二徹から一日挟んで再び二徹。
 職場がブラック工場であるがために、徹夜とは切っても切れない縁が一松にはある。今回の場合、間に一日、まともに働いて眠った日があるからまだマシなほうだ。数年前には、眠る時間は昼の休憩時間のみ、というような気が狂ったスケジュールで六日間も働かされた。
 それと比べれば、とどうにか自分を鼓舞しながら終えが今日の業務。時刻は夜中の二時。これならば数時間は眠ることができるだろう。徹夜続きのおかげで、ここ五日間ほどは仕事のために猫と触れ合うこともできず、一松のストレスは最高潮に達していたというのに、今日も今日とて猫に会うことは叶わない。癒しは大切だが、睡眠も大切なのだ。
 今日の業務でどうにかひと段落ついたので、明日からはまた今までのように夜中の逢瀬を愉しむことができるに違いない。むしろ、それがなければ暴れだす所存だ。
「疲れた……」
 小さく呟きながら、錆びた鍵を穴に差し込み、回す。鍵が開いたのを確認してから扉を開けた。耳障りな音が響くが、現在、文句を言えるような人間は宿舎に存在していない。
 I班の連中は既に深い深い眠りの中に落ちているだろうし、他の班の連中は未だ工場で勤務中だ。出来の悪い班長を持つと苦労するのは下の者達で、あの分ではあと数日徹夜が続くだろう、と一松は睨んでいる。
 彼は部屋に入ると同時に作業着を脱ぎ散らかしながら奥へと進む。電気は面倒くさいのでつけない。カーテンが締め切られているため、室内は真っ暗だが、住み慣れた自室だ。万年床のありかくらいは覚えている。物が少ないため、足で何かを踏んでしまう心配がないのも暗闇のままで進める理由の一つだ。
 作業着を全て脱ぎ、下着姿になった一松はそのまま布団に倒れこむ。パジャマを所持してはいるが、着替える元気がなかった。冬場であったならば、隙間風から身を守るためにも何かを着ただろうけれど、今は春も盛り。一日くらい下着で眠っても大丈夫だろう、という判断だ。
 だが、そんなことは問題にもならなかった。
 たとえ一松がパジャマに着替えていようとも、布団の下から聞こえてくる呻き声が消えることはなかったのだろうから。
「ぐぇ……」
「は?」
 倒れこんだ先で何か声がした。さらに言うのであれば、ゴツゴツしたモノとぶつかってしまったため、一松の腹やら腕やらが地味にダメージを受けてしまった。
 疲れと痛みに眉を顰めながらも、一松はバタバタとした動きで万年床を離れ、玄関横についている電気のスイッチを押す。
 わずかな時間の後、電球はチカチカとしつつも部屋を照らし出した。
 今朝と変わらぬ六畳一間。そこに、一つだけ、明らかな異物がある。一松は目を見開き、呆然とそれを眺める。
 徹夜でボケていた頭がすっかりクリアになる。この状況下であっても脳の働きを鈍らせたままでいたとするならば、そいつは生存本能を失っているに等しいだろう。つまり、一松が見つめている男にそういった本能は存在していないに違いない。
「……あ、班長さん?」
 汚い万年床の上にいるには不釣合いな、高級仕立てのスーツをまとった男がそこにいた。
 彼は寝ぼけ眼をこすりながらも、手に握り締めている掛け布団を決して放そうとはしない。だらしなく口角を上げ、呆然としている一松をその瞳に映す。とろけるような色を含んだそれを一松は始めて見た。
 だが、彼は目の前にいる男を知っている。
 見た目ではない。声だ。一松は男の声に聞き覚えがあった。
 山の中で、形としては命を救ってやった男。その礼として毎日毎日飽きもせず猫缶を運んできた、マフィアの幹部だ。
「あんた、こんなとこで何してるんデスカ」
 どうしても声が硬くなる。
 間抜けだ間抜けだと思っていたが、表情までずいぶんと腑抜けていた男。しかし、彼はマフィアであり、いざとなれば銃を取り出して一松を瞬間でしとめてしまえる存在だ。それが突然家に現れ、歓迎できるはずがない。
「――あ、怪我! 怪我とか、してないか?」
 一松の問いかけに対し、しばしぼんやりと考えていたかと思うと、男は勢いよく立ち上がり、一松に詰め寄ってきた。鼻と鼻がつきそうな距離にまで迫ると、一松の身体をベタベタと触り始める。
 直前の言葉から察するに、腕や足が欠けていないか確認しているらしい。
「怪我とかしてませんよ」
 お前には関係ないけどな、という言葉を飲み込みつつ、男へ言葉を投げてみる。
 しかし、彼は自身で確認しないと気がつまない性質なのか、本当か? という疑問符を投げよこしながらも一松の身体に触れることをやめようとしない。
 正直なところ、一松は素っ裸に近い格好をしているのだから、目で見るだけでも充分に確認できるはずだ。けれども、男は一松に触れる。
 何も寝ぼけての行動ではない。世の中には精密な義手や義足が存在している、ということを彼は知っているだけだ。
「で、何でここにいるのか、って聞いてんですけど」
 鬱陶しい、とばかりに腕で男を払いのけながら一松は再び尋ねる。
 男はキョトン、とした顔をした後に、小さく笑って頭を掻いた。
「すまない。失念していた」
 謝罪などどうでもいい。一松は今すぐに答えが欲しかった。そして、それを口にした後、速やかに退室して欲しい、というのが彼の何よりもの願いだ。
「あんたがいつものところにこなかったものでな。
 病か怪我か、はたまた死んでしまったのではなかろうか、と心配になって――」
「あぁ? あんたにんなこと関係ないでしょ」
 普段よりも数段低い声が一松の喉から溢れ出る。
 マフィア何ぞに、他人に心配されたくない。そんな気持ちが多分に含まれていた。
「何? 今度こそボクを仕留めようとでも思ったわけ?
 なのに急にこなくなったから、痺れを切らして襲いにきたの?」
「ち、違う!」
「じゃあどーしてボクのとこになんて来たの?
 礼がしたいにしてもしつこ過ぎ。放っておいて。
 ついでに部屋から出て行って」
 ターゲットの布団ですやすや寝こけているマフィアがいるとは思えないので、男の言葉に嘘はないのだろう。しかし、ならば余計に意味がわからない。
 絶体絶命のところを助けてやったわけでもなく、親しい関係なわけでもない。彼にとって有用な人間でもない。そんな存在のために、小汚い宿舎にまでやってくる理由が一松にはわからなかった。
「オレは……」
 男はうつむく。
 言葉に迷っているようだった。
 一松は男の腕を無理やり掴み、彼の身体を引き上げる。そして、そのまま玄関へ向かって引きずり始めた。
 理由を問いはしたが、答えを聞いてやるつもりはなかった。どうだっていいことに時間を割くくらいならば、さっさと終わらせて眠ったほうが余程良い。
「ま、待って」
 悲痛な声が男の口から放たれる。
 しかし、一松がそれを聞いてやる義理はない。
「オレ、オレ……」
 男が一松の手にそっと触れる。
 引き剥がすのかと思ったが、そうではないらしい。
 だが、それならばそれで良い。邪魔をしないのであれば話は早い。
 一松はドアノブに手をかける。
「お前を愛してしまったんだ」
 囁くような声だった。
 言うべきか、言わざるべきか、迷った末に思わず出てしまった言葉。
 混じりけのない本気を感じた一松はノブに伸びていた手を止め、彼の手に触れている男を凝視する。男は気恥ずかしいのか顔を背けているが、その耳は仄かに赤い。
「……冗談でしょ?」
 一松から出たのは、引きつった声だった。
「……すまない」
 男は目を伏せ謝罪する。
 彼の言葉に嘘偽りはない。
 眠る直前に自覚した思いだったが、彼の抱いた愛は深く、重い。会えぬだけで憔悴してしまうほどだ。愛した男に会うためだけにブラック工場へ侵入を果たすほどだ。
 しかし、愛は全ての罪を帳消しにしてくれるようなものではない。
 男が男に惚れた。
 禁じられた愛。
 嫌悪感を抱く者も少なくはないだろう。一松がその一人であったとしても、何ら不思議ではない。
「本気なの?」
 男の腕が引かれた。
 外に放り出されるのかとも思ったが、扉はまだ開いていない。何をされるのか、と男の脳が一瞬混乱している間に、彼の身体は扉に叩きつけられる。鈍い音が身体と扉の両方から聞こえた。
 一松は男を扉に押し付けるようにし、彼をまじまじと眺める。
 眠っていたためか、少々しわの寄ったスーツ。それを身にまとっている身体は全体的に細い印象を受けるものの、触れれば筋肉によって極限まで絞り込まれていることがわかる。実践向きな身体といえるだろう。綺麗に切りそろえられた髪は、シャンプーにも気を使っているのか痛んでいる様子はない。驚愕に見開かれた目の上にある眉は男らしい太さがあり、キリリとした角度を描いている。
 端的に現すのであれば、イイ男だ。性格の程はわからないが、何度か言葉を交わした時のことを思い返せば、温和でお人好し。彼を好む女は少なくないだろう。
 対して自分はどうか。一松は考える。
 ボロボロの作業着。身体は細いが、作りこまれた細さではなく、睡眠不足や栄養不足からくる不健康な細さだ。髪は思い立ったときに自分で切っているため、長さはバラバラ。常にあちらこちらへ跳ねている。今日など、一週間ほど風呂に入っていないため、脂でベタベタしておりブラシも入らないことだろう。鏡を見た記憶などとんとないが、少なくとも気力のある目はしていないだろうし、眉や口も無気力に垂れ下がっている自覚がある。
 性格については言うまでもない。最底辺のクソだ。
「ヒヒッ……」
 不釣合いだ。
 実にアンバランス。恋をするにしても、一松のような底辺が、男のような高嶺の花に思いを寄せるのが妥当というものだろう。なのに、目の前にいる男は一松を愛してしまった、そう言うのだ。
 面白くないはずがない。
 滑稽すぎて腹がよじ切れそうにすら思えた。
「高そうなスーツを着たあんたが、こんなボロを着てるボクを愛するって?」
 男のスーツに指を置き、胸元からなぞるようにして指を下ろしていく。
「あんたの立派なコイツを、ボクに突っ込みたいの?」
 一松の指は男の股間をなぞる。
 布越しの緩い刺激に男の身体がわずかに跳ねた。
 愛おしい者の臭いに先ほどまで包まれており、今は相手が下着一枚で目の前にいる。これを据え膳といわずして何とする。寝起きだったことと、追い出さないで欲しいという願いが強すぎて意識していなかったが、扉に押し付けられているシチュエーションも中々にクるものがある。
「それとも――」
 いやらしく口角を上げ、股をなぞった指を尻へ移動させていく。一本だった指が二本になり、最終的には手のひら全体で尻をわし掴みにした。
「ひゃ!」
 力一杯、とまではいわないまでも、それなりの強さで掴まれて思わず声が上がる。少しばかり甲高い音だったのは驚きのあまり声が裏返ってしまったからだと信じたい。
「な、なな、何を!」
「あんたはコッチの方がイイ感じ?」
 顔を赤くして一松を押し返そうとする男を無視して尻を撫で回す。
「ボクさぁ、結構昔からここにいるから、まだ突っ込んだことないんだよねぇ」
 そっと男の耳元に顔を寄せる。
「どうせなら突っ込む側がイイんだけど」
 低い声が男の鼓膜から脳髄までを甘く痺れさせる。
 軽く勃ってしまっているソコを一松の膝で潰されでもしたら、あられもない声を出してしまうことは確実だろう。いや、もうすでにか細く吐き出された息に桃色が含まれている。壁の薄さを忘れるのも時間の問題だ。
 抱くだの抱かれるだのはまだ考えていなかったが、一松にならば組み敷かれてもいい、と男は思った。もはや、自分が上になっている光景を想像できない程に脳の奥底が犯されてしまっている。
「はん、ちょーさ」
「なーんちゃって」
 縋る声を出した途端、一松は男から体を離す。
 一松の口から赤い舌が出ていた。
 それすら男の背筋を奮わせる材料にしかならず、呆けた頭が一松の発した言葉を理解するのが遅れてしまった。
 手を素早く動かした一松は扉の鍵を開け、ぼんやりとしている男を外へ押し出す。甘い空気が消え去ったことに気づいた男が目を見開いた頃、部屋の扉は醜い音と共に閉じられ、二人の間にそびえ立つ。
「卑怯だ!」
「何とでもどーぞ」
 外で声を上げる男だが、その声は控えめだ。ここにきて他の者に自分が居ることをバレるわけにはいかないのだろう。それを察しているからこそ一松の対応は素気無い。
「男所帯だから、そういう趣味の奴もいっぱい見てきたけどさ、ボクは男に突っ込む気も突っ込まれる気も一切ないから。
 あんたとなんてなおさら無理。諦めて。それじゃ、おやすみ」
 それだけ言い残し、一松は電気を消した。
 まだ外では男が小さな声で何かを言っているようだが、一々それを聞いてやる必要もないだろう。万年床にもぐりこんだ一松は、つかの間の睡眠を楽しむべく目を閉じた。

 *

 翌日の朝、一松はいつも通りアラームの音で目が覚めた。
 マフィアの幹部に惚れられた、ということも、からかってやったということも覚えているが、それらが一松の朝を揺らがすことはない。ただの過去として処理された出来事を放置して、一松は支度を始めていく。
 朝食代わりのパンを食べて作業着に腕を通し、部屋を出る。聞きなれた扉の音と共に、外の風景が見えてきた。だが、慣れた行動と音の中に、小さな異物が混入する。
 扉に、何かが当たった音がした。人ではない。何か、小さなもの。
 首をわずかに傾げつつ、一松は下に目を向ける。ゴミの類だろうとは思ったのだが、一松がこの部屋に住んでいることは周知の事実で、わざわざここにゴミを捨てにくるような度胸を持った者はここしばらく見たことがなかった。誰だかは知らないが、面白いことをしてくれる、と思ったのだ。
 しかし、彼の予想に違い、置かれていたのはゴミではなかった。
「……猫缶」
 置かれていたのは猫缶だった。高級、と銘打たれているそれは、間違いなくマフィアの男が置いていったものだろう。フラれた晩だというのに律儀というべきか、何というべきか。
 少し悩んだが、一松はその猫缶をありがたくいただくことにした。
 猫缶に罪はない。それが一つあるだけで、多くの猫が喜ぶのだ。入手するより他に選択肢はないだろう。
 拾い上げた猫缶を部屋に置き、またすぐ外へ出る。昨晩どれだけ長時間働いていようとも、今日という朝にゆっくりしている暇はない。過剰に急ぐ必要もないけれど。
 扉を閉め、鍵をかけた一松は工場へ向かう。心なしか、仕事へ向かう一松の足取りは軽い。
 男とどうこうなるつもりはないけれど、あの間抜けなマフィアが昨晩どんな顔をして猫缶を置いて行ったのかは多少気になった。返事がないことに対し、憤りながら置いていったのだろうか。あの呆けた瞳から涙の一つでも流しながらそっと置いたのだろうか。どちらであったとしても、大変宜しいことだ。
 一松は口元を隠してくれていたマスクを軽く上へ引き上げる。にやけた面を誰かに見られてしまうことだけは避けたい、という心がそうさせたのだ。

 *

 その日の夜。一松は唖然とすることとなった。
「こんばんは。班長さん」
 久々に猫と戯れるべく工場を出た一松の前に、あの男が現れたのだ。
「……あんた、よく来れたね」
「何故だ?」
 本気でわかっていないのだろう。純粋な疑問が言葉となって投げ渡された。
 普通の神経を持っている人間ならば、フラれたその日のうちに会いにはこないだろう。それも、酷いからかわれ方をした後だ。最低でも数日置いて、気持ちの整理とやらをつけてから現れるのがセオリーというもの。
 闇夜に紛れ、互いの姿がよく見えないとはいえ、これほど堂々とやってくると誰が思うか。
「ボク、あんたのことをフったつもりなんだけど」
「そうか。安心しろ。オレもフラれたと思ってる」
 苦笑いを浮かべているのだろう。声に苦々しさが混じっている。
 男は木の葉を踏み鳴らしながら一松に近づき、いつものように猫缶を差し出す。
「……今日の分はもらった」
「アレは昨日の分だ。今日の分はコッチ」
 一松の胸に押し付けるようにして渡す。
「班長さんにはフラれたが、だからと言ってすぐに諦められるほど、オレの愛は浅くなかったようでな」
「何それ」
 表情を読むことはできないが、男はきっと笑っているのだろう。フラれた直後とは思えないような快活さで。
「押して押して押しまくる。
 そういう恋があってもいいだろ?」
 声は実に楽しげで、言葉のままに実行するのだということをハッキリと感じさせた。これが可愛らしい女子高生であったならば一松だって心のこもらない声援を与えてやったことだろう。
 しかし、相手はマフィアの男で、明らかに成人している。さらに恋の相手は同性で、一松だ。
 応援できる要素が一欠けらたりともありはしない。
「……すっげぇ迷惑」
「そう言ってくれるな。
 互いに法の世話になれない身の上だ。
 出るところもないだろ?」
 もとより、男が被害者であるストーカー被害というのは法の力が働きにくい部分だ。マフィアが相手ともなれば、警察の方が怖気づく可能性だって大いにある。
 だというのに、一松の所在はブラック工場。表向きの世界に未だ彼の居場所があるのかどうかすらも怪しい。
 法だの何だのが守ってくれる範疇に一松は立っていないのだ。男はそれをわかっている。だからこそ、行動に移すことができている。
「あと、それは班長さんへのお礼じゃないから」
 猫缶が指差される。
 今まではお礼だと言って渡されていたのだが、今回からは勝手が違うらしい。
「班長さんへの貢物だ」
「はぁ?」
 一松は怪訝な顔をするが、男の目にそれは映らない。
 悠々と、かつ、楽しげに、彼は言葉を続ける。
「愛している人には贈り物を。
 そうだろ? オレは班長さんが何が好きか知らないからなぁ」
 恋人に花束を渡すように、誕生日のプレゼントを渡すように、記念日を演出するように、男は一松へ猫缶を捧げるのだ。相手が最も喜ぶだろうものを、健気に献上し続ける。
 今までは会うための口実に礼を送り続けていた。だがもう言い訳は必要ない。
 男は全てを理解し、受け入れた。感情をストレートにぶつけることができる彼は、愛する人と会うという目的を理解できてしまえば、そこに口実を必要としない性質だった。
 ならば、次に必要なものはなんだ。
 そう、愛する人を、己のモノとするために送る貢物だ。
「班長さん、何も恐れなくていい。
 あんたはただ、オレを利用すればいい」
「利用?」
 一松から反応が返ってくる。それだけで男の心は跳ね上がり、気分が上昇する。今にも踊りだし、歌いだしそうな胸を必死に押さえつける。
「あぁ。自分で言うのも何だが、オレは金も力も持っている。
 班長さんが欲するモノを手に入れるため、利用してくれたらいい」
 裏があるだとか、後が怖いだとか、そんなことは考えるだけ無駄だ。
 何といっても、一松こそが男の弱味。一松は自身の身体と心を持ってして、男の弱味をわし掴みにしているも同然だ。
 けれど、それが真実がどうかを知ることができるのは男だけなのだ。一松に人の心を読み取る能力はない。故に、彼の言葉全てを鵜呑みにすることはできない。
「……すぐに信じてくれとは言わない。
 だが、気が向いたらいつでも言ってくれ。
 思いに答えてくれるのも大歓迎だ」
「勝手に言ってれば?」
 一松は最後に冷たく言い残し、その場を離れる。
 マフィアの気まぐれに付き合っていられるほど、ブラック工場従事者に暇はない。
「班長さん!」
 立ち去る一松の背中へ男が声をかける。
「オレはカラ松!
 呼んでくれとまでは言わないが、できれば覚えてくれたら嬉しい!」
 マフィアが要求するには、あまりにもちっぽけで些細な願い。
 一松はその言葉を聴きながらも、反応を返すことはなかった。どのみち、この暗闇だ。手を上げてやったところで、相手には見えないだろう。

 *

 その後もカラ松の気まぐれは終わる気配を見せなかった。
 毎日毎日同じ場所で一松を待っては、以前と同じように猫缶を手渡してくる。その際、月明かりに照らされたカラ松の顔が仄かに赤くなっていることだけが、目に見える変化だといえた。
「班長さんはちゃんとご飯を食べているのか?」
「あんたには関係ない」
「好きな人の体を心配するのはおかしいことだろうか……?」
 猫缶を渡しながら少しだけ会話がなされる。それはいつだってカラ松から切り出され、一松によって終わりを告げられる。今日は一松の体調を心配する、というのが話題のようだ。
 無論、というべきか何というべきか、一松の食生活は酷く偏っている。自炊をする気などさらさらなく、購買で適当な物を買って食べるだけの毎日なのだ。基本的に、一松は腹が膨れれば味に頓着しない人間であり、他に気にするべきところといえば、腹持ちの良し悪しくらいのもの。栄養に気をつかっているはずがなかった。
「別に、そんな柔な作りしてないよ」
「そういう問題じゃないだろ……。
 ただでさえ労働環境が良くないんだ。食べる物には気を使わないと」
 最低最悪の環境を提供してくれているブラック工場の元締めが何を言うか、と一松は思ったが、あえて口にはしない。確かにカラ松はブラック工場を担当しているし、納期や製作物に関して口を挟んでくるのは彼の所属するマフィアだ。しかし、彼らとてそれが仕事なだけだ。一松が作った物で外の世界の誰かが不幸になっても仕方がないように、カラ松が働くことで一松の睡眠時間が削られるのは、仕方のないことなのだ。
 世の中というのは弱肉強食で、誰かを踏みにじりあいながら生き続けるしかない。
 そのことについて文句を言う気にはなれなかった。
「よし。じゃあ、オレが料理を学んで、班長さんに美味しいご飯を持ってきてやろう」
 ニコニコと笑いながらカラ松は言う。
 一松はため息を一つつき、好きにすれば、とだけ返した。
 食べてやるとは言っていない。努力をするだけならば勝手にすればいい。どの道、一松が何を言ったところで、カラ松という男は口にしたことを実行してしまう。単純明快、猪突猛進。彼を現すのにこれほど似合いの言葉はない。
 有言実行、無言実行。思ったら行動のカラ松が弁当を持参したのは、それから一週間が経ってからのことだった。
「……マジか」
 それも小さなお弁当箱ではない。二世代揃って花見にでも行くのか、と問いかけたくなるような重箱にぎっしりと詰め込まれた弁当だ。暗かったので中身は見えなかったが、製作者であるカラ松が一段一段説明してくれた。
 一段目にはから揚げや手羽先といった肉類が。二段目には豆やポテトサラダ、焼き魚。三段目には鮭や梅、昆布などが入ったおにぎり。
 冷凍食品など一つも入っていない。一から十まで、正真正銘、カラ松の手作りだという。
「あんた、料理できたんだ」
「いや、殆ど始めてだ」
「えっ」
 聞けば、麓の町で仲良くなった奥様方に料理を教えてもらったという。
 マフィア相手に豪胆なことだ、と一松は思ってしまったが、すぐにその考えを改める。カラ松が麓でどのような振る舞いをしているのかはしらないが、どうせマフィア然とはしていないに違いない。
 ほわほわと笑い、人を助け、害などありません、というオーラを出しているのだ。そりゃ奥様方もコロッと騙され、世話を焼きたくなることだろう。
「小さめのタッパーも持ってきたから、明日の昼も持っていくといい。
 何か聞かれたら自炊を始めた、とでも言って誤魔化せばいいさ」
「無理……。自炊始めたんだ、って目で見られるとか……。
 絶対に無理……」
 カラ松の言葉に、一松は顔を青くして首を振る。
 たかだか自炊、と思われるかもしれないが、今までの生活が生活だ。急にキャラ変したと思われるのは許容できない。自分の起こした行動によって奇異な目を向けられるのならばともかく、他人が作った弁当のせいでそのような目を向けられては溜まったものではない。
 弁当は帰宅後、速やかに処分しなければ、と頭の中で算段をつける。
「そ、そうか……。
 まあ人の目があるからな……」
 あらかたの算段をつけたところで、カラ松の細い声が聞こえてきた。
 顔をうつむけている姿は弱々しく、銃を平気でぶっ放すような男には到底見えない。
「だが、美味くできたんだ!
 教えてくれたGirl達も味見をしてくれてな、バッチリだと言ってくれた」
 だから、とカラ松は続ける。
「……一口でもいいから、食べてくれ」
 捨てられるかもしれない、とは思っていたらしい。
 愛を示すために手作り料理が振舞われるというのは、表の世界ではしばしば見られる光景だ。しかし、こと裏の世界となれば、手作りなど言語道断。何を混ぜられているかわかったものではない、というのが共通認識として存在している。
 カラ松は勿論、裏の世界の人間が続々放り込まれてくるブラック工場で働き続けてきた一松にも、その認識はしっかりと根付いていた。
「それじゃあ! オレは今日は失礼する。
 しっかり寝てくれよ、班長さん!」
 震える声でそう宣言すると、カラ松は一目散に下山していく。
 彼が会話を切る側に回ったのは始めてのことだった。余程居心地が悪く感じたらしい。
「……美味い」
 重箱を少しだけ開け、一番上の段に入っていた手場先を口に含む。
 皮はパリッと、中はジューシーに。塩コショウの振り加減も丁度良く、一松の舌によく馴染んだ。ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。そして一松は重箱をそっと閉じた。
 その日、猫と戯れ、部屋に帰るまでの間、一松は自身の体に異変が起こらないかどうか何度も確認した。だが、彼の想像通り、体に変化は何も起こらず、手羽先の旨みが舌の上に残っただけだった。
 結局、カラ松の用意した弁当の三分の一は次の日の朝食となり、残りはその日の夜とまた次の日の朝食となった。
「はい。返す」
「えっ……」
 重箱が空になったところで、一松はそれを洗いもせずカラ松につき返した。軽くなったそれをカラ松は恐る恐る開ける。当然、中に入っていたはずのおかずやおにぎりは一つも残されておらず、米粒やタレが残っているばかりだ。
 捨てられた、という可能性も大いにある。しかし、それにしては返却が遅かったことをカラ松は知っていた。
「班長、さん……!」
 味の感想はなかった。しかし、食べてくれたのだろう、という希望だけでカラ松は心底喜びの声を上げることができた。口にしてもらえた、ということは、次は美味しい、と言ってもらう、という目標ができたも同然。
 わかりやすく設置されたゴールにひた走るだけだ。
 以降、一松が重箱を返した次の日にはカラ松が弁当を作る、というのが慣習化した。
 何度弁当を貰っても、一松は味の感想を一言たりとも与えない。それでもカラ松は毎回空になった重箱を見て喜ぶ。一度くらい、味について述べて欲しいと懇願するなり逆ギレをしてくるなりするだろうと一松は思っていたのだが、今までの様子を見る限り、その日はやってこなさそうだ。
「夜しか会えないから顔色が見えないのが残念だ」
「変わりませんよ。ボクみたいなクズは日にも当たらず一日中工場の中で過ごしてますから」
「班長さんはクズなんかじゃない」
 一松が自虐的な物言いをすることをカラ松は酷く嫌った。
 何度同じような言葉吐いたとしても、彼もまた、同じように何度も一松を肯定する言葉を返してくる。
 どこを根拠に信頼を置いてくるのだろう。一松は何度も思ったし、怒りを混じらせながら問いかけたこともある。だが、答えはいつも不明瞭で、突き詰めてしまえば、愛する者を信じるのは当たり前、という結論に落ち着くばかりだった。
 そんなやりとりを繰り返すことさらに数週間。夜の一時とはいえ、それなりの付き合いになってきた。猫を除けば、一松一番の知り合いにカラ松がランクインするだろう。
「……来る?」
「え?」
 猫缶を受け取り、他愛もない話をし、後は一松が猫のもとに向かうだけ、というところで投げかけられた言葉がこれだ。
 突然の台詞に、カラ松は言葉を失くす。
 あの一松が、猫を第一とする一松が、カラ松を猫達のいる場所へ誘ってくれた。これは大いなる一歩だと言えよう。
 嫌がられてもこの場で待ち続けた甲斐があった。性的な意味で襲ってくるのではないか、と警戒している一松に何度も弁解をした甲斐があった。今まで、どれだけ冷たくされようとも、愛を捧げてきた甲斐があった。
 カラ松は脳の処理が追いつくと同時に返事をした。無論、YESだ。
 あまりにも嬉しげな答えに、一松は小さく苦笑いを零す。絆されたものだ、と思わずにはいられない。だが、それもこれも、全てカラ松が悪いのだ。
 マフィアの癖に警戒心が少なく、健気で、賢明で、真っ直ぐ。
 穿つこちらの方が馬鹿みたいに思えてきた。気づけば、猫に会うのと同じくらい、彼と会うことが当たり前になってしまった。
 心の全てを明け渡すつもりはないけれど、ほんの少し、心の扉を開けてやるくらいはやってやってもいい、そんな風に一松の心境は変化していた。
「ここ」
「何の変哲もないように見えるが……」
 いつもの場所についた一松は、猫缶を開ける。今日もカラ松持参の高級猫缶だ。おかげですっかりここいらの猫もグルメになってしまった。今更お買い得用の猫缶を持ってこようものなら、彼らの尻尾は不機嫌を示して揺れに揺れることだろう。
 一見すると通ってきた道と何ら変わらぬ風景であった場所が、猫缶の匂いがあたりに漂い始めることで変化を見せ始める。
 風によって木々が蠢くのではなく、もっと別の意思により周囲の枝々が音をたてる。地に敷かれた木の葉を踏みしめる音も聞こえ始めた。
 尋常ではない音や雰囲気に、カラ松は思わず一松の服を軽く掴む。
 人間が相手であれば、懐の銃でどうにでもなる。だが、対猛獣や対超常現象とあれば話は別だ。小さな鉛玉で応戦できるものではなく、かといって肉体でぶつかっていくほどの度胸もカラ松にはない。彼が対処できるのは人間相手に限られているのだ。
「おいで」
 カラ松の腕を振り払うでもなく、一松はゆっくりと腰を下ろす。それにあわせてカラ松も身をかがめた。
 一松の低い声が辺りに通ると、近くの茂みから一際大きな音がたつ。
「ヒッ!」
「何ビビッてんの?」
 ヒヒ、と一松は笑う。
 すると、茂みの中から一つの影が現れた。そして、ソレに続くようにしてあちらこちらの木や茂みから影がやってくる。その数十数。一つ一つは小さいものの、数の利は向こうにあった。
 カラ松は作業着を握る力を強くし、一松に寄り添う。
 ニャー、という愛らしい声が聞こえたのは、カラ松の緊張が頂点に達しようとしているときのことだった。
「……へ?」
「猫に会いにきてんだからさ、出てくるのは猫に決まってるでしょ」
 そう言われ、よく目を凝らしてみれば、黒い影達はしっかりと猫のフォルムを描いている。周囲から聞こえていた音は、彼らがこちらに移動してくるときの音だったのだ。
 考えてみれば、一松が平然としているのだから危険なナニカが出てくるはずもなく、散々ビビッてしまったことにカラ松は今更ながら顔を赤くする。面子が大事な仕事をしているというのに、情けない姿を見せてしまった。
 どうしてだか、一松の前では上手く格好をつけられない。
 カラ松は一松の服から手を離し、猫缶に寄ってきている猫へ手を伸ばす。
 一松ほど猫のことを好いているわけではないが、気まぐれな性格と愛らしい顔つきをした彼らのことは嫌いではない。撫でてやる機会があるのならば逃す必要はない。
「愛らしいキティ。
 オレはカラま――うわあっ!」
 猫に触れる直前、カラ松は驚きの声を上げ、後ろに倒れた。
 夢中になって餌を頬張っていたはずの猫が、急に威嚇の声を上げたのだ。
 牙をむき出しにし、不快感と警戒心を前面に押し出してきた姿にカラ松は反射的に退き、バランスを崩した。
「あーあ」
 木の葉まみれになったカラ松を横目に、一松は手身近な猫を撫でる。
 カラ松への態度とは逆に、彼らはゴロゴロと喉を鳴らしながら一松の手に自身の頭を押し付けていた。
「あんたはまだ新参なんだから、撫でるなんて無理だよ」
「そんなぁ……」
 可愛い猫達を前に、触れることもできないなんて生殺しだ。
 一松という最愛の人物が彼らに夢中になっている、という嫉妬も相まってカラ松の心境風景は地獄絵図と化す。
「うぅ……。
 オレと班長さんは結構似てるから、キティ達も受け入れてくれると思ったんだが」
「は? あんた、目玉腐ってんの?」
 泣き言を言うカラ松に、一松は絶対零度の声を向ける。
 マフィアとブラック工場名誉班長。何処に共通点があるというのだろうか。裏の世界に所属し、同じ国に生まれた、という点しかない。身なりも違えば雰囲気も違う。香る匂いすら彼らは正反対だ。方や汚れの悪臭。方やシャンプーやボディソープの柔らかな香り。似ている、等という言葉が出てくる余地が存在していない。
「そうか? 顔とか似てると思ったんだが」
 カラ松はしょぼくれた顔を建て直し、一松を見る。
 暗闇では違いの顔はよく見えない。
「顔とか尚更似てないデショ」
「いいや。班長さんはオレに似てナイスガイだぞ」
 呆れた声を出す一松に対し、カラ松はやけに自信たっぷりに言う。
 そして、そのまま手を伸ばして一松の顔を両側から包み込む。頬に触れ、瞼をなぞり、輪郭を通って唇と鼻。一つ一つを確かめるようにしてカラ松の手が動かされる。
「無精髭を剃って、髪もちゃんと整えて、目もしっかり見開けば、案外オレと瓜二つになるんじゃないか?」
「……だとしたら、あんたは自分と全く同じ顔に惚れた、ってことになるね。
 とんだナルシストだ。ボクなんかよりも、鏡に愛を捧げるほうが経済的だよ?」
 飽きもせず一松の顔に触れ続けていたカラ松の手を剥がし、意地悪く言う。ちょっとした意趣返しがあったことは否定できない。
「班長さん」
 剥がされた手で、カラ松は一松の手を取る。
 二人の体温がじんわりと同化していく。
「確かにオレは、自分をナイスガイだと思ってる。
 だが、オレ自身は愛を捧げる相手になりえない」
 一瞬、迷うようにして静止したカラ松だったが、すぐに決断を下したのか、頭を降ろした。彼の額が、一松の手の甲へ押し付けられる。まるで、忠誠を誓った騎士が姫の手にキスをしているかのような光景。
「オレの愛は班長さんにだけ捧げられる」
 カラ松が口にする愛は重く、深い。
 しかし、人間というのは変化する生き物で、三年もすれば燃え上がっていた愛情も落ち着いてしまうと聞く。その落差を思えば、彼ほど残酷な人間はいないのではないかと思えてしまうのだ。
「だが、班長さんはオレの愛を受け取ってくれないだろ?
 代わりに、望むモノをプレゼントしたいんだ。
 そろそろ何か強請ってはくれないだろうか」
 今まで、何度もされてきた問いかけだ。一松の答えはいつもそう変わらない言葉ばかり。特にない。ほしくない。必要ない。ただの一度もカラ松に何かを要求したことがなかった。
 おかげで彼が一松に貢げた物といったら、猫缶しかない。
「望むのであれば、班長さんをあの工場から抜けさせることだってオレはできるんだぞ?」
 借金を抱えていない一松があの場所を抜け出すのは簡単だ。退職届一つあればいい。しかし、同じような境遇の人間もあの工場には何人かいて、その誰もが表の世界に帰れずにいる。
 理由は簡単。
 外の世界で生きていくにも金が必要だから、だ。
 身寄りもない、頼る術もない彼らが外へ出ようと思ったとき、ある程度まとまった金が必要となるのは当然のことだ。次の仕事を見つけるまでの寝床、食事、その他諸々の費用。
 何日、何週間かかるかわからない時間のためには少なくない金額が必要で、それを貯めることができる程、ブラック工場は甘くない。いつだって彼らの手元に渡る給料はわずかで、その日その日を生きていくだけで精一杯なのだ。
「家も仕事も用意してやれる。
 安心してくれ。ブラックじゃない職場だってオレは知っているんだ」
 明るい日の下で働く一松の姿は、何と愛おしいのだろうか。眩しいのだろうか。カラ松は自身の想像だけで気持ちが高ぶった。尊いモノを見る気持ちだ。
 しかし、一松の答えはやはり変わらない。
「……いらない」
「マフィアの力を借りるのは嫌か?」
 カラ松も恐ろしい気持ちはある。
 ブラック工場上がりの人間に職を斡旋したことはすぐにバレるだろう。言い訳を考えなければならないし、いざというときは一松と今生の別れを持って彼を守る必要もある。
 そんなハイリスクを犯してでも、実行する価値が一松の自由にはあるのだ。
「それもある。
 でも、一番は違う」
 搾り出されるような声に、カラ松は首を傾げた。
 他の理由など思いつきもしなかった。普通の人間がブラック工場のような場所で働き続ける理由など、塵芥ほどもないはずなのに。
「どうせ、あんた、ボクのこと調べたんでしょ?
 なら知ってるんじゃないの」
 調べた、という言葉にカラ松は肩を揺らす。何故バレた、と言いたげだが、一松のことを「班長」と呼び、部屋の番号まで知っていたのだ。調べていない、と考えるほうがおかしい。その辺りに気づけないところが、彼の爪の甘さを雄弁に語っている。
「ボクは中学も通ってないようなクズ。
 今更、外の世界で働くなんてできない」
 一松は義務教育すら終えていない身の上だ。
 業務上、必要とされる文字に関しては問題なく読み書きできるものの、外の世界ではもっと多くの文字が溢れていることを彼は知っている。一度だけ手にとった新聞紙なるものは、彼の知らない文字や単語で溢れていた。
 また、彼は表の常識を知らない。
 徹夜で働かされ、逆らえば拷問まがいの目にあわされる。班長以下の者達は人間未満の歯車で、かろうじて生きる権利を与えられているに過ぎない存在。それが一松の中での常識だ。
 哀れにも保証人になってしまい、工場にぶち込まれてきた新人達の口から聞く表の世界と、ここは全く違う世界なのだ。
 体だけは大人になってしまった今、外の世界で生きていける気など、一松には少しも持てない。
「班長さん……」
 カラ松は一松の手を強く握る。
 彼の気持ちが痛いほどよくわかってしまった。
 工場からの脱却を示唆したカラ松もまた、表の世界では生きていけない類の人間だったからだ。
「それよりさ」
 一松は笑う。
 闇夜の中で浮かべられたから、という理由では甘すぎるほど、その笑みは暗い。
「もしもボクが、マフィアを辞めてくれって言ったら……。
 あんたは辞めてくれるの?」
 酷いことを言っている、というのは自覚していた。
 カラ松が自身に同意し、手を強く握ってくれたのだということを一松は知っていた。その上で、裏の世界を捨てられるのか、という問いをカラ松に与えた。
 一松の言葉に、カラ松は顔を上げて彼の目を見つめる。
「……そうだなぁ」
 そっと目を閉じ、その時のことを想像してみた。
「班長さんが本気で望むなら、それでオレのことを愛してくれる可能性が少しでもあるなら、やってみようかな」
 穏やかな声。そこに恐怖は見えない。
「いいの? マフィアって抜けるの大変なんじゃないの?」
 そして、抜けた後も大変だ。
 二つの障壁を前に、それでも一松のために身を捧げるのか、と。
「あぁ。抜けるとき、即ちそれは死んだときだからな」
 月明かりによって、カラ松の薄く開かれた目が一松の視界に入る。
 静かに凪いだ瞳に恐怖を感じたのはこれが始めてだった。
「なあ班長さん」
 カラ松は一松の手を持ち上げ、自身の頬に擦り付ける。
 愛おしい、という思いだけがその動作には表れていた。
「オレが死体になっても、愛してくれる?」
 馬鹿で間抜けでお人好し。しかし、カラ松はマフィアだ。まともな頭をしているはずがなかった。普段は見せないだけで、とんだサイコパスが隠れてやがった、と一松はゾクゾクする背中を脳で押さえつけながら、返す言葉を考える。
「少なくとも、ボクは死体愛好の趣味はないね」
「残念。それなら、ファミリーを抜けるわけにはいかないな」
 もし、一松が愛する、と答えていたら、カラ松はどうしていたのだろうか。
 大人しく身を退いたか。それとも、本当に死をもってファミリーから抜けたのか。
「じゃあ、やっぱり今は特にほしいものはないネ」
 どちらでもよかった。少なくとも、今、目の前にカラ松は生きて存在している。

next...