男は一年のほとんどの時間、吹雪によって守られている山にいた。視界が悪く、満足に道をたどることもできない。だというのに、男は足を止めるどころか、躊躇する様子もない。
 彼の目はどこか生気がない。自分の無力さに打ちひしがれているようでもあった。どこへ向かっているという感覚すらないのだろう。何かに誘われるように、頂上をひたすらに目指した。そこには、何かがあるような気がしていたのだ。
 不意に、男の膝が落ちた。立ち上がろうと思ったのだが、それは実行に移されることはなかった。まるで、脳が立ち上がることを拒否するように、足は動かない。このまま横になれば、いずれ白い雪が男を隠してしまうだろう。
「……白、か」
 男は呟いた。
 白色、それを認識すると、朦朧としていた意識がはっきりした。
「あの子供は、マサラタウンの出身だったな」
 うめくような声を出し、男は立ち上がる。
 脳裏に思い描いたのは、三年前に男を倒した少年の姿だ。
 三年前、子供に三度も敗れた男の名は、サカキという。彼は己を鍛えなおすために、一人修行の旅をしていた。その最中、元部下達の声がラジオから聞こえてきたのだ。組織を再興させる日がきたのだと思った。しかし、それはまた別の少年に阻まれてしまった。
 三年前にサカキを破った少年と、よく似た瞳をしていた少年だった。
「私は、越えねばならない」
 サカキは拳を握る。
 一人の子供に壊滅させられるような組織であっていいはずがない。もっと強く、もっと部下達の力を引き出せるように。その一心で修行をしてきたはずだった。
 ラジオ塔への道を阻まれたとき、サカキは己の無力さに身を投げた。生き恥を晒してまで生にしがみつきたいと思っていなかった。しかし、彼は生きていた。目を覚まし、己の命が未だにこの世にあることを知ったとき、サカキは知った。
 あのときの少年を倒すため、そして、その後組織を再興するために、己は生かされたのだ。
 道中、ロケット団の再興が失敗に終わったと聞いた。あの、三年前の少年とよく似た目をした少年の仕業だろう。自分を信じ、あのラジオ塔で待っていた部下達は、どのような気持ちで敗れたのだろうか。それを思うと、わずかに胸が痛んだ。
 修行の旅は困難を極めた。ポケモンを一新し、三年間の時間を経た。その間、かつて以上に励み、強くなろうとした。その結末が、敗北だ。何をすればいいのか、どうすればいいのか。目の前は常に暗かった。そうしているうちに、体は不思議とシロガネ山に向かっていた。
 白色を目にし、サカキは目の前の闇が晴れたような気がした。
 白色は始まりの色。マサラタウンではそう言われているらしい。
 サカキは再び歩きだした。頂上はもうすぐそこにあると、確信していた。
「――ここが、頂上か」
 平らになっている頂上で、周囲を見てみる。相変わらずの吹雪で、己の手すら見失いそうになる。標高も高いので、この吹雪さえなければ、絶好の景色が見られたことだろう。
「……誰」
 背後から人の声がした。
 ここまで登ってきたサカキだが、こんなところに人間がいるとは思ってもみなかった。驚き、振り返る。
 吹雪が声の主を隠してしまっている。だが、白い世界の中にわずか、赤い色が見えた。
「お前は、まさか」
 唾を飲み込む。その音がやけに大きく聞こえた。
「ボクを知ってるの?」
 声の主が近づいてくる。
 雪が踏みしめられる音と共に、赤い色がサカキの目の前に現れた。
 見間違えようもない。彼こそが、三年前にサカキを三度も破った少年、レッドだ。
「……あんたは、サカキ?」
 レッドは少しばかり眉間にしわを寄せ、疑問符をつけた言葉を投げてきた。
 彼のほうからしても、サカキとのバトルは忘れられないものだったのだろう。疑問符をつけながらも、その瞳は目の前にいる男が、サカキであることを確信していた。
「そうだ」
「なんでこんなところに」
「それは私の台詞でもある」
 いずれ越えねばならない者が目の前にいる。サカキの手は、無意識のうちにモンスターボールを手にしていた。
「……ロケット団の再興は、ゴールドが止めたって聞いたよ」
「あの少年はお前の知り合いか。どうりで、目が似ていると思った」
 レッドは小さく首を横に振った。
「最近、よくバトルするだけ」
 ゴールドとのバトルを思い出したのか、小さく笑みを浮かべる。
「それで、あんたはまだ悪いことをするの?」
 例えば、ポケモンの遺伝子を組み替えたり、奴隷のように扱ったり、尻尾を売り物にしたり、殺したり。レッドが言う悪いことがどれに当てはまるのかはわからないが、組織が再興したらそのどれもが行われるだろう。
 サカキは口角を上げた。
「お前を倒し、再興させるだけの力を得たらな」
「じゃあ、ボクが倒されなければいいんだ」
 レッドがボールを構える。サカキも対抗するようにボールを構えた。しかし、そこで我に返る。
 今、サカキが持っているポケモンといえば、新たに育てなおしたポケモン達だ。そのレベルはかつてのポケモンよりも劣る。そんなパーティでレッドに勝てるとは到底思えない。
 舌打ち一つして、ボールを下げる。レッドは意外そうな顔をした。
「今はまだ、お前に勝ち得るだけの戦力がない」
 そう言って背を向ける。
「お前はここにいるのだろ?」
「誰かがボクを倒すまでは」
「なら、いずれまた会うことになるだろう」
 頂上から立ち去ろうと、サカキが足を進める。その歩みを止めたのは、レッドの疑問だ。
「あんたはなんで、ポケモンをあんな風に扱えるんだ」
「……おかしなことを聞く。
 ポケモンは人間の家畜であり、商品であり、奴隷だ。どのように扱おうが問題はない」
「違う。ポケモンは仲間だ」
 サカキはレッドの方を振り返り、嘲笑うかのように口角を上げた。その表情は、元ロケット団ボスにふさわしいものだった。
「私はお前、決定的に違う部分はそこだな」
 自然な動作でボールを放り投げ、一体のポケモンが現れる。
「ドンガラス?」
 レッドは首を傾げる。
 サカキは地面タイプを専門に扱うトレーナーであったはずだ。ドンガラスのタイプはあくとひこうであり、地面タイプではない。
「私が命令すれば、こいつはこの吹雪の中でも飛ぶ。それはお前のポケモンもそうだろ?」
 頬を刺すような寒さの中でも、視界が悪い吹雪の中でも、ポケモンは望まれたことをする。バトルのために、トレーナーのために。
「それは当然のことだ。そして、人間がポケモンを『使う』のも、また当然のことではないのか」
「ポケモンにだって拒否権はある。彼らがそれをしないのは、トレーナーとの信頼関係があるからだ」
 ドンガラスは鳴き声を上げるでもなく、ただじっとサカキとレッドの様子を見ている。寒さに耐性がないとは思えぬ腰の据えようだ。
 そんなドンガラスの隣で、サカキは大声で笑った。
「それはおかしい。だとすれば、私のポケモンは、元部下達のポケモンは、互いを信頼しあっていることになる。
 ならば、ポケモン達は奴隷ではない。お前の言うとおり仲間なのだろう。
 だとすれば、私達の関係に口を挟む道理などないはずだ」
「お前達は人のポケモンや、野生のポケモンをいじめていた」
「ゲットすれば問題ないのだな」
「屁理屈を!」
「お前の言っていることは夢物語なのだと、早く気がつけ」
 サカキは指を一度空へ向ける。たったそれだけの動作で、ドンガラスはすべてを理解したかのようだった。
 黒い羽根を広げ、軽く飛び上がる。その足にサカキが掴まった。
「例えば、強さのみを追求し、ポケモンを選別することに反対している連中がいるな」
 レッドを見下しながら、サカキは淡々と言葉を紡ぐ。
「理由は生まれたばかりのポケモンが可哀想だからだとか、生態バランスが崩れるだとか言っている。
 だがな、ポケモンは生まれてすぐに戦う力を持っている。だからこそ、ポケモンは卵をあっさり人の手に渡す。生まれてすぐ逃がしたからといって、なんら問題はない。
 生態バランスを声高に上げるのならば、育て屋でオスとメスを離して育てるように決めておけばいい。そうでないからこそ、トレーナー達は卵を孵化させ、選別するのだ」
 反論しようと、レッドが口をあけるが、サカキの姿はすでに吹雪が隠してしまっている。
「ポケモンのために、などという夢物語はどうでもいい。
 私は、私のために利益を追求し、世界を手にいれる」
 ドンガラスの羽音が聞こえ、それ以降はいつも通りの静かさがあるだけだった。
 レッドはサカキの声を頭の中で何度も聞いた。その声は、シロガネ山の雪よりも、ずっと冷たいものだった。けれど、あのドンガラスはどこか幸せそうな顔をしていたようにも見えた。一匹だけ毛色の違うあのポケモンは、もしかするとサカキが卵から孵化させて育てたのかもしれない。
 白に閉ざされた世界の中で、少年は卵へ思いを馳せた。
 願わくば、幸せにしてくれる人のもとへ。


END