友達はオレの友達になった。やっぱり兄者とオレを比べてくるやつはいたし、嫌なことだってたくさんあった。でも、優しい兄者に支えられて、オレは少しずつ変わっていった。
頭は平均よりもそこそこ上になった。自信がついたのか、性格も明るくなった。それが、小学校を卒業するかしないかの頃。
そして、この頃から兄者はオレと距離を取り始めていた。いつも上位だった成績も落ちてきて、オレと肩を並べるようになっていた。オレは自分の努力が兄者の才能に追いついたんだと、純粋に喜んでいた。
誰よりも好きだった兄者と対等になれた。そんな気がしたんだ。
なのに、兄者は変わってしまった。
隣の部屋の扉が乱暴に閉じられた音がした。時刻は夜の十時を過ぎている。
「……やっと帰ってきたのか」
中学校デビュー。と、いうには少しばかり時間がかかっていたような気がするが、兄者は中学に入ってから変わってしまった。
授業をサボるようになった。夜遅くまで帰ってこなくなった。学校で問題を起こすようになった。近所の人は、神童と持て囃された勘違い少年の末路だと噂している。端的に言ってしまうなら、オレの双子の兄は不良になった。
オレは明日の予習をしていたノートを閉じ、ベットへもぐりこむ。壁一枚挟んで、兄者も寝ていることだろう。風呂には朝入るのがここ最近のお決まりだ。
今のオレ達は高校生で、同じ学校に通っている。兄者は授業をまともに受けないものの、やはり優秀なようで、受からないと言われていた高校にあっさりと受かってしまった。オレ達は双子なのでそっくりのはずなのだが、兄者が髪の毛を茶色に染め、乱雑に伸ばしているため、入学後はオレ達が兄弟だと知ると驚く人の方が多かった。
「全然違うんだね」
そう言われたのが、兄者には悪いかもしれないが、オレは嬉しかった。
そうだ。オレと兄者は違う。それがこうも明確になったのだ。
「弟者君は兄者君と違って真面目で、優しいよね」
「お前は兄とは違って優等生だな」
「いえ、そんなことないですよ」
笑って対応する。心の底からの笑顔に、周りは一緒になって笑ってくれた。
昔々のオレを知らない人達はオレの近くにやってきた。勉強の苦手な友人にノートを貸し、学年の中でも高い方に入る身長を生かしてバスケ部に入った。練習はきついものがあったが、努力の賜物とでもいうのだろうか。オレは二年生で部の中心的なポジションを手に入れた。
こういうことを幸せと言うのだ。オレは幸せを噛み締めながら眠りにつく。
結論から言えば、オレは今、兄者が好きでない。でも、嫌いだとは思っていない。
兄者がいたからと言って、オレが迷惑を被ったことはない。ただ、母者達に心配をかけるのは良いことだとは思わないがな。
だから、オレは学校で兄者を見かけても何も思わない。頬にガーゼを貼りつけ、オレの方をじっと見ていた兄者に気づいていても、オレは友人達との会話を楽しむことができる。オレは兄者が優秀だって知ってる。こちらにきたければ、簡単にできる人間のはずだ。
それをしないということは、兄者にとってそれが必要ないのか、したくないことなのか。そのどちらかなのだろう。
兄として尊敬する対象ではなくなり、好感を持てる相手ではなくなった。ただそれだけのことで、兄者への思いがマイナスになることはない。
オレはいつものように眠り、朝になれば兄者よりも先に起きて朝食を済ませる。オレが登校する頃に兄者は起きて、風呂に入る。当然、兄者は遅刻ばかりだ。時には学校に来ていないときもあるようだ。
双子のオレ達はクラスが違うので、兄者が登校してきているかはわからない。ただ、一度も学校で見かけないと、ああ、今日はサボったんだな。と、思う程度だ。
「弟者君」
「ちょっと聞きたいことが――」
「探したんだぞ」
友人に、先生に頼られるオレは兄者のことを一々構ってはられない。
勉強をして、談笑して、飯を喰って、部活をして、友人達と帰路につく。これはテスト前でもないかぎり繰りかえされるオレの日常だ。
「あ、オレちょっと買い物して帰るから」
「そうか。じゃあまた明日な」
いつも一緒に帰っている奴が自転車にまたがり、別の道を進んで行った。オレは徒歩で学校に通っているので、一緒に買い物に行くという選択肢はなかった。
一人で帰るのは久しぶりだと思いながら、オレは道を進む。部活終わりの空は暗く、ポツポツと申し訳程度に設置されている街灯では辺りを照らしきれていない。もしもオレが女性だったならば、この道は不安かもしれない。だが、オレは男だし、毎日のように通っている道だし、何も恐くはない。
しいて言うならば、言葉を交わす相手がいないので、退屈だということだけが問題だ。
そういえば、兄者は今日も遅くに帰ってきて、風呂にも入らず眠るのだろうか。今日は学校へ来ていないようだったので、家でごろごろしていたのかもしれない。ソファでテレビを眺めたり、していないか。
ここ数年、兄者が家族のいるリビングでテレビを見ているところなど、一度だって確認したことがない。
不良がいる家庭のわりに、オレの家はすさんでいない。母者達も兄者のことを見てみぬフリをしているわけではなく、それでいてきつく言うこともない。この絶妙なバランスを他人に説明するのは難しいが、荒れた家庭よりもずっとマシだ。
「おい兄ちゃん」
後ろからかけられた声に、嫌な予感がしない奴はいないだろ?
「……なんですか」
見知らぬ声を無視するべきか迷った一瞬。後ろから突然殴られても困ると思い、振り返る。
「ちょっとお小遣いくんねぇかなぁ?」
今時、こんなテンプレみたいな奴がいるのかよ! と、いうのは心の声。
家族に不良がいるオレが言うのもなんだが、こんなヤンキーというか、チンピラというか、頭からつま先までテンプレを使用したような奴には中々お目にかかれないだろ。最悪なのは、ここがさっき言ったように、暗い道だってことだ。
こんな道を使う人は少ないので、ここは人目につかない絶好のカツアゲポイント。
「いや、ちょっと持ち合わせがないですね……」
嘘だ。
多くはないが、財布はしっかりと鞄の中に入っている。相手もそんなことはお見通しなようで、ちょっとでもいいと、オレとの距離を詰めてくる。
毎日運動しているので、逃げ足にも筋肉にも自信はある。暗いながらにも見える相手の体格はオレより横に大きい。普通、デブなら足は遅いって考えるだろ? でも、オレは昔の友人に動けるデブがいたから案外足が速い可能性もあると知っている。その友人は、クラスで一番デブだったのに、一番足が速かったんだ。
さて、どうしようか。と、考えながら少し後退する。
っと、何かにぶつかった。
「どこに行くんだ?」
二人組。これは逃げられない。
「いや。ちょっと見たいテレビがありまして」
「おお、じゃあ急いで財布を出さないとな!」
何でそうなった。
実際問題、これはどうしたらいいのだろうか。
渡さなければ、無理矢理にでも奪いにくるだろう。オレは殴られるのも、蹴られるのも嫌だ。だからといって、財布を渡すのも嫌だ。わがまま何かじゃないぞ。誰だってそうだろ。バイトもしていないオレにとって、財布の中身は大切なものだ。
考えて、考えて、オレは先ほど浮かんだ『逃げられない』という選択肢を消す努力をすることにした。
つまり、走る。
オレの後ろにいた奴の横を抜け、一直線に走る。
「おっと、逃がさねぇよ」
ああ、お前もその類の人間か。
動けるデブという人種か。
あっさりと腕を掴まれたオレは、その勢いのまま後ろに引かれ、しりもちをつかされる結果となったわけだ。さて、これからどうなるかは、数学の問題を解くよりも簡単だ。
「――ッグァ……」
痛ぇ……。
力任せに腹を踏みつけられた。くるとわかっていたので、腹筋に力を入れてたが、そんなもんじゃカバーしきれない痛みだ。
思わず横に転がり腹を守るように丸くなると、まさに袋叩きという風景が完成した。オレはその完成図を見ることはできないが、体の痛みがどれほど完璧にその構図が作られているのかを教えてくる。
もうコイツらはオレを痛めつけるのが楽しくなってる。もうオレに抵抗する気力がないってわかってるくせに、財布を盗ろうとしない。
本当に、ふざけんなよ……。クソが……。
「お、おい! 何してんだよ!」
痛みに歯を食い縛っていると、か細いながらもはっきりとした声が聞こえた。
オレを痛めつけていた足が止まり、オレは何とか顔を上げて声の主を見る。
「ド、ク……オ」
そこに立っていた小柄でヒョロイ男は、中学時代の友人だ。高校は別だが、アイツの家はこの辺りだったはずで、ここにいることはおかしなことではない。
でも、お前ビビリじゃん。なんで、声かけてんだよ。
「んー? 何って、遊んでるんだよ」
「そんな風には、見えない……ですけど」
何で敬語になってんだよ。ビビるくらいなら逃げろよ。関わるなよ。
暗くてよく見えないけどさ、どうせお前、顔面蒼白になってんだろ? わかるよ。そのくらい。筋肉なんて微塵もないお前が殴られたら、骨折するぞ。それじゃすまないかもしれないぞ。
オレを蹴っていた一人がドクオに近づいていく。
ほら、早く逃げろよ。
あ、殴られた。
すぐにダウンしたドクオがこちらに引きずられてくる。
「だ、大丈夫か?」
倒れているオレに声をかけてきているが、それはオレの台詞だよ。
まあ、残念ながら、オレはもう声を出す元気もないんだけどな。
視界の中でドクオがまた殴られる。馬鹿だな。中学時代の友人なんて放っておけばいいのに。
今度、何か奢るわ。ごめんな。
痛みに耐えるオレとドクオ。誰か通りかかれよ。警察に通報しろよ。お前らもとっとと財布盗ってどっかに行けよ。
「てめぇら!」
怒声が耳に届いた。誰かが地面を蹴って、こちらへ駆けてきている音も聞こえた。
誰かが殴られる音がして、それはオレでもドクオでもない。
「何してんだ!」
抑え切れない怒気を振りまいた声が、オレ達を足蹴にしていた奴らを殴っていく。鈍い音と、相手の呻き声がオレの耳にはっきりと届いてくる。
助かったんだ。
「大丈夫かお?」
「おっせーよ……」
オレの隣に膝をついた男に、ドクオが文句を言う。
目を開けたオレは、そこにオレの中での元祖動けるデブ。な、ブーンの姿を確認した。
いつも笑顔が売りの奴なのに、今は不安そうな顔をしている。
「これでも全速力で走ったお」
そうだろうな。お前、息切れてるし、汗ばんでるもんな。
「あり――」
「ぶち殺してやる!」
オレの感謝の言葉を打ち消すような声。それは、先ほどからチンピラ共を楽器に音を奏でている誰かの声だ。でも、オレはその声を知っている。
「そのくらいにしておくお! それ以上やったら、本当に死んじゃうお!」
「うっせ! 殺してやるんだよ!」
ブーンが怒り狂っているソイツを羽交い絞めする。
オレはドクオを見て、ブーンを見て、ソイツを見る。
ひょろっとした長身で、乱雑に伸ばされた髪が街灯に照らされている。
「やめとけお! 兄者!」
そう、ソイツは、間違いなく、オレの双子の兄なわけだ。
「離せ!」
「お、おい兄者……」
ボロボロになったドクオまでが兄者を止めに入る。
「あ、にじゃ……。やめ、とけ」
不良とはいっても、兄者はあまり喧嘩をして警察に厄介になったことはない。こんなところで、記念すべき第一回目を起こして欲しくない。
この場にいる誰よりもか細い声だったが、オレも兄者を止めるために声を絞り出す。
「――弟者」
兄者がこちらを向いた。
ブーンとドクオが兄者を離すと、もうチンピラ共なんてどうでもいいのか、兄者はこっちへきた。
「大丈夫……な、わけないか。病院に行かなきゃいけないかもな。
何か盗られたか? 財布とか、大丈夫か?」
ああ、最近聞いてなかったけど、やっぱり兄者の声だよな。
心配そうで、不安そうで、優しい声だ。
「何も、盗られて、ない……」
「そうか」
「まあ無事で良かったお」
兄者はオレを軽々と背負う。
おお。同じ身長で、運動してる分、オレの方が重いだろうに。……これが、兄っていう生き物か。
「折角だから、家までついていくお」
「折角ってお前なぁ……」
何だかんだと言いながらも、ブーンとドクオも兄者についてきた。
その間に聞かされたのは事の顛末だ。
どうやら、オレが袋叩きにされているのを発見したブーンとドクオは、兄者を連れてくることにしたらしい。オレは全く知らなかったのだが、兄者は今でも二人と連絡を取っているだそうで。
ドクオが少しでもオレのダメージを少なくするために、こちらへやってきて、足の速いブーンが兄者と連絡を取りながらこちらへ誘導してきた。と、いうわけだったらしい。
「悪いな。二人とも」
兄者がオレの代わりに謝ってくれた。
オレは、ちょっと意外だった。
中学の頃から兄者はオレと距離を取ってたから、兄者はオレが嫌いになったんだ。って、思ってた。あんな風に、オレが痛めつけられて怒るなんて、思ってもみなかった。
だから、オレは口が痛いけど頑張って兄者はオレのことを嫌いなんだと思ってたよ。って、言った。そしたら、ブーンとドクオが爆笑しやがった。兄者の耳は赤くなっていた。
「それは違うお」
「兄者は、いつ間で経っても自分と弟者が比べられてるのが嫌だったんだ」
オレが兄者と比べられて、傷ついているのを兄者は知っていた。だから、比べてくる友人や大人が嫌いで、反発して、気づいたら不良になっていたらしい。それと同時に、オレの方が優秀だって言われるようになって、オレが嬉しそうにしてるから、それでいいかって、思ったんだとか……。
おい、何だ。それは。
じゃあ何か。兄者的に、反発していた時期はもう過ぎてて、そろそろ更生したいなー。とか思ってたのかよ。髪の毛も短くして、普通に授業を受けたいとか、思ってたのかよ。
「うーん。まあ、まあまあ、いいじゃないか」
カラカラと笑う兄者の耳を引っ張る。
そんなの納得できるわけがない。兄者は馬鹿だ。何が元神童だ。大馬鹿野郎だ。
「おー。もっと言ってやれ」
「ボクらは何度も言ったんだお。弟者が知ったら怒るって」
「だから、言わずにいたんだろうが!」
恥ずかしいのか、耳を真っ赤にさせながら兄者が声を上げる。
「……兄としては、だな!
弟よ幸せになれ! 以上の願いなんてないんだよ」
そうかい。わかったよ。大馬鹿兄者。
オレはあんたが不良になったって、嫌いにはならなかったよ。だって、オレの兄なんだから。
わかってるだろ? 弟としては、兄が幸せになって欲しいって……まあ五番目くらいには願ってるんだよ。
END