イタリアを本拠地とするマフィア、プリュネファミリーの日本支部。
カラ松という男は物心ついたときからこの場所で生き、育ち、そして働いてきた。
「さて、どうしたものか」
仮の住まいであるマンションの一室で彼は頬を掻く。目線をそらした先は窓。そして、そこに映る景色は雄大な山々だ。町からは見えないが、あの山の中腹に件のブラック工場が存在している。
昔からこの町に住んでいる人間の中では、暗黙の了解として知られ、この町にきて数年しか経っていない人間にはその存在すら知られていない、違法スレスレどころかぶっちぎりでアウトな建物だ。
そこに、カラ松の悩みの種は存在している。
「困ったなぁ」
工場から上げられる品の質が落ちただとか、借金のカタに放り込んだ人間が暴動を起こしただとか、そういった問題ではない。もしもそういった問題が発生しているだけだとすれば、カラ松は今ほど頭を悩ませていなかっただろう。
何せ、その類の厄介事は数年に一度は起こる事態で対策には慣れているし、どちらも銃の一つや二つ、圧力の十や二十をかけてしまえば解消される。
だが、今、彼を悩ませている問題は暴力で解決できるものではないのだ。
「鉛玉のプレゼントならしたこともあるが、命の恩人へのプレゼントなんて初めてだからな……」
ごろん、とベッドに寝そべる。
彼はマフィアという血生臭い職業とはかけ離れた悩みで頭を痛めているのだ。
プレゼント。贈り物。物騒な意味合いを持たない、本来の意味だけを抽出した優しい単語。それを送るためだけにカラ松は今日も頭を使う。
誰かに相談してみようかとも思うのだが、悲しいかな彼には友人と呼べる人間が殆どいない。
プリュネファミリーは馴れ合いを好まない殺伐としたファミリーだ。家族とはいえども互いに腹に一物を抱えている者が多く、弱味を見せるような話は到底できそうにもない。特に、幼い頃からファミリーに所属してそこそこ功績を挙げてきたためにカラ松の地位はそれなりに高い。下克上を狙っている輩は少なくないのだ。
唯一、ファミリーと別の場所には相談役に選ぶことができそうな人物もいるのだけれども、自分と相手が就いている職の都合上、そう簡単に会うことはできない。やはり、ここは自身の頭を使って悩みぬくより他にないだろう。
カラ松は枕元にばら撒かれている紙のうち、しわ一つ寄っていない一枚に目を通す。しかし、そこにはここ数日の間に何十回も見た文章が並んでいるだけだ。
「松下一松、I班の終身名誉班長。
十二歳のときに父親の借金によってブラック工場入り。
現在、借金の残り金額は零。
表向きには行方不明扱い、か」
資料には他にも身長体重等々が書かれているが、要約してしまえばたった四行で事足りてしまう。一松という男がいかに密度のない人生を送ってきたのかがよくわかる。否、経歴として残るようなことを成すことすらできずに地の底へ落ちただけ。
カラ松との接点といえば、一松が所属しているブラック工場をプリュネファミリーが牛耳っている、という点につきる。同じ裏に生きる者ではあるが、一松が地の底を這いずるイキモノであるならば、カラ松は夜空を羽ばたく梟だ。
だが、先日、カラ松は一松に命を救われた。
そう表現してしまうのは少々大げさかもしれない。たとえ、あの場に一松がおらずともカラ松は現在まで生き続けていただろう。かすり傷くらいは負ったかもしれないが、たかだか三下の鉄砲玉に殺されてやれる程、彼の命は安くない。
「とりあえず猫缶を持っていてはいるが……」
一松に助けられてから早一週間と少し。
当初、彼が要求してきた礼である猫缶を携えて山に登っているのだが、結果は芳しくない。相手が望んでいるのだからそれでいいだろう、という意見も世間ではあるのだろうけれど、それではカラ松の気がすまない。
あの瞬間、一松は晒さなくていい危険に身を晒し、カラ松を助けてくれた。理由の詳細などどうでもいい。世の中、結果が全てだ。
命を張って命を助けてくれた。その対価が数百円の猫缶で足りるはずがない。一年間捧げ続けたとしても十万程度。カラ松がひと月で稼ぐ金額よりも遥かに少ない。
それでも、ないよりはマシだろうと思い、毎日一個携えて行き、同じ言葉を一松に投げる。
「他に欲しいものはないのか」
返ってくる言葉もいつも同じ。
「ない。迷惑。帰ってください」
カラ松は猫缶を一個渡すだけで、後は肩を落として一松の背中を見送ることしかできずにいる。暴力を使って聞き出すという手もあるにはあるのだが、恩人に対してそのような行為を働いては本末転倒だ。
いつか根負けして願いを一つ言ってはくれないだろうか、と期待しつつ、彼は今日も夜を待つ。
「……今日は、あまり眠れないかもしれないなぁ」
ベッドから身を起こし、風呂場へと向かう。
ブラック工場の業務開始時間と比べれば、圧倒的に遅い時間だがカラ松にも仕事の時間はやってくる。裏世界の住人とはいえ、活動時間が必ずしも闇の刻とは限らない。むしろ、世間が目覚め、働く時間こそが彼らの時間でもある。
裏家業は人目を避けなければならない。ならば、人の中に紛れるべきだ。
そして、人と関わらなければならない。金を動かすのはいつだって生身の人間であるのだから。
だからこそ、カラ松は日中に動く。現在、彼が担っている仕事は、ブラック工場の監視と周辺地域の調査だ。上手い具合に違法カジノが開けそうな場所や、取引に使えそうな建物を探しつつ住民についても調べ、友好関係を築いていく。法から外れた身の上であるため、一般人とは仲良くしておくに限るのだ。
そんなわけで、日中のカラ松は意外なほど足を用いた仕事をしている。本音を言えば、夜はぐっすりと眠りたい。しかし、一松の仕事はブラック工場での作業従事。彼は優秀な人間であるらしいけれども、持った立場の都合もあり仕事を終えるのはいつだって真夜中なのだ。
カラ松は眠たい目をこすりながら暗い山道を登ることとなる。仕事の都合上、何度も行き来したことのある道のりではあるのだが、電灯の一つもない山道を歩くというのは中々に骨が折れる。それでも、カラ松は足を運ぶことをやめなかった。
「カラまっちゃん、今日もいい肉入ってるよー」
「この豆、粒が大きくて美味しいわよぉ」
黒のスーツでバッチリキメて、町を散策する。途中、仲良くなった商店街の人達に声をかけられ、野菜や肉を買ったりオマケしてもらったりと、外道の道を進んでいるにしては周辺の人々から良くしてもらえている毎日だ。
それもこれも、カラ松がお人好しであるからこその成果だ。
困っている老人がいれば手を差し伸べ、泣いている子供がいればキャンディを差し出す。その他、力仕事や雑用なんかを手伝ってくれる人間を嫌いになる者はそういない。
この地にカラ松が着任して一年近くなるが、彼はマフィアであることを理由に冷たくされた記憶がなかった。
「あ、カラ松さん。今日は新商品が入ってますよ」
ペットショップの前を通りがかると、店員の女性が声をかけてきた。
カラ松はかけていたサングラスをずらし、彼女が手にしている物を見つめる。
「ゼリー状になってるので食べやすいんですよ」
そう言いながら彼女がカラ松に差し出してきたのは、小さな猫缶だ。紫のラベルが印象的で、何処となく高級感のある雰囲気がした。中身のことは流石にわからないが、店員が勧めるのであれば悪い物ではないのだろう。
しばしの間、猫缶をあらゆる角度で眺めていたカラ松は、手にしていたソレを彼女へと返し、温和な笑みを浮かべた。
「じゃあ、今日はそれをいただこう」
「ありがとうございまーす」
一気に買えばいいものを、カラ松は毎日ペットショップへ通い、違う猫缶を買い続けている。彼が二つ以上買うのは、次の日がペットショップの定休日である日だけだ。
お得意様とは言いがたい彼だが、ペットショップの店員達はカラ松のことを歓迎してくれている。猫を飼う予定があるなら、と無料配布の冊子まで貰ったほどだ。
ただ、残念なことに、カラ松が猫を飼う予定は一切ない。一松が大きな願いや、それなりの額を求めてくれば、その時点で猫缶を買いにくることはなくなってしまうだろう。
早くその時が来て欲しいような、来て欲しくないような。
複雑な気持ちを抱えながら、カラ松は数百円の買い物を終える。
*
夜が来て、カラ松の枕元で携帯電話がけたたましいアラーム音を響かせる。壁が薄い部屋であったならば、即座に壁を叩かれていたことだろう。
寝ぼけ眼をこすりながら、カラ松は軽く歯を磨いて干しておいたスーツに腕を通す。山登りに適した服装とは言いがたいが、面子というものが非常に大きな割合を占める職に就いているため、どんな時でも気を抜くことができないのだ。
「ん……。猫缶、持ったな」
忘れ物がないことを確認し、彼は部屋を出る。
低めのヒールをカツカツと鳴らしながらコンクリートの道を歩き、山の麓へ。そのまま注意書きも道案内の標識も無視して山を登る。落ち葉がかさかさと音をたてる。カラ松はこの音が嫌いではなかったので、人目がないのを良いことにわざと派手な音をたてながら歩くことさえあった。
そうして登ること一時間。カラ松は目的の場所にたどり着く。
一松が向かう場所と、彼が出てくる出入り口の丁度真ん中辺りの場所。そこがカラ松の定位置だ。ブラック工場に近づきすぎて顔を見られるのは悪手であるし、猫の集会に顔を出して一松の機嫌を損ねるのもあまり良い手とはいえない。
前者に関しては、ファミリーの顔に泥を塗ることにもなりかねないので注意が必要だ。
まさか、プリュネの幹部ともあろうものがたかだか班長に命を救われたなどと、その恩返しもできていないなどと思われるわけにはいかない。
「さて、今日こそ願いを聞きたいものだが」
大きく成長しきった木に背中を預け、カラ松は空を見る。今日の空には雲が少なく、月明かりが薄っすらと地面を照らしている。思えば、カラ松は一松の顔をハッキリと見たことがなかった。経歴等々は紙面で知ったが、生憎とそこに顔写真は貼り付けられていなかったのだ。
毎日この場所で顔を合わせてはいるのだけれど、人工の光がないために辺りは暗く、とてもではないが互いの顔をマジマジと観察できるはずがない。
ただ、視界の代わりに聴覚が敏感になっているのか、カラ松の鼓膜には一松の声がやたらとこびりついている。
低めの、覇気が見られない声。少し掠れているのは普段から声を出していない人間に現れる特徴だ。きっと仕事の中でも最小限の会話ですましているに違いない。
あの声が淡々と業務指示だけを出している場面があまりにも簡単に思い浮かんでしまったため、カラ松は一人、クスクスと笑うはめになってしまった。この愉快さが誰とも共有できないものであることが惜しい。
「早く来い、来い、班長さん」
薄っすら冷えた猫缶を手の中で弄繰り回しながら何度も繰り返す。
自身が孤高の身であることを重々承知しているカラ松ではあるのだが、真夜中、山の中でたった一人立ち尽くしていたいわけではないのだ。
一分一秒でも早く一松の姿を認識したい。テンプレートな会話を交わし、去り行く彼の背中を見つめ、トボトボと自室に帰るまでがカラ松の一日だった。
「……アレ?」
ポケットから携帯電話を取り出す。
カラ松がこの場所へきてから、もう二時間が経とうとしていた。
「おかしい。班長さんがこんなに遅れてくることなんて今までなかったのに」
待ち合わせをしているわけではないが、一松がこの場へやってくる時間は大体同じような時間帯だった。工場の特色上、三十分程度の誤差はあるが、その程度ですんでいたはずだ。
だというのに、二時間が経った今、カラ松の姿はない。
先に猫のもとへ行ったのか、とも考えたが、それならば戻ってくる途中の一松と出会うことができているはずの時間だ。大抵、彼は外出時間を一時間に設定していた。二時間が経ってもなお、姿が現れないのは明らかに怪しい。
「とうとう避けられた、か?」
カラ松は顎に手をやり考える。
ない、と断言することはできないが、まあないだろう、とも思う。
マフィアは怖いだの何だと言いながらも、一松は初っ端から敵マフィアを殺そうとしていたし、カラ松の言葉に屈することもない。むしろ、丁寧な語調で辛辣な言葉を突き刺してきている。
そんな男が、カラ松という邪魔者を避けて別の道を使う、というのがいまひとつピンとこない。面倒くさがりで自分本位なところが見え隠れする彼ならば、カラ松が根負けすることを前提にしていつもの道を使い続けるはずなのだ。
「何かあったのだろうか」
一松が働いているのはブラック工場だ。怪我の一つや二つあってもおかしくはない。
病気だという線もある。無茶な労働は身体へ着実にダメージを与えていく。蓄積された負荷にウイルスがつけこみ、外に出ることすら叶わないのかもしれない。
考えれば考えるほど、嫌な光景が目に浮かぶ。
相手が一松でなければ、ブラック工場に堕ちた人間の安否なんぞ気にもかけなかった。生きていようが死んでいようが、最終的にモノがこちらに渡ればそれで良かった。
しかし、一松だけは話が別だ。
まだ何も返せていない。ちゃんと顔を見たことすらないのに消えてもらっては困る。
カラ松は携帯電話で時間を確認した。
「あと、一時間だけ……」
待ってみようと思った。
工場が忙しいだけなのかもしれない。そんな期待をこめた。
しかし、無情にも時間は過ぎ去り、一時間経ち、さらに時間が経過して朝日が昇り始める頃になっても一松はやってこなかった。
カラ松は少しだけ唇を噛み、その場を離れる。
麓につく頃には日が昇りきってしまっているだろう。住人達にあまり怪しまれたくないので何か良い言い訳を考えなければならない。
いや、それよりも睡眠時間のことを考えるべきか。今から部屋に戻り、一時間だけ眠って仕事をし、また今夜も山を登らなければならない。丈夫さには自信があるカラ松だが、睡眠不足の状態で夜の山を登るのは危険だ。いっそのこと、仕事の時間を短縮するべきか。しかし、そのことについて後々上から突かれてはたまったものではない。
ぐるぐると思考をめぐらせているうちに、彼は部屋に戻ってくることができた。
幸いにも早起きをしていた住民達はカラ松のことを奇異な目で見るでもなく、今日は早起きでもしたのか? と、好意的な解釈のもと声をかけてきてくれた。これも日頃の人徳が成せる業だ。
「……どうしよう」
スーツにしわが寄るのも気にせず、そのままベッドに倒れこむ。
「工場で何かあったか探りを入れるか?
でも、この間、班長全員の経歴を提出しろと言ったばかりだ。これ以上、内部に突っ込むと怪しまれるかもしれない。
人の口を頼りにするにも、あそこの従業員達は工場の敷地から出てこないし」
情報を得る手段ならばいくらでも思いつく。
しかし、それらを実行した後のことを考えると、どれもこれも行動に移すことはできなかった。
ファミリー連中に勘付かれる。カラ松が異様に工場との接触を持てばその異変はすぐに伝わることだろう。先日、全班長の経歴を提出させるくらいならば、たまの監査代わりだと言い訳ができるが、この短期間のうちに事故の有無や特定の人物の体調について聞けるはずがない。
潜入し、従業員共から話を聞いたとしても、やはり何処かでカラ松のことは漏れてしまう。そうなった場合、コソコソと何をしているのだと問われれば返す言葉なんぞありはしないのだ。
「今日の夜は来るだろうか」
徐々にカラ松の瞼が落ちる。
アラームはセットしているが、目を開けれるかは微妙なところだろう。
「班長さん……」
手探りで枕元の資料を探し、しわのないそれにそっと触れる。
しわだらけになっている十数枚には、一松とは違う班長の名前や経歴が記されていた。
*
結局、その日のカラ松は盛大に寝坊した。
アラームに気づかずすっかり眠りこけており、目が覚めたときにはお天道様が真上から下がり始めているような時間だった。こんなとき、上司から鬼のような電話がかかってこないのが自由度の高い仕事の良いところだ。
窓から差し込む明るい日差しに驚きはしたものの、カラ松はすぐさま身支度を整えるでもなく、ベッドの上で呆然と座り込んだままだった。
「今日は、きてくれるよな?」
渡すことができなかった猫缶を指でなぞり、カラ松はため息をつく。
一松のことが心配で仕方がなかった。彼が死んだところで、それをカラ松に伝えてくれる者は誰もいない。否、彼が死んだということを知ることができるのは、あの工場で働いている人間だけだ。
あの場所では、人が死ねば速やかに燃やされ、埋められる。生きていた証も、死んだ証も外にまで流れ出てはこない。
故に、カラ松は待つしかないのだ。
忠犬のようにあの場所で待つことしかできない。
その無力さがあまりにも悔しくて、悲しくて、カラ松はうな垂れる。
この調子で居続けるのは良くない、と思い顔を上げて支度を始めたのは、彼が起床してから実に一時間が経過してからのことだった。
しわだらけになってしまったスーツはクリーニングに出すとして、新しいスーツに身を包み、いつもの仕事に精を出す。商店街の人や子供達と話している間は、少しだけ一松のことを忘れることができた。だが、カラ松の顔色は相当よろしくないらしく、言葉を交わす人、交わす人に心配の眼差しと声をかけられた。
「どうしたんだい?」
「オレはいつも通りだぞ。
安心してくれ、カラ松boy」
「最近、やけに楽しそうだったってのに、何かあったの?」
「この町の人達と話すのはとても楽しいぞ。
勿論、今、この瞬間も」
「仕事疲れかい?
夜はちゃんと寝ないと駄目だよ」
「……あぁ、そうだな。夜はちゃんと寝ることにしよう」
いっそ、この優しい人々に相談してしまいたいような気持ちにカラ松は駆られる。
そうすれば、一松が喜ぶプレゼントもわかるだろうし、彼の安否を思う気持ちにだって同意して、カラ松を励ましてくれるはずだ。心配で弱った心には、誰かからの励ましがよく沁みこむ。
受けた覚えもない優しさの感覚は、何故だかカラ松の心の奥底に根付いており、時折、その暖かさをどうしても求めてしまう瞬間があった。それが今だ。
不安で、疲れていて、誰彼構わず手を伸ばしたくなる。
寸前のところでそれを止めることができる忍耐は、マフィアとしての訓練の賜物だ。
「カラ松さん!」
元気な声に、カラ松はのろのろとそちらを向く。
いつの間にかペットショップの前まで来ていたらしい。そこには昨日と同じく、元気で可愛らしい女性店員がおり、こちらに向かって手を振っている。
今日もカラ松が猫缶を求めてやってきたと思っているのだろう。
だが、申し訳ないことに本日は猫缶を購入する予定はない。昨日買った分がまだ手元に残っている。
別段、小さな猫缶が一つ増えたところで邪魔になるわけでもないし、一松に会ったときにまとめて二つ渡しても問題はないのだけれど、カラ松の気持ちはそれを良しとはしなかった。
「こんにちは、カラ松Girl。だが、すまない。
今日は猫缶を買いにきたわけじゃないんだ」
一度に多くを渡すのではなく、一日に一つ、まるで宝物を分け与えるように一松へ手渡すのがカラ松は好きだった。数分にも満たない時間が、どうしてだか楽しく思えてしかたがなかったのだ。
「それは別にいいんですけど……」
ここのところ毎日猫缶買って行っているとはいえ、期間にすれば一週間と少し。買わぬ日があるからといって、驚くようなことではない。
女性はわずかに言葉をまごつかせながら、しかし、しっかりとカラ松の目を見て言う。
「もしかして、フラれちゃいました?」
「え?」
気まずげに発せられた言葉をカラ松はすぐさま理解することができなかった。
フラれた。それは、一般的に考えれば恋愛感情を持った相手への告白が失敗したときに使われる動詞ではなかっただろうか。だが、カラ松にそんな相手はいない。彼の地位や金を目当てとした女が色目を使ってくることは何度かあったが、ここ最近ではすっかりご無沙汰だ。
毎日会っている人間といえば、ペットショップの店員達や商店街の人々、そしてブラック工場に勤めている班長、一松。
恋愛感情のれの字も見当たらないラインナップだ。
「何か勘違いしているようだが、オレはフラれていないぞ?
そもそも、今はそういう対象の女性はいない」
金や地位に目がくらんでいる女と番になるつもりはないし、そうでない普通の女性を選ぶには、マフィアという稼業は重過ぎる。今のところ、何を置いてでも選び取りたい、という気持ちになった女性はいない。
まさか、ペットショップの店員に女の影を疑われていたとは思いもしなかったが、女性は恋の噂話が好きなものと相場が決まっている。突然、毎日のように猫缶を買いにくる男が現れれば、噂の一つや二つ立っても仕方がないことなのかもしれない。
「えっ、そ、そうなんですか?
すみません……!」
彼女は慌てて頭を下げる。
いくら気さくな人柄とはいえ、相手はマフィアだ。
愚かしい疑いをかけたともなれば、何らかの制裁があってもおかしくはない。その恐怖心からだろうか、頭を低くした彼女の身体はわずかに震えていた。
「別に気にしていないさ。
そういう噂を立てたくなるほど、オレが魅力的、ということだろ?」
ビンゴ〜? と、軽く問うてやれば、彼女はおずおずと顔を上げ、小さく微笑んだ。カラ松が怒っていないことに安心したらしい。
「私、てっきり猫が好きな女の人がいるんだと思ってました」
怯えが取れたらしい彼女は微笑みながら言う。
猫好きを落としたければ、まず猫から落とさなければならない。猫に嫌われる人間を猫好きは愛さないのだ、と。故に、猫を飼ったこともないのに日々猫缶を求めてやってくるカラ松のことを誤解したのだそうだ。
そう言われてみれば、誤解されるのも納得だ、と彼は頷く。
「だが、あの猫缶はただのお礼なんだ」
「猫缶が?」
首を傾げる気持ちもよくわかる。
カラ松も同じ思いを抱いているのだから。
「あぁ……。しかし、猫缶一つでは到底割りに合わない恩がある。
だから、他にも何かないかと考えているんだが」
ここまで口にして、カラ松はハッとする。
弱味を見せるまいとしてきていたのに、自然と恩人の話をしてしまっていた。
会話の流れ上、仕方のないことではあったのだが、つまらぬ失態に舌を打ちたい気持ちになる。せめて、寝不足でなければ、会話の流れを変えることもできただろうに。
「謙虚な人なんですね」
「そう、だな。オレから何かを貰うのが嫌なだけかもしれないが」
強欲な人間だとは言わないが、一松のことを謙虚であるというのも難しい話だ。彼の場合、控えめというよりは、現状維持以上のことに興味がないだけだろう。
ブラック工場で長く働いている人間にはよく見られる傾向だ。
未来に希望はなく、人間性を捨てて歯車と化すことを求められる。ある意味では、瑣末な悩みとは無縁の、幸せな世界を構築することに成功しているのかもしれない。
「……松野さん、本当にその人のこと、好きとかじゃないんですよね?」
「ん? どうしてだ?」
おずおずと尋ねられ、カラ松は首を傾げた。
彼女には話していないが、一松は正真正銘男だ。恋愛感情を抱くはずもない。
「だって、求められてないなら、放っておけばいいじゃないですか」
「猫缶一つで済ませるには忍びなくてな」
肩をすくめて見せるが、彼女は腑に落ちない、という顔をしている。女性の考えることはカラ松にはよくわからない。
「それなら適当にケーキとか、お花とか、ハンカチとか……。
とにかく、そういう何かを渡せばいいじゃないですか」
食べ物ならば後に残らず処分が容易い。たとえ、相手の好物でなかったとしても、他人に上げるという選択肢を簡単に選び取ることができる。
花の類であったとしても、時間と共に枯れ、最後には跡形もなくなる。本数を調節すれば邪魔にならないのもポイントだ。
ハンカチ等の実用品はシンプルなデザインのものを選べばそうそう嫌がられることはない。最悪、気に入らなかったとしても、大きな物ではないのだから処理に困ることもないだろう。
「できることなら、喜んでもらいたいだろ?」
「……そう、でしょうか」
彼女は目線を地面に向ける。何やら考えているらしい。
カラ松はその様子を眺めながら、確かにそれらを送るという考えもあったのだな、とぼんやり思う。いくら裏の世界で生きてきたとはいえ、彼女があげた贈り物を知らなかったわけではない。時には任務の一環でそれらを女性や相手方に送ったこともある。
だが、それらを一松に送る自分、というのがしっくりこなかった。
例えば、だ。カラ松が一松にクッキーの詰め合わせを渡したとしよう。一松はとりあえずそれを受け取るだろう。あの低い声で、心のこもっていない、ドーモ、という言葉だけを発し、去っていく。きっと、クッキーはその日のうちにゴミ箱行きだ。そして、それで終わり。それなりに値の張る贈り物を最後に、カラ松と一松は再び接点のない人間となる。
「――――?」
ツキリ、と胸が痛んだ。
謎の痛みに疑問符を浮かべながら、カラ松は胸を軽くさする。
持病は持っていないし、胸の周辺を怪我した覚えもない。原因が全くわからなかった。もしかすると、近いうちに病院で診てもらったほうがいいのかもしれない。
「カラ松さん」
女性の声にカラ松は彼女を見る。
「私の父は母に一目惚れしたんだそうです」
突然の話題にカラ松は目を瞬かせる。
「毎日毎日贈り物をして、好きって言って。
押しかけ女房ならぬ、押しかけ旦那だった、って。
今ならストーカー案件だって、母は笑ってました」
昨今の事件事情を見ていれば頷くより他にない言葉だが、彼女の両親は確かに互いを愛しているのだろう。二人の愛が生んだ結晶が、今、カラ松の前で幸福そのものだといわんばかりに存在しているのだから。
物語はハッピーエンドであるべきだ。常々そう思っているカラ松は口角を上げる。
愛と愛が繋がり、実を結ぶ。素敵なストーリーではないか。
「カラ松さん」
彼女は一声、カラ松を呼び、彼の手をそっと握る。
柔い女の手に触れられ、反射的に胸が高鳴ってしまうのは致しかたのないころだろう。
「もし、あなたが猫缶の人に毎日会いたい、と願うなら」
まるで内緒話をするかのようにその声は潜められていた。
「それは、きっと、恋なんじゃないかな、って、私は思います」
カラ松の時間がわずかに静止し、その後、押し殺されたような笑いがこみ上げる。
「はは、そうか。なるほど。
素敵な話だ。しかし、オレのは違うよ。Girlのマミーやパピーのような綺麗なものじゃない」
するりと自身の手を抜き、カラ松は彼女の小さな肩を軽く叩いてやる。頭を撫でるにしては彼女は成長しすぎていた。流石に成人女性の頭を気軽に撫でるということはできない。
「あなたがマフィアだから?」
「それもあるし、それに近いものもある」
業を背負って生きているのはお互い様だ。
一松の手も、カラ松の手も、すすぎ落とせない程に黒く染まってしまっている。どれだけ綺麗なモノをちりばめてみても、二人の間に生まれる物語が美しい輝きを持つことはない。
そもそもの話、彼女の両親は異性どうしであるから恋愛が成り立つのであって、一松とカラ松の間にそれが成立するはずがないのだ。
「だが、キミの心は受け取ったよ。
心配してくれてありがとう」
片目を閉じてウインクを投げる。
彼女の優しさに心の重さがわずかに溶けたのを感じた。そのお礼だ。
やはり人の優しさは良い。
「また猫缶を買いにくるよ」
「……待ってます」
小さく手を振り、カラ松はその場を去る。
彼女とのお喋りに花を咲かせるのは楽しいが、互いに仕事中の身だ。適度なところで区切りをつけなければなるまい。
軽くなった心に、カラ松は鼻歌交じりで歩く。夜を不安に思っていた暗さはすっかり抜け落ち、きっと今日は会えるだろう、という楽観的な考えにとって変わる。
今日、会えたのであれば、世間話がてら彼女の話をするのも悪くはないかもしれない。
きっと一松は彼女の勝手な妄想に怒るだろうけれど、その怒りを吐き出す分だけ彼の声を聞けるのだと思えば全くもって悪くない案だった。
カラ松の幸福な考えの欠陥をあげるのであれば、それは結局、一松がいないとどうにもならない、という点だろう。
お察しの通り、その日の夜、カラ松は一松と会うことなく日が昇るのをただただ待ち続けただけなのであった。
next...