電子の海は居心地がいい。人間が母なる海と言うように、ロボットであるフラッシュ達の母は電子の海なのだろう。
周りを見渡せば、動き回る電子信号が見える。せわしないその様子は二つ上の兄を連想させる。小さく笑った。こんなところにいても思うのはあの人のことなのだ。
フラッシュはここが好きだった。0か1。白か黒の、はっきりとした線引きに心は癒される。グレーゾーンなどなく、曖昧な感情もない。感情というものは曖昧で、ほんの少しの事象で真逆のものになりかねない。
相手の感情を計るため、神経は磨り減っていく。また、相手の感情を望むがために策を練ることもある。
人が現実の世界で生きていけるのは、電子の世界を知らないからだ。一度この解放感を覚えてしまえば、それはどのような薬物よりも甘美で中毒性が高いものになる。ロボットが現実の世界でも生きていけるのは、人間ほどの感情がないからだ。
けれど、フラッシュ達は大きな感情を持ってしまっている。生物にだけ与えられた、恋や愛という不明確で、曖昧なものを知ってしまった。
「博士は偉大だ。けれど、罪深い」
ロックが言うような罪ではない。彼が背負っている罪は、自分達にこの感情を与えたことだ。ワイリーは信じているのだろう。己が生み出した息子達ならばこの苦行を乗り越えることができると。
彼にとって完璧なロボットというのはそういったものなのだろう。
ならば、フラッシュはそれに応える。この心の内に秘めた思いも、電子の世界での居心地のよさも両立してみせる。
すべてのロックを解除し終えた音がする。フラッシュを警戒していた世界は、途端に彼を歓迎する雰囲気へと変貌する。この瞬間が一番楽しい。必要なデータを素早く奪い、無防備なそこから去っていく。
すでに悪質なウイルス達が全てを破壊しようとし始めている。今回の任務は気づかれてはいけない類のものではない。一つ上の兄や、二つ上の兄の影に隠れがちではあるが、フラッシュも派手に行動するのが好きだった。現実世界の人間達がこの異変に気づくにはあと数十秒かかるだろう。その様子を見ることができないのは残念だった。
電子の世界から帰ってくると体が重く感じる。処理能力に長けているフラッシュは電子世界では体も軽く、現実世界とは段違いのスピードで動くことも可能だ。重いまぶたをなんとかあけ、自室を見渡す。こちらの世界に帰ってきたという実感が欲しいのだ。
「おかえり」
いつも通りの自室に、一つだけ異端なものが存在していた。
「…………なんで」
「おかえり」
目を見開き、疑問を口にするが相手はそれを無視して同じ言葉を続けた。
いたのは赤い機体。二つ上の兄であるクイックだった。フラッシュが電子世界に入る前はいなかったはずなので、ここへきたのはその後ということになる。
「おかえり」
始めよりも大きな声で、一音ずつハッキリと発音する。
「た、ただいま」
「よし」
求められている答えがわかり、それを口にすると満足げな笑みが返ってきた。
「何か用事でもあったのか?」
ニコニコしてこちらを見ているクイックに尋ねる。時計を見ると、フラッシュが電子世界へ入ってから一時間は経っていた。待つことが嫌いな兄を待たせてしまっていたのかと思うと、多少の申し訳なさはある。
「いや?」
しかし、返ってきたのは意外にも否定の言葉だった。
「なら何しにきたんだよ」
クイックが待つことやじっとしているのが嫌いなことはよく知っている。こんなところで意味もなくフラッシュを待っているとは考えられない。暇つぶしにしても、その辺りを走っている方が彼にとっては有意義だ。
「そうだな。しいていうなら」
整った顔にじっと見つめられ、思わず目をそらす。同じ人から生み出されたというのに、こうも差があるのはずるいのではないかと思う。
「帰ってきたお前を一番最初に『おかえり』と迎えたかったからだな」
美形のうえに、天然のタラシときている。何人の女性を無意識のうちに落としてきたのだろうか。
我が兄ながら罪作りな男だと頭を抱える。兄弟であり、同じ男性型ロボットにまでこれほどの威力があるのだ。女性型ならばなおさらだろう。女性型にも同じように接するクイックを想像して、胸が少し痛む。
やはり電子世界は素晴らしい。あの世界ではこのような痛みは存在していないのだから。
「なあ、フラッシュ」
こちらの気持ちなど考えてもないのか、相変わらずの笑顔で声をかけてくる。
「次の任務でオレが出かけたらさ、お前が一番最初に『おかえり』って迎えてくれよ」
顔が赤くなる。
まるで、人間の恋人のようだ。コアが熱を持ち始める。
「絶対だぞ」
返事を聞かず、クイックは念押しだけをしてフラッシュの部屋を出た。
とりあえず、フラッシュはコアの熱が冷めたらワイリーの元を訪れようと考える。クイックに与えられた次の任務と、帰ってくる日を調べなければならない。
「あー。でも、しばらく無理かもしんねぇ」
これほどの熱を持っているコアがそう簡単に冷えるとは思えない。むしろ、コアは今も熱を増している。記憶回路は勝手に先ほどのクイックを映し出す。
電子世界であれば、これはただのデータだ。感情もなにもなく、ただ0か1に分類される。現実の世界はなんとも面倒ではあるが、フラッシュは嫌いではなかった。0でも1でもない感情が揺れる。その揺れの幅は、そのままクイックに対する思いの強さを表してくれるのだから。
END