太陽ですら活動を鈍らせる冬だが、ブラック工場の活動が鈍ることはない。
 夏であろうと冬であろうと、工場は同じ時間から活動を始め、決められた業務量がこなされるまで休むことなく動き続ける。たとえ、従業員の誰かが始業時間まで決死の残業を行っていたとしても、当然のように次の日の業務はやってくる。
 月明かりが消え、しかし、太陽はまだ昇っていない時間。一松は古ぼけた目覚まし時計で目を開けた。
 正直、開けずにすむのならばそれに越したことはなく、体はまだまだ睡眠という名の休息を欲していた。ここ最近は納期が迫ってきているモノが多く、残業ばかりの毎日で満足に睡眠がとれていない。その上、昨晩は精神が興奮していて中々寝付けなかった。
 何せ、人の死を間近で見たのだ。
 硝煙の臭いが、血の臭いが、仄かな死臭が、たまらなく一松の本能と心を高ぶらせる。
「あー、久々に勃った……」
 汚い万年床から這い出し、自身の下半身を見て呟く。
 パジャマ代わりのジャージ。長年使い込んだために薄くなった生地を下から押し上げているのは、正真正銘一松の性器だ。ブラック工場にて名誉班長の席を与えられている彼だが、年齢は二十をいくつかすぎたところ。若者の範疇から抜け出さないだけあって、性欲はそれなりにある。
 久々に勃った、と彼は言うが、朝から自身が元気なのが久方ぶりなだけで、ソレに触れる機会は決して少なくない。言ってしまえば、昨晩も帰宅とほぼ同時に作業着を脱ぎ捨てて致したくらいだ。
「ヒヒッ……。サイテー」
 目覚まし時計は早めにセットされている。着替えて、適当なパンを食べて、出社するにはまだ幾分かの猶予が残されているはずだ。一松はズボンを脱ぎ捨てて胡坐をかく。
 夜は仕事の疲れから、体が遺伝子を後世に残すべく種をせっせと作っては排出しようとしてくれているが、疲れが多少取れた朝方は本能もなりを潜めて仕事に対する虚無感だけが溢れているはずだった。
 今朝に限って性的な本能が優位に立ったのは、間違いなく昨晩の出来事が関係している。
 一松はそのことを自覚しているからこそ、自身を指してサイテー、と言うのだ。
 目を閉じれば、あの闇での出来事が思い起こされる。臭いも、音も、映像も。
 ティッシュを片手に、自身を抜く。興奮がどうにも醒めない。
「はっ……ぁ、は……ヒッ、ヒヒ……」
 山の中で、見ず知らずの人間が死んだ。
 一松によって首を絞められ、マフィアによって赤い血をぶちまけた男。
 死体となった男が恐怖した瞬間が忘れられない。奴が死んだ瞬間を忘れることができない。
 自分を奴に置き換えてもいい。傍観者として死臭を思う存分味わうのもいい。どちらにしても、興奮する、という結果は変わらない。
「――――あぁ、あ」
 白いティッシュに白い液体。
 残る罪悪感にもにた後ろめたさと苦さ。
 後味の悪さもまた、一松にとっては一種の快感だ。
 しばし、自慰の余韻に浸る。心の内でごちゃごちゃと混ざり合う相反する感情が心地良い。
 けれども、それを愉しみ続けるだけの時間が一松にはない。時計が五時半を示したところでのろのろと動き始めた。脱ぎ捨てたズボンはそのままに上も脱ぐ。そして、ハンガーに引っ掛けただけの、一週間ほど洗濯もしていない作業着を着込む。
 部屋の隅に置かれた小さなちゃぶ台の上にある一袋五つ入りのあんぱんを咀嚼しては、ヤカンから直接お茶を流し込んでいく。コップがないわけではないのだが、一々洗うのが面倒なので大抵の場合、一松は食器を出さずに一日を終える。
 彼の部屋には殆ど物がない。
 壁際に敷かれた万年床とほぼ逆側に置かれているちゃぶ台。それだけだ。備え付けの流しは美しいが、小まめな掃除による輝きではなく、使われた形跡のないくすんだ美しさがあるばかり。調理器具も殆ど汚れのないフライパンと、それを強調するかのようにボロボロになるまで酷使されているヤカンくらいのもの。食器は流しの横に置かれた皿が数枚とコップが一つ。あとは箸が何膳か。
 酒を飲むくらいならば猫にご飯を、という考えのもと、部屋には空き缶一つ転がっていない。
 おかげで、一見すると美しい部屋に見えなくもないのだが、使う物に関しては手入れを全くといっていいほどしていないため、黒ずんでいたりほつれていたり、と散々たる有様だ。
 それが、一松の城。
 下っ端ではなく、社員の血縁者以外が到達できる最高峰の地位、班長、にまでのし上がった男にだけ許された一人部屋。
 同じ宿舎に住む人間は多数いるものの、一人だけの部屋を持っているのは一松ただ一人で、他の下っ端達は三人から五人、一松の城と同じ間取りの部屋に押し込められている。
 ガ、ギギ、ガヂャ、と軋みと錆びが酷い音をたてながら扉が開く。
 真面目な一松班長は同じ宿舎に住む誰よりも早く出社する。下っ端達は一松が部屋から出る際に立てる、扉の歪な開閉音を聞いてようやく雑な支度を始め、数分後には一松と同じような音をたてながら部屋を出る。
 それぞれの歩調はバラバラで、しかし向かう場所は同じ。生気のない顔が不揃いに歩く姿は、B級ホラーのような異様さと恐怖を傍観者へ与える。
 だが、幸いなことに、ここに傍観者はいない。
 いるのはゾンビめいた面々と、それを使役する側の人間だけ。
「おはよう。さあ、今日も頑張って働こうじゃないか!」
 工場へ入ると、それぞれの棟に一人配属されている棟長が快活に挨拶を向けてきた。彼らはゾンビ共の上に立つ人間であり、昨日もその前の日も、大して疲れのない体にしっかりと睡眠を与え、質の良い食事をしている。生気に溢れた顔と声で、今日も一日お前達を監視してやるぞ、と朝から告げにきてくれているのだ。
「お前らー。挨拶は大事だぞー!
 何事も挨拶に始まり、挨拶に終わる。
 それができないクズだから、次の日にまで疲れを残すことになるんだ。
 出来た人間は夜しっかり眠り、朝には元気ハツラツ。そして、挨拶をしっかりし、きっちり仕事をし、終えたらまた挨拶をして眠る。
 私は従業員全てがそうなればいいと、切に願っているぞ」
 M棟の端から端まで届かせようとしているのか、棟長の声はすこぶる五月蝿い。雑音を通り越して騒音だ。しかし、それを顔に出す者こそいれども、口にするものはいない。
 逆らうような言葉を吐けば、即座に懲罰を与えられかねないのがこの職場だ。
 一松がここで働くようになって一年ほど経った時、ぶち込まれたばかりの新人が、ならば人間らしい生活をさせろ、と呟いたことがある。途端、棟長の演説は終了し、新人はどこかへ連れ攫われた。喚き声が聞こえたのは最初だけで、バタン、と棟の扉が閉まると同時にその声も掻き消えてしまった。
 後日、帰ってきた彼は挨拶をするときのみ声を出し、後は死んだ魚のような目で黙々と仕事をこなす人形と化していた。そんな元新人は、過労から体を壊し、気がつけば寮から名札が消えていた。誰も彼について口にはしないが、末路に関しては大よそ見当がついている。
「松野班長、全員出勤しました」
 一班十二人構成で作業は行われる。M棟は二班で回しているので、現在、この場には二十四の歯車が存在していることになる。
「ん、点呼」
 一松は報告を受け、一列に並んだ面子をぼんやりと眺めた。
 毎日毎日同じ顔。しかし、名前までは覚えていない。向こう側は業務上、班長である一松の名前を覚えているようだが、きっと同じラインに立っている仲間の名前までは記憶していないことだろう。
 どうせ、半月もすれば半分の人間が入れ替わっているのだ。一々、個人を個人たらしめる情報に脳の引き出しを開け閉めする必要はあるまい。
「いち」
「に」
「さん」
 一人一人が数字を口にしていく。十一まで数えさせると、一松は付け足すように十二、と眼前にいる十一人に返す。
「じゃあ、今日も頑張って」
 号令にもならないその言葉をもって、一松の班は業務へと取り掛かる。
 何の部品なのかすらわからない鉄の塊をひたすらに組み立てる者。歪な部品をはじく者。鉄板を指定の形に切り出す者。作業は様々だ。
 班長である一松の仕事は、自分が受け持っている班が滞りなく作業を進めているかを逐一確認すること。何かあれば速やかに対処すること。必ず納期を守らせること。それだけだ。
 かなり楽な仕事のように見えるが、真面目にすればするほど労力が必要な役職だ。
 狭くない部屋をウロウロしなければならないし、全ての作業に精通していなければ下っ端の不備に気づくことができない。さらに、班長クラスの中でもかなり真面目な部類にいる一松は、欠員が出たり作業に遅れが見える場所へきては作業をしてまた自身の業務に戻る、ということを繰り返している。
 性質の悪い班長がいる班に入ってしまえば、三徹四徹は当たり前、ミスをすれば罰を与えられ、欠員分を補完するのは下っ端の仕事、等という光景も日常茶飯事となってしまう。
 ブラック工場の中では希少な、支えあうことを忘れない班、として一松班長は下っ端共からの信頼が厚い。
「班長、機械の調子がおかしいのですが……」
「わかった。ちょっと下がって」
 部下を押しのけ、機械の様子を探る。
 多少の不調であれば一松が修理をするが、あまりにも酷いようならば上に申請しなければならない。修理に要する時間によっては納期を破ってしまう可能性もある。その責任の全ては一松に降りかかり、しばしの間、苦痛と共に生活を送ることを余儀なくされる。理不尽で、しかし、どうにもならぬのがこの世の地獄たるブラック工場だ。
「……このくらいならすぐに直せるから、それまでの間は二番の手伝いに行って」
 指示を出し、一松は機械の中にもぐりこむ。大掛かりな仕掛けを持った機械はかなりの年代物で、交換の時期がとうに過ぎてしまっている。何度か買い替え申請を出しているのだが、通る気配は一向にない。
 一松がガチャガチャと機械の修理に集中していたとしても、彼の班員は誰一人気を緩めることなく真摯に働く。他の班長と比べ、理不尽な怒りをぶつけてくることも、無理難題をかせてくるわけでもない一松を侮る者は誰一人として存在していないのだ。
 汚泥のような環境において、一松という存在が多少人格者に見える、というのは理由の一つに入る。錆びた歯車扱いを受ける従業員達とはいえ、かろうじて人間としての魂や肉体を持っているのだ。自分達を人として扱ってくれる人間を慕い、その者のために従事しようという意思は生まれる。
 しかし、それだけが全てではない。このブラック工場で働くことになってしまったような人間が、必ずしも人格者を肯定的に見るわけがない。反発する者や嫌悪する者も多い。
 ならば、何故、一松は下から唾を吐き捨てられないのか。
 理由は簡単だ。
 彼には力がある。
 腕力ではない。冷酷に、静かに、他者を制圧することのできる技術。それを一松は有していた。
「終わったよ。戻って」
「はい」
 男は素早く自身の持ち場へと戻る。
 一松は自分の部下を信じている。適材適所を選んでいるつもりであるし、何かあれば手助けをする心積もりもある。だからこそ、彼は裏切りを許さない。
 班長を侮るなかれ。仕事に真摯であれ。逃げることなかれ。それら一つでも反故にしたのならば、大人しくブラック工場からの懲罰を受けるべきであった、と心の底から願うような目に合わせてやろう。裏切りとは、それをされても仕方のないことなのだ。
 数年に一度、愚かにも一松を裏切る者が出る。非常に残念なことだが、長い付き合いにより気が緩むのか、歳若い一松のすることなどたかが知れている、と思うのか。理由は何でもいい。
 大切なことは、事実。それだけだ。
 裏切り者には制裁を。
 一松から直々に与えられる罰はおぞましく、人は人形にすらなれず鉄屑と化す。
 働いて、働いて、働いて。突然、崩れるようにして消えていく。
 殆ど確実に人手が一つ減ってしまうわけだが、ブラック工場の幹部共は一松による制裁を是とした。彼が手を下した人間は、まるで命のともし火を赤々と燃やし尽くすかのように、異常な早さと精密さを持って仕事をこなしてくれるのだ。一瞬のきらめきは、五人分でも六人分でも働いてくれる。
 その後に一人消えたところで、ブラック工場にぶち込まれる人間は後を絶たないのだから何の問題もない。
「左の小指も失いたくなかったら気をつけて作業しろ」
 見回りをしていた一松は、一人の部下に声をかける。ここにきてまだ一ヶ月程度の者だ。特殊な器具を使って鉄に溝を掘るのが彼の仕事。単純作業ではあるが、うっかり気を抜けば親指ほどの太さをもったドリルに手を貫通させられる。
 そうして指の一本、二本を失った人間を一松は何度も見てきていた。
「うっす」
 返事をした男の右手にはすでに小指が存在していない。
 この工場で飛ばしたのではない。ここに来る前から、そこには何もなかった。
 底辺の底にまで転がり落ちてきた人間の昔話などに一松は興味がない。何となく察しがつく、というのも勿論ある。どうせ、ヤクザか何かだったのだろう。組織に所属していながら裏切りを働いたか、とんでもないヘマをやらかしたか。そのどちらかだ。
 指だけでは足りず、地の底にまで落とし込まれ、永遠に搾取され続けるのだから、人の道を外れたことなどするものではない。
 出生がどうであれ、命の終わりを迎える場所としては、最低最悪の場所にまでやってきたのだ。ご愁傷様、としか言いようがなかった。
 もっとも、一松も同じ場所に立っているのだから、他人に同情している余裕などないのだけれども。
 しばしの間、室内には作業の音だけが響く。
 機械が稼動する音。鉄が削れる音。火薬の臭い。油の臭い。
 黙々と動いていると、自分が本当に無機物になったかのように思えてしまうような狂った空間だ。
 人と機械の境が曖昧になった頃、耳障りなアラームが響き渡る。
「休憩だ」
 一松が言う。
 労働基準法どころか、工場としての申請をしているのかも怪しくなるようなこの場所でも、昼休みという制度はかろうじて存在している。
 いくら人間未満、歯車の一つとして従業員達を扱おうとも、実際問題の話、彼らは人間であって、食べることや眠ることを完全に遮断することはできない。
 使い古し、ぐちゃぐちゃに潰すためにも、食事の時間というものが必要なのだ。
 アラームを聞き、班長の許可が出たことで下っ端達はバラバラと部屋から出ていく。その目に生気が宿っている人間は一人として存在していない。
 彼らは習慣の一つとして食事を取る。
 自炊をする余裕を持つ者などおらず、また、そのための材料を買うために下山する者もおらず、ほぼ全員が工場にいくつか設置されている購買を利用していた。
 都会のスーパーよりも少し安い弁当や飲み物を手に、彼らはほんのわずかな時間だけ仕事から逃れることを許される。しかし、中にはそれすらできぬ者が存在していることも確かなのだ。
「……腹、空いた……なぁ」
 殆どの人間がいなくなった部屋の隅、一人の老人が蹲っている。
 一松の班の人間ではない。もう一つの班に所属している者だ。頭に残ったわずかな髪は真っ白に染まり、皮膚という皮膚が緩んで皺だらけになっている年の頃だ。本来ならば、年金生活で余生を謳歌していてもおかしくはないだろうに、彼はこんな場所にまで落ちてきている。
 死ぬ思いをして働いて、ようやく得た賃金も家賃光熱費、借金等々から天引きされて、二日に一食しか食べることのできないような生活を送っている人間もここには多い。老人はそんな人間の一人なのだろう。
 彼自身の借金か、家族友人の借金か、もっと別の厄介事に巻き込まれたのか。いずれにせよ、老人の寿命が尽きるのは時間の問題だ。
 一松はそんな老人を横目に部屋を出る。
 幸いなことに、一松は一日二食を可能とするだけの賃金を貰っている。班長という役職が成せる業だ。付け加えるのであれば、酒やタバコといった嗜好品を一切摂取していないこと、彼に課せられた借金の返済はとうに済んでいること。この二つによって一松の生活は何とかギリギリのラインを保つことができている。
 とはいえ、外に出て行くための資金を貯めることが出来るほどではなく、また、人生を少しでも有意義なものにできる遊びに手を出すことも叶わない程度のものだ。
「まいど」
 購買で一松は鮭の入ったおにぎりが二つ買う。
 本当は手羽先の一つでも食べたいのだが、そんなものを食べたのはもう数年以上前の話だ。そんな贅沢をしようものならば、たちまち給料日前には飢えで苦しむことになってしまう。
 堅実なところのある一松はリスクを犯さない。
 昼休憩はわずか三十分。それが終えれば、後は午後七時を過ぎるか、仕事を全て終えるまで休むことなく働き続けなければならない。
 地獄へ戻る時間を告げるアラームが鳴り響く。



 真夜中、一松は仕事を終え、ふらふらと歩く。
 目指すは外の世界。睡眠とわずかな金を引き換えにして、一時の至福を味わうために彼は出入り口を目指す。
 いつも通りの手続きを追え、一松は懐中電灯の明かりだけを頼りにして目的の場所へ足を進めていく。
 昨晩はとんだアクシデントに見舞われ、癒しの時が短縮されてしまった。解消しきれなかったストレスと消化するためにも、今日は思う存分猫と戯れなければならない。
 疲れきった体は重いが、心はひと時の逢瀬に思い描き軽くなる。
 一歩二歩と進み、いつもの場所へ行くための道中、中ほど。一松の足は徐々に歩みを遅らせ、とうとうその場に立ち止まってしまう。
「…………誰」
 風が吹きすさぶ中、彼は明確な意思を持って問いかける。
 直感などではない。確信だ。
 誰かがいる。猫や鳥ではない。間違いなく、人間。
 昨日の報復か、あるいは別件か。どちらにせよ、二日連続で厄介事に巻き込まれるとは相当運が悪い。一松は胸中で呟き、ため息をつく。
 こんな山奥にいる人間、それも、極力気配を消しているような者が堅気のはずがない。
 問いかけの返事を待ちつつ、一松は足に力を込める。
 大した価値もない命ではあるが、易々と殺されてやるつもりは一切ない。抵抗はさせてもらう。自身を狙ったことのオトシマエもある程度はつけさせてもらう。
 銃を向けてくるのならば木の上へ。体術をもって締め殺しにくるのであればキツイ踵落としを。
 木々が揺れる。遠くの方から猫の鳴き声が聞こえてきた。一松と、彼が持ってくる餌を待っているのだ。
 一松が問いかけてから少々時間が経った。相手が何を考えているのかは知らないが、普通に考えれば返事をするのに充分すぎるだけの時間は流れている。
「へぇ……。
 ボク何かに返す言葉はないってわけ?」
 歪に口角を上げ、挑発するように言葉を吐く。
 時間の経過による油断を狙っているのだろうか。それとも、監視が目的であって危害を加えるつもりはないのかもしれない。まさかとは思うが、人違い、ということだってある得えるのかもしれない。けれども、そのどれもが一松の憶測でしかなく、確証が一つもない。
 一松は肺一杯に空気を吸い込む。
 それをゆっくり吐き出すと同時に、覚悟を決める。
「でも、こんなとこでゆっくりしてる趣味はないんだよねぇ」
 何が起こるのかわからない。中身の見えないブラックボックス。鍵をかけてしまうのが正解なのかもしれないが、一松は思い切って蓋を開けてみることにした。入っているモノを確かめなければ、安心して猫に会いに行くこともできない。それ即ち死。
 心を決めた一松は、懐中電灯を消し、軽く跳躍して近くの木の幹へ足をかける。先ほどまで足の下敷きにされていた木の葉が舞い散り、ほんのわずかな時間、彼の姿を隠してくれる。
 その隙を狙い、一松は太い枝に手をかける。
 腕の力を腹筋を使い、枝の上に足の裏をつけ、感じていた気配の真上まで木から木へと渡り飛ぶ。
「ちょ、ちょっと待って――」
 男の声だ。気配の主は一松の行動に慌てふためき、彼に向かって両手を振る。誤解だ、と弁解しているようにも見えるが、こんな真夜中、暗い山奥にいる時点で何を言われても信憑性に欠ける。警察に通報しないだけ有り難いと思うべきだろう。もっとも、超絶ブラックで働いている一松は国家公務員を頼る、という選択肢が捻り潰されているのだけれども。
 一松は男の声を聞きながら、木の上から飛び降りる。昨夜と同じように首を絞めてやろう。
 そこまで考えてから、ふと気がつく。
 気配の主の声に聞き覚えがあったのだ。それも、極々最近。そう、例えば昨夜。
「あ」
 思い出したときにはもう遅い。
 彼の体は重力の導きのまま、地面へ向かって落ちていく。落下地点にいるのは、マフィアの幹部であろう男だ。
 真っ黒な界隈に頭の天辺までドップリと浸かっているような男なので、攻撃することに罪悪感は全くわかない。しかし、一松にとって彼は上司の上司にあたるといってもいい存在。迂闊なことをして懲罰を与えられるのは御免であるし、ただでさえ過酷な労働がこれ以上凄惨なものになってしまうのも勘弁願いたい案件であった。
 慌てて空中で体を捻ってみるが、重力による落下速度の方が圧倒的に速い。
 次の手を考えるよりも先に、一松の体は真下にあった男とぶつかってしまった。
「ってぇ……」
「それは、こっちの台詞なんだが……」
 本来ならば男の首をへし折り、着地を決める予定だったのだ。しかし、相手が相手であったために攻撃は中断された。結果、一松は受身を取ることすらできぬまま地面に叩きつけられてしまった。
 それでも、最低限のダメージで済むように体を調節できたのは彼の反射神経の成せる業、というところだろう。肩や足に痛みはあるが、捻っただとか折れただとかいう感覚はない。
「……あんた、昨日、ここで追いかけられてた人だよね」
 木の葉の上に尻を乗せ、一松は尋ねる。
 今宵は月も出ておらず、互いの顔は全く見えない。しかし、男が嬉しそうに声を弾ませたので、彼の機嫌がすこぶる良いことだけはわかってしまう。
「やはり、昨日オレを助けてくれた人か。
 暗かったから自信がなかったんだが、あっていてよかった」
「何。ボクを探してたわけ?」
 声に棘が含まれてしまうのは仕方のないことだろう。
 マフィアに探されている、と聞いて良い気分になる人間は少ない。それも、一松は昨晩、マフィア同士の争いを目撃してしまった人間でもある。口封じに消されても何一つおかしくない。
 今も彼は幹部の男が自分を殺しにきた可能性に対し、全神経を持って警戒する。
「そうだ」
 一松はさりげなく腰を浮かせた。
 突然、飛び掛れば流石のマフィアとて一瞬の隙ができるはずだ。幸いなことに、目の前にいる男は少々抜けたところが目立つ。殺すところまでは無理でも、相応の痛手を負わせることならば出来るかもしれない。
「お前には礼をしなければならないだろ?」
 そう言いながら、男はスーツを内側に手を入れた。
 銃か、と即座に判断を下した一松は素早く立ち上がり、男に飛び掛る。
 マフィアの手から直々に渡される礼が、額面どおりに受け取っていいもののはずがない。二十年と少し、黒よりの灰色に立ち続けて得た経験が一松の考えを肯定してくれる。
「うお、っと」
 男はあっけないほど簡単に倒れた。成人男性二人が地面に倒れる音と、遠くの方で小さなモノが落ちる音がほぼ同時に響く。
 木の葉が舞い、はらはらと地面に舞い戻っていく光景は、ある種幻想的ですらある。その中心にいるのが、血生臭いマフィアと、油と金属の臭いに塗れた底辺でなければ、の話ではあるが。
「……何のつもりだ」
 低い声が一松の鼓膜を揺らす。
 怒っている。それはそうだろう。突然飛び掛られ、湿気た地面に組み伏せられて愉快な気持ちにはなれない。けれど、だからといって一松が男の上から体を退けるはずもなかった。
 そうしたが最期、一松の脳天だか胸だかどてっ腹だかに穴が空く。真っ赤なオイルを垂れ流し、機能が完全に停止するまで眺められる。
 苦痛に呻く様を見られることは性癖を心地良く刺激してくれるものの、その結果が死となればそうも言ってられない。
「見てもらったらわかるかもしれないけど、ボクって生き汚いんだよねぇ。
 外も中も、ね。だから、そう簡単に死んでやるつもりはないの」
 男の手を自身の手で押さえ、顔をぐっと近づける。
 これではどちらが悪役かわかったものではないが、善良なる市民もヒーローもこの場にはいないのだから、結局はどちらも似たようなものである、というのが答えになるのだろう。
「どう、い、う意味……だ」
 問いかけを投げた男の声に不快感が滲み出た。
 一松の吐息の臭いに顔をしかめたのだろう。詳細は覚えていないが、一松が最後に歯を磨いたのは一週間以上前のことになるはずだ。同時に、風呂に入ったのもその日が最後であったはずなので彼の体臭は凄まじいことになっている。
 同じ工場に勤めている人間としか触れ合わず、彼らもまた、似たような臭いを体中からさせているため、中々気づくことができないのだが、それは耐え難い悪臭でしかない。
「何すっとぼけてやがんだ」
 このまま首筋を噛み千切ってやれば一松の命は一時ではあるが助かるはずだ。男の仲間が復讐に駆られてくる可能性は高い。それでも、時間を稼ぐことは無駄ではない。
 カニバリズムは彼の趣味ではないのだが、緊急事態だ。好き嫌いを言っている場合ではなかった。
 一松は口を大きく開ける。
「ま、待ってくれ!
 お前は何か勘違いをしているぞ!」
 流石に一松から発せられている殺気に気づいたのか、組み伏された男が慌てて叫ぶ。
 悲鳴に近い声は、場所が場所であったならばすぐさま善良な人々が携帯電話を取り出し、警察へ通報してくれている程度には大きい。
 時として隠密行動も必要になるはずのマフィアがそれでいいのか、と思わないでもないが、昨夜から幾度となく彼の職業を疑うような場面を見せられているので、諦めの境地にも達するというもの。
「オレはただ、アレで良いのか確認したくて……」
 声に湿度があった。
 いい年をした大人、それもマフィアが泣いているとは思いたくないが、涙目にはなっているのだろうな、と容易く思わせる揺れがそこにはある。
 一松は首筋を噛み切るために開けていた口をゆっくりと閉じ、暗闇の中で男と目を合わせた。
 大雑把なパーツしかわからないものの、彼の目に涙が滲んでいるところだけはハッキリと見えてしまい、バツの悪い思いをする。まるで、弱い者虐めでもしているかのようではないか。
「どういうこと?」
「あ、は、話、聞いてくれる、のか?」
「そうだつってんじゃん」
 不安げに揺らめく声に対し、ピシャリと冷たい温度を浴びせる。
 一松は命を狙っている可能性がある人物に対して優しくなれるような男ではない。もっとも、極普通の、平凡な一般人が相手であったとしても、彼の対応はそう変わり映えしないのだが。
「昨日、助けてもらっただろ?
 それで、礼の品を買ってきたんだが、オレは猫を飼ったことがないから……」
 そう言いつつ、男の目線が移動する。
 男が倒れた際に、手から離れ地面に落ちたモノがある方向。
 一松もつられるように眼球を動かし、目を凝らす。
「……銃じゃなかったの?」
「恩人にそんなものを向けるはずがないだろ!」
 馬鹿にでもわかるような単純明快な問いかけをしてみると、男は憤慨した様子で言葉を返してきた。
 彼の言葉を証明するものは何もないけれど、一松は静かに身を起こす。
 あまりにもマフィアらしくない男を警戒している自分が馬鹿らしくなってしまったのだ。背後から撃たれるのであれば、それはそれで男を見直して終わりにしてやろう、と思ってしまうくらいには。
 男から離れた一松は、躊躇いのない足取りで男が見ていた方向へ足を進める。
 数歩も行けば、足元に小さな物体が見えた。
「へー、本当に買ってきてたんだ」
 軽く腰を曲げて拾い上げたソレは、中々にいいお値段のする猫缶だ。一松が普段猫達にあげている猫缶よりも中身は少なく、値段は高い。高級嗜好のネコちゃんにも安心、と銘打たれている代物。
 律儀なマフィアは、一松が昨夜言った言葉をそのまま受け止め、実行してくれたらしい。
「始めに言ったじゃないか。
 「礼をしなければならない」って」
 不満げな声を出した男は、立ち上がらぬまま地面に座りこみ、胡坐をかいていた。
 だが、普通に考えて、マフィアの口から発せられた「礼」とやらを額面通りに受け止める者がいるだろうか。いるのだとすれば、それは余程の馬鹿か、物事の意味をわかっていない赤子かのどちらかだろう。
「……そりゃ、すみませんでしたねぇ」
 一つ一つ懇切丁寧に説明してやる気にはなれなかった。
 それでも一応、上司の上司に近い立場にある男に対して謝罪の言葉だけは述べておく。最悪、先ほどの無礼を理由に殺されるかもしれない、ならばやはり殺られる前に殺るべきか、と堂々巡りな方向へ思考が飛んでいくが、男に怪しい動きはない。
 いたし方がないとはいえ、勘違いで地面に組み伏せられたことに対して文句の一つも出てこない有様だ。
「で、どうなんだ?」
「へ?」
 数拍の沈黙を置いて、男が言葉を発する。だが、その言葉の意味するところを解しきれず、一松はクエスチョンマークが浮かんだまま消えない声を上げてしまう。
「それ。あんたが言っていた猫缶は、それでいいのか?」
「あ、あぁ。これね。
 うん、いいと思うよ」
 男は一松の手の内側にある物を指す。
 そこでようやく一松は彼の言いたいことを理解した。
 正直、一松もどの猫缶がいい、という明確なイメージは持っていなかった。ただ、美味しそうな食事を与えてあげられれば、というだけの思いだ。その点、男が買ってきた猫缶は、界隈でも評判の良いものだ。猫を飼ったことはない、と言っていたのでペットショップの店員にでも聞いたのかもしれない。
「そうか。よかった」
 心底安心したらしい男は、尻を地面から離す。立ち上がり、軽くスーツをはたいて汚れを落とす。見たところ大した怪我もしてなさそうであるし、怒りも感じられない。
 猫缶の確認と受け渡しだけのためにこんなところで待っていたのかと思うと、ゴクロウサマデス、と心にもない言葉が思い浮かぶ。
「うん。ありがと。じゃあ、さようなら」
 流れるように礼と別れを告げ、一松は歩き出す。
 マフィアなんぞと戯れている暇があるのならば猫と戯れるべきだ。その方が何億倍も有意義なのだから。
「ちょっ、あの、待ってくれ!」
 ガザガザ、と木の葉が音をたてる。かと思えば、一松の右腕が掴まれた。
「……何?」
 面倒くさいという気持ちを隠しもしないで振り返る。
 男は一松を逃がすまいと右腕を離さない。
「それ、一個数百円で」
 当然だ。いくら高級を冠しているとはいえ、たかだか猫の餌。一個何千、何万もするような代物ではない。
「だから、本当にそれが礼になるのかわからなくて」
 命の対価としては安すぎる。しかし、個人的にマフィアと深く繋がってしまうことを思えば、このくらいの安さが丁度良い。そのことを男は理解していない。
「量を買おうかとも思ったんだが、違う商品なのかもしれない、と思ってとりあえず一個だけ買ってきた」
「あっそう。それで?
 別に一個でいいよ。あんたからしたら小銭以下の値段かもしれないけど、ボクからしたらそれなりの値段だし」
 たった数百円だとしても、毎日買っていたら馬鹿にならない金額だ。それも、殆ど手元に金が渡ってこないブラック工場の従業員ともなれば、猫の餌をとるか自分の餌を取るか、という選択肢になってしまう程に。
「それではオレの気がすまない!」
 強い語調に一松は眉を顰める。
 放っておけばいいのだ。一松のような底辺。恩を売ったところで見返りはないし、借りを作ったところで気にする価値もない。彼の流儀など知りたくもないが、血生臭い世界で生きるにはとことん向いていない男のように思えてならない。
「あのさぁ」
 掴まれていない方の手で首をかく。風呂に入っていないので垢がボロボロと落ちた。
「迷惑なんだけど」
 遠まわしな言葉は通じない。ならば、これ以上ない程に率直な言葉をぶつけてやる。
「えっ」
「昨日も言ったけど、マフィアのお礼とか怖すぎ。
 後で何を要求されるかわかったもんじゃない。
 そんなつもりない、って言うつもりだろうけど、そんなの信用できないし」
 マフィアであるから、それ以上に他人であるから、一松は男を信じない。礼なんぞいらない。放っておいてくれ、無為な人生を淡々と過ごさせてくれ。そんなことばかりを望む。
「あんたはあんたの仕事があるデショ?
 そっち頑張って。ドーゾ、ボクは何も望みませんヨ」
 一松のボロボロになった手が男の手に触れる。
 荒事をしているとは思えない程に滑らかな指を一本一本丁寧に腕から剥がしていく。乱暴に扱わないのがせめてもの情けだ。
 結局、大した抵抗もなく男の指は全て一松から離れ、彼の腕はぶらんと力なく垂れ下がる。
「それじゃあ、さようなら。永遠に」
 餞別代わりの猫缶を顔の横で軽く振り、一松はのそのそと目的の場所へ向かう。
 今日も今日とて、無駄な時間を過ごしてしまった。しかし、大事な友達へ良い土産ができたのだと思えば、まあ悪くはないかな、と思える夜だった。


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