憧れの存在は、遠くから見ているからこそのものだ。近づいてみると、案外理想とは違う。
「兄貴、髪は拭いてください」
「ああ? 面倒だ」
ウォッカはため息をつく。
頭は切れるし、仕事もできる。冷酷なところもあるが、組織に入っているのだから、そのくらいは当然だ。ウォッカ自身、人を殺すことに躊躇いはない。彼ほど揚々とはこなせないだろうが、裏切り者の始末だってしてみせる。
ウォッカは組織に入ったころからジンのことを尊敬していた。もちろん、今でも尊敬はしているが、あくまでも仕事に関してはの話だ。
この男、私生活では仕事時の有能さが嘘のように堕落している。
堕落しているというのは言いすぎかもしれないが、ろくに料理もせず、風呂から上がっても髪を乾かさない。ただでさえ長い髪なのだから、もう少し気を使ったほうがいいだろうに。
風邪をひいて任務に支障をきたすような人間ではないと知っているが、それでも世話を焼いてしまう。
新聞を開き、椅子に腰かけているジンの後ろに立つ。
「乾かしますよ」
「好きにしろ」
あくまでも自分で乾かす気はないらしい。
ドライヤーのスイッチを入れ、長い髪を乾かしていく。男のわりに綺麗な髪が熱で痛まないように注意する。中々乾かない髪にウォッカは悪戦苦闘している。当の本人はといえば、優雅に二つ目の新聞を手にしていた。
「ウォッカ」
「なんですかい?」
「コーヒー」
「……あとちょっとですから」
自分のことを小間使いのように扱うジン。部下ではあるが、召使ではないと叫びたくなる。
上司であり、自分の尊敬する人物だが、今は仕事時ではない。多少の口答えは許されるのではないか。
「おい」
「は、はい!」
唐突に声をかけられた。
「お前が出ていっても問題ない」
視線を向けられることもなく、ただ淡々と告げられた言葉に、冷汗がでた。
心の中で思ったことを簡単に見抜かれてしまった。やはり、非日常的な能力が特化しているのだろうか。
「いえ……」
今、二人がいるのはジンの私室だ。
ウォッカがこうして部屋の中にいるのは、単にジンがそれを許しているからにすぎない。許されているのは、こうして面倒なことをしてくれるからだろう。
「んじゃコーヒー」
「はい……」
結局のところ、ウォッカはジンに逆らうことができない。
髪も大方乾かせたので、コーヒーを入れに台所へと向かう。
小奇麗な台所は、こまめに掃除されているからの美しさではない。使わないから汚れないだけだ。食器棚にある食器も、最低限の物しかない。
豆からひくなどという技術を持っていないので、余分に買って置かれているインスタントコーヒーを入れる。
「どうぞ」
「おう」
テーブルに置くと、お礼の一つもなく、当然のようにコーヒーを口に含む。
無防備だと思った。
仕事をしているときは一瞬の隙さえもないのに、他人が淹れたコーヒーを何の疑いもなく口に含む。毒でも入っていたらどうするのだろうか。
そんなところも含めて、ジンのことが好きだった。
この場合の好きは尊敬と同意義だ。
「明日の仕事だがな」
「はい」
仕事の話を聞く。
こうしているときはやはり素直に尊敬できる。
「――わかったな?」
「はい。じゃあ、オレは帰りますね」
そもそも、こうして部屋にきたのは、ジンの行動を先読みした結果なのだ。もう自分の仕事は終わった。本当の休日がこれから始まる。
「待て」
「は?」
思いもしない言葉に、思わず声が出る。
「朝飯を作ってから行け」
「……わかりました」
こうして、休日は減っていく。
END