かつて、天使であった一族がいる。彼らは人間に恋をした。
 愛すべき人間に触れ、口づけを交わし、体を交えた。それが罪と呼ばれるものだと知りつつも、彼らはその行為をやめることはなかった。
「愛しているよ」
「キミは美しい」
「ボクに全てを任せてみて欲しい」
 時に優しく、時に巧みに人間を誘う。人々は言葉と美しい羽根に惑わされ、手を取る。
 厳格、というよりは身勝手といったほうが適切な神は、それに激怒した。己が決めた階級を無視した一族を天界から追放したのだ。
「はーい。お前らアウトね」
 無慈悲な言葉。それを合図に羽根を切り落とされ、輪を消された。彼らは魔界へと真っ逆さまに落ちていった。
 天使達は、その一族を蔑み、また憐れんだ。己が欲望を抑えきれなかった報いだと、人間に惑わされたのだと。
 だが、追放された一族は、後悔もしなければ嘆きもしなかった。
 それどころか、彼らは歓喜したのだ。元々、規律を破るような一族だ。神を敬う心は薄かった。追放されたことなどよりも、これからの自由に思いを馳せるばかりだ。人に愛を語ろうと、体を交えようと、惑わそうと、何をしても、誰にも咎められない。彼らは何一つ失わなかった。
 彼らは得たのだ。禍々しい角を、黒い羽根を、尻尾を、自由を。
「ハレルヤ!」
 思わず声高く上がった声に、一族達が笑い声をあげた。
 それが、淫奔の悪魔、アザゼルの産声だった。


「へー。アザゼルさんの一族って、昔は天使だったんですね」
 分厚い本を読んでいた佐久間が顔を上げた。視線の先には、エロ本を読んでいる悪魔、アザゼルがいる。
 唐突に声をかけられたアザゼルは、一度首を傾げ、佐久間が手にしている本を見る。よくは見えなかったが、表紙に『天使と悪魔図鑑』と書かれているのが見えた。
「なんや、ワシのことが聞きたいんやったら、直接聞いてくれればええのにー。何やったら好きな体位まで教えたるで?」
「必要ないです」
 頬を緩ませながら、太ももを触ってきたアザゼルの頭に、グリモアを突き刺す。
 超常現象的な力により、アザゼルは妙な音をたててまっ平らに潰れた。鮮血がわずかに飛んだが、佐久間は気にそた風もなく、近くにあったティッシュで頬を拭う。日常と化しているその光景を、第三者が見ることがあればどん引きであること間違いない。
「あーあ。天使のままでいてくれたら、セクハラに悩まされることもなかったのになぁ」
「そんな馬鹿でも、天使が増えれば、グリモアを奪われる可能性も高くなる」
 アクタベの言葉に、潰れたアザゼルは涙を流す。せめて、いなければ仕事に差し支える。程度のことは言ってほしかった。いっそのこと、天使となってアクタベをギャフンといわせてやりたかったが、一族が天界にいたのは遠い昔のことだ。今更戻れるわけもないし、戻りたいとも思えない。
 噂に聞いたのだが、天使達は殆どが童貞だという。階級によってはキスもできないという。性に対して緩すぎるアザゼルが耐えられるはずもない。
「佐久間さん。そんなものを読んでいていいのですか?
 『単位がー』と、つい先日まで喚いていたでしょう」
「とりあえず試験が終わったんで大丈夫ですよ」
 得意げにピースをする彼女に、ベルゼブブはため息をつく。単位危うさのために行われた行動が、どのような事態を引き起こしたのか覚えていないのだろうかと思ってしまう。その感情を正確に読み取ったのか、佐久間は頬を膨らませる。
「もうあんなことはしませんよ」
「どうだかわからないにょりん」
 いつの間にか復活したアザゼルが、顔をひょっこり上げる。黒歴史に触れてしまったがため、本日二度目のグリモアが下されたのは想像に容易いだろう。それを見ていたベルゼブブが、彼を見下していたのもまた、想像に容易い。
「っちゅーか、ベーやんの一族も昔は天使やったんやろ?」
 肉塊と化しながらも、アザゼルの声が聞こえる。気持ち悪い。と、佐久間は若干引き気味だ。
「でしょうね。元々、この世には天使だけがいて、人間ができて、天使が堕天して悪魔が生まれた。といいますからね」
「へー。そうなんですか」
 悪魔の寿命は長い。彼らの祖先を探るということは、人間では到底想像できないほど膨大な歴史を探らなければならない。普通の人間が悪魔と天使について、深く知ることなどできないのだ。
 少しでも知識の足しになればと、大学から天使と悪魔について書かれている本を借りてきたのは、間違いではないようだ。
「じゃあ、もっと天使について学びますね。そしたら、私にも何か対策ができるかもしれませんし」
「おー。なんや、えらい優しいこと考えてるやん」
「じゃないと、私にまで被害がきたら困るじゃないですか」
「このド外道がー!」
 悪魔使いとして日々成長している佐久間は、天使を恐れるようになっていた。それは共に過ごしてきている悪魔を、容易く殺せる存在であるからだ。
 それでも、天使が悪魔を差し出せと、そうすれば助かるというのならば。佐久間はアザゼル達を差し出す。悪魔使いは人として何かが欠けているからこそ、なることができる職業だ。それが、人としての優しさだとして、何がおかしいのだろうか。
 可愛らしい姿で、短い手足を精一杯に使って文句を言っている悪魔達は大変に愛らしい。
 アザゼルがセクスカリバーを用いて、佐久間を突き刺そうとすれば、彼女はグリモアの鉄槌を下す。ベルゼブブが佐久間を攻撃しようとすれば、アクタベが万年筆を投げつけ、彼の脳天を貫く。
「もー。本気にしないでくださいよ」
「いーや! お前はしよる! そういう女や!」
「まったく。我々を何だと思っているのですか」
「何って、悪魔ですよね」
「せやでー。こわーい悪魔やでー」
「まあ、そんな姿でも話せるって怖いですよね」
 絞りきられた雑巾のような姿になってしまったアザゼルを見下ろす。彼は何度やっても学習というものをしない。流石の佐久間も、一日に三度もグリモアを使うハメになるとは思っていなかった。適当なもので殴っても問題ないのだが、手元にグリモアがあると、つい使ってしまう。
「……まあ、悪魔で良かったですよ」
 佐久間は小さく笑った。
 彼らが天使として生まれていれば、こうして過ごすこともなかったのだから。


END