いつも通りの日常。
その日、マタタビは大工仕事、クロは縁側で日向ぼっこという、やはりいつもと同じことをしていた。
のんきに寝こけているクロに苛立ちを感じるマタタビであったが、何を言ってもしかたがないと、すでに諦めていた。
「おいキッド、邪魔だ」
手伝わせることなどできないだろうが、せめてその場から移動するぐらいのことはさせようと声をかけてみるが、依然クロは動こうとしない。
ため息をつきつつも、マタタビは作業を再開した。クロがその場にいると邪魔ではあるが作業ができないわけではない。
昔はもっと素直だったのに……と、昔を思い出しながら作業をしていると、意識が反れ、指を切った。
「……っ!」
たいした怪我ではないが、痛みはあった。しかも傷のわりに血が多めに出る。
「マタタビ……?」
マタタビの声に反応したのか、血の匂いに反応したのかわからないが、クロが起き上がった。
「何でもねえよ」
切れた指をくわえながらクロに言うがクロはマタタビの指から目を離さなかった。
赤い血。それはある意味クロのトラウマとなっているもの。
「お前もサイボーグになりゃあ、そんな怪我しなくてもすむのにな」
心の内にある思いを押し殺し、いつものようにクロがニヤリと笑う。
意地悪げなクロの笑みを見たマタタビもクロに負けず劣らずの笑みを見せる。
「拙者は一生生身で生きるさ」
「そんじゃ、オイラには一生勝てねえな」
軽くクロが挑発すれば、マタタビはすぐにのってくる。
そしてせっかく直していた家が破壊されていく。
マタタビの血を見てから、クロは落ち着かない気持ちだった。それは喧嘩が終わってからも変わらなかった。
今までにも何度かマタタビの血を見てきているが、これほどまで気持ちが落ち着かないのは始めてであった。
家を修理しているマタタビの姿を見ると、余計に気持ちは揺さぶられた。
「…………」
何度か口を開いてみるが、何と言えばいいのかわからない。
奇妙なクロの様子に気づいていたマタタビであったが、こちらも何を言えばいいのかわからず、ただ黙っていた。
じーさん、ばーさんが旅行という名の冒険に出ているので、この場には二匹しかいない。
クロは自分の中にある気持ちを持て余していた。
この理解できない気持ちをどうすれば落ち着けることができるのかクロが考えたとき、脳裏に一人の科学者が浮かんだ。
クロの身体を機械じかけにした張本人。第二の産みの親とでもいえる存在。
剛のことを思い出した瞬間、クロは頭の中で何かが切れたような気がした。
「なぁ……マタタビ」
その声には覇気がまったく感じられない。今にもかすんで消えそうな呟きであった。
いつもと違うクロの声にマタタビは先ほどまでクロがいた場所に目をおとした。
しかし、そこにクロの姿はなかった。
「キッ……っ!」
何処へいったのかとクロの昔の名を呼ぼうとしたマタタビの意識が唐突に途切れた。
ことを理解する前に途切れた意思では、己の身に何が起こったのかもわからなかった。
己の後ろに探していた姿があることにも、気づけない。
そろそろ空がオレンジ色に変わるのではないかという時刻。
一般人ならばけっして寄り付かないであろうスクラップ置き場に一つの影がやってきた。
影は二つが一つに重なったもので、一匹の猫が別の猫を背負っている姿であった。
そしてその二匹の猫をスクラップ置き場に住む住人は知っていた。
「クロちゃん! マタタビ君どうかしたの?」
住人の一人、少年科学者コタローが真っ先にクロに気がついて近寄ってきた。
始めはクロの背に背負われているマタタビを心配していたコタローであったが、クロに近づいて、心配するべき人物はマタタビではなくクロなのだと悟った。
瞳が、正気ではない。
思わず一歩後ずさったコタローにクロは目もくれない。黙って先へ進み、ドクター剛が住む家へ入っていく。
コタローはその場から動けずにいたがクロの身に一体何が起きたのかを知るため、懸命に身体を動かした。
「クロちゃん! どうしちゃったの?!」
心配そうな声で叫びながら我が家と化している家の扉を開けた。
「……コタロー君……」
家の中にも微妙な空気が流れていた。
マタタビを背負ったクロの異変を全員が感じたのだろう。
「…………マタタビ、を、サイボーグ、に、しろ」
単語を一つ一つ区切り、何処を見ているのかわからない目を剛に向ける。
怯えた剛がミーの後ろに隠れる。到底、隠れきれていないがミーは真剣な声で尋ねた。
「クロ。お前どういうつもりだ?」
どう見ても正気ではないクロに対してこれほどまでに冷静に話しかけられるのはミーかマタタビだけだろう。
クロは背負っていたマタタビをそっと床に降ろすとミーに向かってガトリングを向けた。
「マタタビを、サイボーグにしろってんだよ……!」
誰もこんなクロを見たことがなかった。
この場にいる者が知っているクロは無茶苦茶でマイペースだが勇敢で強い意思をもった人情味のある猫だったのだ。
「マタタビ君が、そんなこと望むとでも思っているのか?」
静かに、それでいて怒りを含んだような声でクロを睨みつけながらミーが剣を手に持つ。
一触即発な空気の中、ミーは喋り続ける。
「知ってるだろ。マタタビ君が一生生身で過ごすって言っていたのを。
お前に何の権利があってマタタビ君の一生を奪うんだ!」
ミーの言葉にクロは冷たく返す。
「オイラの生身としての一生を奪ったお前に言われたくねえよ」
確かにミーと剛はクロを突然襲い、サイボーグにした。その点では確かにミーはクロに何も言えないかもしれない。
けれども、ミーは反論した。
「そうだ。ボクらはお前を勝手にサイボーグにした。でも! だからこそ! お前はサイボーグになった者の悲しみも知っているだろ?!
生身の時では得られなかったものもあるけど、ボクらは確実に何かを失った……!
ボクは後悔なんてしていない。悲しくなんてない。剛くんの力になれるから。剛くんがボクのためにしてくれたことだから!
でも、お前やマタタビ君は違うだろ?!」
涙が出ていてもおかしくないような声色で、必死にミーはクロを説得しようとした。
サイボーグになれば、生身の時では得られなかったような『力』を得る。だが、その代わりに『時』を失う。
大切な仲間も、いつかは死んでいく。それでも、サイボーグとなったクロやミーは生き続けるのだ。機械の身体が壊れるまで。
「…………………」
もう一度反論しようと動いたクロの口が言葉を紡ぐことはなかった。
クロは歯を食いしばり、ミーに背を向けた。
「マタタビを、しばらく、ここに置いといてくれ」
搾り出すようにそう言うとクロは出て行ってしまった。
空はとうにオレンジ色に染まり、端の方から紫色に色を変え始めたころ、マタタビが目を覚ました。
「ここ、は?」
すっかり慣れた片目だけの視界で周りを見てみるが、そこはフジ井家ではなかった。
目が覚めたばかりでしっかり働かない頭を抑えつつ、身体を起こすと少年の声が聞こえてきた。
「あ……起きたんだね」
声の方を見てみると、そこには見知った少年がいた。ただ、マタタビの記憶の中にあるその少年はもっと元気があったような気がする。
いつもと違う雰囲気にマタタビが首を傾げていると、ミーと剛もやってきた。
「起きたんだね」
コタローと同じく、いつもとは違う雰囲気のミーにマタタビはさらに首を傾げた。
一体何が起こったのかさっぱりわからない。第一、自分は家を直していたのであって、こんなところで寝こけていたわけではないはずだ。
「何が……あった?」
問い詰めるようにマタタビが言うが、誰も口を開かない。
重い空気が流れ、マタタビは思い出した。自分の意識が途切れる寸前、クロを探していて、唐突に意識が途切れたことを。
おそらくクロに気絶させられたのだろうと察しはついた。
ついたのだが、この場にクロはいない。
「おい、キッドは何処だ?」
『キッド』と言う名に、重かった空気が今度は凍りついた。
やはり今の状況にはクロが関わっていると確信したマタタビはさらに問い詰めようとした。
だが、問い詰める前に気がついてしまった。今日一日のクロの様子を思い出して、マタタビを囲む者たちの表情を見て、空気が凍りついた理由も、何故自分がここにいるのかも理解した。
気づいてしまったからには自分の役目を果たさなくてはいけない。マタタビはクロがいるであろう場所へ足を向けた。
クロは昔マタタビと一緒に住んでいた場所によく似た廃棄場にいた。
何をするでもなく、ただそこに座っていた。
「キッド。ここにいたのか」
今この瞬間で、最も聞きたくない声を聞いてしまったクロはビクッと身を竦ませ、声の方をゆっくりと振り向いた。
そこには予想通り、赤いマントの猫がいた。
「マタ、タビ……」
目をあわせられなかった。
自分がしたことに負い目を感じているのだ。
「キッド……。貴様、拙者をサイボーグにしようとしただろ?」
いつもと変わらない笑みを浮かべ、マタタビは言う。
何故ばれたのかと驚き、思わずマタタビを見てしまったクロを見て、マタタビはさらに笑う。
「拙者はおぬしの兄貴分だぞ? そのくらい察しがつく」
そう言いながらクロの隣にマタタビは腰を降ろした。
二匹は並んで同じ風景を見た。
「…………怒らねえのかよ」
沈黙に耐えかねたクロが言い憎そう言うと、マタタビは鼻で笑った。
鼻で笑われ、さすがにムッときたクロが隣にいるマタタビを睨みつけるが、クロの予想と反してマタタビは真剣な目をしていた。
真剣な目で見返され、クロは再び何も言えなくなった。
無言で責めたてられているような気になってしまう。
「オイラはマタタビが生身のままでいたいって知ってた」
まるで懺悔するかのように言葉が口からこぼれ出る。
マタタビはクロの言葉を黙って聞いていた。
「なのにマタタビをサイボーグにしようとしたのは……オイラのわがままだ。
マタタビの、赤い、血を見て、怖くなったんだ」
泣きそうな声で呟く。
「マタタビはいつか死ぬ。死ぬんだ。オイラを残して。グレー達みたいに。
そしたら、オイラはまた一人になるんだ。それで、『キッド』はこの世から消える」
幼いころはクロもよく泣いていたな。と思い出しながらマタタビは言う。
「サイボーグも死ぬだろうが。まあ、死ぬというよりも、壊れると言った方が正しいのかもしれんがな」
今度はクロが黙って聞いている。
「貴様も変わった奴だな。『キッド』だったころなど忘れてしまえばいいのだ。ろくなことなどなかっただろ。
『クロ』としての貴様は昔よりもずっと幸せそうに見えるぞ?」
キッドとして生きていたころにも、もちろん楽しいことや良いことがあった。だが、『疫病神』と呼ばれ、仲間だった者に襲われたのもまた事実だ。
そんな嫌な思いなど忘れてしまえばいい。そして幸せになればいいとマタタビは願っている。
「オイラはキッドだ。バイスにもそういった。オイラはキッドなんだ!」
心の奥底から搾り出されたのは切実な言葉。
「オイラがもっと強かったら『疫病神』なんて呼ばれなかった。グレーも死ななかったし、マタタビの……」
今のクロに血が流れていたのなら、クロの拳からは血が流れていただろう。
それほど強くクロは拳を握っていた。
「マタタビの目を、抉ることもなかった……!」
クロは何度も血を見てきた。
クロが誰かの血を見ればそいつは大抵死んでいった。そしてクロはマタタビの血を一番よく見ていた。
死が怖い。
「だからオイラは強くなろうとした。もう、二度と、死なせない」
正気に戻っていたクロの瞳が再び正気を失いつつあった。
死なせない。それを狂ったように繰り返す。
「キッド!!」
怒号と共にマタタビがクロの頬を思いっきり殴った。
鋼の体を持つクロを素手で殴れば、逆にダメージを受けることになるが、マタタビはそんなことにかまわなかった。
殴られた頬を抑え、クロはマタタビを睨みつける。
「貴様、拙者を馬鹿にしているのか?! 拙者はそれほどまでに弱いか?!」
憎かった。悔しかった。クロにそう見られているのが。対等だと思っていた。
目を抉り出されたのは自分が弱かったからだと思っていた。クロが弱かったからなどと思ったことは一瞬たりともなかった。
「違っ……!」
「違わん!」
マタタビはクロに反論の隙を与えない。
「大体、貴様はうじうじしすぎだ! いつもの馬鹿みたいな能天気さは何処に行った?!
グレーが死んだのも、拙者が目を抉られたのも、全部自分自身の弱さのせいだ! 誰も貴様のせいになどしておらん!」
そこまで腐った覚えはないと、吐き捨てるマタタビをクロは呆然と見ていた。
「……悪ぃ…………。何か、気が変になっちまってた」
マタタビに殴られたおかげか、説教をされたおかげか……。何にせよ、クロはいつもの調子を取り戻したかのように立ち上がった。
だが、マタタビにはやはり何処か無理をしているように映った。
心は理屈ではない。
いくらマタタビに「貴様のせいではない」と言われても、クロの心の奥底では自分のせいだと思っている。
「……貴様は頑固だからな」
何を言っても無駄だと暗に言う。
「なーに言ってんだ。てめえも頑固じゃねえか」
調子を取り戻したクロは笑う。
明日の朝になれば、今日の一件はなかったかのように、明るいクロが見られるだろう。
「なあ、キッド」
語りかけるようにマタタビがクロに話しかける。
「拙者はまだまだ生きる」
猫の寿命はそこそこ長い。そしてマタタビはまだ、その半分も生きていない。
「長い人生だ。いつか、サイボーグになってもいいと思う日が来るかもしれないな」
驚いて振り向いたクロに、マタタビは今までの人生で最大の意地悪げな笑みを見せた。
END