泣く子も黙るブラック工場。
それは近隣の住民でも、まず近づくことのない山の中にひっそりと建っている。無論、人が働き、稼動している時点で全てを隠し通すことなどできやしないのだが、暗黙の了解的に工場は非人道的な役割を抱いて存在していた。
山の一部を複数個所切り開き、木々に隠れるようにして何棟かの低い建物がある。それぞれは細い通路で繋がり、行き来できるようにはなっているものの、全体を見渡してみれば敷地の輪郭をなぞるようにして高いフェンスが設置されているため、自由度は限りなく低い。施設内で働く者達がその足で行ける場所は、働くための工場か、フェンス内に設置されている宿舎くらいのもの。申請すればフェンスは開くのだけれど、当然ながら許される者とそうでない者が存在していた。
「班長、お疲れ様です」
「あぁ」
自分よりも年上の男に頭を下げられた若い男。この工場内のM棟I班にて終身名誉班長の席を与えられた一松は目深に帽子を被り、掠れた声を返す。
部下の物よりかは幾分か綺麗な、しかし、あちらこちらにほつれが見え、油が染み込んだ跡がポツポツと見られる作業着は年代物だ。彼がどれだけの時間、この工場に勤めているのかが窺える。
彼が一直線に向かうのは、自室のある社員寮ではない。それよりも手前、正式な手続きを持って外へ出ることのできる出入り口の一つ。
「6254番、松下一松。一時間」
「……はい。どうぞ」
滅多に声を出さないのだろう低く寂れた声が殆ど毎日告げている言葉を口にした。それに対する答えは普遍的で、代わり映えがない。
何十、何百とこのやりとりを繰り返したところで、事務的な手続きが簡略化することはなく、また、受付と一松の間に友情的なものが芽生えることもない。何故ならば、そもそもの話、彼は受付のことを全くもって覚えていないのだ。顔も声も性別も。何もかもが脳に留まることなく流れて消えていく。
準人間でしかない彼の脳容量には、赤の他人を記憶しておくような空きがない。淡々と流れるままに、回るがままに、歯車として生きていくことだけが一松の在り方なのだ。そうやってそれなりの年月を経て、それなりの成果を出し、それなりの地位についた彼だからこそ、簡単な手続きさえ済ませてしまえば外に出ることが許されていた。
錆び付いた音をさせながら、ゆっくりと外への扉が開く。
重鎮な扉の向こう側は、当たり前のようにフェンス越しに見ている景色と同じで、月の光を遮断する木々が覆い茂るばかり。コンビニも街灯も存在していない闇の空間だ。
現在時刻は夜中の二時。
普通の神経を持った人間であれば、こんな時間に山を歩こう等とは思わないだろう。
一松の曲がった背中を見送った受付の男は、ため息と共に手元のノートを見る。
外へ出る人間の番号と名前、出た時間、申請された時間、最後に戻ってきた時間を書く欄が設けられたそれには、一松の名前ばかりが並んでいた。仕事の都合があるため、時刻も殆ど同じ午前二時。
工場で働いている人間とは違い、まだ人間的生活水準を保っている受付の男からすれば、引き止めなければならない案件だと判断できてしまう。しかし悲しいかな、彼とてこんなところで受付をしている程度には底辺を彷徨っているわけで、上からの命令には逆らえない。
余計な判断をするな。申請されたとおりにしろ。と命令されてしまえば、黙って扉を開けることしかできないのだ。
「あの人も、どうせなら逃げちまえばいいのに」
男は一人呟く。
人間以下の扱いを受け続けるくらいならば、暗い山の中で死に絶えたほうがマシかもしれない。実際、そういった思いで外出を申請する者もいる。
もっとも、そういった考えを持つ人間は、申請が却下されてしまうため、結局死ぬことも逃げることも叶わないのだけれど。
*
手にした懐中電灯で足元を照らしつつ、慣れた足取りで一松は山の中を進んでいく。歩けども歩けども同じような景色ばかりで、迷わずにいられることが奇跡のようにも思えるが、伊達に何年もこの山と付き合ってきたわけではない。彼からすれば、「似た景色」は「全く違う景色」に様変わりする。
しばらく進んだところで、一松は手近な木の根に腰を降ろした。
今日も今日とてぶっ続けの立ち仕事だ。足も棒になる。
「にゃー」
猫の声真似をしつつ、彼は作業着のポケットを探る。
大きめに作られたそこには、一つだけ猫缶が入っていた。それを手にし、一松はその場で缶を開ける。途端に広がる魚臭さは猫を呼び寄せるには最適な香りだ。
鼻歌交じりに缶を地面に置けば、何処からともなく猫達が集まり始める。
三毛に虎に白に黒。様々な猫が一松を囲む。彼らは捨てられたり、野良同士の交尾によって生まれた猫だったりする野良達だ。昼間は麓の民家でのんびり餌を貰っているヤツもいるようだが、大体の猫は夜になると自然を求めてこの山に帰ってくる。
一松はそんな猫達と交流するのが何よりもの楽しみだった。
ほんのわずかではあるが、歯車であることを放棄できる時間。暖かな毛の感触に、乾いた心がわずかに潤う。
「仲良くな。仲良く」
手元の猫を優しく撫でる。そして、わずかに眉を下げた。
毎日午前六時から午前零時を過ぎるまで働かされているが、ブラック工場では当然のごとく残業代等というものは出ない。給料は時給制だが、最低賃金を大きく下回っている。その上、入ることを義務付けられている社員寮の家賃やら光熱費やらが天引きされ、一松の手元にやってくるのは一月食べていくのでやっと、という程度の金。どうにか猫缶代を捻出してはいるが、あまり高級なものは買ってやれないのが現状だ。
もうすぐ給料日なので、おやつ代わりのにぼしを買ってきてやろう、とは思うが、その程度のことしかしてやれない。
殆ど唯一の癒しであり、友人達にしてやれることがあまりにも瑣末すぎて、一松はちょっとした自己嫌悪に陥ってしまう。
「……ヒヒッ、ありがと」
一松の落ち込みを察したのか、猫の一匹が彼の鼻っ柱にキスをする。猫缶の匂いがぷんぷんしたが、一松はまんざらでもない気持ちでそれを受け取った。
猫は人間と違い、嘘をつかない。一松を裏切りもしない。最高の友人だ。
彼らは一缶を分け合い、それなりに腹が膨れたのか、ごろごろと機嫌良さ気に一松と戯れる。彼も顔を綻ばせながらその相手をする。帰りのことも考えると、あまりゆっくりもしていられないのだが、その分、短い時間を有意義に使いたいと考えていた。
だが、そんな至福のひと時を邪魔するモノが現れる。
最初に反応したのは猫達だった。彼らは人間よりもずっと耳がいいため、一松には聞こえない音をいち早く察知した。耳をたて、皆が同じ方向を見る。何匹もの猫が一様に同じ姿をしてみせるのは形容しがたい異様さとおぞましさを兼ね備えていた。
一松がわずかな寒気と共に、猫達と同じ方向を見る。途端、彼らは脱兎のごとく逃げ出した。それぞれが違う方向に。しかし、見ていた方にだけは決してその四肢を向けない。
危険な匂いがする。一松が考え、立ち上がったとき、一応は人間である彼の耳にもとある音が届いた。
甲高いわけではない。しかし、人の鼓膜と胸を突き抜ける響きと強さを伴ったそれは、普通に日本で過ごしていればまず本物を聞くことのないもの。ここブラック工場でならば何度かは耳にするであろうもの。
銃声だ。
「――誰だ」
猟銃の類ではない。
そんなものを持って狩りをするような人間はこの辺りにはいない。いたとして、ブラック工場のあるこの辺りにまではやってこないはずだ。
一松は足を踏み出す。
猫達が向かわなかった方。銃声がした方へ。
「チッ。ぶっ殺してやる」
こんな山奥にまでくるのは知能のない馬鹿か、お天道様に顔向けのできない連中かのどちらかだ。前者であるならば、猫を怖がらせた代償として身の毛もよだつ思いを味あわせてやる。ついでに猫の餌代も巻き上げられれば万々歳。後者であるならば相手を見て判断する。工場と関わりのありそうな連中や幹部クラスならば腹立たしいが放置。三下であれば馬鹿と同等の制裁を。
幸いにして、一松は裏家業の人間を何度も見てきているし、言葉を交わしたこともある。同僚の中にもそういった職についていたものはいるし、班長という役職柄、工場を裏で支配している連中や製造している物を目当てに擦り寄ってくる連中と少々話しをする必要があったのだ。
闇に臆する心はなかったし、いざというときには自分の身くらいは守れる自信もあった。
一松は懐中電灯を消し、ほんのわずかに差し込む月明かりだけを頼りに、木の葉を踏み荒らしながら進んでいく。すると、また一発銃声が聞こえる。誤って森に住む猫に怪我でもさせていたら本気でぶち殺してやろう、と殺害後の計画を脳内で組み立てていく。この辺りの土地ならば、適当に埋めてしまってもバレやしないはずだ。
苛立つ彼の耳に、木の葉を撒き散らす音と人の声が届く。
「待ちやがれ!」
追う者の声。
一松は近くにあった大きな木の幹に体を隠す。
懐中電灯を切っておいたおかげで、目はだいぶと闇夜に慣れ、どうにか人影を判別することができるまでになっていた。
「……あれは」
小さく呟く。
数メートル先にいるのは二人の男。片方、追う側の男には見覚えがない。だが、身に着けている物を見るかぎり、三下、鉄砲玉止まりであることは明白だ。
そしてもう片方。追われている側。こちらには見覚えがあった。一松が働く工場を裏で支配しているファミリーの幹部。時たま、工場の視察に来ているのを見かけたことがある。直接的な面識はないが、きりっとした眉が中々に印象的で、一度見たら忘れられない顔をしていた。今は顔の造詣まで見ることができないが、風にたなびくスカーフや馬鹿みたいに月明かりを反射している腕時計が彼であることを証明してくれる。
わずかな間、一松はどちらに制裁を下すべきか考えた。
どちらの人間も邪魔者であることに代わりはない。たとえ追われている側がただの被害者であったとしても、こんなところで追いかけっこをされては迷惑だ、というのが一松の意見なのだ。故に、幹部の男とて一松の攻撃対象範囲に入りこむ。
しかしながら、幹部に手を降すのはいささかリスクが高すぎる。マフィアというのは、地位に見合うだけの殺害能力も持っているのが常。追う側と挟み撃ちにしたとしても、避けられるのが関の山。下手をすれば一松の方が追う側の銃弾を受けてしまう可能性だってある。しかも、相手は自分を雇っている側の人間であるともいえるのだから、彼の死が一松の仕事にどう影響してくるのかわかったものではない。
対して三下ならばどうだろうか。幹部側がファミリーを裏切り、その制裁のために動いていたとしても、塵芥同然のモノが消えたところで上は何とも思わないはずだ。死が白日のもとに晒されたとしても、抹殺対象によって返り討ちにあったのだろうと思われるだけで、大した捜査もされないはず。一松の単純極まりない仕事に影響を及ぼすこともないだろう。
結論はすぐに出た。同時に、一松は音もなく木を昇り始める。
大した運動はしていないのだが、彼は身体能力が生まれつき高く、喧嘩や木登りに不自由したことは一度もない。
するすると登っては隣の木に飛び移る。少しずつ一松は二人へと着実に近づいてゆく。彼らの殆ど真上に来た頃には、眼下での会話も耳に届くようになっていた。
「いい加減、考え直しちゃくれませんか?」
「断る、と何度言えばわかる?」
「悪い条件じゃないでしょう。
あの工場で作られてるブツをちょっとこっちに横流ししてくれりゃ、報酬は弾むっていってるんだ。
万が一、ファミリーにバレたらオレ達のとこにくればいい」
どうやら一松の判断は非常に正しかったらしい。
三下は工場とは特に関係のないファミリーの一派で、奴らは幹部を通してブツの横領を狙っているらしい。何処のファミリーかは知らないが、どうにも狡い部分が隠しきれていない。建前だけだとしても、マフィアたるもの裏切りを許すべからずの掟は守るべきだろう。裏切りを誘うなどもっての他であるし、一度ファミリーを裏切ったことのある人間を迎え入れるなど愚の愚。三下が所属するマフィアは碌なファミリーではないらしい。
一松はそっと舌なめずりをする。
これで何も気にする必要がなくなった。元より、蟻ほどの大きさもない懸念だったけれども。
「オレは家族を裏切りはしない」
幹部の腕時計が光る。
銃を手にしたときの動きが、月明かりを反射したのだ。
馬鹿な奴、と一松は考える。普通、闇夜で行動する際は光物は外して然るべきだ。そうでなければ、相手に自分の位置を教えることになるし、今のように些細な動作を悟らせる結果に繋がる。
戦いなれていないわけではないのだろうけれど、隠密行動は苦手らしい、と当たりをつける。だが、そんなことはどうでもいい。
三下は幹部の動きに気づき、いち早く銃を構える。腕時計が光った方向に銃口を向け、引き金を引く。それだけで全てが終わる、はずだった。
彼が照準を合わせたとき、頭上で静かに落ちた者があった。
引き金を引くために力を入れたとき、ソレはすでに腕を広げ、三下の首を絡めとり、足を用いて体の自由を奪っていた。
「――ガァッ」
一瞬の出来事だ。
三下は醜い呻き声を上げ、仰向けに倒れる。一度、引き金が引かれたが、銃口はブレ、弾は斜め上に発射されるばかりで、人間どころか鳥一羽打ち落とせやしない。
「ここはボクらの縄張りだ。
あまり勝手なことしないでくれる?」
酸欠状態になり、口をパクパクさせている三下の耳元で一松は囁く。その声は殺気と怒気でざらつき、鼓膜を削るように撫でて脳までじわりと侵食していく。
おぞましい声に三下は頷こうとしてわずかに揺れるが、しっかりと首をキメられている状態ではどのような返事もできやしない。手で何かを示そうとも、足の力を最大限に使い拘束されている状態ではタップすることさえできない。それでも、自らの命を守るため、どうにか意思表示をしようともがく得物を目に、一松は恍惚とした笑みを浮かべて見せた。
意識を失うということにさえ気づかせぬまま殺すこともできたのに、わざわざ相手の意識を保ったままにさせている理由がここにある。付け加えるのであれば、ある一定以上の恐怖こそ、罪に対する罰に成りうる、という一松なりの持論もあるにはあった。
「どうしたの?
気持ちヨすぎてイっちゃいそう?」
白目をむき始めた相手に、一松は優しく優しく問いかける。
途中、わずかに幹部の方へ目を向けてみるが、未だ一歩も動かず、呆然とその場に立ち尽くしているのが見えるばかりだった。あまりにも間抜けな男に、一松は胸中で舌打ちをかます。
ここの隙を狙って三下の心臓を打ち抜くくらいの気概がなくてどうする。もっといえば、この状況を見た一松をも消すくらいの考えを持たなければならないはずなのだ。
だというのに幹部は動かない。銃を持った腕はだらりと前に下げられ、銃口すら向いていない始末。
まさかとは思うが、空から降ってきた自身のことを救世主か何かだと勘違いしているのではあるまいな、と一松は心の片隅で考える。つまらない妄想だ、と唾棄できない何かが、あの幹部にはあった。
「――トぶ瞬間ってサイコーにクるよね」
視界の片隅に幹部を収めたまま、一松はそっと囁き、腕に力を込める。
吐いた言葉に嘘はない。一松という男は、人を痛めつけるのも好きだが、人に痛めつけられるのも大そう好きな性質の男なのだ。首を絞められ、失神する瞬間の快楽を彼は身をもって知っている。故に、浮かべられた笑みも、声に混ざった快感も、全てが真のものだ。心の底から溢れ出た感情だ。
ヒュッ、と喉がなり、三下の全身から力が抜ける。
木の葉の中に埋もれるように沈んだ体に、一松は低い笑い声を漏らした。
「お疲れ様」
人生、と付け足して彼は足元に転がった拳銃を手に取る。
玩具とは全く違う、命を奪うための重みが手に負担をかけてくる。だが、その重みとて、命と等価にはならないはずなのだ。
「――おい」
背後で幹部の声がした。
しかし、一松は振り向かない。先ほどまでの様子を見て殆ど確信できていた。おそらく、幹部は一松に銃を向けない。彼を殺そうとしない。
その証拠に、殺気のさの字も一松には向けられておらず、静止を求める色を持った呼びかけがあるばかりだ。
一松は彼の言葉を、発する音を無視する。
意識は手にした拳銃へ。
「お前、何をしようとしている?」
セーフティーは外れている。後は引き金を引けば終わりだ。
闇の中、静かに佇む一松はそっと銃口を三下の脳天へと向けた。
殺すことに罪悪感はない。何処からか持ち込まれた死体を処理したことだってある。脱走しようとした人間を痛めつけたこともある。引き金だけで失われる命に対する良心の呵責など、スズメの爪ほどもない。
銃声が木々を反射し、辺り一帯に響く。
「…………どういう心境の変化?」
死を与えたのは一松ではない。
「変化も何も、オレは始めからこうするつもりだった」
銃口から火薬の臭いをさせているのは、幹部が手にしている拳銃だ。
一松が引き金を引くよりも早く、彼が事を成した。心臓に一発ぶち込まれた三下は、もう二度と目覚めることなく土の下へ埋葬されることになるだろう。
「その割りにはちんたらしてたみたいだけど?」
軽く肩をすくめ、銃を幹部の方へ放り投げる。
殺しの武器としては有能なそれも、おおよそにおいて他者を殺す必要に迫られない一松が持てば無用の長物と化す。道具にだって持ち主を選ぶ権利くらいはあるはずだ。
「お前が出てこなければソイツの脳天をぶち抜いて終わっていた」
「そう?」
わざと挑発めいた口を利いてしまうのは一松の悪い癖だ。ただし、治す気などさらさらない。
無論、幹部の言葉を疑っているわけではない。実際、一松が首を絞めずとも、三下の目が太陽の光を拝むことはなかっただろう。遅いか早いか、恐怖を感じる時間があったか否か。そして、幹部が無傷で終わるか大なり小なり傷を負うかどうか。その程度の違いだ。
「だが助かった。お前のおかげでスムーズに事が運んだ」
「ボクがいなくてもあんたがそのキラキラした時計を外してりゃ早く済んだだろうね」
結果だけをいえば、一松はその時計に感謝すらしている。
月明かりを反射するソレがあったおかげで、幹部は三下の始末に手こずり、一松が介入する隙と時間を作りだしてくれた。もしも幹部があっさりと三下を殺していれば、一松は不完全燃焼どころの話ではなかっただろう。明日の業務中、部下に八つ当たりの一つや二つはしていたに違いない。
猫との時間を邪魔してくれた要因の一つに恐怖を与えてやった。それだけで一松はある程度満足しているのだ。
「あぁ、これか。なるほど」
幹部は腕についた時計を見る。角度を変えると、月の光を反射してキラキラと輝いていた。
どうやら彼は闇の中で何故自分の居場所がばれてしまうのかに気づいていなかったらしい。何とも間抜けな話だ、と一松は辟易とした表情をする。幸い、互いの表情が見えるほどの距離ではない。
「長生きしたいならもっと頭を使ったほうがいいよ」
それじゃ、と一松は幹部に背を向ける。
後ろから撃たれないとも限らないわけだが、やはり彼はそんなことをしないのだろう、という確信があった。
「待ってくれ」
幹部が一松の背中に声を投げる。
だが、その声を聞いてもなお、一松の歩みは止まらない。
マフィアなんぞと関わりたくない、という気持ちも多分にある。しかし、それよりも、そろそろ申請した時間になってしまうのが一番の原因だった。
早く帰る分には何も言われないが、遅く帰ったときの仕置きはそれなりにきつい。たとえ一分であったとしても、脱走未遂という重罪を与えられ、独房にぶち込まれて食事も抜かれる。当然、その間も時間がくれば通常通り仕事をこなさなくてはならない。
根は真面目であったり計算高いところがあったりする一松とはいえ、長年働いていれば一度や二度の懲罰は受けたことがある。その時のことを思い出すとその日は悪夢を見ることが確定してしまうほどの悪辣さだ。
「何か礼をさせてくれ。
助けてもらったことに違いはない」
背後から足音が聞こえる。
どうやら幹部の男は一松を追ってきているらしい。
このまま無視を続けてもいいが、受付の男に見咎められると厄介だ。
「……猫缶」
「え?」
「あんたらのせいで猫と遊ぶ時間が減った。
だから、猫缶でいいよ」
振り向かず、言葉だけを投げていく。
「缶を開けてその辺にでも置いててくれたらいいから」
二度と会うつもりはない。会うことがあるとすれば、我に返った幹部が一松を口封じのために殺しにきたときくらいだろう。その時がくれば、抵抗の隙もなく殺されてしまうのだろう。幹部は大そうポンコツに見えたが、ギリギリ一般人の淵に立っている一松を暗殺するくらいのことはやってのけるはずだ。
「ね、猫缶? だが、それではオレの気がすまない!」
「ずいぶん義理堅いマフィアだね」
「オレの流儀だ。
……あれ? オレは自分がマフィアだとお前に告げたか?」
キョトン、とした声。あまりにも間抜けすぎるその雰囲気に、一松は重々しいため息を吐き出す。ついでに足を止めて半回転。背後にいた男と向き合う形を取る。
「平然と人を殺すし、格好もいかにもな感じでしょ、あんたは。
しかも、うちの工場で見かけたことあるし」
周囲の木々が風に揺らめき、ざわざわとした音をたてる。
月明かりはすっかり雲に隠れ、眼前にいる男の輪郭が闇の中に薄っすら見えるだけになっていた。一松は懐中電灯を手にしているのだけれど、あえてそれを男に向けるようなマネはしない。
できることであるならば、互いの姿はハッキリと認識できないほうがいいのだ。
一松がこれからもブラック工場の一歯車として働き続けるためには。
「あぁ、お前はあそこの従業員だったのか」
「そういうこと。で、お礼?
あんたみたいな人間から貰うなんて怖すぎ。
猫缶だけでジューブン」
軽く手を振ってみせるが、男には見えていないだろう。
「むしろ、他に何もないほうが嬉しいくらい」
それだけを言い残し、一松は再び回れ右をして歩き出した。
足音は追ってこない。
自らの立ち位置を鑑みて、たかだか工場の従業員と深く接触するべきではない、ということに思い当たってくれたのだろう。
今も一松の鼻の奥には火薬と鉄の臭いがこびりついている。だが、そのどちらも工場内で嗅ぐことのあるものだったので、彼は気にしない。
死んだ男のことも、礼をと告げた男のことも、一松にとっては日常の一部分でしかないのだった。
next...