形有るものはいつか壊れる。
 昔の人はそんな言葉を残している。それは、どこかの音楽家なんぞの言葉よりも、ずっと価値のあるもののはずだ。蝉はそう自分に言い聞かせた。だが、その言葉を素直に飲み込んでくれるほど、彼の上司は甘くない。
 そこそこの広さを持った事務所にある机に、肘をつけてこちらを見ている岩西は、じとっとした蝉を睨みつけている。
 岩西の前に置かれているのは、レンズが割れてしまった眼鏡だ。
「蝉。何か言い訳はあるか?」
「……あんなところに置いてあるお前が悪い」
 目をそらしながら、いつもよりも覇気のない声でそう返す。
「ほー? 事務所の、デスクの、上が、あんなところ?」
 一つ一つの単語を区切って発する岩西の声は、間違いなく怒っている。しかたのないことではあるが、蝉は素直に謝罪の言葉を口にできるような人間ではない。もしも、そのような性格をしていたのならば、彼はこの世界でもっと楽に生きていくことができたはずだ。
 岩西もそのことは嫌というほど理解しているので、怒鳴り散らすような真似はしない。第一、無駄に怒鳴り散らすような労力も醜さも彼は欲していない。物事はできる限りスマートに。そして、効率的に行うべきだ。
 その理論からいけば、無駄に問題を起こしてくれる蝉などは切り捨てるべきなのだろうけれど、岩西は彼を手放すつもりはない。
 大切に躾けて、育てたい。自分の言葉に一喜一憂する姿は、岩西の心の奥底に潜んでいた保護欲をかきたてる。だが、それは手放しで甘やかしてやるのとは話が別なのだ。これからのためにも、躾はしっかりとしていかなければならない。
 気まずそうな目を、絨毯に向けている蝉を一瞥し、大きなため息をついてやる。極力相手が傷つくように、呆れの色をふんだんに乗せてやる。
「――っ」
 わかりやすい蝉は、すぐに肩を揺らす。ぼやけて見えない岩西の目でも、それはハッキリとわかった。
 捨てられるのが怖いのだろう。昔、まだ彼と出会ったばかりの頃に、岩西はいとも簡単に蝉を切り捨てた。死ぬなら一人で死ねと告げた。その時、蝉が何を考えていたのか、何を感じていたのかは、岩西にはわからない。予測はできるが、それは事実ではない。
「なあ、蝉」
 不安気な表情が向けられる。
 よくは見えなかったが、それほど捨てられるのが恐ろしいのか。それほど、自分と共にいたいのかと、思わず緩みそうになる口を引き締める。
「何か問題が起きたときは、すぐに知らせろって言ってあるはずだ」
 仕事のときでも、日常生活のときでも、同じことだ。と、睨みをきかせる。こちらを見ていた蝉の瞳が、恐怖の色を浮かべて、またすぐにそらされる。
「でも……」
「でも?」
 問い詰めるように、言葉を被せる。
「でも、お前はスペアってのを持ってるって知ってるんだからな! だから、すぐに報告する必要ねぇって判断したんだ。第一、仕事で失敗するのと、お前の趣味の悪ぃ眼鏡潰したのとじゃ、重みが全然違うってーの!
 そんなもんの一つや二つでギャーギャー言いやがって! お前ウザイ! ウザすぎ!」
 ミンミンと喚く彼にはもう慣れた。
 岩西はよく見えないこともあいまって、喚いている蝉を半目で見つめている。
「……なんだよ」
 いつもとはどこか様子が違う岩西に、蝉の言葉が途切れる。
「いいか? 蝉」
 椅子から立ち上がり、ゆっくりとした歩調で蝉へ近づく。恐怖心からか、蝉が一歩引いたのが見えたが、そこには触れてやらないでおく。
「おじさんはな、若者と違って目が悪いんだ」
 見えない上に、遠近感も掴みにくいが、それでも蝉の頭を岩西はしっかりと掴んだ。
「だから、眼鏡がないと、仕事を回してやることもできない」
 ぐりぐりと乱暴に蝉の頭を撫でてから、ぐっと自分の顔を近づける。
 距離が近くなったことで、蝉の顔がハッキリと見えた。その距離は、互いの鼻の先が当たるくらいには近い。蝉の顔が紅潮していく様がよく見てとれた。白い肌が赤く染まるのは、珍しいことではない。
 存外、蝉という青年は照れ屋だ。
「それはお前にとっても、オレにとってもマイナスしか生まない」
 仕事のマイナスを、分かっているのに放置するのは、プロの仕事とは言えない。耳元でそう囁いてやれば、蝉は顔を真っ赤にしながらも、岩西を突き飛ばして壁際へと逃げていく。その間も、セクハラだなんだとミンミン騒いでいるが、一々取り合っていてはきりがない。
「蝉。普段の生活で嘘をつくような人間は、仕事でも嘘をつく。信用されなくても、しかたがない。
 オレは全く信用のできない殺し屋なんて、金を使って使い捨てるぞ」
 蝉は眉を寄せて目を見開いた。
 迷子の子供よりも哀れで、弱々しい表情だ。残念なことに、岩西はその表情をハッキリと見ることができない。しかし、想像はできた。
「蝉」
 もう一度名前を呼んでやる。
 岩西が与えた、最初のもの。
 蝉を、存在している人間にしているもの。
 口にすればたったの二音。文字におこせばたったの一文字。それが、蝉の中でどれほどの割合を占めているのかは、彼自身わかっていないだろう。
「――お前の、眼鏡に気づかなくて、机に飛びのろうと手を置いたら、そこに眼鏡があって」
 その衝撃で、眼鏡はあっさりと壊れた。同時に、手を乗せた蝉の手にも傷が出来た。左手とはいえ、血を流している蝉を見つけたとき、岩西がどういう心境だったかを彼は一生知ることがないだろう。
 壊れた眼鏡を適当なところに隠して、自分で救急箱を取り出し、左手に包帯を巻こうとしているところを岩西は発見した。
 何があったのかを聞こうとし、ついでに怪我の具合を見ようと眼鏡に手を伸ばしたところで、それがないことに気がついた。そして、蝉の表情にも気がついた。
「もう一つ、何か言うことがあるだろ?」
 眼鏡を割ったのだと知ると、岩西はすぐに蝉の手を水道で洗った。レンズの破片が入りこんでいるかもしれないのに、そのまま包帯を巻いてすませようとした蝉は愚かとしか言いようがないだろう。
「――ご」
 蝉の口が言葉を紡ぐために、形を作る。
 だが、中々言葉が続かない。
「蝉」
「――ごめん、なさい」
 岩西の手によって包帯が巻かれた左手を、蝉はギュッと握った。
 痛みはない。
「よくできました」
 岩西は再び蝉の頭を撫でてやる。
 いただきますも、ごちそうさまも、ありがとうも、ごめんなさいも、全て岩西が教えた。その言葉を紡ぐ蝉が愛おしい。
「これからはちゃーんと報告するんだぞ」
「うるさい! お前がちゃんと眼鏡をかけてれば問題ないだろ!」
「一日中眼鏡をかけてるってわけにもいかんだろ」
 ポンポンと、蝉の頭を叩いて、岩西は机へ戻る。
 引き出しを開ければ、すぐにスペアの眼鏡を取り出すことができる。今までかけていなかったのは、蝉に自分のした問題を視覚的にも認識させるためだ。
「新しい眼鏡を買う金は、お前の給料から引いといてやるよ」
「はあ! 何だよそれ! おーぼうだぞ!」
 騒ぎたてる蝉の鼻にデコピンを一つ与えてやった。

END