偶然とは因果なものだ。
 春。新たな出会いの季節。あちらこちらの学校で入学式がおこなわれた。皆、様々な思いを胸に宿し、新たな学び舎へ足を踏み入れる。知りあいにすがってみたり、同学校の先輩に憧れをもってみたり。
 入学から一週間目。三成は入学したての学校で盛大に顔をしかめていた。
「……何故貴様がここにいる!」
 怒声は校門前に響き渡る。幸い、生徒達が通学してくる時間よりは幾分か早いため、当たりに生徒の影は見えない。
 いるのは三成と、彼に怒鳴られた人物。そして各々の友人ともいえる二人だけだ。
「み、三成」
「邪魔をするな!」
 今にも手にしている竹刀を振り回さんとしている三成を止めようと、家康が肩に手をかけたが、あっさりと振り払われる。彼を宥めることができる人間など、片手で数え切れる程度だ。その数少ない人間であった者こそ、今三成に怒鳴られている男だ。
 家康は男の姿を見る。三成に怒鳴られ、殺気さえ向けられているというのに、男は動じた様子を見せない。
 マスクで顔の半分を隠しているが、三成は男の姿を違えるはずがないと確信していた。第一、男の白黒が反転した目はどれほどの時を経たとしても忘れられるものではない。そう、四百年程度では忘れることなどできない。
 彼らには前世の記憶があった。戦国時代を駆け、戦い、裏切られた記憶が残っている。殺気を向けられているというのに、怯えた目の一つもない男とその友人も、間違いなく記憶を持っているのだろう。
「やれ、三成。まちと落ち着きやれ」
 発せられた声は遠い昔に聞いた声とは幾分か違う。病によって潰れていた喉も、今生では健常な者と変わらぬものになっているらしい。
「大谷。我は先に行くぞ」
 大谷の隣にいた毛利は相変わらず感情のない表情と声で告げ、大谷の返事もまたずに校舎へと入って行く。いて欲しいと願ったのは家康だけで、けれども彼にもそれを告げる勇気はなく、眉を下げるばかりだった。
 人数が四人から三人になったが、場の雰囲気な何一つ変わらない。
 家康はため息をつきたい気持ちだった。三成と家康は今日から部活の朝錬が始まる。もう少し遅くとも十分だったが、何事も始めが肝心と早めに来たのが間違いだったのだろうか。そう考えてから、否定の言葉を思い浮かべる。
 大谷がこの学校に通っているのならば、いずれ会うことになっていただろう。それならば、人気がない今の時間帯に会えたのは幸いだ。
「よくも私の前に顔を出せたな」
 低い声が殺気と共に大谷へ届く。
「そうは言うてもな。ここに先に通っていたのは我よ」
「黙れ!」
 三成が抜刀の構えを取る。手にしているのは竹刀だが、四百年前の腕を衰えさせていない彼だ。今生では健常な人間として生きているようだが、大谷に当たればただではすまないだろう。肋骨の一本や二本は折れる。それは確信だ。
 殴ってでも止めるべきかと家康が思案し始めたとき、大谷が言葉を紡いだ。
「三成よ。主の怒りはもっともであろ。しかし、今生では我を殺すことも傷つけることもならぬ。それを成せば責めたてられるのは主よ」
 その言葉に、三成も少しばかり冷静さを取り戻す。今は戦国時代ではない。どのような理由があろうとも、人を傷つけることは罪とされる時代だ。自分だけが責められるのであればまだ良いが、己を今まで育ててくれた両親にも迷惑がかかるだろう。
 唇を噛み、三成は大谷を睨みつける。不満と怒りがありありと見て取れる。
「……幸いにも我は来年卒業よ。それまでまちと待て。
 一年間。我は主と会わぬように気をつけよう。今日は朝錬か? ならば我はもっと遅くに訪れるゆえ、それで良かろ」
 しばし深慮に耽る。その結論として、三成は抜刀の構えを解いた。
「――主は真に聡い男よ」
 小さくそう呟いた大谷を一瞥し、三成は声をかけることもなく校舎へと入って行く。同じ空間にいないようにするためか、大谷は動かない。一緒になって三成の背を見ていた家康は、大谷に背中を押されて意識を戻す。
「早に行きやれ。三成は剣道、主はボクシングか? よう似合いの部活よな」
 変わらぬ笑い。家康は少しだけ悲しげな目をして、三成の後を追う。
 家康から見た大谷は、四百年前と少しも変わっていない。三成のことを考えているところも、腹の奥を見せぬところも変わっていない。たった一つ、変わったところがあるとすれば、彼が三成の隣にいないということだろう。
「三成」
「何だ」
 本当にいいのかと聞きたかった。けれど、その言葉を口にすれば、竹刀が一閃を見せるだろう。
「……部活、頑張れよ」
「言われるまでもない」
 靴を履き替えた三成と共に、部室への道を途中まで共にする。
 本来ならば、家康のいる立ち位置は大谷がいるはずのものだった。四百年前、三成と家康は敵対関係にあり、大谷は三成の隣で軍師として生きていた。その形が崩れたのは、大谷の企みが白日の元に明かされたからに他ならない。
 三成率いる西軍を、家康率いる東軍との戦いに足るものにするため、大谷は四国の鬼を騙し、西軍に引き入れた。痛々しいほど真っ直ぐな三成はその企みを許すことができなかった。ゆえに、部下達の敵討ちにきた長曾我部に大谷が殺されるのを黙って見ていた。
 己の汚れた手に、三成は死をも覚悟したが、心優しき長曾我部は三成を救った。ただし、家康との敵対関係はそこで終わることが条件ではあったが。
 大谷が死んだ世界で三成は生きた。その間に、家康とのわだかまりも徐々に解けた。今生で再会してからの時間もあってか、今では三成の親友と周りから称されるまでになった。かつてを思えば、その呼ばれかたは嬉しくあった。けれど、大谷がいるのならば、やはりこの立ち位置は大谷がいるべきだとも思うのだ。
「学校が終わったら元親にメールでもしてみるか」
 三成と別れた後、家康はポツリと呟く。前世で家康と三成の仲を取りもった長曾我部は、二人よりも三年ほど早く生まれていた。偶然に出会い、互いに前世の記憶を持っていると知ったのでアドレスを交換していたのだ。
 かつて、長曾我部は大谷に部下を殺された。そのため、大谷のことを話題にすることはなかったが、家康は長曾我部という男がどれほど器が大きく、心優しい者であるかを知っている。きっと、今生で大谷と三成が友となっても許してくれるだろう。
 あれでは大谷が不憫すぎると思った。彼のしたことは、簡単に許せることではない。けれど、乱世の時代に、他の国を陥れることが間違っていたとは言いきることはできなかった。大谷はただ三成のために策を練っていたはずだ。病で明日も知れぬ身でありながら、たった一人の男を生かすためだけに生きた。
 今生では幸せになって欲しい。そう願うことは間違いではないはずだ。



 三年間というのは驚くほどの速さで過ぎていく。
 三成は高校、大学を卒業し、今では立派な社会人であった。昔から休息を欲しない性質であったこともあってか、会社でも休日出勤に文句も言わずやってきては働いている。友人達ともそれなりに付き合いも続いており、誰の目からみても充実した日々を過ごしていた。
 高校時代、大谷は約束を守り続けた。三成が大谷を見かけたのは、全校集会や行事が行われたとき程度で、登下校は勿論、休み時間にも彼の姿を見かけることはなかった。三成はそれに満足していた。前世とはいえ、大谷が三成を謀っていた事実が消えたわけではない。一年も同じ学び舎にいることが当時は苦痛ですらあったのだ。だというのに、家康や長曾我部は三成と大谷をどうにか引き合わせようとしていた。
 長曾我部は顔を合わせるたびに、前世でのことはもういいんだと三成に語り続けた。それを聞くたび、三成は長曾我部という男は甘いのだと思うだけだ。大谷へ向ける怒りは長曾我部への償いもあった。しかし、最も大きな怒りは己を裏切っていたことに対するものだ。ゆえに、長曾我部が前世でのことを気にしていなくとも、三成には関係のない話なのだ。
 二人の何とも言えぬおせっかいも、大谷が卒業してはどうにもできなかったのか、三成が二年生になった頃には跡形もなく消え去っていた。
 高校時代について、三成が思うことと言えばそれくらいであった。多くのことに意識を向けずに生きている三成にとって、良くも悪くも大谷の存在というものは色濃く残っている。じっと考えでもすれば、剣道部で理不尽なことを言っていた先輩が暴力沙汰事件を起こしたことや、家康が入るまでは弱小とされていたボクシング部が全国大会に行ったらしいことなど、思い出すこともあったが。
「――明日は休みか」
 手帳を確認し、三成は息をつく。時刻は十一時過ぎ。場所は駅のホーム。後は電車に揺られて家に帰るだけだ。
 明日は久々の休暇だが、休みを貰ったところですることは少ない。今も昔も、三成の家には最低限の物しかなく、片付けで一日を潰すこともできない。久々に竹刀でも振ってみるかとも思ったが、公園でそのようなことをすれば奇異の目で見られることは明らかだ。
 どうするべきか考えながら、手帳をしまうためカバンを開ける。家と同じく、最低限の物しか入っていないが、一つだけいつもは入っていない物があった。
「本でも読むか」
 三成はカバンの中から一冊の本を出す。書店で偶然見かけ、手に取った本だ。内容はまだ数ページしか読んでいないが、独特の言葉使いが気に入っていた。明日一日かければ十二分に読み終わってしまうだろうが、そうしたら同じ作者の本を購入するのもいいだろう。
 電車が来るまで、と三成はしおりを挟んでいたページを開く。
 本の世界に入りこみかけたとき、声が耳に届いた。
「――石田」
 顔を上げ、声の方を向く。
「……毛利」
 そこにいたのは毛利だった。最後に会ったのは大谷と最後に会ったときと同じだ。もっとも、彼は休み時間などにもよく見かけていたが、あれは会ったとは言わないだろう。
 三成は眉間にしわを寄せる。前々から毛利のことは気に入らなかった。大谷と一緒になって長曾我部を謀っていたと知ってからはなおさらだ。あからさまな敵意を毛利は鼻で笑う。そんな態度に怒りを膨張させる三成を宥める者はここにいない。
「貴様、何故こんなところにいる」
「馬鹿か。我も仕事帰りよ。今まで会ったことはなかったが……まあ、そのようなこともあるであろうな」
 先ほど名を呼んだのは、特に意味もなく、驚きのあまりだったのだろう。毛利でも現世の平和に毒された部分があるようだ。
「石田よ。貴様は大谷を未だに憎んでいるのか」
「無論だ」
 すれ違いざまに聞かれ、間を置かずに返す。
 毛利は立ち止まり、石田に背を向けたまま言葉を重ねた。
「大谷は軍を整えるために様々な策を弄しておった。それら全てを否定するか」
「私は裏切りを最も憎む」
「長曾我部が許してもか」
「関係ない」
「――あやつも貴様も大概愚かよな」
 毛利は振り返り、三成を見据える。光を宿さぬ瞳は何百年の時を経ようと変わりようがない。
「気づかぬのか、隠しているのか。どちらにせよ、貴様には不似合いぞ」
 何を言われているのかわからなかった。しかし、何か腹立たしいということだけはハッキリとわかった。
 言葉を返そうとするが、腹立たしさの原因もわからぬような現状では、吐き出すための言葉も思い浮かばない。歯を食いしばり、毛利を睨みつけるしかできない。
「貴様は何に怒りを覚えている。
 大谷の存在か? あやつの策か? それとも――」
「黙れ!」
 思わず手にしていた物を投げつける。
 毛利の顔面にそれが当たる。
「……このような扱いを受けるとは、書も哀れよ」
 怒ることもせず、毛利は地に落ちた本を拾い上げる。ついた汚れを払い、軽くページをめくる。
 その間、三成は怒りで形を成さぬ思考の中に何か一つ、冷静な何かを見ていた。毛利は何と続けるつもりだったのか。己が怒りを向けているものは、大谷なのか策なのか、何故許せないのか。
「石田よ」
 三成の思考を毛利の言葉が邪魔をする。
「何だ」
 睨みつけると、先ほど投げた本が差し出されていた。
 無言でそれを受け取り、カバンの中に入れる。今日はもう本を読む気分にはなれないことがわかっていた。
「それは大谷が死ぬ間際に書いた話ぞ」
 天気予報を読むかのような、感情のない声だった。
 発せられた言葉に、何の意味もないと言われても納得できるほど、毛利の声は平坦だった。
「……は?」
 だからこそ、三成は疑問の声をあげるのにも時間がかかった。
 声を出し、それから毛利の言葉を再び脳内で噛み砕く。
 一つは大谷。それは高校時代に出会い、かつては友人として傍にいた者だ。一つは書。おそらく三成が手にしている本のことを指しているのだろう。どうりでよく馴染む言葉だと、三成はどこか納得してしまった。昔から、大谷が書いた手紙は三成の心に染み渡る言葉使いをしていた。
 そして、最後に、死ぬ間際。
「あやつは小説家として生計をたてていた。それほど売れていたわけではないゆえ、家計はいつでも火の車だと言っておったな」
 三成は未だに先ほどの言葉を理解していないというのに、毛利は勝手に言葉を続けていた。
「我は大谷担当の編集であった。先ほどの書も我がてがけたものよ」
「……死んだ、のか」
 ようやく、三成は言葉の意味を理解した。
 死んだのだ。目にすることもわずらわしいと思っていた人間は、三成の知らぬところで息絶えていた。
「病でな」
 簡潔な言葉。それが、三成から力を奪う。同時に、電車がやってくる。
「我は乗るが、貴様はどうだ」
「……私は逆の電車だ」
「そうか」
 それきり、言葉はなかった。毛利は電車に乗り込み、三成はそれを黙って見送った。
 毛利が乗った電車が見えなくなった頃、逆側に電車が到着する。ぼんやりとしつつも、三成の足は電車に乗り込み、開いている座席に腰を降ろす。
「何だ。これは」
 言い知れぬ感情が腹の奥でうずまいていた。それは遠い昔、長曾我部に大谷が討たれたときにも感じたものだ。ならば、この感情は怒りだろう。だが、それは誰に向けられているのだろうか。今生では大谷との関わりなど皆無に等しい。裏切ったなどと思うことはない。毛利が大谷の死を告げたからといって、怒りを向ける理由にはならない。
 感情を向けるべき場所がわからない。
『わからぬのならば、わからぬままで良い』
 甘い声がどこからともなく聞こえてきそうだ。
 三成は首を横に振る。このままで良いとは到底思えない。感情の向ける場所を、置く場所を失ったままではあまりにも辛い。秀吉が死んだときと似た苦しみだ。あの時も、三成は感情をどこへ置けばいいのかわからずにいた。
 物を知らぬ赤ん坊に戻ってしまったようだ。三成は今の自分をそう見た。
 まとまらぬ頭とは違い、体は優秀なようで、降りるべき駅で降り、改札を抜けて自宅への道をしっかりと進んで行く。暗い夜道を歩きながら、ふと空を見上げた。
 満天の星空。とまではいかないが、いくつか星が見える。同じ空には寄り添うように三日月が浮かんでいる。どれもがわずらわしいと思った。星はもう存在しない。月は寄り添わない。今すぐ太陽が昇れ、とさえ思った。
 そこで思い出す。前世のことを知り、己と大谷をよく知る人物のことを。
 三成は携帯電話を取り出し、短縮ボタンを押す。仕事以外で自分から電話をかけることなど滅多にないが、使い方は一通り知っていた。真夜中に迷惑だろう、などと思う三成ではない。寝ているのならば、バイブの音で起きればいいとしか思わない。
『もしもし? 珍しいな、三成が電話してくるなんて』
 家康も起きていたらしく、声はハッキリとしている。
「――――」
 どうした? と家康が聞いてくるが、言葉が出てこない。この感情をどうすればいいのか聞きたいのだが、相手に伝えるためにはどうすれば良いのかわからない。携帯電話を握り締めたまま、足も口も動かせずにいた。
『……三成、今からお前の家に行ってもいいか?』
「――ああ」
 付き合いの長い友人は、三成が言葉を扱うのが下手だと知っていた。電話越しに話を聞くよりも、顔を見て話したほうがよいと判断したのだろう。
 通話を切り、三成は自宅への道を再び歩く。絆を謳っていたあの男ならば、この感情をどうすればよいのかわかるのではないかと、わずかな希望を抱いていた。
 おぼつかない足取りの三成が、自宅前にようやくたどりつくと、家康はすでにそこに立っていた。横には彼愛用のバイクが置かれている。生気のない三成の顔を見て、予想以上に憔悴しているな、と家康は心の中で呟く。
 三成をここまで憔悴させることができるとは、一体何があったのだろうか。
「大丈夫か?」
「わからん」
 心配する家康の横を通り、鍵を開けて家に入る。立ち話をする気にはなれなかった。
 中に入った家康は、かって知ったる友の家、とばかりに冷蔵庫を勝手に開け、コップにお茶を注ぐ。テーブルの前に座った三成にもお茶を差し出し、自分は三成と向かい合うように座る。
「何があった」
「……毛利に会った」
 家康は少しばかり目を丸くする。
 前世で縁があった者とは少なからず今生でも縁があるものだが、高校時代に会ったきりの人間と再び出会えるとは思ってもみなかった。毛利と会い、この憔悴っぷりということは、十中八九大谷が絡んでいるのだろうと当たりをつける。
 三成の言葉を待つように家康は口を閉ざす。
「奴は、刑部が死んだと言った」
「何だって!」
 思わず立ち上がる。座っていた椅子が倒れ、空っぽな家に大きな音が響く。
「その時、空漠が私を襲った。次に怒りが満ちた」
 三成は手にしていたコップを強く握り締める。力の制御を失っているのか、コップが悲鳴を上げている。
 顔色は相変わらず青い。唇を噛んだのか、口元から赤い血が流れていた。
「何故だ! 何故私は刑部の死に空漠を覚える。私は何に怒りを覚えているのだ!」
「三成……お前、もしかして」
 感情の処理ができていない三成は痛々しい。家康は彼が気づいていないであろうことに気づいた。
 かつて、秀吉を失い今と同じように感情の処理ができずにいた三成を救ったのは大谷だ。復讐という場所を与え、家康という矛先を作った。大谷は死してもなお、三成の感情に裏切りという場所を与え、己という矛先を作っていたのだ。
 本当の矛先を悟らせないために。
「ずっと許せなかったのは、自分か?」
 嫌な音をたてていたコップが静まる。三成が力を抜いたのだ。彼は切れ長の目を丸くして、立ち上がっている家康を見上げていた。
「……私?」
 頭の中で様々な情報が交錯する。
 四百年前、何を思っていたのか。何に怒りを向けていたのか。
 長曾我部を、ひいては己を裏切っていたのだ。
 ――何故私にそれを教えなかった。私はそれほどまでに不甲斐なかったか。
 大谷の手の上で踊らされていたのだ。
 ――そうさせたのは私だ。勝ち目の薄い戦いに奴を巻き込んだ。
 冷たくなった友を当然だと思った。
 ――傍にいろと言ったのは私なのに。守ることもできなかった。
 力ない死体を埋めるように指示した。
 ――触れるのが恐ろしかった。病ではなく、もう生きていないのだと知りたくなかった。
「そうだ」
 ずっと憎かった。ずっと怒りを燃やしていた。
 守ることも弔うこともできなかった自分自身に。
 己の感情を受け止めきることができず、長い間己を偽ったままだった。いつしかそれが真なのだと思いこんでいた。次に会ったときは、という思いすら忘れていた。
「私は、ずっと私がっ……!」
「三成……」
 怒りを自覚したとたんに、胸の内から悲しみが溢れた。
 待ち望んでいた者はすでに死んだという。また次を願うしかないのか。再会を果たしたとき、あれほど冷たく、身勝手な言葉を吐いておいて。
「愚かだ。私は……私の罪を心から憎む」
「なあ、毛利から刑部の墓の場所とかは聞いていないのか?」
「……いや、墓など、思いもしなかった。
 ただ、この本を死ぬ間際に完成させたとしか」
 三成は涙を零しながら、カバンより本を取り出す。
 家康の言葉に、せめて墓の場所でも聞いておけば少しは楽になれただろうかと思う。いや、ただの墓石に謝罪をしたところで、何の意味もなさないことはわかりきっている。
「ふむ。パソコン借りていいか?」
「好きにしろ」
 本を手にした家康は、三成の家にあるパソコンの電源を入れる。
 有名な作家ではないが、小説家として生計をたてる程度には売れているならば住所くらいは見つかるかもしれない。静か過ぎる部屋に、パソコンの音とクリックの音だけが響く。
「三成! ちょっと、これを見てみろ」
 しばらくして、何か見つかったのか、家康は今にも己を斬滅しかねない三成を呼ぶ。
 モニターには大谷の作家としての名前と住所、略歴などが載っている。
「生まれた年は書いているが、死んだ年は書いてない……。
 もしかすると、死んだというのは毛利の嘘かもしれん」
「嘘、だと?」
 三成は嘘が嫌いだった。けれど、今は毛利の言葉が嘘であったかもしれないということに、何よりもの喜びを見出していた。
「まだ間に合うかもしれん! 三成、明日にでも刑部の所へ行ってみてはどうだ?」
 何ならワシのバイクで二人乗りでもするか。と続けたのは、三成はバイクや車の免許を持っていない。モニターに乗っている住所はそう遠くはないが、駅から歩いて向かうとなると時間がかかりそうだ。
 三成は家康の顔を見た後、それは駄目だと首を振る。
「貴様、明日は仕事だろ」
「あ」
 そもそも、こんな時間に他人の家にいるのもどうかというような状況だ。これ以上面倒をかけるのは三成の本意ではなかった。
「もう帰れ」
「明日、行くのか?」
「……ああ」
 一度手放し、二度目は零れ落ちるのを許してしまったと思った。だが、まだ二度目はきていないのかもしれない。ならば、どのようなことをしてでも掴み取りたい。



 家康が帰った後、三成はしばらく椅子に座って時間が経つのを待っていた。呆然としていたと言ってもいい。ほんのわずかな時間の間に、様々な感情が三成の心を揺らした。普段は感情を強く現さない三成にとって、今回のことは非常に疲れることだった。
 大谷が生きているかもしれないということに喜びは感じた。だが、長年付き合い続けてきた怒りの感情の矛先が、実はずれていたのだということは中々許容しきることができない。
 ふと、三成は本を手にした。大谷が書いたという本だ。言われなければ気がつかなかったが、改めて目を通してみると、やはり大谷が書いたのだろうと思えてくる。会えるだろうか。会ったとして、何を言えばいいのだろうか。その全てを本が知っている気がした。
 昔から、三成に道を示してきた友だ。今回も、と思ってしまうのは、甘えかもしれない。
 結局、三成は一睡もしなかった。
 今生では睡眠をとるようにしていた三成だが、一日程度の不眠ならば何の問題もないと自負している。
 太陽が昇り、すぐにでも駅へ向かおうとした自分を止める。いくらなんでも、早すぎると気づいたのだ。季節は夏。日が昇るのが早い。電車は動いているだろうが、大谷は起きていないだろう。少しばかり考えた末、十時ごろならば常識の範囲内だろうと結論付ける。
 後はひたすら時間が経つのを待つばかりだ。
 そうしてやってきた家。一軒家であるそれは、大きいとは言いがたい。だが、一人で住むというのならば十分過ぎるほどの大きさだった。表札には『大谷』とだけ書かれている。おそらく、ネットでの情報が間違いでないのであれば、ここは大谷が住んでいるのだろう。
「刑部……」
 昔は、呼べば返事があった。どのような声でも大谷は聞きもらさず、名を呼ぶ声だけで三成の心情を組み取った。
 だが、今は違う。どれだけ呼んだところで、大谷は顔も出さない。インターホンを押せば、声が聞こえるだろうか。スイッチ一つだ。それがどうしても押せない。緊張か、恐れか。
 不甲斐ない自分に唇を噛む。昨晩できた傷が再び開き、血が滲み出る。
「ほう。少しは常識を学んだようだな」
 背後から聞こえてきたのは、昨夜も聞いた声だ。
 瞬間的に頭に血が上ったのは、嘘をついたという点が三成の脳内にしっかりと刻まれていたからだろう。
「毛利! 貴様……私を謀ったな!」
「昔よりは頭もよくなったと見える。喜ぶがよかろう」
「貴様っ!」
 相も変わぬ言い草に、三成は毛利の胸倉を掴み上げる。腰に木刀の一本でもあれば、間違いなく居合いの体勢を取っていただろう。もしかすると、態勢どころか瞬時に切りかかっていた可能性すらある。
「それで、貴様は何をしにきた。
 我の嘘を咎めるためか? 大谷を再度詰りにきたか?」
「違う!」
 三成の眼光を見ても、毛利は眉一つ動かさない。まるで能面のようだとは、昔から思っていたことだ。
「主ら、近所迷惑よ。そう叫びやるな」
 感情のない顔を殴り飛ばせば気持ちも晴れるか、と三成が思い始めた頃、懐かしい声が聞こえてきた。声の方を見ると、窓から大谷が顔を出していた。
 高校時代と同じようにマスクをつけ、目は白黒反転している。一つ気になったのは、窓にかけられた腕を覆う服だ。彼は夏場だというのに長袖を着用し、指先は手袋で覆われていた。
「鍵は開いているゆえ、一先ず我の家に入りやれ」
「わかった」
 三成は毛利から手を離し、迷うことなく玄関へと向かう。
「毛利、話はじっくり聞かせてもらおうぞ」
「望むところよ」
 それだけの言葉を交わし、大谷は窓を閉める。毛利は三成に続くように大谷の家へと入る。
 大谷の家は冷房が利いているのか、夏場だというのに冷たささえ感じられた。暑さのため、半袖を着用している三成は小さく体を振るわせる。リビングにまで進むと、大谷は杖をついて立ち上がる。
「半袖では寒かろ。我のものでよければ上着を貸すゆえ、しばし待ちやれ」
 三成の後ろにいた毛利はこの寒さを知っていたらしく、カバンから上着を取り出していた。だが、三成はそんなことよりも気になることがあった。
「……貴様、今生でも病を得たのか」
 動かぬ足も、人目を避けるように隠された素肌も、かつての大谷を思い起こさせる。死んだというのは嘘であったようだが、病を得たというのは嘘ではなかったのだろう。
 どうせならば、病も嘘であればよかったのにと眉間にしわを寄せる。
「これも業よ。まあ、昔に比べれば痛みもない」
 その言葉を毛利は鼻で笑う。
「何を言っている。貴様の足はこやつのせいであろ」
「毛利!」
「どういうことだ」
 大谷が咎めるように声を荒げるが、気にする毛利ではない。三成を見据え、言葉を続けようとする。しかし、大谷の声がそれら全てを阻む。
「主には関係ないことよ。
 毛利、勝手なことを言いやるな。三成は主と違って純真ゆえ、何を言っても信じるのよ」
 一部の隙もなく、早口に言ってのける。
 言葉を遮られたことが不服だったのか、毛利は不機嫌そうな顔をして、リビングにある椅子に腰かける。
「刑部」
 足の件を問いただしたく、声をかけたのだが、大谷の目は答える気はないと告げていた。
「ああ、寒かろ」
 大谷は不自由そうな足を引きずり、壁にかけていた上着を手に取る。体格的に三成の方が大きいため、上着を着ることは難しい。だが、肩にかけて多少の暖を取ることくらいはできる。素直に受け取った三成は、一言ありがとうと告げる。
 礼を言われたのが嬉しかったのか、大谷はわずかに目元を緩ませる。
「さ、座りやれ。主が何故ここに来やったかを聞かせやれ」
 最後の言葉は毛利を睨みながら言う。
「迷惑だったか」
「……いや、そうではない」
 椅子に腰かけながら聞くと、目をそらされた。だが、答えは否であり、そこに嘘はないように思える。
「ただな……。主は、我を恨んでおろう。もう、二度と会うこともないと思っておったゆえな」
 そうだと三成は思いあたった。三成自身は様々な葛藤を経て、心の整理をつけてここにやってきた。だが、大谷はそのことなど知らぬはずだ。突然やって来た男は、かつて自分を恨んでいたはずなのだから、驚かない方がおかしいだろう。
 何から話せばいいのかと、しばし考える。言葉をせかす者は誰もいない。毛利など、勝手に茶菓子を引っ張り出している。
「昨夜、私は毛利と会った。その時……貴様が死んだと、聞かされた」
 大谷から怒気が上がる。怒りのままに毛利を睨みつけるが、当の本人は茶でも用意して欲しいか? などとのたまうばかりだ。
「私は! 貴様がいなくなったと思って、始めて自分の思いに気づいた」
 三成の目は大谷にだけ向けられている。真摯な視線を受け止めるため、大谷は毛利を睨むことをやめた。
「貴様から目をそらした、守ることができなかった、知ることができなかった。私は、そんな私を憎んでいた」
「何を言うておる。我は主を裏切った。それが真よ」
「刑部」
 大谷の否定など聞こえていなかったのか、三成は彼の手を静かに取り名前を呼ぶ。どこか甘い響きさえ帯びた声に、大谷は口を開けたまま言葉を紡げなくなる。
「私は貴様を信じている。あれは私のためだったのだろ?
 もう二度と離さない。見失わない。
 だが……貴様が私といるのが嫌というなら、私はもう貴様の前に現れない。刑部。どうなのだ。愚かであり続けた私など、嫌いになったか」
「み、つなり……」
 三成は嘘をつかない。もう二度と離さないといったからには、この先何があっても手を取り続けてくれるだろう。会わぬことを選択するのならば、これから先、輪廻を重ねたところで会うことはない。
 何と答えるべきか、大谷にはわからなかった。三成が触れている部分が暖かいということだけがわかる。
「諦めよ。貴様は石田に嫌いなどと嘘でも言えぬであろ」
 冷たい声に、大谷は内心頷く。
 嘘でも三成のことを嫌うようになったなどと言えるはずがない。何よりも大切で、何よりも慈しんできたというのに。だが、ここでその言葉を言えぬのならば、かつてのように不幸に引きずりこむことになるやもしれない。
 手を取ってくれとも、離してくれとも言えぬ。死して悟性をどこかに落としてしまったかとさえ思えてくる。
「主もわかろう。我は病を得た。毛利の言うたことはすぐに真となる。
 もう共に生きるなど無理よ。諦めて――」
「おーい、刑部!」
 悲しげな声を遮るように、間の抜けた声が聞こえてきた。
 苛立たしげに三成が立ったのと、毛利が立ったのは同時だった。二人は窓の方へと歩み、外にいる人物を目に映す。大谷は椅子に座ったまま、相変わらず間の悪いことよな。と、一人呟いていた。
「官兵衛! 貴様、刑部の言葉を遮るとはいい度胸だ!」
「げっ! 三成?!」
 勢いよく窓を開け、怒声を上げる。よく窓が割れなかったものだと思わずにはいられない。
「間の悪い男よ。
 ……まあよいわ。入ってくるが良かろう。鍵は開いている」
「主、鍵を閉めなんだのか」
 この家に入ってきたのは毛利が最後だったはずだ。変な人間でも侵入してきていたら、どう責任を取ってくれるつもりだったのだろうか。
 毛利に言われ、官兵衛は大谷の家へと足を踏み入れる。できるだけ音をたてぬように、そっと静かに扉を開け閉めしたのは、中にいる凶王が恐ろしかったからに他ならない。
「やれ。暗よ。仕事はどうしやった。とうとうクビにでもなったか」
 楽しげに言われ、肩を落とす。
「今日は休みじゃ。お前さんがちゃんと病院にこないから、小生がこうして来てやっているんだぞ。感謝しろ」
「官兵衛! 貴様、私を無視するとは……斬滅してくれる!」
「痛っ!」
 あえて視界に入らぬようにしていたため、三成の怒りを買ってしまったらしい。素早い動きで大谷と官兵衛の間に割り込んだ三成は、そのまま右手で官兵衛の首を絞めあげる。細い体のどこにこれほどの力があるのかと官兵衛は泣きそうになりながら考えた。
 救いを求めて大谷を見る。
「石田。黒田は今生では必要な駒よ。離すがよかろう」
 意外なところから救いの声が放たれる。
「何?」
 とはいえ、三成が大谷以外の言葉を素直に聞くはずもない。右手の力を緩めることなく、視線だけでどういうことだと告げる。
「三成よ。そのまま殺していいぞ」
「そうか」
 大谷があっさりと言葉を吐く。
 冷汗を流したのは官兵衛だ。四百年前の四国の件が今生でも影響し、三成は大谷と決別したと聞いていた。だが、今の状況を見る限り、それらは改善されたのだろう。喜ばしいことだ。官兵衛が今、成したいと思っていることを考えれば。
 けれど、死にたいわけではないのだ。首がみしみしと音を立てる。
「それは大谷の主治医よ」
「……主治医?」
 首の圧迫が解ける。
 官兵衛はその場に四つんばいになり、必死に呼吸を整える。危うく死ぬところだった。
「毛利。主は三成を呼び寄せ、余計な事ばかり言おうとしやる。いい加減にせぬか」
「それはこちらの台詞よ。今、貴様に死なれては困るのだ」
「待て! 話が見えないぞ!」
 大谷とは高校時代に会ったきりの三成は、二人の会話がわからない。思わずうめき声を上げると、毛利は鼻で笑い、大谷は目をそらした。官兵衛は相変わらず酸素を取り込むために必死だ。
 毛利が全てを話そうと口を開く。だが、大谷がそれを遮る。
「主には良き友も、良き環境もあるであろ。
 今さら我一人に何を固執する。帰りやれ」
「いらぬ」
 たった一言、けれども、聞き間違えることのないほど明確な輪郭を持ってその言葉は発せられた。
「友も、環境も、何もいらん。貴様が望むのならば捨てる。
 だが、貴様の死は何があっても認可しない。例え、貴様が私を遠ざけても、だ」
 三成は大谷の足元に膝をつく。
「言え。貴様の全てを私に教えろ」
 体の隅々にまで刻まれた記憶が、大谷の口を開かせる。これ以上口を噤むことは許されない。
「病を得た。それだけの話よ。暗は医者でな、我の主治医になっておる」
 大谷は袖をたくし上げる。素肌には痣や炎症の跡などがあり、醜い模様を作り上げている。かつての時代にくらべれば、爛れているわけではない分マシとも言えるが、晒すには抵抗があるものだ。
 まだらな皮膚を三成の細い指がなぞる。そこから病が彼の白い肌を犯すのではと思った大谷は、すぐに肌を隠してしまう。
「醜かろ」
「貴様は昔からそれだ。何度も言っただろ。私は皮一枚などどうでもいい」
「つーか。それは薬の副作用だからな」
 復活を果たした官兵衛は大谷の手を取りながら言う。どうやら脈を計っているようだが、手慣れた様子で大谷の手を取ったのが三成は気に食わない。先ほどのように、首を絞めあげなかったのは、大谷がそれを許し、必要だと知っているようだったからだ。
「お前さんは、刑部が死ぬのを許さないんだな?」
 官兵衛は大谷の手を離し、三成を見る。静かに一つ頷くと、満足気に官兵衛は口角を上げる。
「なら、さっさとこいつに手術を受けるように言ってくれ」
「暗!」
「なんじゃ。どうせ、三成には言わんとならんだろ。全てを知りたいと言ってるんだからな」
 軽く大谷の頭を叩きながら言う。
 至極嫌そうな顔を大谷が向けても、官兵衛は笑みを崩さない。
「手術すれば治るのか」
「五分五分じゃな」
 それでも、治る可能性があるのだ。
 三成は身の内から歓喜が沸き起こるのを感じた。大谷の身を犯しているのは、四百年前のように誰もが匙を投げるような病ではなかったのだ。それなりの対応をすれば、常人と同じになれる。
 あの時代、大谷がそれを望んでいるのは察していた。
「嫌よ」
 歓喜した三成とは対照的に、大谷は眉間にしわを寄せていた。
「いい加減にせよ。我出版社のためにも、貴様が死ぬのは痛手ぞ。
 態々、石田まで用意してやったのだ。諦めて手術を受けよ」
「やはり、そのような算段であったか」
 策士達の間に火花が飛ぶ。
「刑部」
 はじけるそれらを抑えたのは、三成の声だ。
「何故だ。納得できる理由を言え。
 私を納得させることができぬような理由であったなら、私は貴様を殴ってでも手術を受けさせる」
 本気だ。その場にいる全員が悟る。
 大谷が三成に甘いのは誰もが知っているが、よく二人を見ていれば、三成も大谷に甘いということがわかる。そんな三成が、大谷を殴るというのだ。それは凄まじい覚悟とも言える。
 下手なことは言えぬと知った大谷は顎に手をよせて口を開く。
「治るかわからぬのに体を切られるのは怖い。コワイ。
 しがない小説家である我に貯えなどなく、手術の金もない。
 暗に任せるのも不安よなぁ」
 最後には笑い声を上げていた。隣で官兵衛がなぜじゃーと叫んでいたが、気にすることもない。
 官兵衛に任せるのが不安、ということはともかく、他二つの理由はもっともだと納得するに足るものだ。けれど、三成が納得するはずもなかった。
「わずかな希望も捨てるな。私は認可しない。
 貯えがないのならば私が出す。遠慮するな。すぐに貴様の財産となるのだ。少し早まっただけと思え」
「……は?」
 間の抜けた声が出たことを誰が責められようか。
 言葉の意味を説明して欲しいと、毛利や官兵衛に視線を向けたところで、彼らも唖然としているばかりだ。
「貴様は一度も私を否定しなかった。それは、嫌いでないと取っていいのだろ?」
「あ、ああ。無論よ」
 混乱を極めた大谷は、すでに三成を遠ざけるために言葉を繕うのをやめた。
「ならば、私の傍にいろ。私を傍にいさせろ。
 私は貴様を愛している」
 綺麗な顔だと大谷は思った。
 現実逃避と言ってもいい。
「……なるほど。それが良いぞ」
 一人、混乱から脱した毛利は笑う。笑みというにはいささか黒いものがあったが、それについて言葉を紡げる者はいない。
「石田よ。大谷の足が不自由になったのは、貴様を守るため。
 ならば責任をとって、大谷を娶るが良い」
「良くないわ!」
 思わず大谷が叫んだが、三成は足の件が気になっているようで、毛利の目を見つめたままだ。
「高校時代、貴様を僻んでいた男がいたのは知っているか」
 言われて、高校時代を思い返す。僻みや妬みといった感情に三成は疎い。だが、言われてみれば、あの理不尽なことばかり言っていた先輩は、己を僻んでいたのかもしれないと思い当たった。
 三成に心当たりがあったことを察した毛利は言葉を続ける。
「大谷はそやつの弱味を握り、貴様への態度を変えようとした」
「毛利」
 黙れ、と大谷は言外に告げる。
「奴は弱味を握る大谷に詰め寄った」
「毛利!」
 声を荒げたところで、毛利はやめない。その後の話は官兵衛も知っているが、毛利を止めようとはしなかった。むしろ、三成には聞いて欲しいとさえ思った。
「抵抗した大谷に腹を立てた奴は、大谷を袋叩きにした」
 殺そう。三成は冷静に考えた。どこにいるのかも、どう過ごしているのかもわからない、昔の先輩を探し出し、殺そう。
「三成。過ぎたことよ」
 殺気に気づいた大谷がやんわりと三成を制す。
「大谷の親も碌なものではなかった。怪我をした大谷を病院へ連れていかず、放置していた」
 三成が息を飲む。
 軽い怪我ではなかっただろう。それを見て、何もしようとしなかったのか。三成とて、全ての親が子を愛すると思っているわけではない。だが、同じ場所に住んでいる者が怪我をすれば、何かしらの対策を講じるものではないのか。それが、実の子だというのならばなおさらに。
「刑部。やはり貴様は私と共にいろ。
 私が貴様を幸せにしてやる。不幸の方が好ましいのならば、私も共に不幸にさせてくれ」
 首を横に振ろうとした大谷の頭を、官兵衛が撫でる。
 そろそろ幸にあやかるのも悪くない。髪に隠れている瞳がそう言っているような気がした。
「……我は、幸せ者よな」
 これからもっと幸せになるのだと三成は言った。





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