激しい雨が降る。空から叩きつけられるように落ちてくる雨粒は、戦場を思い出させるような音を立てている。落ちてくる雨粒の一つ一つが、銃弾だったらと思ってしまうのは、軍に所属したいた者の悲しい性なのだろうか。
雨雲の中で、一瞬光が走る。
少し遅れて、辺りを響かせる轟音が聞こえてきた。
そんな夜に、一人部屋のベッドの上で丸くなっているのはドルチェットだ。
彼は常人より耳がいい。嗅覚ほどではないが、聴覚も犬に寄っている。普段は便利に思える能力だが、こんな日には自分が犬と合成されたことを恨めしく思わずにはいられない。悔しさに歯を食いしばっていると、また外から音が響いてくる。光と音に思わず目を固く閉じた。
この程度のことで悲鳴を上げるようなみっともないマネはしない。けれど、本能は音に怯える。今すぐここから逃げ出すようにと警報を出す。震える腕を抑え、早く雨雲が過ぎ去ることだけを願う。
そして、また音と光が部屋を征服する。目を閉じることしかできないドルチェットは無力だ。
彼は昔から雷が嫌いだった。どうやたって避けられない早さや、人の目を焼いてしまうような光が嫌いだった。一度、目の前に雷が落ちた時は、恐怖のあまり腰を抜かしてしまったことがある。
犬と合成されてからは、昔よりも音がよく聞こえるようになってしまい、ますます嫌いになった。音は衝撃となり、鼓膜どころか頭蓋骨の中にある脳みそを激しく揺らす。その度に吐き気と、恐怖による鳥肌が全身に立つ。
「あー。マジありえねぇ……」
恐怖を打ち消すために呟いたのだが、声はみっともなく震えていた。自分の情けなさが露呈しただけの結果に、思わず舌打ちをする。
仲間の中には、ドルチェットが雷を嫌っていると知っている者もいるが、知らぬ者も多い。そして、ドルチェットは彼らに己の弱点を教えるつもりはなかった。仲間達を信用していないわけではない。男としてのプライドがあるだけだ。
主にもこのことは告げていない。ただ、犬が大きな音を嫌うことは一般的に広く知られているため、知っていたとしても不思議ではない。だからと言って、弱いところを見せるつもりはないのだが。
苦痛に耐える時間は長い。いつまで経っても時が過ぎる気がしない。
上手く回らない頭の中で、どこか防音が利いている場所。もしくは、外を忘れられるくらいの酒が欲しいと思った。そんなことを願ってみたところで、この辺りに防音が利いた場所など存在せず、酒はあるが勝手に飲めばマーテルや他の小五月蝿い連中に叱られるのは目に見えている。
一時のためだけに、永遠とも思える説教を聞くつもりはない。彼らの説教ときたら、どこにあれほどの語彙が詰まっているのかと思うほど多彩なのだ。
そんなことを考えた結論として、やはり耐えるしかないのだ。ドルチェットは深く息を吸い、吐き出す。酸素を取り込めば、吐き気が少しはマシになるような気がした。
戦場での苦痛に比べれば、人体実験のモルモットにされた絶望に比べれば。雷程度は我慢できて当然だ。自分にそう言い聞かせ、歯を強く食いしばる。無意識にしたそれは、力の加減ができていないため、歯にダメージを与える。ドルチェットはそれに気づかない。気づいたとしても、力を緩めることなどできない。
それほど絶対的な恐怖が彼の体を支配していた。目を閉じているはずなのに、目蓋の裏に映るのは光る雷だ。白くあり、青くあり、紫でもある。人を殺すことのできる光は恐ろしい。抗えない自然はいつでも脅威だった。
「はっ……。はっ……」
呼吸が浅くなる。二の腕を掴む力に力がこもる。知らずに爪を立ててしまい、血が流れた。それでも力は緩まない。
「――あ?」
だが、不意にドルチェットは全身の力をわずかに緩める。
雨や雷の音に紛れることなく、真っ直ぐドルチェットの耳に届いた音がある。それは足音で、ノックもなしに扉が開かれる音でもあった。ドルチェットはその音がどれほど自分を支えてくれていたのかを知っている。彼の傍ならば、どのような恐怖も恐怖ではなくなる。
ただ、それでもシーツから顔を出すことはできなかった。今は彼の前に出せるような顔でないことも、主を差し置いてシーツに包まっている理由の一つだ。
「ドルチェット」
優しい声だった。
彼は頭までシーツに包まっているドルチェットをどんな目でみているのだろうか。少なくとも、呆れた風でないことが彼を安心させる。
「今日はすげぇ雨だな」
まるで世間話をするように言葉を紡ぎ、ベッドに腰かける。安物のスプリングが音をたてた。
「朝が来るころにはやむかねぇ」
返事など求めていないのか、声の主、そしてドルチェット自身の主人グリードは勝手に言葉を続ける。
例えば、明日の話。例えば、昼間の話。例えば、遠い昔の話。励ますでも笑うでもない言葉が酷く心地よく感じた。
グリードの言葉に耳を傾けていると、雷の音を忘れる。目を閉じてグリードの姿を思い浮かべていると、雷の光を忘れる。
気がつけば、歯を食いしばることも止め、ただじっとグリードの言葉を聞いていた。本能的な恐怖よりも、主への忠誠心が上回る。この世のどんなものでも、グリードの声や姿をかき消すことはできない。
そんな当たり前のことに、ドルチェットは安心する。
「人間ってのは不便だよなぁ」
ポツリ、とグリードが零した。シーツの中で、ドルチェットは目を開ける。零れ落ちた言葉がどこか悲しげに聞こえたのだ。
「すぐに死んじまう。すぐにいなくなっちまう」
長い時間を生きてきたグリードは、何人の死を見たのだろうか。それに心を痛めたことがあるのだろうか。今、仲間としてグリードのもとにいるドルチェットも、グリードより脆い。寿命が尽きるのも早いだろう。
忘れがちではあるが、それは絶対的なことだ。また、ドルチェットはそれでいいと思っている。主人のほうが先に死ぬなど、あってはならない。
「だから、せいぜい怯えろ。生きようとしておけ」
恐怖は生きたいと願う意思から生まれる。死を受け入れた者に恐怖は訪れない。
グリードは強い。そして、多少のことでは死にはしない。ゆえに、ドルチェットが怯えれば逃げろと笑うだろう。そうして、一人で戦うのだ。
「――グリードさん」
ドルチェットがシーツから顔を出す。自分がどんな顔をしているかなど、気にならなくなってしまった。
「オレは逃げないですよ」
真っ直ぐグリードの瞳を見る。時折雷の光で彼の顔が見えるが、そのとき以外は何も見えない。けれど、ドルチェットは目をグリードの目を見ていた。
「グリードさんが再生する時間を稼ぎます。グリードさんが逃げる時間を稼ぎます。
逃げるくらいなら、グリードさんのために死にます」
嘘ではない言葉。痛いくらいの忠誠心だ。
グリードは静かに目を伏せ、小さく笑う。
「そーかよ。んじゃ、雷からも守ってくれ」
「ちょっ、何入ってきているんですか!」
「んだよ。文句あんのか?」
「いや、そういう問題じゃ」
「ほれ、早く寝ろ」
狭いベッドに入りながら、グリードはどこか痛む胸を無視した。
そして一つ考えるのだ。
全員が永遠の命を手に入れられたならば、どれほど甘美なことなのだろうかと。
END