最後の運命を更新し、帰ってきた現在は彼らが過去へモドッタ時間よりも数年ずれていた。
 あまりにも大きく、多くの運命を更新したからなのか、それともまた別の力が働いていたのかはわからない。それを知る必要もない。猫としての時間を歩むことになったシセルには関係のないことだ。
 悲劇になるはずだったカノンの仕掛けは、五年のずれを経たものの正常に作動した。幾度となくその命を救ったリンネが刑事になるところも見た。彼女を祝うパーティの際に、彼女がまた会えたと言っていたが、どうやらそのときの記憶はないらしい。
 今、死者としてのシセルを知っている者は誰もいない。それ以前では、運命を更新された者はその記憶を持っていたにも関わらずだ。しかし、シセルには確信があった。再びあの夜がきたとき、彼らは思い出すのだろう。これまでの十年間の思い出と、それ以前の十年間の思い出を背負うのだ。
 猫であるシセルに、人間がそれを知ったときどうなるのかはわからない。
 家にチャイムの音が響く。耳を立て、客人でもきたのだろうかと音を拾う。
「こんにちは」
 遠くから聞こえてきた声は知っているものだった。
 驚きと、期待をこめて目を開ける。体を伸ばして玄関へと向かう。低い視点から見上げたその姿は、やはり以前と変わらない。いや、わずかに大人としての風格を持ち始めていた。
「近くまできたので挨拶に」
「おお、あがっていくかい?」
 ヨミエルはジョードの休暇を狙ってきたのか、今日は家にいた。偶然だが、リンネもその場にいる。
「ありがとうございます」
「そちらはいつも面会にきていた人だね」
 彼の隣には美しい女がいた。恥ずかしそうに頬を赤らめていた。
 心の底からヨミエルのことを愛しているのだろう。軽く触れ合っている手には指輪が見える。
「ニャー」
 おめでとう。その思いを乗せるが言葉は届かない。
「あのときの猫ですか?」
「そうだ。しかし、不思議と大きくならなくてな」
 片膝をついて、ヨミエルがシセルを撫でる。
 懐かしい感覚に目を細めた。二人ですごした十年間は悪くなかったが、こうして幸せそうな彼に撫でられるのも悪くない。
「シセル」
 ヨミエルの言葉に驚く。
「お前も撫でてみろよ。可愛いぞ」
 しかし、彼が言葉を向けたのは猫のシセルではなく、彼女だった。
「あんた、シセルというのか」
 ジョードーが苦笑いをする。どうやら、猫と名前が同じであることを申し訳なく思っているらしい。
 猫と同じ名前で何が嫌なのかと、シセルは尻尾を振り抗議する。
「え、こいつもシセルっていうんですか?」
 ヨミエルもサングラスの向こう側で目を見開く。
 再び視線を向けられるが、不満を表すために顔を横に向けて歩き出す。
「あー。シセルが拗ねちゃったじゃない」
 リンネの存在を認識したヨミエルは目に見えて慌てた。彼の中には罪悪感が未だにある。立ち上がり、頭を下げる。
「すまない」
「え、いや。そんなに深刻に謝らなくても」
 勘違いをしているらしいリンネは手は手を振る。
「違う。今のことじゃなくて、十年前のことだ」
 彼はリンネが十年前の犯人を覚えていないということを知らない。意味がわからず、目を丸くしている彼女に説明をした。罪について語られるにつれ、リンネの表情は険しくなる。しかし、全てを告白し終えたあとの表情は優しいものだった。
「許してくれるのか?」
「だって、あなたはちゃんと反省してるし、罰も受けたじゃない」
 その言葉が、他のどの言葉や行為よりもヨミエルを救うのだ。彼女はそれを知らずとも良い。
 リンネが彼を救うのは二度目だ。少し離れたところで様子を見ていたシセルは静かに思う。彼女は刑事に向いている。人を救う正義のヒーローに、彼女ならば正しくなれるだろう。
「あ、りが……とう」
 顔を手で覆い、静かに涙を流す。
 シセルは優しく目を細めた。これで彼は本当の幸せにたどりついたのだ。歪んだニセモノの光りではなく、本物の光りを手にいれたのだ。あの十年間で、自分が与えることのできなかったものだ。
「とりあえず奥に入りなさい」
 ジョードに誘われ、リビングの椅子に座る。まだ涙が止まらないようで、婚約者のシセルが微笑みながら背中を撫でている。
 棚の上で丸くなりながら、その様子を眺めるのは心地良い。ふと、涙を流していたヨミエルがシセルを見上げた。
「ありがとう、相棒」
 もしも、人間であったのならば、シセルは涙を流していただろう。
 それほど驚き、喜びを感じた。
「思い出したのか」
 コアを繋ぎ、言葉を交わす。
「ああ、最後の更新に一番関わりの深いオレだからな。記憶が甦るのも早かったんじゃないか」
 死者の世界に秘密はない。すべてが直接耳に届く。
「ありがとう。オレの相棒」
「いや。礼を言うのは私だ。
 あなたといた十年はとても楽しかった。幸せだった……」
 あのまま死ぬしかなかった小さな命を、ヨミエルは救い上げてくれた。今思えば、あの夜のできごとは彼を救うためのものだったのだ。
「なあ、もし、お前さえよければ」
 シセルは静かに首を横に振る。
「私のことなんて忘れてしまって、彼女と幸せになるといい」
 同じ名前が二人もいたら面倒だろと、ウインクをする。
「……そうか。もう一つだけいいか?」
 次に続く言葉をシセルは知っていた。
「お前、成長してるのか?」
 体内にアシタールを宿したシセルは成長していない。以前のヨミエルと同じく、死して生きているようなものだ。
「さあ。どうだろうな」
 軽く笑い、繋がりを切る。
「シセル!」
 立ち上がり、猫を見上げたまま声を上げる。隣に座っている彼女は自分が呼ばれたのかと、目を見開いている。
「ニャー」
 猫の言葉で返事をし、窓から外へ出る。
 手を伸ばしている彼の姿が見えたが、気にとめずに去っていった。


END