桜は花びらをほとんど散らせ、青々とした葉が見え隠れし始めた。高校生活にも新鮮さがなくなり、ただの日常と化していく。
 家康達は朝練のために朝早くに登校する。部活に入っていない幸村や佐助、元親までもそれに付き合っているのは、彼らには他の人間にはない繋がりがあるからに他ならない。その理由である前世の記憶を、三成は未だに思い出さずにいた。
「そういえばさー。最近、変な男がウロウロしてるらしいよ」
「変質者か」
「ま、オレらには関係ねぇだろ」
 他人事のように言えるのは、彼らが男であり、女に比べれば変質者のターゲットとなることが少ないからだ。また、誰も彼も腕っ節には自身がある。多少武術をかじっただけの人間にならば、今だって負ける気はしない。
 変質者などという、実際に出会うのかもわからない、現実味のないことを考えるよりも、考えなければならないことがあるという理由もある。
「それにしても……。
 どうしたんだ三成。えらく機嫌が悪いじゃないか」
 そう言った家康が視線を向けた先には、眉間にこれでもかというほどしわを寄せた三成がいる。
「天気が悪いからな」
「鬼の旦那、それじゃ生徒会長様だよ」
 本日の天気は曇天。めでたく生徒会長に就任し、全生徒から教師まですべての者を捨て駒と呼んだ毛利は今頃盛大な舌打ちをしていることだろう。あの男は今生でも日輪だけを奉っている。
「どうしたもこうしたもあるか。大谷め……。どういう心算だ」
 不機嫌の原因は大谷にあるらしい。
 誰もがなるほどと声を零す。入学してから早一ヶ月が経とうとしている。三成は大谷を目にする度に声をかけているのだ。時には移動を手伝おうと、時には絡まれている大谷を助けようと、時には大谷の食生活を心配して。
 それは、本当に前世の記憶がないのかと問い詰めたくなる光景だった。
 大谷の反応はといえば、三成との接触を極力避けるように移動するようになり、手助けをされたとしても毒を吐き続けた。三成の煽りかたならば、大谷は誰よりも知っている。けれど、何度怒りを沸き起こさせたとしても、三成は大谷へ近づく。
 彼も戸惑っているらしい。と、いうのはまつからの情報だ。
 敵味方を判別するため、家康達は大谷の周りにいる女に話を聞いた。その時の周りから向けられた刺すような視線に、大谷はいつもこのような視線に耐えているのかと苦笑いしてしまった。
 精神的な苦痛と引き換えに得た情報は、市が大谷の味方であり、孫市は中立、まつは家康達よりだということだ。もっとも敵味方の判別をつけたく思っている毛利とは、話す機会を得ることができずにいる。
「いや、あそこまで言われてもめげねぇお前も凄いよ」
 元親の声は三成に届いていないのか、彼は歯をならし、しわを深くする。
 どうしようもなく、理解もできない物体が胃の底に溜まっていくような感覚。同時に、頭痛がする。苛立ちが増す。不快感が増す。悪循環をぐるぐると繰りかえす。これが近頃の三成の体調だ。神のように崇めている秀吉と半兵衛にこの感覚について尋ねてみたが、彼らにもどうにもできないものだった。ちなみに三成は二人の手をわずらわせてしまったことに対し、時代錯誤にもほどがある切腹を行おうとしていた。
「……奴を見ると、声をかけずにはいられない」
「三成……」
 呟かれた言葉に、伏せられた瞳に、家康はやはり二人は共にあるべきなのだと確信する。
「しかし、何事も順序がございまする。ゆっくり、着実にやればよろしいのではないでござろうか」
「おお、大将もいいこと言うねぇ」
 順序と言われても、三成としては首を傾げることしかできない。
 人と言葉を交わすための手順など知らない。基本的に三成のコミュニケーション力はゼロに等しい。彼の性格に惹かれてやってくる者達に囲まれているので、気をつかった言葉というものも知らない。
「ま、ワシらも協力するさ」
「……ああ」
 打開策の見えないまま、時間は過ぎていく。家康とて焦らないわけではないのだ。この戦は時間制限がある。
 大谷が卒業してしまうまで。あと一年以上もの月日があるとはいえ、時は有限。あまりのんびりしていられないのも事実。彼らがこの一ヶ月間で進展したことと言えば、女達の立ち位置を知ったことと、三成の頭痛が記憶と関係している可能性があるかもしれないということくらいだ。
「家康」
「お、おお。どうした?」
「いつまで呆けているつもりだ。学校についたぞ」
「ああ、そうか。じゃあ、ワシは部活に行ってくる」
 部室へ向かうため、踏み出した足を止める。
「三成」
「なんだ」
 振り返り、三成を見る。
「お前、上手くやってるのか?」
「何だ。突然」
 怪訝そうな顔をしているのは、強がりでも何でもないのだろう。彼にとって、己に関する事象は瑣末なことであることが多い。
「あー。オレの友達がよ、お前が先輩に難癖つけられてるって言うからよぉ」
 バツが悪そうに元親が頭を掻く。彼とて、三成の性格を知らぬわけではないので、彼が無視やいびりなど気にもとめていないことはわかっている。だが、おせっかいを焼いてしまうのは元親の癖だ。
 人とのコミュニケーションが上手くない三成なので、気をよくしない人間には徹底的に嫌われる傾向にある。そんなことを直接本人に言うのも気が引けたため、家康に相談していたのだ。
「ああ。確かに、何か言っている奴はいるが、気に止めるほどのことではない」
「そうか。ま、お前はそういう奴だよな」
「何かあれば、某、協力いたしまする」
 暴力に訴えられたとしても、三成ならば一人で切り抜けられる。だからと言って、放置できる人間達ではない。
 彼らの顔を眺め、三成はわずかに口角を上げる。
「そうか」
「おう」
 滅多に見ることのできない三成の笑みを見て、彼らは別々の道を歩く。
 そうして、いつもと変わらぬ時間が流れていく。三成と家康が朝練に精を出している間、幸村達は一足先に教室へ向かい、友人達を待つ。そうして、人が集まり始めたころに三成達が教室へ入り、授業が始まる。
 暖かな光は無いが、たいくつな授業はそれだけで学生達に眠りを送りつけてくる。
 生真面目な三成や、ノートを幸村に貸すためにシャーペンを動かし続けている佐助以外の面子は、早々に眠りについてしまうのが常だ。時に教師に怒られ、教室の笑いのもととなる。どこにでもいるごく普通の学生としての時間を過ごしていく。
「はい。大将」
「おお、すまぬな」
「お前達は本当に仲が良いなぁ」
 昼休みになり、当然のように幸村へ弁当を差し出した佐助を見て、家康は思わず笑う。
 それも、差し出されているのはただの弁当ではない。部活もしていないというのに、大食漢の幸村のために作られた特製重箱弁当だ。高校で新たに友人になった者達が、それを始めて見たときの驚きようといったら、今思い出しても笑いが止まらない。
「んで、あんたも相変わらずだな」
「私はこれで十分だ」
 幸村と対をなすかのように、三成の弁当は少ない。小さなタッパーのようなお弁当箱に、ご飯とおかずが二種類だけ入っている。決して、半兵衛や秀吉に虐められているわけではない。むしろ、二人は三成にもっと食べろ口うるさく言っているのだが、当の本人がこれ以上食べることはできないと言い張るのだ。
「あー。雨、降ってきたぞ」
 誰かが窓の外を見て言った。
 朝から天気はよくなかった。天気予報では降水確率は五分五分といったところだったため、教室のあちらこちらで呻き声が上がる。下校辺りにはやめばいいという願いはおそらく無駄になるだろう。
「ワシは折りたたみ傘を持っているから安心だ!」
「大将の分はオレ様が持ってるからね」
「お前、本当にオカンだな……」
 和気藹々とした会話の中、三成が鞄を探り、眉を寄せる。
「いかがした?」
「……傘を忘れた」
「えっ!」
 忘れ物など滅多しない三成だ。本当か? という疑問の声に、再度鞄を漁ってみるが、やはり折りたたみ傘は出てこない。
「まあいい。走って帰ればそれですむ」
「ワシと一緒に帰るか?」
「貴様と私では、部活の終わる時間が違うだろ」
「でもな……」
 近頃体調の悪い三成のことを心配するのは当然だ。それが風邪などの病でなく、記憶というものが原因であるかもしれないとしてもだ。
「必要ない。それより、次は体育館だろ。そろそろ行くぞ」
「おっと。そうだったな」
 各々体操服を手にし、更衣室へと向かう。
 本日の体育はバスケットボール。
「いけー猿飛!」
「はいはーい。いっくよー」
 昔の名残か、佐助はボールなどを投げる際のコントロールが非常に上手い。3Pシュートなどお手のものだ。力技でダンクシュートを決めてしまう元親には早速弟分ができている。
「佐助! 流石でござる!」
「お褒めいただき、光栄至極でございます」
 すっと膝をつき、頭を下げる姿は様になっている。周りは少しの間を置いて、それを笑いに変えるが、幸村は何故笑われているのかもわからないのか、小さく首を傾げていた。
「オレ、ちとトイレ行ってくるわ」
「サボるなよー」
「わかってるって」
 幸村達を眺め、笑っていた元親は教師に出て行く旨を伝え、トイレへと向かう。
 外はやはり雨が降っている。これが晴れていたならば、先ほど家康に止められたことも忘れ、適当なところで授業をサボっていたかもしれない。
「――ん?」
 不意に、物音が聞こえた。
 雨の音に紛れたそれは、小さな音だったが、元親の耳はそれを確かに捉えていた。どうするか一瞬だけ迷い、音の方向へと足を向けた。皆の兄貴は、一度気になりだしたら止まらない。
 音が聞こえたのは、体育館から少し離れたところにある準備室裏辺りからだ。雨を避けるように屋根伝いに足を進めていくと、再び音がした。何か物が崩れただけだとかいうことではないようだ。
「――な、これ――」
「い――じゃあ――」
 複数の男の声が聞こえてくる。
 こんな天気の日に、準備室の裏で何をしているのだろうか。ただのサボりではない雰囲気に、元親は警戒心を強める。
 音の場所へ近づくにつれ、何かを殴っているような音や、壊しているような音が混ざり始める。
 これはのんびりしている場合ではないのではないかと、元親は雨に濡れることも忘れ、最短距離を走る。
「何やってんだ!」
「あ?」
 声を荒げ、準備室裏を見る。
 そこには三人ほど男がいた。おそらくは上級生だろ。髪の色を変え、改造制服を着ており、見るからに不良だと宣言しているような風貌だ。
「ちょっと遊んでただけだよ」
「つか、お前こそ、こんなとこで何やってんだよ?」
 男達の間から、壁にもたれて座り込んでいる男が見えた。
 ニット帽に、包帯。それだけ確認できれば、彼が誰であるかなどはすぐにわかる。
「お前ら……。ろくに動けねぇ奴を殴って楽しいのかよ!」
「うっせーな」
 思わず相手の胸倉を掴み上げると、舌打ちが返ってくる。
「いいんだよ。こいつは」
「何っ……」
 掴み上げている手に力を入れると、別の男が大谷を蹴る。小さな呻き声が聞こえてきた。
「生意気なんだよ。こいつは、さ」
「美人はべらして、生徒会長様を味方につけてよー」
「生きてる価値もないような面してるくせに」
「調子に乗ってんだよなぁ」
 悪意と悪意と悪意。
 汚い光景に、元親は思わず胸倉を掴んだままであった男の顔面を殴りつける。
「ってー」
「何すんだよ」
「この、糞野郎共が!」
 元親は男達を殴った。ガタイのいい元親から繰り出される拳は、彼らにはっきりとした痛みを植えつけていく。次第に、勝ち目がないことに気が付いたのか、男達はいかにもな捨て台詞を吐きながらどこかへ去って行く。
 追いかけてやろうかとも思ったのだが、座り込んでいる大谷を放置しているわけにもいかない。元親は膝をつき、大谷の様子を見た。
「……魚、か」
「大丈夫か?」
 固く閉じられていた目蓋が薄く開く。
「ああ、平気よ。ヘイキ」
「どっか怪我とか」
「触りやるな」
 包帯によって外傷がわからない大谷の体に触れようとした手が叩き落とされる。
「オレは三成じゃねぇぞ」
「わかっておるわ。それより、その辺りに我の車椅子が転がっているであろ」
 言われて、辺りを見てみると、無残な姿にされた車椅子が見つかった。
「……こりゃ、使えねぇだろ」
「ならばよい。授業が終われば同胞か第五天が代わりを持ってくるであろ」
「授業が終わればって……。それまでどうすんだよ」
 代わりが常備されているのかなど、聞きたいことは山のようにあったが、その中でも一番疑問に思ったことを口にする。
「ここで待っておればよい」
「は? ここって、普通に雨が当たってるだろ」
「今さらよ」
 そういう問題ではないだろう。
 雨に濡れれば体力が落ちる。濡れたままでいれば肺炎になる可能性だってあるのだ。
「主は真、お人好しよな」
 考えていたことが顔に出ていたのか、大谷がヒヒと笑いながら言う。
「前世ではアレほどの怒りを我にぶつけてきたというのに、一度の死でそれを忘れやるか」
「昔は昔だ……。
 オレにだって、非がないわけじゃなかった」
「ほぅ? 本心か?」
 挑発するような声色に、元親は拳を握る。
 大谷のやり口はわかっている。言葉巧みに相手を煽り、激情させ、まともな思考回路を奪う。簡単に乗るわけにはいかないと思いつつも、彼の口調はそんな考えをあっさりと流してしまうほど上手い。
「時代だから、理由があるから、隙があったから。
 そのような理由を並べたところで、我が主の故郷を蹂躙した事実は変わらぬ」
 楽しげに細められた目に、元親の腹の底に熱が溜まる。
「女を、幼子を、新たに生まれるはずであった命を奪ったのよ。
 阿鼻叫喚。ああ、アレは真によい。よい不幸であった」
「直接手を下したのは黒田だろ……」
「ああ、あれもお人好しよな。
 涙を流してな、我に恨み辛みをすべてぶつけてきやったわ。苦しいと、良心に押しつぶされそうだと。主に殺されるのであれば、それもいたし方がないと」
 哀れだと笑いながら言う。
「てめぇ……」
 雨に濡れ、体温が奪われているはずなのに、何故か体が熱い。
 怒りという名の熱が体中を駆け巡る。
 目の前にいる男の幸福などどうでもよくなる。大谷など三成には必要ないと思える。むしろ、このままの方がずっと幸せなのではないかとまで思う。
 そこまで考え、頭の芯が冷えた。
「……あんた」
 大谷の目を見る。
 人に底を見せぬ瞳は淀んでいた。だが、元親は何かに気づいたかのように小さく笑った。
「オレが家康の敵になればと思ったのか。
 石田の記憶を、あんたの存在を否定すればいいって。そう思ったんだな」
「何を」
「今度は、あんたの思い通りにはならねぇ」
 元親は大谷と腕を掴み、抱き上げる。
「何をしやる!」
「こんなとこにずっといたら、体壊しちまうぜ。保健室に連れて行ってやるよ」
「やめよ! 我など捨ておけ!」
「あんたさ、すげー優しそうな目してるよ」
 淀んだ瞳の奥に、佐助のような色を見たのだ。
 甘い溶けてしまうような優しさを含んだ色を見つけて、昔のように心の底から恨み続けるなんてできるはずがない。毛利のことだって、元親は恨みきれていないのだから。
「……主など嫌いよ。キライ」
「そうかい」
 抱き上げた大谷の体は軽い。
 同級生たちと比べても大谷は小柄で、華奢だ。殴れば骨が折れてしまうのではないかと思う。
「大谷様!」
「お、あんたは」
「小鳥か」
 激闘の昼休みを終え、暇ができたまつが二人を見つけた。
「どうしたのでございますか。それほど濡れてしまわれて……。車椅子も……」
「いつものことよ。魚よ、我はもういい故、授業に戻りやれ。
 まさか、サボタージュするつもりではあるまいなぁ?」
「当たり前だろ。
 ……頼めるか?」
「はい」
 まつが大谷を支え、保健室の方へ向かって行くのを確認してから、元親は思い出したかのようにトイレへと向かい、体育館へと戻る。
 ずぶ濡れになって帰ってきた元親の姿に、誰もが目を丸くした。
「どうしたんだ?」
「いや、ちょっとな」
 大谷のことを話してもよかったのだが、友人達の中にも大谷のことをよくは思っていない人間がいることを知っている。何が彼らを焚きつける材料になるかわからないし、記憶がないとはいえ大谷のことになると感情の制限をなくす三成を恐れて無言を貫いた。
 とりあえずということで、タオルで髪を拭きながら他のチームが試合をしているのを眺める。
「そういえばさ」
 佐助が声をかけてきた。
「凶王の旦那に難癖つけてきてた先輩、っていたでしょ?」
「ああ」
 今朝の会話を思い出す。
「あの人、何か怪我して、病院送りになったんだって」
「え」
 目を丸くする。
 脳裏に過ぎったのは大谷の細められた目だ。
「偶然なのかねぇ」
 佐助は大谷に共感する部分がいくつかあるらしい。それ故に、この一件がただの偶然ではない可能性に気がついていた。
「……まぁ、やりそうではあるな」
「でしょー」
 ケラケラと笑い声が上がる。
 きっと、佐助自身、幸村が虐められたと知ったならば影で何かをするのだろう。思わず背筋が冷える。母の愛は偉大だと言ったのは誰だったか。偉大すぎて、元親にはついていけない範囲だ。
 同時に試合が終わり、元親は次の試合に出ることになる。冷えた体を温めるためにも、体を激しく動かす。その間も、頭の中に大谷の瞳がちらちらと浮かぶ。
「負けねぇぞ」
 元親は呟き、その日一番のシュートを決めた。
「いやー。それにしても凄かったな!」
「そんなに褒めんなよ。照れるだろ」
 体育も終わり、体操服を脱ぎ捨てて教室へ帰る。
「ん?」
 教室に入って、佐助は違和感を感じた。
 ほとんどが体育の前と同じなのだが、一つだけ違っている。
「石田殿、机の上に何かありまする」
 見れば、三成の机の上に赤い何かが置かれている。
 彼の持ち物に赤色の物はない。疑問符を浮かべながら手に取ってみた。
「……傘だ」
 机の上に置かれていたのは、赤い折りたたみ傘だった。
「誰のだ?」
「おーい。この傘、誰かのじゃないか?」
 教室の者達に聞いてみるが、誰もが首を横に振る。
 傘は赤色であるが、黒みを帯びた色で、女でも男でも自然に持つことができる色だ。
 三成が傘を見ていると、メッセージカードが挟みこまれているのを発見した。
「何々。『使ってください』だって」
 パソコンを使って作られたカードなのか、文字は無機質な形を持っている。そのため、持ち主が男なのか、女なのかすらわからない。
「良かったじゃないか」
「良い奴もいるんだな」
 三成にそう告げる面々を佐助は少しばかり冷めた目で見ていた。
 この教室は生徒達が更衣室へと向かう際に鍵を閉められていたはずだ。事実、この教室に一番初めに戻ってきた者が鍵を開けたのだから間違いない。ならば、赤い傘は誰がどうやって三成の机の上に置いたのだろうか。
 そのようなある種、超人的なことができる人間が、そう何人もいるのだろうか。
 結論は出ていたのだが、佐助はそれを口に出すことはなしない。彼がそれを望んでいないことは痛いほどわかっているつもりだ。一つは先ほど口にしてしまったが、もう一つは黙っていてあげてもいいだろうと、目を細めた。
 騒いでいる間に六時間目が始まり、一日の授業が終わる。帰宅組の幸村達と、部活組の家康達はここでお別れだ。また明日。と、挨拶をして別々の場所へと足を向ける。
「それじゃ、また明日」
 家康は三成に手を降り、ボクシング部へと向かう。
 彼の背中を見送った三成は、一人剣道部へと向かった。今日の部活は早めに終わると聞かされているので、帰り道に家康と一緒になることはないだろう。
 部室についた三成ではあるが。周りが例の先輩の話題で持ちきりになっていることに気づかない。病院送りとなった先輩は、特別目をかけている者以外には難癖をつけるような者だったために、同情の色は少ない。
 何人かが、三成に良かったな。と、声をかけたが、三成からしてみれば何とも思っていなかった人間が一人いなくなっただけなので、何の感情もわかない。
「さ、練習始めるぞー」
 部長のかけ声と共に、練習が始まる。
 その日の練習は、あの先輩がいないからか、非常にやりやすいものだった。不満も何もなく進み、いつもよりもずいぶん早く部活が終わる。外を見れば、やはりまだ雨が降っている。
 誰から送られたのかもわからない折りたたみ傘を持ち、三成はふと校内へと入っていく。特に何か目的があったわけではないのだが、足を進めた先には車椅子と、それに乗った大谷がいた。
「大谷」
「……また主か」
 不満気に細められた目を無視して、大谷へと近づく。
「まだ残っていたのか」
「主には関係なかろ」
「共に帰るか?」
「話を聞きやれ」
 いつも大谷の周りにいる女はいない。時間が時間なので、別れて行動しているというよりは、すでに帰ってしまっているのだろうという推測ができる。今、二人がいるのは一階だが、大谷が一人で帰るのは難しいのではないかと思う。
 当然のように手を貸そうとする三成に対し、大谷の言葉は冷たい。
「貴様はいつもそうだ」
「放っておけば良いのよ」
 三成は口を閉ざす。何を言ったところで、大谷に口で勝てるとは思えない。
「……大谷。私も、貴様のことを刑部と、呼んでいいか」
「何?」
 紡がれた名に、大谷は目を見開く。思わず向けた視線の先には、昔から何一つ変わらぬ澄んだ瞳があった。
「私のことは三成と呼べ」
「何を」
「三成、だ。刑部」
 そっと大谷の手に触れた。途端に、幸せそうに目元を緩めた三成に、大谷は小さくため息をもらした。
「まったく。
 主はほんに、しょうのないやや子よな」
 触れられている手とは逆の手を、そっと三成の頬へと寄せる。
「刑部?」
「呼びやるな。触れやるな。思い出しやるな」
 穏やかな笑みが浮かべられる。三成は久々に見たその笑みに、心を軽くする。脳が、それを何故懐かしいと思うのか考えろと告げる前に、視界が真っ暗になった。
「……三成」
 その場に倒れた三成を眺め、小さく名を呼ぶ。同時に小さく咳き込む。
「大谷。何をしている」
「おお、同胞。遅かったな」
 やってきた毛利に、飄々とした笑みを向ける。
 今まで大谷が学校に残っていたのは、生徒会長である毛利を待っていたからだ。
「主を待っていたらな――」
 言葉を終える前に、再び咳き込む。
「……貴様、呪いを使ったか」
「何、平気よ。三成がな、思い出しそうであった故」
「ああ、奴らが必死になっているようだからな」
「まったくもって、面倒なことをしてくれる」
 倒れている三成を見下しながら、毛利は鞄の中から携帯電話を取り出す。慣れた手つきでメールを打ち、送信されたことを確認してから携帯電話をしまう。
「帰るぞ」
「あい。しかし、三成は……」
「手は打った」
「さようか」
 毛利に車椅子を押されつつも、大谷は後ろ髪を引かれるかのように三成の方を何度も見る。
「気になるのか」
「いや……」
「貴様は本当に愚かな男だ」
「そう言うてくれるな」
 二人は静かに立ち去って行く。残されたのは廊下に横たわった三成だけだ。
 しばらく時間が流れたが、三成は目覚める気配もなく、死人のように目蓋を閉じていた。そんな中、駆けてきたのは、部活を終えた家康であった。
「三成!」
「……ん。家、康?」
「大丈夫か?」
「……ああ」
 体を揺すってみると、意外なほど三成はあっさりと目を開けた。ぼんやりした様子ではあるが、外傷はない。
「それより、貴様、何故ここに?」
「メールがきたんだ。たぶん、毛利からだと思う」
 どのようなことをすれば、家康のメールアドレスを知ることができたのだろうかと思うが、怖いので聞かないことにする。
「そうか。
 ……私は、何故ここで横たわっていたのだ」
「え? いや、それは知らないけど……」
「何か、忘れているような気がするのだが」
「よくわからないが、今日は帰ろう。秀吉公達も心配しているだろうし」
「御二方にご心配をかけるわけにはいかない!」
 慌てて立ち上がり、靴を履き替えに走った三成の背中を追いかける。
 途中、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。新着メールの字が表示されている。また毛利からではないかと恐れつつ、受信メールを開く。
 差出人は半兵衛だった。
「ああ、心配させてしまったか」
 三成の帰りが遅いため、心配したのかもしれないと思い、本文を読む。
『吉継君のことだけど。彼、古くからある大谷家の長男みたい。
 生まれつき体中に痣があったり、血筋に褐色の者はいないのに肌が褐色だったり、目が白黒反転していたりして、気味悪がられてたそうだよ。
 旧家だから、世間体をすごく気にしるらしいね。だから、吉継君はいるけどいない存在として扱われていた。今では、家は弟君が継ぐってことに決まって、高校を卒業したら家から追い出されるみたい。
 官兵衛君と一緒にいるのは、彼が大谷家に古くから使えている一族の者だからみたいだね。
 そうそう、毛利君のこともわかったよ。
 彼は大谷家と縁のある毛利家の息子なんだって。その辺りを上手く利用して、吉継君と同じマンションに住んでるってところまではわかったけど、目的とかまではわからなかったよ。
 でも、たぶんボクらの味方ではないだろうね。
 また何かわかったら連絡するよ』
 家康は携帯電話を握り締める。
「何をしている。帰るぞ」
「すまん! 今行く」
 三成の声に、家康も慌てて靴を履き替えに向かう。
 あの嫌われ者は、今生では生まれながらに嫌われ者であったらしい。そのことが酷く辛かった。


 大谷は毛利に車椅子を押され、住んでいるマンションへと帰ってきた。
 彼らの部屋は隣同士だ。すでに黒田が帰宅している時間であることを知っている毛利は、チャイムを押すだけ押して己の家の鍵を開ける。バタバタとした騒がしい音が聞こえてきているので、すぐに黒田が扉を開けるであろうことを察することができる。
「貴様は死にたいのか」
「さてなぁ」
 ぼやけた返事をした大谷に冷たい視線を一度だけ向け、毛利は己の家へと帰る。
「刑部。えらく遅かったじゃないか」
 扉を開けた黒田は、手慣れた手つきで大谷を抱き上げ、室内へと運ぶ。
「今日は第五天がデートでな。雑賀は何やら用事があったようでな」
「なら小生が迎えに行ってやってもよかったんだぞ」
 外用の車椅子をたたみ、玄関の端へ置く。少し無駄ではないかと思えるほど広い玄関なので、車椅子の一つや二つは邪魔にならない。
「いらぬわ。真夜中にレポート、レポートと呻かれる方が迷惑よ」
「仕方ねぇだろ」
 這うようにしてテーブルにまで辿りついた大谷の前に、暖かいお茶を出してやる。窓の外を見ると、綺麗な夕日が沈み始めていた。そろそろ夜がくる。
「お前さん、余計な力を使ってないだろうな?」
「さて、どうであろうなぁ」
 引きつった笑い声が、黒田は嫌いだった。その笑い声の雰囲気から嘘と真を見分けられる己の目がキライだった。
「早死にしたいのか」
 抑えきることができなかった怒気が声色に乗る。
 大谷は少し肩を揺らし、口を閉ざす。
 家に帰ってきたということで、マスクは外され、ニット帽はその辺りに放り投げられている。普段は見ることができない大谷の素顔がそこにはあった。
 すぐに髪が切れてしまうため、バラバラの長さになってしまっている黒髪。褐色の肌には奇怪な痣が浮かび、所々が引きつったようになっている。これが病でないというのだから不思議なものだ。
「我はすぐ死ぬぞ」
 零れるような言葉に、黒田は胸が痛んだ。
 何の因果か、今生では主従関係のような家系に生まれてしまった。互いに前世の記憶があったので、よく傍にいた。だから、大谷が実家でどのような目にあっていたのかも知っている。高校に入学して、黒田の大学費や現在住んでいる広いマンションをタダで貸してくれる代わりにと、厄介者を押し付けられたこともわかっている。
 あと一年と少しで、大谷が何の援助もないただの弱い人間になってしまうことも知っている。
「足は動かぬ。この外見では仕事もそうそうないであろ。
 人は死ぬ。早いか遅いかの違いよ」
 前世で病んだ心は、今生にも持ち越されてしまったらしい。悟りを開いたかのように、不幸も幸福も憎まなくなった大谷はただ一人のためだけに生きている。そいつのために死ねるのならば、見たこともないような笑みを浮かべるだろう。
「小生が――」
 言葉を紡ぐ前、日が沈んだ。世界が暗くなり、夜がくる。
「夜、よな」
 その呟きのすぐ後、大谷が悲鳴を上げた。
 彼らが住んでいる部屋は防音がなされているので、近所迷惑になることはない。故に、大谷は苦痛の分、悲鳴を上げる。
「刑部!」
 己の体を抱きしめている大谷からは、禍々しく黒い触手が溢れだしていた。丁度、四百年前に市が使っていた闇の手によくにたものだ。
 闇の力が具現化したそれは、大谷の意思とは無関係に暴走し、近くにいた黒田の力を奪い取ろうと暴れ出す。
「そういや、今日は第五天がいなかったんだっけか!
 くそ。何でお前さんの近くにはもっと闇属性がいないんだ!」
 叫び声を上げながら、黒田は大谷を哀れに思った。
 彼は幼い頃から不可思議な力を使えた。前世で使っていたものとほとんど同じ力だ。多少呪いという面が強化されたそれに、大谷は素直に喜んでいた。己の身を守るため、憂さを晴らすため、その力を使った。
 黒田はそんな大谷を見ながらも、仕方がないなと小さく笑っているのが常だった。
「暗。我は疲れた」
「そうかい。なら、眠りゃいい」
 体力がない大谷に違和感はなかった。力の欠陥がそれをもたらしているなど、考えもしなかった。
「お前さん、その肌、どうしたんだ?」
「……わからぬ」
 その力に欠陥があると気づいたのは、大谷の肌に異常が現れた頃だった。褐色と痣。生まれつきのそれに加え、引きつったような症状が現れ始めた。
 病院に行っても原因不明。薬を塗っても効果はない。
「わかったぞ。暗。これはな――」
 力を使えば使うほどそれは酷くなった。故に知った。これは、代償なのだ。
 笑ってそんなことを言った大谷の顔を、黒田は今も忘れていない。少し泣きそうなあの顔を忘れることなど、この先一生ないだろう。
 代償に気づいてからは、大谷は力を使うのを止めた。かつてのように動くことも困難になることを望んではいなかった。しかし、彼の体は着実に弱っていた。理由は簡単だ。その頃には、すでに三成への呪いを完了させていたからだ。
 三成の記憶を押し込める呪いは日々大谷から力を奪い、中学を卒業する頃には足の機能を止めていた。
「貴様は相変わらずだな」
 再会した同胞の言葉にも大谷は耳を貸さなかった。他の何を諦めたとしても、この呪いだけは諦めるわけにはいかなかった。毛利が何を思い、当主にもなれぬ己に近づくのかはわからなかったが、煮るなり焼くなり好きにすればいいと大谷は思っていた。
 そうしているうちに、彼の力は暴走を始めた。闇の触手は大谷の命を守るために、周りから体力を奪うようになった。大谷が現在、実家暮らしでない理由がこれだ。端的に言ってしまえば、化け物は家に入れたくなかったのだ。
 大谷を押し付けられた形になってはいるが、黒田は押し付けられたのが己で本当によかったと思っている。
 高校に入学し、市と出会ってからわかったことなのだが、闇を垂れ流している者の近くにいると大谷の力はある程度安定する。同様に、他人の不運の近くにいると、力が安定した。そういった意味では、悲しいことではあるが不運の連続である黒田の傍は大谷の体に適している。
 何より、黒田は体力には自信があるので、多少吸い取られたくらいならば平気だという自負があった。
「あー。それにしても、限度がっ!」
 過去の思い出から現在に帰ってきた黒田は低く呻く。
 市と共にしていた時間が短かったことい加え、さらなる呪いを使った大谷の体は、貪欲に力を求めていた。
 このままだと、明日は動けないか、最悪の場合死ぬのではないかと黒田が危惧し始めたとき、あれほど暴れ狂っていた触手が霧散した。
「……は?」
 今までこのようなことはなかった。
 ある一定の体力を吸い取ったならば、触手は大谷の体の中へと消えていくのがいつもの光景だ。霧散などしたことはなかった。
「ぎょ、刑部……?」
 何かあったのだろうかと、倒れている大谷に触れる。ぞっとするほど冷たい体に、黒田は素早く大谷を抱き上げ、ベッドの中へと放りこむ。ついでに布団をもう一枚かけ、湯たんぽまで入れてやる。
「なあ、お前さん。まさか……」
 震える声で疑問を口にしようとするが、言葉にしてしまえばそれが現実になるような気がしてできなかった。
 死人のように眠っている大谷を見て、黒田は手で己の顔を隠す。きっと酷い顔をしていることだろう。
 ――まさか、他人から力を吸い取ることもできないほど弱ったわけじゃないよな。
 その言葉は黒田の心の内に沈みこむ。