一松と会うことがないまま、気づけば五日が経過していた。
 その間、カラ松は睡眠時間を極限まで削り、今日こそは、今日こそはという思いで山に登っていた。日に日に体が重くなり、思考力が低下しているのは感じていたが、それでも足を止めることはできなかった。
「大丈夫かい? 無理は駄目だよ?」
 いくらカラ松が隠したいと願ったところで、急激にやつれていく身体をどうこうすることはできなかった。ある程度までであれば化粧で隠すこともできるが、それも目聡い女性相手ならばバレてしまうので意味がない。
 むしろ、隠そうとしていた分、追求が深まることだってあるのだ。
「あぁ……。大丈夫、無理はしていない」
 嘘でしかない。誰の目から見ても明らかだ。
 ファミリー連中には仕事疲れの一点張りを通しているが、それもいつまで持つかわからない。カラ松の異変と一松を繋げることは非常に難しいことだが、マフィアという組織の情報収集能力と処理能力を舐めてはいけない。
 自身がマフィアであるが故に、カラ松はそのことをよく知っていた。
 今はよくともいずれ、この弱味が己の足を引っ張り、地獄の底にまで引きずられかねない。
 だが、どうすればいいのだろうか。
 高い情報収集能力を持つマフィアとはいえども、組織あってこそだ。単独で動くカラ松に出来ることなどたかがしれている。二日前など、待つだけでは駄目かと思い立ち、一松が消えていく方向にまで足を進めてみたのだが、彼の姿どころか猫の影一つ見つけることができずすごすごと退散するしかなかった始末。
 基本、カラ松という男は武力と潜入を主としており、持ち帰った情報などを用いて作戦を考えたり今後の方針を決める、といった頭脳を使う仕事は別の仲間に任せている。
 「……相談、してみようか」
 携帯電話を取り出し、ぼんやりと眺める。
 彼が心を許している唯一の人物。アドレス帳を開けばすぐに見つけることができ、すぐにでも連絡を取ることができるだろう。しかし、あちらも忙しい身の上だ。ブラック工場の班長がいつもの場所にやってこないのだが、どうすればいいと思う? 等というわけのわからない相談をされても困るに違いない。彼には彼の、するべき仕事がある。
 結局、カラ松は携帯電話をポケットに突っ込み、空を見上げるだけに留めた。
 青空は高く、今日も清々しい。きっと今夜も晴れるだろう。
 今のところ、一松と出会ってからこれまで、雨が降った日は一度もない。ありがたいことだ。雨が降ってしまえば、流石のカラ松も山には登れない。おそらく、一松も外に出ようとは思わず、工場の敷地内に設置されている宿舎へ真っ直ぐ帰宅するに違いない。
「宿舎……」
 一度、あの広い工場の敷地をぐるっと案内してもらったことがある。どこもかしこも清潔感など皆無な劣悪環境で、その中でも一等酷いのが宿舎だった。
 バラバラの位置にいくつか建てられていた宿舎はどれも年代物で、震度三の地震でも倒壊してしまうのだろうな、ということを容易に想像させる概観をしていた。中は見ていないが、便所も風呂も共同だと言っていた記憶が薄っすらとあるので、どちらも垢やら何やらの汚れがたまっていることだろう。
 班長にまで上り詰めることができれば一人部屋がもらえるらしいが、それ以下の人間は狭い室内に複数人押し込められる。一松は班長なので一人部屋か、とここまで考え、カラ松は歩きだした。
 意識してのことではない。
 何も考えず、何も感じず、だというのに、身体だけは勝手に足を進めていく。
 十数歩歩いたところでようやく意識が身体の動きに気づき、体を静止させることに成功した。
「オレは、何を?」
 何処へ行き、何をするつもりだったというのか。
 身体に問いかけてみるが、返事があるはずもなく、鈍った頭の上へ疑問符を浮かべることしかカラ松はできない。
 歩道のど真ん中で立ち止まるスーツの男、というのは中々に異様な光景だが、町の人々はそれを避けるだけで陰口の一つも叩かないでいてくれた。
 町の名物化しつつあるカラ松の様子がおかしいことは、既に住人達の間では有名であった。
「――会いたい」
 不意に、言葉が口をついて出た。
 会いたい。誰に。一松に。
 足が動く。先ほどよりも歩みが速い。
 まだ時刻は真昼間で、カラ松にはまだ仕事が残っていた。欲しいと思っている土地に住む老人達と親睦を深めることや、やましい事業をしている者からみかじめ料をせしめたり、とそれなりにするべきことは残っている。
 だが、それらは明日でもできる。一日や二日のロスでどうこうなるものではない。
「会いたい」
 比べて、こちらはどうにもならない。明日に伸ばしたところで、気持ちが強くなるだけなのはここ五日間でよくよく知っていた。
 かろうじて残る理性が、最短ルートではなくわざと遠回りをしたりでたらめな道を通ったりと、彼の足取りを掴みにくくさせたが、向かう先はただ一点だった。
 カラ松の頭の中で、いつだかペットショップの店員が言っていた言葉が反響している。
「押しかけ女房ならぬ、押しかけ旦那だった、って」
 笑っていた彼女は、幸せそうだった。
 会いたいのならば、抑えられないのならば、やはりこちらから行くしかないのだ。
 今まではリスクを考慮して抑えていた欲求が、寝不足の頭によって解放される。ようはバレなければ問題ないじゃないか、と。幸福にもカラ松は潜入を得意としている。厳重なブラック工場とはいえども、大体は内から外に出さぬよう気をつけているのであって、外から入り込む分には存外容易かったりする。
 そうでなくとも、あの工場を担当しているカラ松が赴けば、出入り口の受付は何も聞かずに彼を通してくれることだろう。目撃証言を残したくはないので、できることならば潜入がベストではあるがどうしようもないときは鉛玉をちらつかせて口を閉じていてもらう方向で行こう。
 物騒な考えを頭の片隅にちらつかせながら、カラ松は山へ入っていく。
「明るい内に入るのは久々だな」
 以前、工場を見学しに行って以来だ。
 その後は日が暮れた後にしか足を踏み入れていない。
 太陽の光によって視界が良好な分、山を登る時間は短縮された。疲れきった身体に課すには重労働であったが、満たされるためならばそれも致しかたあるまい。
 工場の影が見え始めた頃、カラ松は一度足を止め、ゆっくりと深呼吸をした。
 ここからは衝動に任せて行っていいものではない。
 気配を経ち、迅速に行動する。
 これはミッションだ。
 薄く開かれた目の奥にある色はとても静かで、彼の気配自然と同化し始める。彼は木であり木の葉であり風だ。
 完璧な足取りは地面に落ちている木の葉を踏んでも音を鳴らさない。否、音は鳴っているのだろうけれど、あまりにも小さすぎて地面に吸収されて終わってしまう。
 一歩、また一歩と歩み、一定の距離まで詰めたところで横へ移動する。
 侵入口を探しているのだ。
 逸る気持ちを抑えつつ、一点のブレも許さぬごとく静かな足取りでフェンス周りを観察していく。
 内と外をわけるためのそれは定期的に整備されているらしく、宿舎や工場内の機械とは違って錆びた跡も脆くなっている箇所も見当たらない。道具があれば断ち切れそうにも見えるが、カラ松はこのフェンスが特注製であることを工場長から直々に聞かされているので知っていた。
 わずかに電流が通されているらしいフェンスは、どこか一ヶ所でも切断されればそれを知らせるためのアラームが鳴り響くらしい。
 脱走防止用とのことだったが、ここにきて侵入者対策にもなっていたのだな、とカラ松は知ることとなる。
「……さて、どうするか」
 近くの木から飛び降りるという手も考えたが、高低差を考えると怪我の危険性が非常に高い。そもそも、その場合は内から外に帰ることができなくなってしまうので却下。
 穴を掘ってみる、というのも王道で良い策のように思えたが、そもそもどれだけの時間をかけるつもりだ、という話である。加えて、フェンスが地中にまで達していないとは聞いておらず、途中で誤ってフェンスを切断した日には目もあてられない。
 やはり、正々堂々と正面から入るしかないか、とカラ松は嘆息する。
 手っ取り早くはあるが、後々ファミリーから何を言われるかと考えると胃が痛くなる案件だ。
 しかし、それでも一松とこれからも会うことができず、安否もわからぬままに待ち続けることを思えば幾分かマシに思えた。
 カラ松は気配を絶つのを止め、足音をたてながら受付へと向かう。
 その時だ。彼はありえてはならないモノを見た。
「フッ……。
 運命の女神はオレに味方してくれるらしい」
 静かに足を進める。
 その先には、わずかに開かれた扉が見えた。
 従業員、この場合、班長クラス以上の正職員用の扉だ。普段は内側から鍵がかけられているようだが、往々にして、人という生き物は不変に慣れ、怠惰になっていく。
 辺鄙な山奥にあるブラック工場に侵入者などあるはずもなく、戸締りに対する意識が緩くなってしまっているのだろう。脱出者に対する意識としては、どうせ内側からであれば誰でも鍵を開けることができる、そこに至るまでの道筋で歯車共を捕まえることができる、という考えがあるのだ。
 普段ならば厳重注意モノだが、今回はこれに乗らせてもらうしかない。
 カラ松は頭の片隅に戸締りの徹底を書き留めつつ、ブラック工場内部への侵入を成功させた。
「時刻は一一二○、休憩時間までまだ時間があるな」
 腕時計で時間を確認しつつ、静かに廊下を歩く。
 この時間帯ならば、下っ端達は工場内での作業に従事しており、彼らの管理や発注確認を仕事としている正社員達は事務所にいるはずだ。正社員達にはある程度の自由が与えられているものの、彼らの数はそう多くはなく、仕事場から出てくることは少ない。下っ端達なんぞは自身が担当している持ち場から離れられるはずもなく、カラ松は最低限音を立てず、以前聞かされた監視カメラにさえ気をつけていれば、誰にも気づかれることなく敷地内を動くことができた。
「確か、班長さんの宿舎と部屋番号は……」
 手に入れた経歴書に書かれていた番号と、案内されたときの地図を思い出しつつカラ松は歩く。頭の回転は速くないものの、記憶するだけならば彼は割合簡単にこなすことができた。
 長い廊下を通り、設置された扉から外へ出る。
 雑草に紛れてゴミが散乱している様は、ちょっとしたスラムを連想させる。景観が悪い場所というのは、それだけで人の心をささくれさせるものだ。
 だが、カラ松とて裏の住人。言葉通りのゴミよりも余程汚いゴミ共を目にしてきた男だ。たまには清掃もさせたほうがいいのではないか、と思った程度に終わる。
 変色さえ始めているゴミを横目に、カラ松は足を進めていく。彼の記憶が正しければ、視界に映る小さな建物。それが一松の住まう宿舎のはずだ。
「……前々から思っていたが、凄まじいな」
 辟易とした顔をしてしまうことを責めることができるような者は、日本中を探しても見つからないだろう。
 カラ松の眼前に建つ二階建ての宿舎は、それはもう酷い有様だった。階段は錆びだらけで、自然に朽ちるのが先か人の体重によって壊れるのが先か、という様子であるし、壁からは隙間に入ったらしい植物の種子が立派に育ち、あちらこちらから緑が生えている。よく見てみれば建物全体が傾いており、右に行くにしたがって天上が高く、左に行くにしたがって低くなっていた。
 欠陥、という言葉さえ可愛く見えてしまう。
 当然のことだが、扉一つ一つに表札などない。あるのは部屋番号だけだ。
 そもそも、人の出入り、生死が激しいこの場所で、人の名前を記すことに意味など皆無。自分がいるべき場所の番号さえわかっていればそれでいい。
 その理念を理解しているカラ松は、脳内の引き出しから一松の部屋番号を引っ張り出し、端から順々に確認していく。左から右へ、ゆっくりと歩き、突き当たり、最も天上が高い部屋の前で立ち止まる。
「ここだ」
 生唾を飲み込む。
 この向こうの部屋に、一松は住んでいるはずだ。まだ、彼が死んでいないのであれば。
 軽くノブを捻り、引き、押してみる。どちらにせよ扉は開かない。しっかりと鍵がかかっているらしい。こんな場所とはいえ、危機管理ができている一松を賞賛するべきか、時間がないのだから開いていてほしかった、と悔やむべきか。カラ松は少しばかり唇を尖らせたが、すぐに気持ちを切り替え、その場に膝をつく。
 懐から取り出したのは一本の針金。
 古典的な手段ではあるが、古めかしい鍵にはピッタリの代物だ。
 カラ松はそっと針金を差込、何度かいじる。最近の扉はセキュリティが強化されており、針金一つで開くということは少なくなってきているのだが、最低限の技術としてカラ松はピッキングを習得していた。まさか、こんな使い方をするとは夢にも思っていなかったが。
「――よし」
 数分後、扉の向こう側で、ガチャン、という音がした。
 無事、鍵が開いたのだ。
 カラ松はノブをまわし、軽く引く。
 重みはあったが、先ほどとは違い、抵抗するような重量ではなく、劣化による軋みが原因で開きにくいだけだということがすぐにわかる。
 ギ、ギギ、と音がなる。静かに開けているつもりなのだが、これが中々難しい。
 人がいる時間帯でなくてよかった、と思いつつもゆっくり、極力静かに扉を開けていく。
 人一人が入れる程度の隙間ができたところで、カラ松は素早く身を内側に滑らせ、先ほどまでの慎重さを投げ捨てたかのような速さで扉を閉める。
 少々大きな音が出たが、カラ松の耳には入らない。
 扉の音以上に、自身の心臓の音の方が余程大きく彼の鼓膜を揺らしていた。
「ハッ、ハハ……。
 ついに、ついにきた、ぞ」
 そっと鍵を閉め、後ろを振り返る。
 狭い六畳一間の部屋。起きたままなのだろう、くちゃくちゃにされた万年床があるばかりで、他に目立った物は何もない部屋。強いていうならば、ハンガーにかけられた変えの作業着くらいか。
 部屋自体に長年使用されたが故の汚れはあるものの、ゴミが散乱しているわけでもなく、全体的に綺麗な印象を抱かせた。部屋の隅に置かれているゴミ箱からは、売店で買ったのであろう弁当の空箱が飛び出ており、一松の食生活を如実に現していた。
「……少なくとも、病気で寝込んでいるわけではなさそうだ」
 多少の病気ならば無理やり職場に引きずり出すのがブラック工場なので、楽観視はできないが、起き上がることもできない程の病気を抱えたわけではなさそうで少し安心する。
 だが、そもそもの話、一松が既に死亡しており、今、ここに住んでいる人間が違う班長である可能性も零ではない。カラ松は部屋の中に少しでも一松の陰が見えやしないかと目をあちらこちらにやる。
 如何せん、物が少なすぎることと、カラ松自身が一松のことについて詳しく知らないため、ポツリポツリ見える私物を見たところでそれが一松の物が否かを判断するのは難しすぎた。
「何か、何かないのか……」
 作業着を見てみても、名札はついておらず、班長と書かれた腕章がついているだけ。ポケットを探ってみても何も出てこず、顔を近づけた際に香ってくるのは安物の洗剤の匂いばかり。
「そうだ」
 安い香りに、カラ松の脳が一つの答えを導き出す。
 彼は振り返り、汚い万年床へと近づいていく。元は白かったのだろうそれは、もはやクリームと呼ぶことさえできぬほどに汚れきっていた。最近の内に洗濯された、等ということは間違ってもありえないだろう。
「班長さん……」
 そっと掛け布団を手にとり、顔を近づける。
 途端、鼻を突くのは異臭だ。
 脂やら金属やら火薬やら。様々な臭いを混ぜ込み、染みこませた臭いは、嗅いだ人間のほぼ全員が顔を背けずにはいられないことだろう。
 しかし、カラ松はその臭いから身を退けることができなかった。
 それどころか、もっと、とでも言いたげに、掛け布団を抱きしめる。
「やっぱり、ここは班長さんの部屋だ」
 二度目の出会い。あの時、一松に倒され、首筋を狙われた。その際にカラ松の脳が感じた臭いがそのまま布団に染み付いていた。
 不快なはずの臭いなのに、どうしてだかカラ松の心は急速に凪いでいく。
 同時に、今まで耐えていた睡魔が彼を飲み込むべく猛威を奮いはじめた。薄っぺらい敷布団に身を横たえ、掛け布団を抱きしめたままいると、じょじょに瞼が落ちてきた。
 視界が黒に染まる直前、カラ松は自覚した。
 自分は、恋をしてしまったのだ、と。

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