薄く雲が空を覆い、青い空がよく見えない。
 青い空が、輝く太陽が見たいと元親は地面を眺める。
 いつもの登校風景。心は空と同じように曇っている。ちらりと前世からの友人達を視界に映す。
 三成は先日までの体調の悪さはどこかへ消えたのか、凛とした表情をしている。それと対照的に家康と幸村の表情は暗い。おそらく、元親自身も彼らを同じような顔をしているのだろう。いつもと変わらぬ顔をしている佐助は、流石は元忍といったところだろうか。もしくは、始めに言っていたように三成の記憶が戻らないことを願っているのか。
 数日前、学校で倒れていたところを家康に発見された三成は、大谷への関心を失っていた。
 助けることも、声をかけることもしない。
 大谷のことを忘れたわけではないようだが、淡々と手を貸し続けていたことはすっかり忘れていた。原因が大谷にあるであろうことはわかりきっていたが、それがわかっているからといって、どうにかできる問題ではない。どうにかできるのならば、大谷を見つけることができた時点で二人をどうにかしている。
「どうした貴様ら」
「いや、別に……」
 声に気持ちがのしかかり、三成に届くか届かないかのところで地面に落下する。立ち止まり、気落ちしている友人達を見た三成は首を傾げる。いつもならば、うるさいと怒鳴っても口を閉じない面々が下を向いていれば心配、最悪でも気にはなる。
 しかし、彼らとしても大谷と三成の前世の縁がどうのと話す気にはなれない。大谷のことを不自然なくらい気にしていた三成ならば、もしかしたら。と、いうことがありえたが、今の三成に話したとしても微塵も信じることをしないだろう。
「まあ、最近お天道様を見てないから、気が滅入っちゃってるだよ」
 佐助のフォローに、三成は眉を寄せる。
「それは今年に限ったことではないだろ。
 去年も、一昨年も、その前も、この時期はこういった天気だったが、そいつらはヘラヘラしていただろ」
「思春期ってやつだよ」
「何だソレは」
 上手く三成の意識をそらした佐助に感謝しつつ、家康達はため息を一つ零す。
「……やっぱり、大谷の仕業なんだろうな」
 元親の呟きに誰も答えない。沈黙は否定ではなく、肯定を意味していた。
「毛利からメールもきたし、間違いないだろうな」
 家康の口から出た名前に、元親の肩が揺れる。
 前世での因縁がある。恨み辛みもあれば、それとはまた違ったものもあったような気がする。できることならば、今の世では共に歩くことができればいいと願ってさえいる。けれど、元親が毛利と直接対面したのは、大谷を発見したあの日だけだ。
 毛利は生徒会長をしているため、学内で見かけることは多々あるのだが、学年の違いもあり会話をする機会は未だ訪れていない。
「家康さん」
 不意に女の声が聞こえた。
 全員が足を止め、声の主の方へと顔を向ける。
「鶴姫殿?」
 そこにいたのは、セーラー服に身を包んだ鶴姫だった。
 どことなく悲しげな顔は、いつも笑顔の彼女には不似合いなものだ。
「誰だ」
 鶴姫と面識のない三成は訝しげな目を向けるが、幸村が知りあいだ。と、言えばそれ以上口出しをすることはなかった。
「どうしたんだ」
 元親が聞くと、鶴姫は一度視線を三成に向けて、意を決したかのように言葉を紡ぐ。
「大谷さんの未来が真っ暗です。
 もやもやじゃないんです。真っ暗になってしまったんです」
 三成のような人為的に隠された靄ではなく、原因も理由もわからない闇を語る鶴姫の瞳には涙が浮かんでいる。その闇が意味することはわからずとも、それが不吉な何かであることは確信しているのだ。
 彼女の感じる不吉は、確実な未来としてやってくる。家康達は身を固くした。唯一、大谷のことも何もかも忘れている三成だけが、鶴姫の言葉の意味を理解することができず、眉間にしわを寄せるだけだった。
「私、こんなの始めてで……。
 何か間違えてしまったんでしょうか」
「とりあえず落ち着けよ。な?」
 崩れ落ちそうになる鶴姫の肩を元親が抱き寄せる。
 初心な幸村では到底できそうにもない自然な動作に、佐助は密かに感心した。この場にいる誰よりも女の扱いに関しては元親が上をいっている。
 何とも言えない空気になってしまった空間に、静かなバイブの音が響いた。
「す、すまん」
 バイブは家康の携帯電話のものだったらしく、彼は眉を下げて己の携帯電話を取り出した。
 すぐに切れたバイブは着信ではなくメールの受信によるものだったのだろう。折りたたみ式の携帯電話を開き、家康はメールをチェックする。そこの表示されていたのは、念のためにと登録しておいた名前だった。
「……毛利だ」
 重く零されたその言葉に、場が凍る。
「内容は?」
 幸村に促され、家康が文面に目を通す。
「今日の放課後、話があるそうだ」
 行くべきか否か。考える間でもない。
 どこか怯えたような色を浮かべながらも、強い意思を持って周りの面々を見る。
「オレも行くぜ」
 元親は強く言った。元々、毛利としっかり対峙したいと思っていたので、今回のことは丁度いい。家康は元親の言葉を拒むことなく、深く頷く。
 毛利からの誘いは恐ろしさをどこか含んでいる。しかし、現時点で大谷に関する情報を最も持ちえているのは彼しかいないだろう。毛利は間違いなく鍵になる。誰もが頷き、互いの心を確認し合う。
 蚊帳の外となっている三成は、面白くなさそうな顔でそれを見ていた。基本的に、友人達がどこで何をしていようが興味の欠片もないのだが、目の前で繰り広げられているあれこれに置いていかれるのは流石に気分が悪い。
「貴様のアドレスを何故毛利が知っている」
 輪に入るため、というよりは、状況を打破するために、至極当然な疑問を投げた。
 他人を覚えられない三成といえど、全校生徒の前に立つことの多い毛利のことはそれとなく覚えていた。ただし、三成の記憶が正しければ、毛利と家康達には何の接点も無いはずだ。
「えっと……」
 家康が目をそらす。
 普段は人の目をしっかりと見て話す男なだけに、その行為は三成の心を逆撫でする。
「……毛利が何故、ワシのアドレスを知っていたのかはわからない。本当だ」
「放課後会うのか」
「ああ」
「何故だ」
「それは、今は言えない」
 一度も三成と目を合わせない。
 その事実に三成は腹のそこから黒い何かが沸きあがってくるのを感じた。
「――――!」
 衝動に任せ、言葉を叩きつけようと口を開いた。だが、言葉にはならない。三成の感情が言葉になる寸前で霧散してしまったのだ。
「三成?」
 霧散した言葉に、三成自身驚きを隠せなかった。
「……もういい。私は先に行く」
 己の中に生じた違和感を口にすることもできず、三成は学校へ向けて足を進めることにした。
「某もご一緒に」
「オレも行くって」
 鶴姫に手を振りつつ、三成の後を追う。あまりぐずぐずしていると部活に遅刻しかねない時間になっていたので、どのみち鶴姫とは別れを告げなければならない時間だった。
 去って行く五人の背を見つつ、鶴姫はそっと手を組む。祈りを天に捧げるかのようなその光景は、曇天の空の下でも神々しく見えた。
 彼女の神々しさに気がつくはずもない五人は、早足で進んでいく。
「あのな、三成」
「何だ」
 不機嫌そうな声にもめげず、家康は言葉を続けた。
「ワシらは放課後、毛利と会う。でも、お前には来ないで欲しいんだ」
「……わかった」
 間はあったものの、三成は拒否することなく肯定の言葉を紡いだ。
 先ほどの態度からは考えられない言葉に、家康は思わず三成の目を見る。
 穏やかとは言えないが、怒りを孕んだ風には見えない瞳が家康を映している。
「昨夜、半兵衛様が仰っていた」
 今生でも三成にとって絶対的な名前の一つ。
「私は何かが欠けている。貴様らは欠けた何かを取り戻そうとしているのだと」
 家康は息を呑んだ。
 その言葉を聞いたときの三成の反応を想像するのは簡単だ。欠けていると半兵衛に言われ、自分に足りないものが何かしつこく聞いただろう。欠けていると言わせてしまった己を悔いただろう。血の涙を流したとも考えられる。そんな地獄絵図に誰だって立ちあいたくない。
 半兵衛ならば、三成に欠けているものがあると言えばどのような状況になるのかわかっていただろう。それでも、言葉を口にしたのだ。三成の記憶から、前世のものだけでなく現世での大谷との記憶も失われたことに、半兵衛も焦りを覚えたのだろう。
 時間は有限だ。大谷がさらに強い術を三成に使うことを想定していなかったことが、これほどまでに痛手となるとは思っていなかった。
「半兵衛様が、秀吉様が、貴様らを信じろと言うのだ。疑うことなどできるはずがない」
 疑うことを知らぬ瞳が家康を射抜く。
 前世と変わらぬ強さに、思わず足が止まった。
「どうした」
 真っ直ぐな瞳は裏切りを許さなかった。最後に残った友すら許さなかった瞳だ。
「なあ石田」
 声を失った家康に代わり、元親が三成の肩を叩く。
「今さらかもしんねぇけどさ。
 お前はお前の考えで動いていいんだぜ」
「私の意思は、常に御二方にある」
「オレはお前自身の考えを一度だって聞いたことがなかった」
 敵も味方もなく生れ落ちた今生だけではない。戦乱の世であったときも、元親は三成の意思を聞いたことがなかった。いつだって彼の意思は他者に委ねられてきた。秀吉であり、大谷であり、元親と家康だった。
 怨み言を言われても構わないから、かつての時代の三成に尋ねてみたいことがあった。
「お前は、オレを憎んでいたか」
 三成の静かすぎる瞳が元親を映している。
 今の彼にこの問いをしたところで、明確な答えが返ってくるはずがない。
「貴様を憎む理由がどこにある」
「今のお前にはな」
「元親」
 家康に肩を捕まれ、元親はその口を閉ざした。
 よくない雰囲気に家康の心が痛む。元親は焦っているし、三成は不信感を抱いている。何もかもが悪い方向に向かっている。他人のせいにするのはよくないことだと思っているが、これも大谷の呪いなのではないだろうかと思ってしまう自分がいた。
「っと、そろそろ急がないと遅刻するぜ。
 ほら旦那、走って走って」
 場に似合わぬ普段どおりの声を出した佐助は、幸村の手を引いて走りだす。
 少しばかり雰囲気が柔らかくなったことに感謝しつつ、家康達も佐助の後を追う。息を弾ませながら、毛利と対峙したときの対応を思い浮かべる。相手は毛利だ。できるだけ多くのことを想定してかかりたい。
 その結果か、その日の授業で家康は教師からの質問に一度も答えることができなかった。それは元親も同じで、常に暗い顔をして配布されたプリントさえろくに解けていないという有様だった。
 ただし、佐助から言わせてみれば、それは普段どおりの二人と何ら変わらない。幸村も授業中は居眠りにせいを出していたので、彼の証言には信憑性がある。
 今日の授業が全て終了し、教師からの連絡事項を聞けば、放課後が訪れる。
「帰りはできるだけ誰かと帰るように。特に女子」
 それを最後に教師が教室から出て行く。
 家康と元親は勢いよく立ち上がり、三成がそれに続く。
 今朝のことを未だに引きずっている彼らは言葉を交わさない。三成は表情一つ変えず、教室から出て行く。そのまま部室へ向かうのだろう。
 独りぼっちの背中を見送り、家康は拳を固く握り締める。
「家康殿、某達も行きましょう」
「ああ、そうだな」
 幸村に促され、家康は呼び出された場所へと向かう。
 とある扉の前にたどりつき、ノックを一つ。
「入れ」
 相変わらずの冷たさを帯びた声に、扉を開けた。
「我は貴様達と違い忙しい」
「ワシも一応部活があるんだがな」
「知るか」
 ここは生徒会室。生徒会長である毛利の城とも呼ばれる部屋だ。
 少々小さい気もするが、多くの資料があるその部屋にいたのは毛利一人だけだった。
 四人が部屋に入り、扉を閉める。静まり返った部屋の中で、真っ先に口を開いたのは、この城の主だ。
「大谷のことは諦めろ」
 意外性の欠片もない声は、簡潔に用件を切り出した。
「嫌だ」
 対抗するように、家康がきっぱりとした口調で拒否を告げる。
 再び静まり返る室内。毛利の死んだ目がじっと家康を映す。三成のような冷たさとも、市のような飲まれるような闇でもない。毛利だけが持ちえる恐ろしい瞳だ。
「貴様らの意思は、大谷を殺してまで成し遂げたいことなのか」
「どういうことでござるか」
 三成の記憶が戻るくらいならば、大谷は死を選ぶとでも言うのだろうか。ありえないことではないと思えてしまうあたり、大谷の潜在的な行動力が恐ろしい。
「奴の呪いは身を削る。
 石田の記憶を封じるために、また新たな呪いを施したことが奴の身には負担となっている」
 人を呪わば穴二つ。そんな言葉が全員の頭に浮かぶ。
 固まりきった空気をものともせず、毛利は言葉を紡ぎ続ける。
「記憶の封印は常に身を蝕み続けている。
 現状維持を続けたとして、大谷は成人することなく死ぬ」
 淡々と口にした毛利と、顔から感情を消し去っている佐助以外の面々が顔を青くする。
「……嘘だろ?」
 震える唇で元親が尋ねた。
 彼の望む答えを毛利が与えてくれたことなどないと知っていながら。
「嘘ではない」
 成人することすら難しいなど、殆どの人間が物語りの中でしか見ることのない出来事ではないだろうか。戦国乱世を生き抜いた男達も、知らぬうちに死を遠くの存在と思いこんでしまうほどに、この時代の生は長い。
「貴様らが動けば、石田は記憶を取り戻し始める。そして、大谷がまた呪いをかける。
 死が訪れるまでそれを続けるのか? それを成すだけの覚悟があるのか?」
「死んでしまったら意味がない!」
 悲鳴のような声を上げたのは家康だった。
「あの二人に連れ添って欲しいと、そうでなくとも正直な気持ちを打ち明け合って欲しいと。
 ワシはそう願っているんだ!」
「無理であろうな。大谷はそれを望まない」
 家康は圧倒的な不利を感じた。打開する策が全く思いつかない。
「あんたにしては、珍しいじゃねぇか」
 搾り出すような声で、元親は毛利に言う。
「少なくとも、昔のあんたなら、大谷が死のうが生きようかどっちでも良かったんじゃねぇのか?
 わざわざオレ達に忠告してくるってことは、あんただって大谷に少しでも長く生きて欲しいと思ってるんじゃねぇのか。もしそうなら、オレ達と協力してくれたっていいんじゃねぇか」
 ゆっくりと足を進め、毛利へと近づく。
 真正面から向き合い、元親は頭の端で懐かしさを感じた。緊迫した空気は、毛利との別れの日を思い出させる。湧き上がってくる不快感に元親は唇を噛んだ。全てを受け止めると決心したのだから、目をそらすことはできない。
「勘違いするでないわ」
 冷たい声が元親を切り裂こうとする。
「奴の生死などどうでもいい。しかし、長く生きれば、それだけ奴の力が毛利家に有益だというだけの話。
 死ぬのならば死ぬで良い」
「刑部の力?」
「そう。奴の弟を我の傀儡にするためにな」
 無表情のままそう言った毛利に、言葉の意味を家康が問いかけた。
「傀儡……?」
「奴の弟は貴様らにも劣る阿呆だ。奴にそのまま家を継がれると面倒。故に、奴には形だけの主になってもらうことにしたのだ。
 そのためにも、大谷には今しばらく生きてもらったほうが好都合」
 答える毛利は淡々としており、その口から流れ出た言葉がより恐ろしく感じた。
 冷える背筋を感じながら、元親は毛利の胸倉を掴み上げる。冷たい目が近くになるが、怒鳴りつけたかったはずの言葉が口から出ない。何を言っても彼には己の言葉が届かないと、元親は嫌になるほど知っているのだ。
「一つ、朗報をくれてやろう」
 胸倉を掴まれた状態のまま、毛利が口を開いた。
「貴様が我のことを覚えていた。我は大谷との賭けに負けた。その結果、我は大谷の死後、豊臣と手を組む。裏切りはしない」
 毛利は己の胸をそっと指差す。
「ここに奴の呪いが埋め込まれている。貴様が我を覚えていたがために埋め込まれたものだ」
 大谷が死んだ後に発動する呪いは、豊臣を裏切ればあっという間に毛利の命を消し去るのだという。三成に幸せを贈るために、大谷が考えた策なのだろう。そんな遠回りな策を考えるくらいならば、素直に三成の隣を歩めばいいのにと思ってしまうのは間違っているのだろうか。
 胸を貫かれたかのような顔を元親はした。痛む胸を抑えることすらできない。
「――長曾我部よ」
 ほんのわずか、毛利の瞳に色が宿ったような気がした。
「我の死後、何を思った。忘れると大口を叩いたことを撤回するような何かがあったか」
 未だに胸倉を掴んだままの元親の手に、毛利は手を添えた。そして、見た目からは想像もできないような力でそれを引き剥がす。
「哀れんだか? 己の過ちを咎めろと願ったか?」
「オレは――」
「そのどれも、我は望まぬ。
 貴様は勝った。我は負けた。それだけのこと。気に喰わぬことがあるとすれば、貴様が己で言ったことも守れず、我のことを覚えていたことくらいのもの」
 細い指が元親に突きつけられる。
「忌々しい。我にも大谷のような力があれば、貴様の記憶を丸ごと封じてくれるものを」
 眉間によった皺は、毛利の数少ない感情表現だ。
「毛利殿は、それほどまでに忘れて欲しいと望まれるのか」
 静かな湖畔に小石が投げ込まれた。
「某の耳には、口約束を叶えてもらえなかった幼子が駄々をこねているように聞こえまする」
「何?」
 毛利は幸村を見た。
 真っ直ぐな目は、すぐ傍にいる男の目のように純粋だ。
「何故、忘れられることを約束にしてしまわれたのでござるか」
 射抜かれる。
 反射的にそう考えた毛利は、元親を突き飛ばした。
「去れ。我の用件は終えた」
「毛利、あんた――」
「去れ!」
 声を張り上げる。
「元親、とりあえずここは引こう」
 家康に手を引かれ、元親は部屋を出る。その後を追うように幸村が続き、最後に残った佐助は毛利を見る。
 怒りか、焦燥か、顔を歪めている毛利は珍しい。
「愚かなのはあんたと大谷さん、どっちなのかな」
 もしかしたら両方? そんな言葉を残し、佐助も部屋を出た。
 廊下には暗い顔をした三人がいる。
「ワシが頭を下げたら、刑部は呪いを解いてくれると思うか?」
 呟かれた言葉に答えたのは佐助だ。
「無理でしょ。それができるなら、最初からそうしてる」
「……じゃあ」
 諦めるしかないのか。それを口にすることができず、家康はその場に座り込む。
 打開策は見つからない。しかし、諦めることなどできるはずがない。家康は自分の諦めの悪さをよく知っている。一つが諦めきれないがために、友人であった三成を傷つけたことだってあるのだ。
「半兵衛殿にメールを打っておくか」
 できることからコツコツと。
 どこかの標語を胸に、家康は携帯電話を取り出した。ボタンを押す音が静かな廊下に響く。送信ボタンを押し、携帯電話を鞄にしまう。重い空気と、胸にのしかかる何かを取り払うように、家康は息を吐いた。
 幸い、放課後の部活は欠席すると、今朝部長に告げている。今の精神状態では、とてもではないがまともな動きができるとは思えない。
「どうすっかな」
 元親の呟きにも、無言しか返ってこない。
 半兵衛からの返信もそう早くくるはずもなく、四人からしてみれば八方塞がりの状態だ。
 不意に、家康は廊下の窓から下を覗いて見た。下校中の生徒がちらほらと見える。視線を動かし、校門の辺りを見る。
「あ……」
 そこには冴えない男がいた。距離があるため、はっきりとはわからないが、滲み出る不運のオーラが、彼は官兵衛だと告げている。大谷を迎えにきたのだろう。官兵衛は現在、大学生であるという情報が入っている。おそらく、講義が早く終わる日だったのだろう。
 家康は窓から飛び退き、廊下を駆けだした。後ろの方で、三人が驚いた声を上げていたが、返事もしない。廊下を飛び降りるように駆け下り、靴を履き変えることすらせずに校門にまでたどり着く。
「何の用だ」
 息を切らせている家康を目にし、官兵衛は唸るように言った。
 共に暮らしている官兵衛の口から、大谷について聞きたかった。
「……刑部は、し、ぬの……か?」
 思った以上に声が震えていたのは、死を口にするのが恐ろしかったからだ。
「毛利に聞いたのか」
 髪で隠れているはずの瞳が、鈍く光ったように見えた。
 質問の答えを察した家康が唇を噛む。彼の後方には、追いかけてきていた三人の影が見えはじめている。官兵衛はそれを見つめ、彼らが揃ったと同時に口を開く。
「死ぬ」
 文章にもなっていない単語。ただの単語が鉄のように冷たく、重い。
「お前さんらのせいとは言わんさ。誰もな」
 いっそのこと責めたててくれと思うほど、官兵衛の声は感情がなかった。
「決めたのは全部、刑部自身だ。小生はそれを止められんかった。誰も、奴を止めることなんてできないのさ」
 唯一、それができた人物の記憶を、大谷は封じてしまったのだ。ある意味では、秀吉を失った三成よりも頑固で、性質が悪い。
 家康は胸を詰まらせながら、どこかで鶴姫にこのことを告げたら泣くのだろうな。と、考えていた。
「わかってるだろ?
 努力や根性だけじゃ、どうにもできんことがこの世には山のようにあるんだよ」
 諦められない色を目に宿している面々に、官兵衛は告げる。
 土下座をしても、命を差し出したとしても、大谷は呪いを解くことはない。それが己の命を削ると知って、笑う男だ。家康はそのことを知っている。四人の中で、彼は最も大谷と共に過ごした時間が長い。
 膝をつきそうになるのを、どうにかとどめる。
「諦めてくれんかね」
 官兵衛は曇った空を見上げる。
「毎日毎日、弱っていく刑部を見てるだけってのも、中々辛いもんがあるんでね」
 思い浮かべるのは、官兵衛の体力を奪うことすらできなくなった大谷の姿だ。日中、できるだけ市と共に過ごし、一分一秒だけでも命を永らえようとしている。それはまるで、豊臣が崩壊した後の大谷の姿そのものだ。
 四百年前に置いてくるはずだった切ない感情を、大谷も官兵衛も背負ったまま、今の時代にきてしまった。幸せそうな人を見るたびに、官兵衛は人は平等じゃないと口を尖らせてきていた。
「頼む」
 生ぬるい風が吹く。
 風は官兵衛の前髪を揺らし、切なげに細められた目を四人に見せつける。
「…………」
 だが、誰も答えを出すことはできなかった。
 首を縦に振ることも、横に振ることも、どちらを選択するとしても、それはとてつもなく重いものだった。
「主ら、何をしていやる」
 枯れた声に振り向くと、市に車椅子を押された大谷がいた。
 不機嫌そうに細められた目は、少し前と比べると明らかに弱っている。目の当たりにした現実に、家康は己の無力さを知る。
 彼らは死に近い人間の姿を知っていた。
「大谷殿」
 幸村がそっと大谷の手を取る。細い手だ。命が宿っているのか危うい手だ。
「石田殿のためにも、生きてはもらえぬのですか」
「……暗に何を言われたかは知らぬ。だが、我は三成と生きる気はない」
 暖かな手を振り払い、大谷は官兵衛の横にまで移動する。
「何をしようと無駄よ。我が死ぬか、主らが諦めるか。どちらかよ」
 白黒反転した目が、どろりと四人を映した。