冷たい雨が地獄の熱を打ち消していく。狭いながらも、そこそこ立派な部屋で、ラハールは降り注ぐ雨を見ていた。普段は嫌になるほどの熱さとの対比で、今日は震えるほど寒く感じる。寒い日は、嫌なことを思い出すので嫌いだった。
 しかも、運の悪いことに、今日は赤い月が出る。
「おーい。今日はアイテム界に行くぞ。早く朝食食べて準備しろよ」
 ノックのすぐ後に声が聞こえ、扉が開かれる。顔を出したのはエミーゼルだった。フェンリッヒあたりに、ラハールを呼んでくるように言われたのだろう。つい最近、こちらの世界にきたラハールから見ても、エミーゼルがフェンリッヒを恐れていることがわかる。
 純粋な力の差もあるだろうが、体格や鋭い目つきが恐ろしいのだろう。そんなものに悪魔が怯えてどうすると、ラハールはいつも思っていた。彼は他人の見た目や力に怯えない。怯えなど自分の中に存在しているはずがないとすら思っている。
「……いらん」
 小さな声で返した。
「はあ? 何ワガママ言ってんだよ!」
 部屋の中に入り、ラハールの腕をつかむ。彼を連れていかなければ、フェンリッヒに怒られるのだろう。
 無理やりにでもラハールを連れていこうとするが、彼は動かない。そもそも、エミーゼルは仲間の中でも腕力が弱い。拳や剣を武器にして戦うラハールに勝てるはずがないのだ。年齢は似たようなものとはいえ、その戦い方は正反対だ。
「離せ」
 短い一言とともに、腕を振り払う。エミーゼルは振り払われた自分の手を見た後、ラハールを睨みつけた。
「何だよ! 本当にワガママな奴だな! それでも魔王かよ!」
 自分の父を思い浮かべながら叫んだ。この魔界では大統領と呼ばれている存在が、別魔界では魔王と呼ばれていることは知っている。エミーゼルはいつか父のような大統領になりたいと思っているのだ。
 ラハールと出会ったとき、同年代でも、人の上に立っている悪魔がいるのだと、希望を見たのだ。なにしろ、エミーゼルは己の幼さに引け目を感じていた。まだ幼いのだから、父のようにはなれない。幼いから上に立つことはできないと思っていた。それが悔しくもあった。だが、こうして話してみれば、とてもではないが他者の上に立つ資格のある悪魔には見えない。
「――うるさい」
 エミーゼルの目を見ようとしないのは、真っ直ぐな視線が痛いからなのだろうか。
「なんで、なんでお前なんかが魔王なんだよ!」
 責めるような叫びに、ラハールは一瞬、目を細める。そのことに気づかないエミーゼルは、さらに言葉を続ける。
「そりゃ、お前は強いよ。魔王の実子だって聞いたよ。だけど、それじゃ駄目だろ!
 一番上に立つってことは、責任とか、気づかいとかが必要なんじゃないのかよ!」
「うるさいと言っているだろ!」
 怒声と、破壊音が同時に響く。壊れた音は、ラハールの魔王玉が部屋の壁を消しさったものだ。威嚇として放たれたそれは、エミーゼルの紙を数本焼き払い、フードを焦がしていた。
 少しの間を置いて、エミーゼルは血の気が引いた。並みではない。エミーゼルも前大統領の実子ではあるが、彼ほどの力はない。力こそが全てだとする魔界でならば、ラハールは確かに魔王となれるだろう。
「どうした! 敵か?!」
 音を聞きつけて、ヴァルバトーゼ達が駆けつけてくる。すぐ傍に彼らがくるまで、エミーゼルは指一本動かすことができなかった。
「ピーピーうるさい連中だ。オレ様は今日はどこにも行かん。それだけの話だ」
「貴様、閣下のご予定を狂わせるつもりか」
 フェンリッヒがラハールを睨みつける。鋭い眼光は、見る者を竦ませるほど強い。だが、それに怯えるラハールではない。フェンリッヒに対抗するかのように、並んでいる彼らを睨みつける。
 純粋な力のみを浮かべた瞳に、後ろの方にいたデスコが小さな悲鳴を上げた。
「オレ様は好きなようにする。貴様らの指図など受けん」
 出ていけ。と、小さく告げる。
 あまりにも勝手な言い分に、フェンリッヒがさらに怒声を上げようと口を開いた。だが、その口から声は発せられなかった。彼の尻尾を誰かが引っ張ったのだ。唐突な感触に、フェンリッヒが振り返ると、そこには眉を下げた天使長がいた。
 今は引いて欲しいとその目が言う。彼女の言うことに耳を傾ける必要性は感じられなかったが、様子を見ていたヴァルバトーゼが戻るぞ、と声をかけたのでフェンリッヒも後に続くことにした。彼にとって、ヴァルバトーゼの言葉は何よりも優先されるべき事柄だ。
「すみません」
 ラハールの部屋からずいぶんと離れたところで、天使長であるフロンが謝罪を口にした。彼女の隣にいるエトナは、なんとも言い難い表情で尻尾を揺らしている。
「フロン様。どうして謝るのですか?」
 アルティナが尋ねると、フロンは悲しげに眼を伏せた。
「そーよ。フロンちゃんが謝ることないって。
 雨が降ったのは誰のせいでもないし、殿下がいつまで経ってもうだうだしてるのも、フロンちゃんのせいじゃないでしょ」
 エトナの言葉にフロンは首を振る。
 彼女達の様子を見て、ラハールのあの行動は何かしらの原因があることを知った。普段から理不尽でワガママし放題のラハールなので、特に原因があるとは考えていなかったのだ。
「理由があったからと言って、閣下のご予定を狂わせていいと思っているのか!」
 ある意味、フェンリッヒの言っていることは正論だ。閣下のご予定というよりは、誰かの予定を狂わせていいものではないだろう。いくら自分勝手な悪魔とはいえ、集団で行動しているからには、ある程度の協調性を期待するのも当然だ。
 特に、天使であるアルティナは協調性や思いやりを重んじ、身勝手なことを嫌う。今回ばかりは狼男さんの言う通りだとフロンに言う。
「……私は、魔界にいるとき、とても悲しい光景を見ました」
 フロンは胸の前で手を組み、エトナは話を聞きたくないのか、そっぽを向く。フェンリッヒは興味なさげであったが、ヴァルバトーゼは聞く体制に入る。
「それは、とても寒い場所でした。白い雪が、ゆらゆらと舞い落ちる。そんな場所でした」
 過去を思うフロンの瞳は、いつにも増して純真で、透明だ。
 アルティナも初めて聞く話なのか、胸に手を当てながらじっと聞いている。
 ラハールさんのお母さんは、プリニーになったお母さんは、そこで赤い月へ消えて行きました。何も明かさず、何も伝えず。
 私は、見守る愛もあるのだと。その時初めて知りました」
 フロンは魔界でのことを多く語らない。ただ、悪魔にも愛はあるのだと、それを告げるばかりだった。アルティナは、それは自分とヴァルバトーゼとの約束のように、秘めていたい宝物なのだと思っていた。今日、フロンの口から零れる言葉を耳にして、アルティナはそのことを確信した。
 見れば、エトナも悲しげな目をしている。いつもの苛烈さは息を潜め、いずれ昇るであろう赤い月に思いを馳せているように見える。
「ラハールさんの瞳は、落ちてくる雪と、昇る魂を見つめながら、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れていました。
 私には、あの瞳はラハールさんの心そのものに思えました」
 語るフロンの瞳もどこか揺れている。
「それで? だから、しかたないと言うのか?」
 フェンリッヒの言葉は、ある意味ではまっとうなものだ。ただ、その場にいたのが、天使であるアルティナを始めとする乙女思考を持った女性達であったことが不幸だった。
 発言をした次の瞬間には、左右からパンチを食らっていた。
「貴様らっ……!」
「酷いですわ。幼い子供が親から離される悲しみを理解してあげられないだなんて!」
「そーよ。親がいないと子供はひねくれるんだから」
「お姉さまのことですか?」
「なんでそうなるのよ!」
 騒いでいる四人の隣で、ヴァルバトーゼはラハールの部屋がある方向を見ていた。
 いつものワガママっぷりが見えないと、どうにも寂しいような気さえするのだ。いつものワガママなど、ヴァルバトーゼは軽く流すことができる。だが、窓際でじっと外を眺めているラハールは、年不相応で、危なっかしく見える。
「まぁ、今日一日くらい放っておいてやればいいだろ」
 その呟きはエミーゼルにしか届かなかった。


END