アーサーは、時折海を見ることがあった。そんな時、彼はいつも一人だった。妖精も幽霊もいない。静かな波の音に心を落ち着かせる。そんな時間だった。
 瞳を閉じると、海で天下を取っていたときのことを思い出す。当時は、誰かに負けるなど、考えもしなかった。無論、つらく苦しい時もあった。だが、己が強くなっていくのを日に日に感じ、気分が高揚していたことも、また事実だ。
 ひと際大きな波の音が耳に届き、口角を上げる。
「海はいい」
 海はいけ好かない隣国を遠ざけてくれた。この国を日の沈まぬ国へとしてくれた。
「そう? 海があるから、光栄ある孤立。なーんてしちゃうんじゃないの?」
 聞き覚えのある軽い声と口調。アーサーは眉を寄せながら目を開け、声の方へ顔を向ける。
「何の用だ。フランシス」
 棘をたっぷりつけた声を出すと、フランシスは肩をすくめる。動きにどこか甘さが含まれているような気がするのは、彼が普段から甘さを含んだ行動ばかりしているからに違いない。アーサーからしてみれば、それがまた腹立たしくあった。
「別に坊ちゃんに会いに来たんじゃないよ」
 そう言いつつ、フランシスはアーサーの隣へきて腰を下ろす。
「座るな」
「つれないなぁ」
「何しに来たんだよ」
 フランシスは、常々からイギリスという国を嫌っている。いくら彼が女好きであったとしても、わざわざこちらの国へナンパをするためにやってくるとは考えられない。この国に彼の知り合いがいるとも、到底思えない。
 いたとしても、ここにいるアーサー自身か、彼の上司だろう。結局、自分と関わりのない理由でフランシスがこの国へやってくる理由など見当もつかない。
「そうだなぁ……」
 フランシスは顎を撫でながら海を眺める。上下に浮かぶ青は、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。アーサーは眩しさに目を細め、ちらりとフランシスを見た。自分のものとは違う、細く柔らかな髪が光を浴びて甘く輝いていた。
 その美しさに焦がれたのは遠い昔の話だ。
「海ってさ」
 フランシスがポツリと零した。
「昔はすっごい脅威だったでしょ」
 海へ出れば、帰ってくることが困難であった時代は確かにあった。一度、海が荒れれば多くの人間が死んだ時代もあった。
 今でもそれらの脅威は存在しているが、かつてと比べれば、恐ろしさは格段に薄れていると言えるだろう。
「お前と会うのも大変でさ」
 懐かしみを込めた声だ。女といるときのような甘さはない。温かさだけがそこにある。
 アーサーは心の中だけで頷き、フランシスの次の言葉を待っていた。
「でも今じゃユーロスターで簡単に来れちゃうだろ?」
 フランシスは自然な動作でアーサーの手を取る。農業で少しばかり太くなった指がそっと絡まる。手から伝わるのは優しいぬくもりだった。
 固く閉ざしていたアーサーの心を溶かしたぬくもりと、寸分違わぬものだ。
「――やっぱりおれに会いに来たんじゃないか」
 手を振り払いながら言う。その行為が照れ隠しだということはすぐにわかる。何せ、彼の耳が真っ赤になっているのが、フランシスからは見えていたのだから。
 愛しさを胸いっぱいに溢れさせてくれた彼に、フランシスは苦笑いを浮かべる。素直でない者へ愛を伝えるのは難しい。
「会いたいとは思ったよ。でも、会いにきたんじゃない」
 昔よりも近くなった距離を感じたくなっただけだと言い、言葉を続ける。
「なのに、ここに来たらお前がいた。
 ――運命的だろ?」
 目を細め、少しばかり照れたような笑みを浮かべる。
 人と接することに、愛を囁くことに慣れたフランシスにしては、珍しい表情だ。アーサーはその表情を目に焼き付けようとばかりに、フランシスを見つめた。
 光る髪も、薄く覗く海色の瞳も、すべてが照れたフランシスを飾り付けるアクセサリーのように感じる。
「何?」
「フランシス」
「ん?」
「目、つぶれ」
 アーサーの指示に従い、フランシスは目を閉じる。
 少し間が空いた後、フランシスの唇に何かが当たる。おそらくは、アーサーの唇だ。フランシスが舌を入れようとしたが、その前にアーサーの唇が離れてしまう。
「焦らさないでよ」
「違ぇよ」
 顔を赤く染めたアーサーはそっぽを向く。
「お前が、珍しい顔をしたからな。
 オレも珍しいことを返してやろうと思ったんだよ」
 紳士的にな。と、付け足された言葉に、フランシスは笑みを浮かべる。
「得しちゃった」
「なら、得した分は返せよ」
 そう言って、アーサーはフランシスの方を向き、まぶたの後ろに瞳を隠す。
「――本当、今日はいい日だね」
 同じことを考えた日に、二人は心の中で祝福の言葉を唱えた。


END