新しい世界で新しい朝をむかえる。
誰もが自由になった世界で、ルカは今日も同じ日々を送る。
「おはよう」
「おはよう」
マルレインを朝の挨拶をする。
今日は影でいる気分ではないのか、スタンは姿を現さなかった。初めのころは、どこかへ行ってしまったのだろうかと焦っていたが、近頃ではすぐに戻ってくるだろうと思っている。
「まったく。子分のくせに余よりも起きるのが遅いとは」
台所に行ってみると、悠々と椅子に座っているスタンの姿があった。マルレインが眉間にしわを寄せて説教をするが、それに耳を貸す彼ではない。
こうしてみると、いつもの日常は昔よりもにぎやかになった。
父や母に妹。祖父母や、彼女と彼の中にいる自分とはなんと幸せな存在なのだろうか。
「ほら、喧嘩はやめてよ。おいしい朝ごはんを食べよう」
たくさんで食べるご飯はおいしい。
「ルカ。今日はどこに行こうか」
食器を洗いながらマルレインが問いかける。今はスタンもいない。
昨日はピクニックに行った。その前はサーカスの跡地で遊んだ。
「ねえマルレイン」
「なに?」
暖かい笑みが返ってくる。この表情を見るたび、ルカは言葉を飲み込んできた。けれど、やはり聞かなければならないことがあった。
うるさいくらいに鳴っている心臓を落ち着かせようと、一度深く息を吸い込んで尋ねる。
「お父さんのこと嫌いなの?」
水道から流れる水の音だけが部屋に響く。
目を丸くしたまま、彼女は口を開かない。
待つことは得意だったので、ルカはじっとマルレインの言葉を待った。
何故、彼女は父親の元から姿を消したのだろうか。あの人から忘れられた町でずっと何を待っていたのだろうか。
「……こんな世界、もう飽き飽きしちゃったの」
水を止めて、マルレインは静かに目を伏せた。
「私のために作られた世界。私のために作られた物語。私のために作られた人々」
初めは楽しかった。
自分は絶対的に安全で、危険など存在していない世界で、自由に走りまわれるのだ。
「ねえ、ルカは今までの自分が本当の自分じゃないって言われたら……どうする?」
「きっと戸惑うよ」
今の世界の人々は新しい自分になった。昔の自分が『分類』によって成り立っていたなど知りもしない。
「うん。私もずっとこの世界で過ごしてきてわかったの。彼らは分類されてるけど、確かに生きてて、誰かを好きになったりするの。
なのに、分類されてるからって、不幸なできごとを覆せなかったり、誰かを嫌いにしかなれなかったりするなんて、酷い話でしょ」
ルカは口を挟まずに言葉に耳を傾ける。
「気づいたとき、私は自分を見失った。お父様の声は私には届かない。私の声はお父様には届かない」
長い時間は退屈に流れ、ベーロンは愛する娘の代わりに人形を作った。人形を通して見る世界は相変わらずで、マルレインをいたずらに傷つけた。
「……お父様は、本当に私のことを愛してくれていたのかしら」
マルレインにとって、一番の不安はそこだった。
消えたマルレインをベーロンは探した。けれど、見つからなかったといって人形を代わりにしたのだ。娘のように遊ばせ、娘のように笑わせた。何度も、何度もそれが続いていったのだ。小さな箱庭の世界にある、小さな家の片隅でいつも膝を抱えていた。
誰か助けてほしいと叫んでいた。
「ルカ。本当にありがとう」
分類から大きく外れたルカは世界を変えた。
マルレインは本当の自分を取り戻すことができた。
分類があったからこそ、マルレインはベーロンの前に姿を現すことができなくなった。分類のない者はこの世に存在できない。
「ベーロンさんはまだ探してるよ」
最後に彼は言っていた。広がる大きな世界で娘を探すのだと。
「いいの」
首を横に振る。
「本当に?」
家族の温かさを知っている。彼らはすれ違ってしまっているだけと知っている。
「だって……今更会ったって」
マルレインの手は震えていた。
ルカには想像もできないくらい、長い時間を彼らは離ればなれになっていたのだろう。
会うことにおびえるほど、それは辛い孤独の時間だったのだろう。きっと、それはベーロンも同じだ。娘に似せた人形を見て、何度涙を流したのだろうか。
「この世界は自由だ」
まっすぐな目をして言う。
「だから、ボクはボクのしたいことをするよ」
「え、うん……」
小さく頷いたマルレインの手を引いて、ルカはスタンのもとへと行く。
「ねえスタン」
「どうした」
普段は自己主張などしないルカの瞳が、珍しくも強い光を持っているのにスタンは気づいた。ちゃかすことなく、真剣な目を返す。
「ボク旅に出ようと思う」
今度はスタンを魔王にするための旅ではないと続けた。
「ベーロンを探す旅に出るよ」
ルカは彼のことをよく知らない。
何故、世界を切り離すような能力を持っているのかも、マルレインを本当に愛していたのかも知らない。
「聞いてみたいんだ」
「……ほう」
「いいかな?」
「何故それを余に聞く」
驚いたのはルカだった。
いつもルカを自分の思い通りに動かそうとしているスタンだ。絶対に反対するだろうと思っていた。
「いいの?」
「ただし、余も一緒に行くぞ」
広がった世界を見るのも悪くない。
「……ルカ」
戸惑っているマルレインに笑いかける。
「大丈夫。ボクがちゃんと話を聞いてきてあげるから。
だから、マルレインは会うための心の準備をしておいて」
両手をギュッと握る。
長い時間を一人で生きてきたのだ。そろそろ父親の隣に帰ってもいいだろう。
「ここは広いでしょ? 君やベーロンさんがいいって言ってくれるなら、みんなで住めばいいよ」
幸せな言葉だった。
思わず頷いてしまうほどだった。
「余は嫌だぞ」
「ダメだよ。みんな一緒がいいよ」
スタンとルカの会話を聞きながら、マルレインは一筋の涙を流した。
ありがとう。小さく呟く。
またあの人と会えたら何を話そうか。いつしかマルレインは未来に思いをはせるようになるだろう。
END