四月、桜と共に入学式がやってきた。今日は始業式で、とある新入生の男達は同じクラスを喜んだ。新しい生活に入るにあたって、知っている者が近くにいるというのは、心強いものだ。それも、互いに秘密を共有しているともなればなおさらに。
簡単な挨拶も終えて、担任はすでに教室にいない。そんな中、彼らはこれからの学校生活について声を弾ませていた。彼らの中で、ただ一人物静かな男がいたが、それは現状を不満に思っているからではない。単なる性格の問題だ。
少しばかり気難しいその男も、新しい生活に溶け込むことができるようにと、他の者達はすぐに新たな友人を作り、自分達の輪の中へと引き込んだ。
「それにしても、この学校は大きいな」
家康が外を見ながら言う。
他の学校と比べて、彼らが通うことになった学校は大きい。私立ではあるが、それにしても規格外の大きさだ。通っている生徒も多く、個性派が集まっているという噂は本当かもしれないと思わせる。
「工学部を覗いたんだけどよ、結構いい物がそろってたぜ」
「鬼の旦那はさっそく子分ができたんでしょ?」
楽しげな笑みを浮かべた元親に佐助が突っ込む。どこに行ってもすぐに彼を慕う男達が集まってくる。来年になれば、卒業した中学からこの男を追いかけて何人かの子分が高校に入学してくるだろう。それを想像するだけでむさくるしく、また笑いが込み上げてくる。
「石田殿は何か部活には入られるのですか?」
幸村が沈黙を守っていた三成へ会話を振る。
彼らは同じ中学から上がってきた友人だ。だが、ただ一人、三成だけは少し話が違う。
彼も同じ中学で家康達と三年間を過ごしてきた友人であることには変わりない。けれど、三成だけが、秘密を共有せずにいた。
「剣道部に入ろうと思う。秀吉様も武芸をたしなむのはよいことだと仰っていた」
三成の口から出た秀吉様に、周りが新しく輪の中に入ってきた男子がざわつく。今のご時勢、誰かに対して様をつけることは少ない。その名に敬愛の色がこめられているとなればなおさらだ。
「秀吉様って?」
「私の親代わりをしてくださっている偉大な御方だ」
彼に秀吉の話をさせると長い。しかも濃い。そんなことは四百年以上前から知っている家康達は苦笑いを浮かべ、ある種の地雷を踏んだのだと気づいた新しい友人達の引きつった表情を眺めている。
相手の様子をまったく気にかけることのない三成は、先ほどまでの寡黙さをどこに消し去ってしまったのか、朗々と秀吉について語り始めた。
家康達は四百年前からこの光景を知っていた。そう、彼らは、三成を除いた家康、元親、幸村、佐助は、前世の記憶を持っていた。物心ついたときにはすでに前世の記憶があった。そのため、両親達からは手間がかからないものの、多少奇妙な子供として接せられてきた。
それでも両親は彼らを愛したし、彼らもまた両親を愛した。そして、最も幸いだったのが、同じく前世の記憶を持つ者達が近くにいたことだ。
「そういえばさ」
三成の話を真面目に聞くことの不毛さに気づいたのか、一人が元親に声をかけてきた。秀吉の素晴らしさに脳の機能を全て使っている三成は、そのことに気がつかない。
「オレの兄貴、ここの三年なんだけどさ」
そう言うと、その男は少し声を潜めた。
大声で言う内容のものではないのだろうと、家康達は彼に耳を寄せる。怪談話にせよ、教師との上手い付き合いかたにせよ、聞いてみたいと思った。
「今は二年生だと思うけど、関わっちゃいけない男ってのがいるんだってよ」
「それほど凶悪な奴なのか?」
思わず固唾を飲み込む。戦場を駆け巡ってきた彼らとて、今生ではごく普通の高校生だ。危険なことには近づきたくない。
「いや、何て言うのかな。そいつ自体もアレらしいんだけど、そいつは学校の色んな奴に目をつけられてるんだよ」
その言葉に家康や元親、幸村は眉を寄せる。他人に優しい彼らは、その本人に原因がないことで人を忌むことを良しとしなかった。それを突き通すことは困難であるが、彼らは己を曲げることを知らない。
「そりゃまた何でさ。文武両道で超絶美形だったりするの?」
佐助が尋ねると、男はゆっくりと首を横に振る。
「オレも見たことはなけど、そいつはお世辞にも美形とは言えないって。
つか、まともにそいつの顔を見たことがある奴がいないらしい。勉強はできるらしいけど、運動はできないし」
「んじゃ何で目をつけられてるのさ」
「この学校の有名美人が全員そいつの傍にいるんだってさ」
何だそりゃ。と、気の抜けた声を出したのは誰だったか。
たかだかその程度のことで、他人から僻まれてはその男も可哀想だろう。元親はそんなことで他人を蔑むものじゃないと口にする。
「まぁ、ただ美人が近くにいるってだけならそんなことも言われないんだろうけどさ……」
男は小さく唇を尖らせる。そして、少し周りに意識を飛ばし、辺りに自分達以外の人がいないことを確認する。
「噂じゃ、そいつは人間じゃないって」
「んだそりゃ」
肩をすくめた元親に、男は慌てて言葉を付け足す。その顔はどこか青く、誰かがこの会話を聞いているのではないかという恐怖が透けて見えた。
「何でも、美人達がそいつに集まるのは魔術で操られてるからだとか。
そいつの悪口を言ったら呪われて、向こう三日は学校にこられないとか。
触れると肌が爛れるとか。実際に、呪われて学校を辞めた奴もいるって話だ」
真剣に話す男と同じく顔を青くしたのは、今日から友人になった者達ばかりだ。元親は呆れたような顔をし、家康は苦笑いを浮かべている。幸村は不満気な顔をし、佐助がそんな彼を宥めている。
僻みからきたであろう悪評など、聞く価値がないことを彼らはよく知っていた。
「見た目も不気味でさ」
男は自分と同じように、会話の中にいる化け物へ恐怖心を抱いた者達へ囁く。
「真夏でもニット帽を被って、手には手袋。口にはマスクをつけて、見えるのは目元だけ。
車椅子だから嫌でも目につくってさ。噂じゃ、手袋を外したら爛れた肌があるとか」
家康達は思わず目を丸くして男を見た。
どこか、見た覚えのある風貌ではないだろうか。
かろうじて見える目元や、動かすことができない足。
幸村が未だに秀吉の栄光を語っている三成の肩を叩く。家康はその男に問いかけをした。
「その、男の名前は……?」
三成は秀吉の素晴らしさに水を差され、不機嫌そうに眉を寄せた。
「確か、お、お……。あ、そうだ。
大谷吉継。だったけか」
「石田殿!」
「三成!」
幸村と家康の声が同時に三成へと向けられた。
「何だ」
だが、三成は先ほど出た名前になど興味もないのか、呼ばれたことに反応しただけだ。
彼には前世の記憶がないのだから、当然と言われればその通りだ。しかし、家康達はどこかで期待していたのだ。かつての友の名を聞いたのらば、何かを思い出すのではないかと。
「……大谷って名前に心当たりはねぇか?」
元親に聞かれるが、三成は知らないと首を横に振る。
周りの男達も不思議そうな顔をして家康達を見ている。
「ああ。その男はもしかすると、ワシらの知りあいかもしれないんだ」
「え。マジかよ」
友人の知りあいの悪口を言っていたのかと、男は少しバツの悪そうな顔をする。
「いつの間にそのような知りあいを得たのだ?」
三成は首を傾げる。
家康とは小学校時代からの付き合いであるが、大谷吉継という名は始めて聞いた。彼がどこで誰と絆を結んでいようが三成には関わりがない。けれど、他の面子もその名を知っているというのに、己だけが知らぬというのは気分が悪い。
「あー。まあ、古い、古いな」
誤魔化すように小さく笑う。
怪訝そうに眉を寄せた三成に、家康は胸が痛んだ。
前世で身を寄せ合っていた二人を引き裂いたのは己だと、家康はずっと胸にしこりを残し続けていた。自分が動かなければ、三成は幸せに生きただろう。大谷は三成を謀らず、病が彼の命を奪うまで三成の傍らに居続けただろう。
家康は拳を握る。今生では傷などない綺麗な拳だ。
「家康……。そんなに気に病むな」
彼を労わるのは元親だ。
二人を真に引き裂いたのは自分なのだと、元親はいつも家康に言っていた。
大谷を貫いたのも、真実を三成に告げたのも、全ては元親だ。ただ、それを過ちとは思っていない。それを思うことは、殺してしまった大谷にも申し訳が立たず、死んでいった部下達にも償いにならぬことを理解している。
「そろそろ帰らない? 明日からはずっと同じクラスで顔を合わせるんだしさ」
空気を読んだ佐助の発言に周りは乗る。
各々自分の鞄を手にとり、教室から出る。廊下にはまだ数名の生徒が見える。下足室には上級生もいた。春休み明けで久々に会えた友人と会話に花を咲かせているらしい。
「家康。私は入部届けを取りに行く」
「ん? 三成は気が早いな。
よし。じゃあワシも行こう。どうせボクシング部に入るつもりだったんだ」
何人かが靴を履き替えたところで三成が言いだした。家康も少し考えたものの、彼と共に入部届けを受け取りに行くことにしたようだ。
「お、じゃあオレも一緒に行くぜ」
「ならば某も!」
「真田の大将はお館様の道場に通ってるじゃない」
「じゃあオレらは先に帰るわ」
「また明日なー」
「ああ、また明日!」
結局、いつもの面子で職員室へ行くことが決まった。幸村は部活に入る予定などないのだが、その場のノリで行動したのだろう。佐助はそんな幸村の後を当然のようについていく。幸村もまた、それを疑っていない。
何故か三成はそんな二人を見て少し胸が痛んだ。
「どうした?」
「……何でもない」
家康の声に、三成はさっさと職員室への道を歩き始める。
「失礼します」
職員室の扉をノックし、静かに開ける。中には数名の人がいた。近くにいた教師に声をかけ、入部届けが欲しいのだと告げる。
「ちょっと待っててね」
そう言うと、教師は近くにあった引き出しを探り、人数分の入部届けを出してくれた。枚数は五枚。どうやら、佐助と幸村もしっかり数に入れられたらしい。
「あ、某と佐助は必要ないでござる」
「あら、そうなの。じゃあ戻しておくわね」
入部届けを受け取った家康は二枚を教師に返す。
受け取るものを受け取ったら用はないとばかりに、三成は挨拶をして職員室を後にする。無言で去ることをしなかったのは、彼の育て親である秀吉と半兵衛の教育がよかったからに違いない。
「私は厠に行く。先に帰っていろ」
「そのくらい待つさ」
鞄を持っていてやろうと、家康は半ば強引に三成の鞄を受け取り、手を振る。
おせっかいな家康の行動は今に始まったことではない。三成は舌打ちを一つしてトイレへと足を進める。
「石田は相変わらずだな」
「そうだな。まあ、怒鳴らないってことは、本気で嫌がってるわけじゃないってことさ」
小さくなっていく背中を眺めながら、元親と言葉を交わす。隣では幸村が佐助に帰路の途中で団子を買うか否かという話をしていた。
三成が戻ってくるまでと思い、家康は元親と会話をしながら辺りを見回す。辺りに人はいない。校舎は多少汚れているものの、全体的に白い。清掃が行き届いているという証だろう。ここで過ごす三年間で、どのような人々に会えるのかと思うと、家康は胸が高鳴った。
その中に、大谷がいるかもしれないと思うと、胸はさらに強く脈打つ。痛みを伴うそれに、歯を食いしばる。
「光色さん、見つけた」
不意に、か弱い声が聞こえた。
「……お市殿?」
全員が声の方を向いた。
「闇色さんはいないのね」
「すぐに戻ってまいられるはずでござる」
そこにいたのは塗れ羽色の美しい髪を持った絶世の美女だった。規定の長さを保ったスカートであるはずなのに、そこから覗く足は他の女子とは比べ物にならないほどの艶を持っている。かつてと変わらぬ美しさは、相変わらず国をも傾けかねない色気を兼ね備えている。
市は妖艶に笑いながら、廊下の角へ向かって手招きをした。
「蝶々さん。市、見つけたわ」
「さようか。主は真聡い」
新たに聞こえてきた声に、誰もが身を固くした。
静まり返った廊下に、キリキリと金属がこすれる音が響く。
「久しいな。徳川」
「……刑部」
現れた男は、先ほどまで話題にもなっていた男だ。
「魚に若虎に猿もいやるか。いやはや、予言者の力も馬鹿にはできない」
「当然だ。姫の力は今生でも衰えてはいない」
さらにもう一人姿を見せた。
「さ、サヤカァ?!」
「その名で私を……まあいい。今生では『我ら』とはなっていない」
市と孫市に両脇を固められた大谷というのは、何とも不釣合いであった。
彼女達は美しい。方や儚さを、方や気丈さを。違った美しさを持つ女達とは違い、大谷はただただ不気味であった。
男が言っていたように、大谷はニット帽を被り、口はマスクで隠されている。かろうじて見ることのできる瞳は、昔と同じく白と黒が反転している。足も動かぬようで、軋む車椅子に乗っている。それがまた彼の不気味さを煽っている。
「大谷殿! お久しぶりでござる」
幸村は驚きから解放されるや否や、大谷のもとへ駆けより、膝をつく。視線が合うと幸村は顔を綻ばせる。
「某、今生でも石田殿と縁を持ちもうした。石田殿は秀吉殿と」
「太閤と賢人の元で養子として暮らしているのであろ?」
目を細め、楽しげに大谷が言う。
今まさに言わんとしていたことを先に告げられ、幸村は目を丸くする。
「ヒヒ。予言者にあらかたのことは聞いておる」
「予言者というと、鶴の字か」
大谷は一つ頷いてから、廊下の角を見た。耳をすませてみると足音が聞こえる。
角に最も近かった幸村が大谷の目線の方向へと目を向け、またしても目を丸くする。
「毛利殿!」
「……大谷。貴様、勝手に動くなと言ったはずだが?」
不機嫌さを体全体から溢れさせている毛利は、家康達を一度見たものの、すぐに大谷に視線を戻す。
「すまぬすまぬ。賭けの結末が知りたくてつい、な」
笑い声を上げた大谷に、毛利は堂々と舌打ちをする。
変わらぬ雰囲気に、元親は震える体をどうにか奮い立たせ、口を開く。
「も、うり……」
名を呼べば、冷ややかな視線が返ってくる。
元親はこの場が四百年前に戻ったように感じた。己は武器を持ち、安芸の主である毛利元就と対峙している。そんな錯覚に陥った。
「同胞よ。主との賭けは我の勝ちのようよな」
「さっきから賭け、賭けと言ってるけど、何なのさ」
楽しげな大谷に尋ねると、跳ねるような声色で答えてくれる。
「何。同胞とはな、魚が同胞のことを覚えているかと賭けをしたのよ」
マスクの向こう側から吐き出された言葉に、元親は眉を寄せる。
「貴様、我のことなど忘れると言っておったではないか。
自分の言ったことにも責任を持てぬとは愚かな」
見れば、毛利も元親と同じく眉を寄せていた。
忘れてやると元親は確かに言った。四百年前、毛利を殺すときに。
けれど、それを成せたときは一瞬たりともなかったのだ。何をしているときも、元親自身が死ぬ間際になっても、彼は毛利のことを覚えていた。あの光を宿さぬ瞳を、冷徹な策を忘れられるわけがなかった。
「毛利。オレは、自分の罪から目を背けていた。だけど、今はちゃんと見てるつもりだ。
だから、あんたのことからも目をそらさない」
苦しげではあるが、真っ直ぐな瞳だ。毛利は昔からその瞳が嫌いだった。あの瞳が曇ってしまえばいいと、いつ日からかそんなことを思っていたくらいには。そして、己の死を糧に、それがなされるのならば、それも良いとも思っていた。
元親は毛利の思惑から外れ、死を糧に真っ直ぐな瞳をより強靭な目にしている。それがひどく不愉快だった。
「好きにするが良かろ。それよりも大谷。さっさと帰るぞ」
「まちと待ちやれ。まだもう一つの賭けについては聞いておらぬ」
大谷は近くにいた幸村の方へと顔を向ける。車椅子に乗っている大谷からしてみれば、未だに膝をついてくれている幸村と話すのが体勢的に一番楽なのだ。
「主は三成と共にいるのであろ?」
「いかにも。某、石田殿とは中学時代からの付き合いでございまする」
是と答えた幸村に大谷はもう一つ問いかけをする。
「では、三成は前世の記憶を持っていやるか?」
問いかけに、幸村は息を詰める。
嘘を言うつもりはないが、真を告げれば目の前にいる男が悲しむのではないかと危惧した。
「そ、それは――」
「貴様達、何をしている?」
答えに迷った幸村の言葉に、三成の声がかぶさった。
「三成!」
「何だ。とっとと私の鞄を返せ」
何とも言えぬタイミングで帰ってきた三成は、家康が持っていた自分の鞄を奪い取る。そこでようやく、先ほどまではいなかった顔がそこにあることに気がついた。
「誰だ」
その一言こそ、大谷の問いに対する答えだ。
一瞬の沈黙の後、独特の引きつった笑いが廊下に響く。
市は相変わらず微笑みを浮かべているばかりで、毛利は冷たい目線を三成に送る。孫市は額を抑えてため息をついていた。
「聞いたか雑賀よ。この賭け、我の勝ちよ。しかと予言者に伝えるが良かろ」
「ふん。貴様の鉄砲玉は相変わらず鳥頭のようだな」
場についていけぬ面々を他所に、大谷は市に車椅子を押させて玄関へと向かう。
「ま、待ってくれ!」
家康が引きとめようと手を伸ばす。
けれど、誰一人として振り返ることすらしない。
「奴らは貴様達の知りあいか」
三成が尋ねる。
「……ああ」
元親が答え、家康が眉を下げる。
「三成。あの人は大谷吉継だ」
「ああ、先ほど知りあいかもしれん。と、言ってた男か。その様子では、知りあいだったようだな」
名を聞き、姿を見ても三成は何一つ思い出す兆しがない。家康達の様子に少しばかり首を傾げたが、それもつかの間のことだった。
すぐに玄関へ向かい歩きだす。
「いつまで呆けているつもりだ。私は先に行くぞ」
頷きながらも、家康は胸に痛みが走ったのを感じる。
三成の口から放たれた言葉は、彼がよく大谷に向けていたものだ。
いつも大谷が見ていたであろう背中を家康が追い、元親と幸村、佐助が続いていく。
校門を出ても、彼らは同じ方向へと歩いていく。彼らの家は同じ方向にある。登校時もそうであったのだが、彼らは共にいる間は常に騒いでおり、和気藹々としている。黙っていることが多い三成ではあるが、時には声を荒げることもある。むしろそれが日常だ。
先ほどの空気を払拭するためか、家康達は常よりも声を高くしている。疑問を感じた三成ではあったが、他人の心情などどうでも良いことなので、黙って歩き続ける。
「明日からの学校生活、楽しみだな!」
「某、熱く燃え滾ってまいりましたああああ!」
「大将! 声! 声抑えて!」
騒ぐ幸村を佐助が抑えつける。幸村を抱き締めるような形になっている佐助を見て、家康がワシも! と、彼の腰に抱き付く。遅々とした歩みではあったが、三成はそのことについては咎めない。ただ、五月蝿いと冷たく言うだけだ。
「何だ石田! 羨ましいのか!」
元親が無理矢理に三成と肩を組む。どうにか押しのけようと、三成が手で押してみるが体格の差があるためか、元親は一向に離れようとしない。
むさくるしい光景ではあったが、どこにでもいる男子高校生だ。彼らの殆どが前世の記憶を有しているなどと誰が思うだろうか。
彼らがとある曲がり角につくと、三成だけがつま先の向きを変えた。
「私は帰る」
「ああ、また明日」
軽く手を振ると、後は振り向くこともなく三成は自宅への道を歩いていく。心なしかその足取りが軽いのは、帰宅すれば秀吉や半兵衛と会うことができるからだろう。だから、三成はその背中を寂しげに見られていることに気がつかない。
見つめたところで、三成に記憶が戻るわけではない。四人は再び足を進め始めた。騒がしさを抑える役割の一旦を担っていた三成がいなくなったことにより、彼らはより一層騒がしくなる。
「んでよ、オレはな――」
不意に、元親は言葉を止めた。
彼の横を一人の少女が通ったのだ。
ショートへアーの少女は軽く地面を蹴り、髪を揺らしていた。短いスカートを履いた彼女に、元親は見覚えがあった。
「元親?」
言葉だけでなく、動きをも止めた元親に家康が声をかける。
反応がないことを訝しく思い、彼の目線を追ってみる。
「あれは……」
そこに少女の姿を見た家康は目を見開く。
短い髪をした少女は曲がり角に立ち、三成が歩いて行った方を真剣に見つめている。
「姫!」
何と声をかけたものかと迷っていると、少女が駆けてきた方角から声がした。その声は先ほど会ったばかりの孫市のものだ。
「孫市姉さま。私、ババーンと、わかっちゃいました!」
笑みを浮かべた鶴姫は、孫市のもとへと駆け寄ろうとする。そんな彼女の肩を掴んだのは元親だ。
「久しぶりだなぁ。鶴の字よ」
「お久しぶりでございます。と、おっしゃいな!」
人差し指を立て、少し怒ったような表情を浮かべる。
鶴姫はそこに元親や家康がいることが当たり前のように、少しも驚かない。
「白い鳥さん。待って……」
あれよあれよという間に、市が大谷の車椅子を押してやってきて、その後から毛利までやってきた。自由に動けない大谷は、ひじょうに不服そうな目をしていたところから、ここに来るのが不本意であったことが見て取れる。目だけで、あれほどの不満を表せるのもある意味では凄いのかもしれない。
道に集まったのは計六人。人通りが多い道ではないが、広い道でもない。自然と道の端に寄るが、その中で大谷と鶴姫が中心になってしまったことも、大谷の不機嫌を増長させた。
「第五天よ。主は我に恨みでもありやるか」
「ううん。ないわ。でも、白い鳥さんが、蝶々を呼ぶの」
大谷が深い深いため息をつく。動かない足を今日ほど恨んだことはない。
「刑部、賭けとは何のことなのだ」
家康が尋ねると、しばしの沈黙の後、独特の笑い声をと共に答えが吐き出される。
「何、そこの巫女とな、三成が我を覚えておるか賭けたのよ。
あれの記憶の有無だけが見えぬと言うのでな」
四百年前から得ていた先見の力は現在においてもしっかりと機能しているのだそうだ。けれど、ただ一人。三成の記憶に関することだけが、靄にかかったように見えなかったのだという。
そこで、大谷は一つの賭けをした。
三成が彼のことを覚えているか、否か。大谷は覚えていないと言い、鶴姫は覚えていると言った。その結果が、先ほど三成と再会することで判明したのだ。
「我はともかく、雑賀の言葉まで疑うとは。主も疑心多き者よな」
「違います! 孫市姉さまやお市ちゃんが嘘をつくだなんて思ってませんよ!」
頬を膨らませて怒る。見たところ中学生のようだが、それにしても幼さが溢れる仕草だ。老いた口調で話す大谷と並べてみると、まるで祖父と孫のようにすら見える。
「私はどうしても確認したいことがあったんです!」
鶴姫は大谷を指差す。彼女の親は人に指を差してはいけないことを教えなかったのだろうか。
「大谷さん! 三成さんの記憶に関して何故靄がかかっているのか、わかっちゃいましたよ」
三成の記憶と聞き、家康達がわずかに身を乗り出す。毛利だけは退屈そうに腕を組んでいるだけだった。
「三成さんに記憶がないのは、あなたの呪いですね」
告げられた言葉に、家康達の思考が追いつく寸前、大谷が笑い声を上げた。
「主がそう言うのであれば、もはや隠しだてはできまい。
そうよ。そう。我の呪いよ」
「本当はあるはずの記憶が封じられている。だから、私の目には靄がかかってしまってるんですね」
「ま、待て。待ってくれ!」
大谷と鶴姫の間に家康が割って入る。
自分の耳が正しければ、今、とんでもないことを聞いてしまったような気がする。
「刑部。お前、三成の記憶を封じたって……」
「真よ」
「何故でござる!」
幸村が膝をつき、大谷に詰め寄る。
彼は同じ軍に所属し、大谷と三成を見ていた。どのような形でもいい。二人が幸せになってくれればと思ったことも、一度や二度ではない。現状が、彼らにとっての幸せとは、到底思えない。
「あれに我は必要ない。そうであろ。
前世の記憶もいらぬ。今生では太閤や賢人と共にいるという。ならば、今のまま、穏やかに生きればよい」
憎悪も、憤怒も、全て過去へ置いてくればいい。多くの人間がそうしているように。
そう言った大谷の目は冷たく、誰にも口を挟ませないという意思を見せている。
「愚かな男よ」
毛利が呟いたが、その声は誰にも聞き取られず、空気と混じり消えていく。
「あんた、それ本気で言ってんのか?」
低い声で元親が尋ねる。大谷は無論、本気だと答えるだけだ。
「刑部。それでは駄目なんだ」
「何が駄目なのか申してみよ」
取り付く島もないとはこのことだ。いくら言葉をこねてみたところで、大谷に勝てるとは思わない。唯一どうにかできそうなのは毛利だが、彼が手を貸してくれるなど、億が一にもありえないことだ。
「某、今も昔も未熟者の身。
しかし、大谷殿を失った後の石田殿はいつも貴殿を探していたように見えもうした」
「そうだぜ。あいつは、オレに遠慮して表立って口にしたことはなかったけどよ。いつもあんたを探してた。そうでないなら、あんたを追って逝きそうにも見えた」
そんな三成を引きとめたのは、まぎれもなく元親だ。だからこそ、彼の胸にはくすぶりがある。
記憶を取り戻せるならば、話し合い、再び隣にあるという幸せを想ってもよいはずだ。
そんな言葉を紡いでいく彼らに、大谷は嘲笑を与える。
「それは主らが覚えておるからよ。何も覚えておらねば、罪悪感も何もない。そうであろ?
我はな、三成にそうであって欲しいのよ」
それは確かに、大谷なりの愛なのだろう。だが、三成は本来ならば彼のことを覚えているはずだと言う。ならば、それを不当に捻じ曲げ、三成の幸せを決め付けるのは過ちではないか。
「刑部」
家康は力強い瞳を車椅子の彼に向ける。
戦国時代を思い起こさせる瞳に、大谷は眉を寄せた。家康の瞳を好ましく思ったことなど一度だってありはしなかった。
「ワシは、お前達の絆がそれほど脆くないことを知っている」
豊臣の傘下にいたとき、日ノ本を東西で割ったとき、いつでも大谷と三成はその確固たる絆を持ち、道を進み続けていた。たかだか四百年程度で、その絆が崩れてしまうはずがない。
「故に、ここに宣言しよう」
そこにいたのは、ただの青年ではなかった。
東を背負い、幕府を築いた東照権現の姿がそこにはあった。
「絆の力を持って、三成にお前のことを思い出してもらう」
家康には確信があった。
三成が記憶を取り戻せば二人は幸せになれる。自分達がそうであるように、前世を思い出すことで痛みも得るだろう。しかし、三成の傍には秀吉がいて、半兵衛がいる。そこに大谷まで隣にいるのだ。元々、三成という男はそれら以外を求めなかった。
「この真田源次郎幸村も手助けいたす!」
「もちろん、オレ様も家康の味方だぜ」
三人は拳を突きあわせる。
彼らの友情を目の当たりにした大谷は忌々しげに舌打ちをした。彼らのおせっかいは何百年経とうと変わらぬものらしい。
「佐助! お前も手伝ってくれるな!」
幸村に声をかけられ、佐助は頬をかく。
どうにも気乗りしなさげな様子に、三人は首を傾げた。てっきり、佐助も喜んで協力してくれると思っていたのだ。
「……オレはさ、大谷さんの気持ちもわかるよ」
確かに、三成と大谷が今生でも共にあることができたのならば、それは幸福なことなのだろう。
「もしも、大将に前世の記憶がなかったら、オレは絶対に大将の前には姿を見せない。
記憶を取り戻させようとなんて、絶対にしない」
戦乱の記憶はそれほどまでに残酷だ。
誰かを殺し、己も殺される。そんな記憶など、今生では不要のものだ。事実、彼らは前世の記憶があるばかりに苦労したこともある。そのような不幸に、どうして愛する人を引きずりこめようか。
「佐助……。だが、オレはな」
「うん。大将がどんな人かは、オレもよーく知ってる」
佐助は笑みを浮かべた。
そして、大谷を見て両手を合わせる。
「だから、大谷さんごめんね。
オレ様、どんなときでも大将の味方なんだ」
まったく迷いがないわけではなかったが、幸村が成すというのだ。佐助としてはそれに従わないわけにはいかない。
「主らは――」
「大谷」
今後やっかいな勢力となりかねない四人をどうにかしようと、大谷が口を開く。だが、彼が紡ごうとした言葉は、毛利によって遮られる。
「何ぞ」
「そろそろ時間切れぞ」
毛利が言い、孫市が懐中時計を開いて大谷に見せる。
時計が指すのは、そろそろ暗くなりはじめてもおかしくない時間帯だ。
「ものの数分よ」
「駄目ですよ! 大谷さんは暗くなると体調が悪くなるんですから。
孫市姉さま、お市ちゃんと大谷さんを送って行ってあげてください」
「了解した」
「うん……。うん」
「こら、主ら!」
市が大谷の車椅子を押して学校の方へと向かっていく。どうやら、彼の家は三成達の家とは逆の方向にあるらしい。今まで会ったこともなかったのは、それが関係しているのだろう。
「家康さん」
残された男四人に、鶴姫は向かい合う。
「大谷さんの心は相変わらずわかりません。でも、私には忘れられないんです」
一瞬だけ目を伏せ、悲しげな瞳を大谷達が去っていた方へ移す。
「今生で再会したとき、三成さんの幸福と記憶の有無を視ました。そして、大谷さんの通う高校へ三成さんがやってくることも伝えました。
その時の大谷さんは、悲しそうで、なのに嬉しそうな顔をしたんです」
出会ってしまう不安と、出会える喜び。どちらも増さることなく、均衡を保って大谷の身の内から溢れだした。
鶴姫はあの時の表情を忘れたことがなかった。
「ですから、三成さんがビシッと、大谷さんのことを思い出せばいいと思うんです。
……私にできることがあれば、なんでも言ってくださいね」
「ああ。ワシの方からもよろしく頼む」
こうして、三成の記憶を巡る春が始まった。
続