冷たい雪の降る中、二人の少年が対峙していた。幾時間か経ったとき、片方は喜びの雄たけびを上げ、もう片方は呆然としながらも笑みを浮かべていた。
それがあったのがつい先日。あの時呆然としていた少年は今、冷たい雪の世界から抜け出していた。
暖かな地上に体を伸ばし、懐かしい我が家へと足を進める。そらをどぶで帰っても良かったのだが、久々のこの感覚を味わっていたかった。顔を出す野性ポケモンに軽く手を振ることも楽しい。まだ生まれたばかりで幼いポケモンばかりだ。
山の上のように白い町につく。マサラタウンはまっさらで真っ白な町。彼にとって全ての始まりの町だ。
「ただいま」
迷うことなく、自宅の扉を開ける。
「……おかえり」
旅だったときと変わらぬ笑みを母は返す。その顔は少しばかり老けてしまったように見える。
「ずっと帰ってこなくて、連絡もしなくてごめんなさい」
山の上で生きている間、不意に罪悪感が襲ってくることがあった。今まで自分を育ててくれ、旅立ちを見送ってくれた母を放ってきた。たった一人の息子だというのに、何かを告げることすらしなかったのだ。罪悪感がありながら、レッドは帰ろうとしなかった。それは自分自身で決めたとある事柄のためだった。
「いいのよ」
母はゆっくりとレッドを抱き締める。暖かな温もりは本当に懐かしくて、心地良い感覚だった。
「男の子はそうして大きくなっていくんだから」
口ではこう言っていても、本当は心配でたまらなかったのだろう。抱き締めている腕がわずかに震えている。ごめんなさい、と口の中で呟く。これは次に言う言葉のために呟かれたものだった。
「また、旅に出ようと思うんだ」
「そう」
抱き締めていた腕が解かれる。真っ直ぐな瞳がレッドを射抜いた。
それは責めるようなものではなく、強くも優しく彼の背中を押すものだ。
「男の子だもんね。強くなりなさい」
静かに頷く。
どこまで強くなれるのか、どこまで上ることができるのか。レッドの瞳は期待で揺れる。
「そうだ。これ持って行きなさい」
「……何これ」
レッドの記憶にはないものだ。
「ポケギア。遠くの人と連絡がとれたり、ラジオが聞けたりするのよ」
「科学の力ってすごいな……」
たかが三年。されど三年。
レッドが人との接触を極力絶ってから流れた時間は、思っていた以上に早かったようだ。
「さあ、どこにでも行ってらっさい」
体を反転させられ、背中を叩かれる。
科学の力よりも、この母の力にはいつも助けられている気がした。ちらりと後ろに視線をやり、母を見る。満面の笑みを確認し、レッドは頷いた。これで何の不安も心残りもない。足を踏み出し、外へ出る。
「そうだ。グリーン君には挨拶しないの?」
リザードンを出そうとした手が止まる。
グリーン。それは幼馴染であり、唯一のライバルだ。彼に勝利してもその事実は変わることがない。
「彼、トキワでジムリーダーをしてるのよ」
そのことは風の噂で知っていた。結局チャンピオンにはならなかったのかと、少し驚いたのでよく覚えている。ここへくる途中、トキワと通ったが彼に会おうとは思わなかった。三年という月日は、ライバルとの接しかたを忘れさせてしまっていた。
第一、よく考えてみれば、レッドの方から彼に接触を試みたことは少ない。いつもグリーンが前に立っていて、レッドはそれを追うように歩いていた。たからこそ、グリーンを倒し、チャンピオンになってしまったとき、自分がどうすればいいのかわからなくなった。
「会ってらっしゃい。後悔したくないでしょ」
優しい声に背中を押され、レッドはモンスターボールを腰に戻した。再び地面をしっかり踏みしめ、トキワへと向かう。
懐かしい場所だ。昔はロケット団のボスがいた場所。成り行きで追い詰めて行った者達のボスを倒した場所だ。
扉を開けると、挑戦者がジムリーダーと戦うに見合うだけの実力を持っているかを計るための人々が見える。誰もレッドのことを知らないのか、その他大勢の挑戦者の値踏みをするかのような視線が向けられた。不意に、レッドは背筋が粟立った。
感じたのは懐かしさだ。あんな人のいない山では味わうことのできないトキメキが溢れる。ボールを手にとり、バトルを申し込む。
「キミ達は強い?」
浮かんだ笑みに、誰もが後ずさる。
値踏みの必要などない。ここにいる誰よりも彼は強いだろう。多くの実力者と戦ってきた彼らにはそれがよくわかった。
「どうした。えらく騒がしいけど」
氷つくような世界の中に現れたのは、ジムリーダーであるグリーンだった。
「……久しぶり」
手にしていたボールを元の位置にしまい、片手を上げる。やはり久々に見たライバルは昔よりも少し大人びていた。自分も昔と比べれば大人びているのだろうかと、少しだけ期待する。
「お前、レッドか……?」
やはり自分もずいぶん変わっているのだろうか。どう変わっているのかが少し気になった。尋ねてみようかと、口を開いたが言葉を放つ前にグリーンの怒声が響いた。
「どこ行ってたんだ! 三年だぞ、三年!」
胸倉を掴まれる。近くで見ると、やはりずいぶん雰囲気が変わっているように感じた。思わず微笑むと、呆れたようなため息をつかれた。
「ずっとシロガネヤマにいたんだ」
「はあ? あんなとこで何してたんだよ」
手が離され、向かい合う。
「……さあ」
何をしていたのだろうか。
「たぶん、待ってたんだと思う」
自分よりも強い誰かを。世界の人々が自分のことを忘れてしまうのを。
チャンピオンになって、どこへ行けばいいのかわからなくなった。もう一度、はじめからやり直したいと思ったことが何度もあった。
「そっか。
ま、帰ってきてくれてよかったよ」
「もう一度、旅に出ようと思って」
そうか、と笑ってくれる。
「カントーだけじゃなくて、ジョウトやシンオウ、ホウエン……世界は広い」
新天地へ目を向けたレッドに、グリーンは驚く。何故かレッドはこの地方から出ていくことはないと思っていた。カントーのジムリーダーや四天王は他と比べてレベルが高いという話を耳にしたことは何度もあった。
ゆえに、グリーンはカントーで一度チャンピオンになり、ジムリーダーになった自分を誇りに思っている。
「何で……」
「負けたんだ。ジョウトからきた人に」
「……ゴールドか」
「ああ、やっぱり知ってたんだ」
第一印象は元気な奴だった。戦って見れば、彼は楽しそうに、それでも確実にグリーンを追い詰めていった。
「待っているだけじゃダメなんだ。探しに行かないと」
楽しそうに笑うレッドを見て、グリーンは引き止めることなどできないと知った。一緒に行きたい。昔のように、切磋琢磨しながら旅をしてみたいとも思ったが、自分の地位がそれを邪魔した。
「今度は逆だな」
「逆?」
グリーンの言葉にレッドが首を傾げる。
「オレがお前を追いかける」
今すぐには無理でも、いずれ旅に出る。その決意が瞳からうかがえた。ジムの中にいるトレーナー達が目をむいたが、二人ともそれを無視した。
「そう」
「おう。待ってろよ」
「君は待っててくれた?」
「いーや」
歩幅をあわしたことはなかった。それでも二人は近づき、何度もバトルした。
「楽しみにしてる」
「オレもだよ」
ジムを後にした赤い少年はリザードンの背にまたがり、カントーを抜けた。
END