――通りゃんせ、通りゃんせ――
 子供は七つになるまでは神の子供。たくさん生まれ、たくさん帰っていく。
 現在でこそ、子供は生きる。七つを超すこともたやすくなった。けれど、人は死ぬ。病や飢えでなくとも人は死ぬ。
 例えば不注意で、悪意で、偶然で、人は死ぬ。
 ――ここはどこの細道じゃ――
 人は生きるために、様々な知恵を得てきた。それは親から子へと、脈々と受け継がれていくはずだった。無論、今でもそれはなされている部分がある。だが、なされていない部分が大きいことも、また確かなのだ。
 大切に大切にと、箱の中に入れていては、外の世界の恐怖などわかるはずもない。人は誰かを愛するあまり、痛みを持って学ぶことを放棄させてしまった。
「てっちゃん」
 本日の授業も終わり、放課後は何をして遊ぼうかと相談していた三人悪のもとへ、同級生の少年が駆け寄ってきた。三人は子供からの人気はぴか一なので、こうして遊びに誘われることも珍しくない。用事がなければ、誘いを承諾することも多い。むしろ、断ることの方が少ない。何せ彼らはいつでも楽しみを求めているのだから。
 少年の顔を見て、どうしたんだとてつしが尋ねる。
「鎮魂池で泳ごうぜ!」
 彼はとてもいい笑顔をしていた。幼い子供独特の、無邪気な笑みだ。
 季節は夏。綺麗な川でならば遊ぶこともある。近くの川は汚れているが、田舎へ行って川に入ることも多い。
 けれど、彼の言葉を聞いたてつしと良次は体を硬直させた。椎名はいつも通りの冷たい目で遊びに誘ってきた少年を見ていた。
 三人の異様な空気に、何か不味いことを言ったらしいと察した少年は顔を青くしながら後ずさる。三人が誰かを怒鳴りつけたりするのは、本当に危ないことやしてはいけないことをしてしまったときだけだ。そうわかってはいても、人は本能的に恐れてしまう。
「あの池は危ないからやめたほうがいいよ」
 口を開いたのは椎名だった。
 三無いを見事に体現している椎名は、あくまでも淡々事実だけを語っていく。
 鎮魂池というのは、彼らが住む町のはずれにある池だ。林の中にひっそりと存在しているため、夏場でも冷たい水に触れることができる。また、時折釣りをしている人を見かける。三人悪も釣りをする者の一部だ。
 しかし、三人は竜也や三田村巡査がいるときにしかそこへ近づかない。理由は単純だ。先ほど椎名が述べた通り、危ないからだ。
 池がある場所は外からでは見ることができず、何かがあっても気づかれにくい。さらに、見た目は浅く見えるが、実際はかなり深い。土はもろく、一度入ってしまうと上るのに苦労すること間違いなしだ。年上の者とならばともかく、小学生であるてつし達だけで行くには、あまりにも危険な場所なのだ。
「……わかったよ」
 椎名の説明に、少年は頷く。彼にとって、三人悪は絶対だ。教師なんぞよりも、ずっと信頼のできる者として、彼らは上院小学校に君臨している。
「ま、今度ミッたんとか呼んでよ、みんなで遊ぼうぜ!」
「うん!
 あ、オレ、みんなに池に行くのはやめようって言ってくる」
「おー」
 少年はそう言うと、どこかに駆けて行った。どこかで待っている友人のもとへ行ったのだろう。
 いつか勝手に呼ばれることが決まってしまった三田村巡査のことなど、気にもしていない風だった。
「……前、てっちゃん落ちたもんね」
「わー! なんで覚えてるんだよ!」
「忘れられないよー」
 少年が立ち去った後、椎名と良次は笑いながら彼の失敗談を口にした。
 彼らが鎮魂池の恐ろしさをよく知っているのは、身をもって体験したからだ。
 先日、竜也と三人悪の四人で鎮魂池に遊びに行った。しばらくは釣りをしていたのだが、場所を変えようとしたてつしは足を踏み外し、池に落ちてしまったのだ。
 隣で起こった出来事に反応することができなかった椎名と良次を置いて、竜也は迅速に行動した。持っていたタオルを近くの枝に括り、てつしを救出しに向かったのだ。あの時の竜也を見て、椎名達は改めて竜也がてつしを大切にしていることを知った。
「しかし、あれは驚いた……」
 危険なことをしたつもりはない。ふざけていたわけでもない。それでも、時に自然は人間の命を奪いにかかってくるのだ。忘れてはいけないことなのだが、つい忘れがちになることだ。
「まあ、最近は池に近づかせない親も増えてるし、事故が起こることも少ないんじゃない?」
 てつし達の親は彼らが本当に危ないことをしないように教えている。信用もしている。けれど、何故危ないのかを教えることもなく、ただ近づくなと言う親の多いこと。素直な子供はそれに頷くだろう。そうでない子供は頷きながらも好奇心に駆られ、そこへ行くだろう。
 そうして起きた事故は、本当に事故なのだろうか。
 自然の恐ろしさを教えず、知る機会を与えることもしなかった親の責任ではないのか。
「怪我もしなけりゃ死にもしない。いいことじゃねぇか」
「でも、そうやって育った子供が大人になって、親になったらと思うと怖くない?」
 目を細め、口角を上げる。小学生にも関わらず、そういった表情をするときの椎名はひどく大人っぽい。ただ、残念なことに、それに胸を高鳴らせる人間は、もっと言えば気づく人間は一人もいない。
「川や山の恐ろしさを知らねぇ大人、か」
 てつしは考えてみた。
 自分達は川の恐ろしさも、山の恐ろしさも、幽霊の恐ろしさだって知っている。ゆえに、注連縄は容易く破っていいものではないことも、神隠しの話がある山へ入ってはいけないこともわかっている。
 けれど、そんなことをまったく知らない大人ばかりになったら。
「……ちょっと怖いかも」
 呟いたのは良次だった。
 恐ろしさを知らない場所へ、本気で近づいてはならないと教えられるのだろうか。心の底から注意できぬ大人の言葉を、子供が素直に聞き入れるのだろうか。
 杞憂であればいい。
 だが、そうであるとは思えない。
「なんだか心配になってきちまったぜ」
「でも、てっちゃんなら大丈夫でしょ?」
 未来にため息を吐いたてつしに、椎名は美しい笑みを浮かべる。
「てっちゃんなら、怖いことも、楽しいことも、悲しいことも、全部教えてあげられるでしょ」
「……おう」
 信頼が重いなどと言うつもりはない。てつしは、椎名の信頼が、ただ嬉しかった。
「でもさ、最近暑いし、鎮魂池に行こうって考えてる奴は他にもいそうだよねぇ」
 眉を下げ、心配そうに言った良次の言葉に二人は頷く。
「気になるな」
「じゃあ見に行こうよ」
「うん。そうしよう」
 決まったのならば、即実行。三人は風のように走る。
 商店街を駆け抜け、目的地近くまでくる。辺りは木々で木陰が作られているからか、日差しの下にいるよりも涼しい。ひんやりとした風が、走って汗をかいた三人を冷やしていく。
「気持ちいいなぁ」
「うん」
「泳がなくたって、ここにいるだけで十分だよね」
 弾む息を整えながら、ゆっくりと池の方へと歩いていく。
「あ、見えてきたよ」
「――おい、誰かいないか」
 木々の間から池が見える。そして、一瞬、人影が映ったような気がした。
「行くぞ」
 三人は駆け足で池へと近付く。池の周りは少しばかりひらけている。そこに出た三人は、池の淵で自分達よりも幼い少年が遊んでいるのを見た。もしかすると、まだ小学生にもなっていないのかもしれない。
「おい、危ないぞ」
「大丈夫だよー」
 見覚えのない少年で、彼の方も三人のことを知らないようだ。てつしが注意しても、少年は楽しげに池の水に足を入れて楽しんでいる。
「やめろって」
「なんだよ!」
 手を取ろうとしたてつしを少年は強く押した。その反動で、少年の体は後ろに傾く。
「あっ!」
 良次が声を上げる。
 少年の体は、重力に従い、池へと落ちる。
 ――この子の七つのお祝いに――
「リョーチン! 大人を呼んでこい!
 椎名! 服をつなげてロープ代わりにでもしてくれ!」
 二人の返事を聞く前に、てつしは池へ飛び込んだ。泳ぎには自信がある。先日のような愚を犯すつもりはない。そして、目の前でなくなりそうな命を見捨てるつもりなど、毛頭ない。
 良次はてつしが池に飛び込んだ音を聞くと同時に、自分の服を脱いで駆けだした。
 椎名は服を脱ぎ良次とてつしの服とを合わせてロープのようなものを作る。しかし、子供の服では、二人を助けるほどの長さにはならない。
「てっちゃん!」
 とにかく二人を救わなければならない。椎名は服の端を自分で握り、逆をてつしへと向ける。二人を引き揚げられる気はしなかったが、彼も二人を見捨てるつもりなどない。
「椎名! もうちょっとでリョーチンが帰ってくる!」
「うん! わかってるよ!」
 少年がてつしの腕の中で不安げに暴れる。そのため、椎名にかかる負担は大きなものとなってしまう。
「お前ら大丈夫か!」
「ミッタン!」
 良次が連れてきたのは、たまたま辺りを巡回していた三田村巡査だった。彼は良次の話を聞いてすぐに駆けつけてくれた。
「よく頑張ったな。後はオレに任せろ」
 そう言って、三田村巡査は椎名から服を受け取り、てつしと少年を引き揚げる。
「ったく。こんなところに一人でくる奴だあるか!」
 三田村巡査はそう言って、一人で池にきていた少年を叱りつけた。人様の子供だからといって、容赦をするような男ではない。無論、危険を犯したてつしも怒りの拳骨を食らった。
「だ、って……」
 少年は死の恐怖からか、大粒の涙をボロボロと零していた。
「あんな、死んじゃうかも、なんて……」
 誰もが唖然とした。
 幼いからというだけの理由では受け入れることができない。池に落ちたら危ない。おぼれたら死んでしまう。そんな簡単なことすら、彼はわからなかったのだ。
 てつしは思い出す。もしも、この世界の大人すべてが、川や山の恐ろしさを知らずに育ってきたら。
 少年は、そんな大人達に育てられたのだろう。
「……親御さんも、ちゃんとオレが叱ってやる。
 だから、今日はオレと一緒に帰ろう」
 三田村巡査は少年にそう言い、彼と一緒に池から去って行った。姿が見えなくなる前に、三人悪へミッタンと呼ぶなと一つ言葉を投げておくことも忘れない。
「危なかったね」
「今回のことで、この辺りが立ち入り禁止にならなきゃいいんだけどね」
「あー。そういや、公園の遊具もなくなってきてるよな」
「自分の躾が悪いってことを、受け入れられないんだよ」
 三人悪は木の幹に体を預けながらそんな話をした。
 子供は七つまでは神の子だ。すぐに帰ってしまうかもしれない。だが、本当に子を愛しているのならば、神から奪うために、死なせないために、するべきことがあるではないだろうか。


END