闇ばかりの世界に、一筋の光が差し込んだ。
 それは彼の世界を闇に落とした紅と同じ色を持った子供だった。いや、今ならば彼にもわかる。闇を呼んだ紅と、光を呼んだ色は違う色だ。子供の色は赤だ。
 くすんでいるのではない。淡いのだ。薄いのではない。明るいのだ。その赤は美しい。世界で一番美しいと彼は胸を張って主張できる。それは、彼が崇拝してしまうほどの美しさを持っているのだ。
 彼は、それが怖かった。
 復讐を忘れることも、紅を受け継いだ赤を愛することも。ただただ怖かった。
 その焦燥感は日に日に彼の心を蝕んだ。胸は痛み、頭は揺れ、息苦しさだけが彼の周囲にあった。
「ガイー」
 言葉を覚え、字を覚え、歩くことを覚えた赤が、何も知らない顔をして彼に近づく。風に揺られる色はやはり美しく、彼は思わず息をついてしまう。しかし、同時に湧きあがる衝動もあった。
 彼はその衝動を抑えつけ、いつも通りの笑顔を作る。赤が紅の色を強く持っていた頃から、この笑顔は彼の表側に張り付き続けていた。
 今のかれは赤を壊すことも怖いと感じていた。
「どうしたんだ?」
「ひまー」
 屋敷に軟禁されている赤は、いつも退屈している。自分を哀れみ、蔑み、見下す。そんな教師達から逃げ続けていることも、退屈の一原因ではあるが、しかたのないことだろう。彼から見ていても、あの教師達からは逃げ出したくなる気持ちがよく伝わってくるのだ。
 彼の腰に抱きつき、赤は暇を連呼する。美しいその色を撫でれば、赤は満足げに喉を揺らした。
「ガイー」
「はいはい」
 限られた空間で、限られた人数。できることは少ない。赤を撫でながら、彼はぼんやりと考えた。
 絵本を読んだところで、子供扱いをするなと怒られてしまうだろう。このまま撫で続けるというのは大変魅力的なのだが、屋敷の使用人の中でも下っ端といえる彼が、いつまでも主人の頭を撫で続けているわけにもいかない。
「何かおもしろいもんねぇの?」
「うーん」
 彼は眉を下げた。
 趣味で集めている音機関をいくつか思い浮かべてみたが、赤が楽しめそうなものは以前見せてしまっているものばかりだ。
「まあいいや。ガイ。何か話してくれよ」
「そんな突然言われてもなあ……」
「お前の昔話とか、外の話とか、なんでもいいからさぁ」
 無邪気に笑い、昔話を要求する赤が可愛かった。
「そうだな」
 彼は心の底から穏やかな笑みを浮かべ、赤の知らない外の世界について話てやる。彼の過去は赤に聞かせられるものではない。血生臭い話を聞かせるくらいならば、見ることの叶わぬ夢の世界について話してやりたい。
 口から紡がれる真とも嘘とも取れる言葉達に、赤は目を輝かせ、早く成人したいと声を上げる。
「お前が色々案内しろよ!」
「了解いたしました。ご主人様」
 笑いながらも、彼は心の奥底で、お前が外を見ることはないのだと冷たく告げている。
 彼の中には、まだ赤を殺す気持ちが残っている。外を見ることもなく、この閉ざされた空間の中で、息を引き取る赤の姿を夢見る日も少なくはないのだ。
「ガイ」
 赤が揺れる。先端はオレンジになっている美しい色合いだ。
「大好き」
 目を細めて、赤は笑った。
 どこで覚えたのか、とんでもない言葉を生んだ赤は、桃色の頬をしていた。
「ガイは?」
 赤はどこまでも無邪気だ。首を傾げ、彼の気持ちを聞いてくる。
「――オレも、大好きだ」
 彼は赤を抱き締めた。強く、強く抱き締めた。
「ガイ? 痛ぇよ」
 離したくない。
 彼は自分の中に赤を取り込もうとするかのように、腕に力を込める。
 その日の夜、彼は自分の本当の名を知っている老人にだけ、ポツリと決意を零した。
「ペール。オレは、今日復讐を終わらせる」
「ガイラルディア様。よろしいので?」
「ああ」
 彼の瞳は冷たく凍っていた。
 膝の上で強く握り締められた拳だけが、彼の心情を映している。
 これ以上は駄目だと、彼は知ってしまった。この先もあの赤を見ていれば、間違いなく自分は紅も赤も受け入れてしまう。復讐を成し遂げられるギリギリの日が、今日だったのだ。好きだと言われ、胸が躍ったことも、一生手にしていたいと思ったことも、すべて忘れなければならない。
 彼は剣を取った。
 ただし、復讐の方法は当初のものとは違う。
 赤を殺し、紅を苦しめるなど、もはやできない。彼は赤を最後に殺そうと決めていた。静かに眠っている赤を、もしくは騒ぎで起きてしまい怯えている赤を、平穏で闇だけがたゆたう世界に落としてやるのだ。
 それが彼が赤に与えられる最後の優しさだ。
 恐ろしいほど順調に復讐が成し遂げられたのは、こういった日が来るのかもしれないと考え、準備をしていてくれた老人のおかげだ。兵もメイドも殺し、公爵と夫人を殺した。
 驚きに目を見開き、呻いた公爵を見るのは気分がよかった。弱々しくも赤を愛していた夫人を殺すときは、少しだけ胸が痛んだ。
「ルーク」
 彼は愛しい赤の名を零す。
 赤とも紅とも違う、禍々しい鉄錆びの色に服を染め上げた彼は、ゆらりと赤が待つ離れへと向かう。
 部屋の扉をノックする。
「ルーク。オレだ。ガイだ」
「――ガイ?」
 震えた声が聞こえた。
 屋敷の騒ぎに、身を縮こまらせているのだろう。何と哀れな子供なのだろうか。
「そうだ」
「ガイ!」
 縋るような声と同時に、扉が開かれる。
「ガ、イ?」
「そうだよ。ルーク」
 扉の向こう側にいた、鮮血で身を染めてしまっている彼を見て、赤は目を見開く。大きな目が不安定に揺れ、現状を把握するべく、脳が回転しているであろうことがわかる。今までにないほど一生懸命に動いているであろう赤の脳を思い、彼は微笑む。
 その笑みは、赤にどう映ったのだろうか。
「ガイ」
 彼の名を呼ぶことしかしない赤の、悲しみを宿しながらも微笑みを浮かべた表情を瞳に映しながら、彼は手にしていた剣を突き刺した。
 心臓を一突きだ。痛みは一瞬だったはずだし、その証拠とばかりに赤は微笑を浮かべたまま体の力を失った。
「ルーク」
 剣を突き刺したまま、彼は赤を抱き締めた。
 愛おしくて、壊すのが恐ろしかった赤を、とうとう壊してしまった。せめて、愛したこの幼い体だけは離さないでおこうと決めた。
「――え」
 しかし、現実は無常なものだ。
 抱き締めていた赤の体は、色を失い、暖かな光の粒となり始めた。
「何だよ。何だよ……。どういうことなんだよ」
 彼は光を捉えようとするが、それらを手に入れることはできない。
 そうこうしている間にも、赤は色も姿も失っていく。
 彼の知っている人間はこうではなかった。彼の知っている生物は死して光になるなどということはなかった。
「ルーク。ルーク。ルーク!」
 嘆き、叫んだとしても、誰もその声には応えない。
 彼は、赤を失っただけだった。

END