何かしてほしいことがあれば、部屋にある唯一の扉をノックする。
やってくる時間に差異はあれど、必ず看守が現れた。
「カンシュコフさんは他の囚人さん達も担当しているんですか?」
元一般市民であったプーチンに、看守事情などわかるはずもない。ふと気になったので食事の時間に尋ねてみた。
「ああ、この廊下……ってお前には見えてねぇだろうが、ここはオレの担当だ」
今いる部屋の外を見たのは、ここへ来たときが最初で最後だ。約三年前の記憶を呼び起こしてみるが、霧がかかっていてよくわからない。
とにかく、複数の囚人を担当しているということだけはわかった。
「ようやく複数担当できるようになったもんな」
扉の向こう側からからかうような声が聞こえてきた。
プーチンがその声の主を確かめようとしたが、小窓は素早く閉じられてしまった。少々行儀の悪いことだとは思いつつ、鉄の扉に耳を当ててみる。
「余計なこと言わないでください!」
「いいじゃねーか。本当のことなんだしよ」
「ロウドコフさん!」
カンシュコフの怒鳴り声が聞こえてくる。
余計なことというのが、一体何を指すのかわからない。もっと詳しい話が聞きたくなり、耳をさらにそばだてる。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。しかし、プーチンの体は宙を舞っていることだけは確かな事実だ。空中で先ほど自分がいた場所へ目を向けてみると、いつもと同じ無表情のキレネンコが立っている。
先ほどまでベッドに寝転んで雑誌を読んでいたはずなのに、瞬間移動でもしたのだろうか。そんな馬鹿なことを考えているうちに、プーチンの体は自分のベッドへと落ちた。
「もー。何するんですか」
大した痛みはなかった。無表情な隣人は意外と優しい。
「……やめておけ」
滅多に言葉を口にしない彼が静かに言った。
睨みつけるでもなく、暴力でもなく、言葉で制止されたことがプーチンの好奇心をさらに高める。
他人に知られたくないことの一つや二つ、誰にでもあるだろう。それを詮索することは決して良いことではない。しかし、気になるものはしかたないのだとプーチンは自分に言い訳を重ねた。
数日後、プーチンにとってまたとないチャンスが訪れた。
「仕事の時間だ」
ロウドコフが現れ、キレネンコはベッドで熟睡している。
いつもならば一時間もすれば興味など薄れてしまうのに、今回の件に関しては興味が薄れる気がしない。この機会を逃してしまうわけにはいかなかった。
「はーい」
プーチンはマトリョーシカを組み立てながら、ロウドコフの目を見た。
嫌味な目ではない。大雑把ではあるが器の大きい目をしている。カンシュコフの嫌がることを口にしたのは、たんにからかいたかっただけなのだろう。あのキレネンコが止めるようなことを、果たして教えてくれるのかわからない。
「……あの」
「私語は慎め」
隣に鞭が叩きつけられる。
身をわずかにすくめるが、これしきで諦めるプーチンではない。隣人に比べれば、彼の鞭など怖くもなんともない。
「カンシュコフさん、何かあったんですか」
キレネンコに聞かれぬよう、小さな声で尋ねてみた。
言葉は扉の向こう側に届いていたようで、怪訝な視線が帰ってくる。
「この間、カンシュコフさんがようやく複数担当になったとか、言ってたんで」
視線を下に向けて、小さな声で答える。
「ああ、あれか」
一度だけ視線を合わせると、扉の向こうにある目が笑った。
「耳、かせ」
話してくれるのだ。
プーチンは目を輝かせ、扉に耳を当てる。
「あいつな、ずいぶん前に囚人に襲われたんだよ」
ここは監獄だ。悪人が集まっている。油断をすれば襲われてもおかしくはなく、現に今もカンシュコフはキレネンコに襲われ続けている。それでもめげずに毎日やってくる彼が、普通の囚人に襲われた程度でどうにかなるとは思えない。
「あ、お前勘違いしてるだろ」
楽しげな声に首をかしげた。
「襲われたってのは、犯されたってことだ」
思考が止まる。
何度か扉の向こう側にいるカンシュコフの姿を見たことがあるが、女には見えなかった。むしろ、囚人達の相手をするために鍛えられた肉体をしていた。そんな彼が、女性のように犯される姿を想像することはできない。
「脱獄の準備をしてたらしくてよ」
プーチンの姿が見えていないのか、ロウドコフは言葉を続けていく。
「そのまま逃げりゃいいのに、看守に仕返しをしてやるってな」
カンシュコフはキレネンコの房の前に部屋で生活をしている。キレネンコが何かを要求してきたときに、すぐ対応できるように用意された部屋らしい。いつだったか、彼はまるで囚人になった気分だ愚痴をこぼしていた。
そのことを囚人達は知っていたのだ。
監獄内で泥棒が出るとは思えない。カンシュコフは部屋に鍵をかけていなかった。無防備に寝ているところを、数人がかりで襲われればひとたまりもない。
「助けたのが、そこにいる奴だったってわけ」
何を思って助けたのかはわからない。キレネンコは何も話さなかった。
房の扉を吹き飛ばし、目の前にある部屋にいる囚人達を殴り飛ばしたのだ。キレネンコが暴れた音により駆けつけた看守達に発見されたカンシュコフは酷い有様だったらしい。襲われた恐怖によるものか、しばらくは仕事もできなかったという。
復帰してからも、扉の前へ立つと足が震えていた。だが、助けてもらったことは理解していたのか、キレネンコに対する仕事だけは通常と同じくこなすことができた。上層部も、今回の不祥事をもみ消すのに忙しかったのか、しばらくはキレネンコのみの担当ということになったのだ。
「ま、今は普通に仕事してるけどな」
聞かなければよかったのかもしれない。プーチンは自分の心が重くなっているのを感じた。いつも笑っている彼にも触れられたくない部分はある。そのことを改めて思い知らされた。ロウドコフが何を思ってこの話をしたのかはわからない。聞かれたから答えた。ただそれだけなのだろう。
「時間過ぎてますよ」
聞こえてきたのはカンシュコフの声だった。あの話を聞いてしまった後、彼にどのような顔を向ければいいのかわからない。プーチンは身を固くする。
「マジかよ」
「ゼニロフさんは後で来るらしいです」
せめて一つ手前にクッションがほしかった。
扉が変わる音がする。プーチンは切実に鏡を欲した。せめて今の自分がどのような顔をしているのか知りたかった。見られてしまえば、すぐに察することができるような表情をしていなければいいのだが、顔を見ただけであの話を聞かれたのだとわかるような顔をしていたら、彼は傷つくだろう。
「馬鹿か」
いつから起きていたのだろうか。キレネンコがプーチンの頬を引っ張る。
瞳の中に感情は見えない。
「ご、ごめんなさい」
頬を引っ張られながら謝る。キレネンコに謝ってもしかたないのだが、カンシュコフに謝ることはできない。
「あっ、キレネンコ何してんだよ!」
虐められてると思ったのか、カンシュコフが扉越しにプーチンを助けようとする。結果から言えば、キレネンコの一睨みであっさり小窓を閉めたので、何の助けにもなっていなかった。
引っ張ることに飽きたのか、キレネンコは唐突にプーチンの頬から手を離す。
「大丈夫か?」
心配そうな視線を向けられたが、自分にその価値はないのだと落ち込んでしまう。
「そんなに痛かったのか。今、氷持ってきてやるよ」
いつもと様子の違うプーチンをどう解釈したのか、カンシュコフは足音を立てながら走って行った。
END
R15おまけ