すべてに決着がついた。日ノ本を二つに分けていた二人も、西海の鬼である長曾我部の手によってどうにか和解を成した。西軍の総大将である三成は、当初こそ家康を許すくらいならば死を選ぼうとしていたが、長曾我部の生きて和解してほしいという言葉に頷いたのだ。裏切りに手を染めてしまったのだから、この苦しみも罰の一つなのだと自分に言い聞かせていた。
 未だに顔を合わせれば一触触発の空気が流れるが、長曾我部の元で執務をこなしている間は三成も落ち着いている。戦場での苛烈さをよく知っている長曾我部は、今自分のもとに下っている人物と、西軍の総大将であった人物が同一とはとても思えなかった。
 ただ一つ、不満があるとすれば、三成が寝食をおろそかにすることだ。始めは死にたいのかと思っていたが、昔から豊臣に仕えているという武士達は口を揃えて、あれは昔からだと言った。秀吉を喪してからは悪化し、倒れるまで二つをとらないことも少なくなかったらしい。それに比べれば、今は四日に一度はそれらをとるのだからマシだと言う。
 長曾我部は呆れてため息もでなかった。細い体だとは思っていたが、まさか飯を食べていなかったとは思いもしなかった。
「お前、よくそれで戦場に出れてたな」
 冗談交じりにそんなことを言ってみたこともあった。この言葉に、三成は一瞬眉をひそめ、視線をそらす。いつも三成は目をそらさない。見られている方が心の内を隠そうとして、目をそらしてしまうほど真っ直ぐな瞳を向けているのだ。なのに、その時だけ三成は長曾我部の目を見なかった。
 その理由を長曾我部はすぐに知ることになる。三成がゆっくりと口を開いた。
「……刑部が、私に小言を言っていた」
「大谷が?」
「そうだ」
 会話はそれで終わる。大谷は長曾我部を騙し、三成を裏切っていた。言いにくそうにしていたのはその辺りのことが原因なのだろう。忘れようとしているのだろうけれど、簡単に忘却してしまえるような存在ではない。
 長曾我部はそれでもいいと思っていた。彼にとってはただの仇であったが、三成にとってはそうでなかったはずだ。でなければ、隣に置くこともしなかっただろう。三成とはそういう男だ。
 毎日はそんな風に過ぎていく。不摂生だった三成も徐々にその生活を改善させていき、かつての家臣達を安心させる。穏やかで、幸福とも言えた。
 そんな何気ない日々の夜、長曾我部は酒を片手に三成の部屋を訪れようとしていた。
 美しい満月に、静かな風、聞こえてくる波の音に耳を傾けてみるのも一興だと思った。ずいぶんと遅い刻限ではあったが、三成ならば起きているだろうと身勝手なあたりをつけての行動だった。
 廊下を歩いていると、三成の部屋にはまだ明かりが灯っているのが見えた。つい二日前に睡眠を取ったところなので、まだ仕事をしているのかもしれない。起きているだろうと思っての行動だったとはいえ、長曾我部は未だに起きている三成に不安を感じた。昔よりはマシだと周りは言うが、長曾我部からしてみれば酷い生活をしている。
「酒のついでに説教でもしてやるか」
 自分には似合わないことだろうかと、口角をわずかに上げる。
「三成、眠りやれ。眠りやれ。誰も主を侵しはせぬ」
 明かりの灯った部屋から声が聞こえた。その声に長曾我部は背筋が凍る。
 低く、しわがれたような、虫唾が走るようなその声を知っているのだ。
「お、大谷……?」
 そんなはずはないと思いながらも、早足になる。
 大谷は長曾我部が殺した。その後、彼の遺体がどうなったのかまでは知らないが、息の根を止めたのは確かだ。仮に生きていたとして、ここにいるというのはどういうことなのだ。三成が裏切っていたとでも言うのだろうか。
 全てに否定をつけ、長曾我部は部屋の前に立つ。軋むほど鳴り響く心臓を抑えつけ、障子を開ける。
「何で、あんたが」
「おや。主は我が見えるのか」
 震える声に大谷が反応する。そう、部屋の中には確かに大谷がいた。ただし、その体は透けている。
 部屋の主であるはずの三成は静かに寝息を立てて眠っていた。布団で寝なければ疲れはとれないだろうと、長曾我部はどこか間の抜けたことを考える。
「安心せよ。我は確かに死んだ。ほれ、肉体がなかろ?」
 大谷は手を振り、己が透けていることを示す。長曾我部は小さく頷く。今の大谷は所謂、幽霊というやつなのだろう。恨み辛みか、未練か。どちらにしても見たいものではない。自分が殺した男ならば、思い当たる節はいくつでもある。
 恐怖を感じないと言ったら嘘になるだろう。得体の知れぬものに人は恐怖を覚えるようにできている。さらに、大谷という男は人を呪うことに長けていたと聞く。幽霊と呪いなど、相性が合いすぎなのではないか。
「まちと待て」
 何を言うべきか迷っている長曾我部に大谷は言葉を投げ、手を動かす。それは戦場で数珠を操っていたときの仕草とよく似ていた。とっさに腕を前に構えるが、何の衝撃も長曾我部を襲わない。
 おかしい、と思い腕を下げる。
「ヒヒ。何を怯えていやる」
 大谷は笑いながら、あの不思議な術で布団を敷いていた。長曾我部は三成がふわりと浮かび、布団の中へ押し込められていく様子を呆然と見守る。
 三成は熟睡しているのか、起きる気配もない。何かの術にでもかかっているのではないかと長曾我部は疑いの眼差しを大谷に向ける。
「さて、長曾我部。いや、長曾我部殿。まずは一つ礼を申し上げる」
 大谷は座りなおし、長曾我部に向かって深々と頭を下げた。その行為に驚いたのは長曾我部本人だ。大谷はそのようなことをする人間に見えない。第一、己を殺した人物へ向かって礼を述べるというのはどういうことなのだろう。
 長曾我部の戸惑いを感じとったのか、大谷が垂れていた頭を上げる。長曾我部を見るその目に皮肉や侮蔑といった感情はこめられていない。穏やかな色だけがそこには込められていた。顔を上げた大谷は口を開く。ただ、生前と変わらず包帯にその身を包んでいるため、長曾我部には口が開いたのかどうかはわからない。
「三成のことよ。あれを生かしてくれたことに感謝しておる。毛利から聞いていた通りの御仁よな」
 目を細めて笑う。以前のような不快感を覚えなかったのはそこに穏やかなものを見たからだろう。
「礼なんざ……いらねぇよ」
 三成を生かしたのは長曾我部の意思だ。誰かに礼を言われるようなことではない。
「なあ、あんたはずっとそうしてたのか」
 一つの疑問を口にする。眠っている三成を起こさぬように、極力小さな声を心がけて。
 あえて明確な行動を口にはしなかったが、聡い大谷はその言葉の意味を間違うことなく受け取る。
「あい。そうよ。これの生が我の未練。三成に我は見えておらぬが、夜の間ずっと声をかけてやれば暗示にかかったかのように飯を喰い、眠りやる」
「夜だけか?」
「日の光は我にとって毒よ」
 忘れようと誓った男のことを思い出した。あの男が子の言葉を聞いていたならば、日輪を忌むのかと激怒しただろう。いや、大谷と同じように死した男も今頃は、日の光を忌む体になっているのかもしれない。
 黙っている長曾我部に大谷が声をかけた。死して体を失ったはずなのに、彼の声は確かに空気を振るわせて長曾我部へと届く。
「長曾我部殿。主の優しさに、今一度縋らせてもらってもよいだろうか」
 立っている長曾我部を見上げ、言葉の通り縋るような目をしている。お人好しと称される長曾我部がそれを放っておくことができるわけもない。とりあえず話を聞いてみてみようと、腰を降ろす。
 一先ず話を聞いてくれるのだと判断した大谷は目を合わせ、言葉を続けた。
「三成が健常な生活を習慣づけるまで、我を祓わんで欲しいのよ」
 あと一月もかからぬうちにそれを成してみせると言う。長曾我部はその言葉に、純粋な驚きを感じた。そもそも、彼は祓うなどという選択肢は頭の中に存在していなかった。仇として憎んではいたが、敵討ちはすでに終わっている。これ以上の憎しみを抱くのは本意ではない。
 言葉を続けない長曾我部に不安を覚えたのか、大谷は再び頭を下げる。おそらく、蹴られようとも踏みつけられようとも、彼はこの体勢を崩すことはないだろう。幽霊に物理的な攻撃が効くのかはまた別として。
「頭、上げろよ。オレは別にあんたを祓う気なんてねぇよ。オレの部下や石田に害をなさねぇってんなら好きにすりゃいい」
「ありがたきお言葉、感謝いたす」
 生前の大谷からは想像もつかぬ言葉と態度に長曾我部は驚き通しだ。これが本来の姿なのだと言われれば、疑いを持つ。だが、今の姿を見てこの言葉は嘘だと言われてもオレは信じると彼ならば言うだろう。
 それほど大谷の目は真っ直ぐで、言葉に濁りはなかった。
 ふと、一つの疑問が頭を過ぎる。
「オレも一つ聞いていいか」
「あい。何なりと」
「その……あんたの遺体って、どうなったんだ」
 非常に聞きにくいことではあったが、幽霊として存在している大谷を見ていると気になってしまった。毛利のもとへ、と急くあまり放置してきたあの遺体はどこに埋葬されたのだろうか。いや、彼の悪評を聞く限り、埋葬されたのかどうかも微妙なところだ。
「我の墓を暴きやるか? まあ、今さら体などどうなってもよいがな」
 自虐的に笑うので、それは違うと否定の言葉を入れる。大谷も長曾我部の性格を知らないわけではないので、冗談だと再び笑う。
「そうよな。大坂近くの山よ。暗が埋めやった」
「……そうか」
 一安心だと息をつく。目の前に現れるまでは気にもならなかったというのに、この差はどこから出てくるのかは長曾我部自身にもわからない。だが、死者を冒涜するようなことがなされていなかったというのは喜ばしいことだ。
「んじゃ。オレは行くわ。今日は酒飲める状態じゃないみたいだしな」
「それでは先の件、よしなに」
 長曾我部の背から大谷の言葉が聞こえ、部屋に灯っていた明かりが消えた。
 何とも過保護な幽霊だと長曾我部は笑う。
「――――、終焉よ」
 立ち去る直前、何かが聞こえたような気がした。だが、耳を澄ましてみたところで、聞こえるのは風と波の音くらいのもの。結局、気のせいだったのだろうと思うことにした。



 幽霊となった大谷と出会ったところで、長曾我部の生活が変わることはない。三成が眠り、食事をしている姿を見ると、また大谷が世話を焼いたのかと思う程度のものだ。
 そんな風に何日も過ごした。三成に大谷のことを言おうとしたこともあったが、どうせ目に見えぬのならば、知らぬままの方が幸せだろうと思い、口を閉ざしている。あの夜以来、大谷とは会っていない。避けているわけではないが、彼と会うためには夜に三成の部屋を訪れなければならない。眠っているかもしれぬ人間のもとへ行く気にはなれなかった。
 一ヶ月が経とうとするころ、長曾我部は大谷の言葉を忘れ始めていた。
「ああ、嬉や嬉や」
 聞こえてきた声に、耳を傾ける。その声に聞き覚えはない。おそらくは豊臣の家臣であった人間だろう。嬉しそうな声に、何がったのだろうかと足を向ける。
「何があったんだ?」
「ああ、長曾我部様。いえ、三成様が寝食をしっかり取ってくださっていることが嬉しくて」
 嬉しそうに笑う姿を見ていること、こちらまで嬉しくなる。長曾我部は男につられて口角を上げる。この調子ならば、あの不健全そのものの体も、少しは健全なものになるだろうと男に言葉を投げる。男もその意見に賛同し、何度も頷いた。
「それもこれも、長曾我部様のおかげです」
「よせよ。オレは何もしちゃいねぇぜ」
「いいえ、三成様を生かしてくださったのも、この土地へ連れてきてくださったのも」
 続けられた言葉はあまりにも悲しい言葉だった。
「刑部様から三成様を引き離してくださったのも、長曾我部様の力あってこそです」
「え?」
「三成様の不摂生は刑部様の呪いではないかと、我らの間では噂になっていたのです。
 こうして、あのお方が亡くなってからの様子を見ると、やはりそうであったのだと」
 長曾我部は血の気が引く。悪い噂しか聞いていなかったが、身内にもこのような言い方をされていたのかと。そして、それ以上に今の三成があるのは全て大谷の手によるものだというのに、彼が呪いと呼ばれていることが信じられなかった。
 大谷が幽霊となっていることを知っているのは、長曾我部だけなのだから、三成を構築するものに大谷が含まれていると知らずに言葉を紡ぐのは何もおかしくはない。だが、呪いというのはあまりにも酷いのではないだろうか。
 言葉を失った長曾我部に構わず、男は大谷の悪評を語った。同時に、三成に彼は不要だったのだと言われる。
「不要……」
 そんなはずがないと、長曾我部は呟いた。
 三成のために頭を下げることができる男だ。寝食をまともにとらせることのできる男だ。不要なわけがない。
「長曾我部様?」
 不思議そうな顔をする男に、お前はあいつの何を知っているのだと言いたくなる。そして気づいた。長曾我部自身、大谷のことなど何一つ知らないのだ。知っているのは仇としての大谷と、三成の世話を焼く大谷だけだ。
 三成は彼について何も語らない。豊臣の兵達は彼のことを忌む。
「悪ぃ、ちょっと用事を思いだした」
 そう言ってその場を去る。目指す先は三成がいるはずの執務室だ。
 今まで大谷について知りたいなど思わなかった。知る必要もなかったからだ。けれど、ああした悪評を聞き、彼自身の穏やかな目を見た今は、知りたいと思った。本来の大谷吉継とはどのような人物だったのか。
 考えてみれば、大谷が四国襲撃を企てたということは知っていても、何故それを成したのかは知らぬままだった。
「三成」
「なんだ。騒がしいぞ」
 一ヶ月前と比べると、ずいぶんと血色がよくなった顔が上げられる。それもこれも大谷の世話が結果として現れたからにすぎない。
「そのな、大谷について聞いてみてぇと思ったんだ」
「大谷?」
 三成が未だに大谷を許しきれてないのであれば、この言葉は地雷だろうと思う。それでも尋ねずにはいられなかった。夜では大谷が隣にいる可能性があるので、日が出ている間でなくてはないらない。
 しばしの沈黙を長曾我部は固唾を呑んで耐えた。
「私が知るわけないだろう」
 その結果、返ってきた答えがこれだ。
 長曾我部は目を丸くする。三成はくだらないと、仕事に目を向けなおす。
「おいおい。待てよ。大谷はお前のダチじゃねぇのかよ」
 彼らがどの程度仲が良かったのかまではわからないが、常に傍にいたことや世話を焼く姿を見ていれば、友人。もしくはそれ以上の存在であることは間違いないと思っていた。だというのに、三成の答えは否定の言葉だった。
「同じ軍に所属し、位が似通っていた。その程度だ。私が西軍の総大将としていたときは参謀めいたことをしていたが……。奴のことなど興味もない」
 そんなはずはない。二人のことを何も知らぬ長曾我部でも断言できた。三成が大谷に興味も何もないなど、あるはずがない。驚愕の表情を浮かべる長曾我部を横目に、三成は再び知らぬものは知らぬと告げた。
 思わず三成の肩を掴む。無意識でのことだったため、力の加減が上手くできず、三成は顔を歪めた。
「貴様、疲れているのか? おかしいぞ。
 第一、大谷などという裏切り者のことを聞いてどうする」
 何故だと叫ぶ寸前、あの夜のことを思い出した。長曾我部が部屋から去るとき、聞こえてきた声が今になってはっきりとした音を持つ。じわりと脳髄に染み渡る声に、長曾我部は全身の力が抜ける。
「マジかよ……」
「ふむ。貴様、少し休みを取れ。海に出てもいいが、あまり長くなるなよ」
 普段ならば飛び上がるほど嬉しいことばも、耳を素通りしていく。緩慢に頷き、三成の部屋を出るのがやっとだった。
 ふらふらと廊下を歩きながら、大谷の言葉を何度も反芻する。
『最後に我との記憶を消して、終焉よ』
 孤独は死んでも続くと言ったのは誰だったか。
 大谷はその孤独を自ら選んだのだ。誰も大谷の死を悲しまない。悪意に塗れた大谷はいずれ人々の記憶から消えていく。それは何よりも恐ろしい罰だと長曾我部は知っていた。だからこそ、因縁のあった男にその罰を与えると口にしたのだ。結局のところ、それは未だに達成できていない。
 三成が大谷との関わりを失った今、大谷を知っている者などいるのだろうか。知ろうとした矢先のことだったためか、長曾我部は深い闇に心が覆われたような気持ちになった。この感情に名をつけるのならば、哀れというものが相応しいのかもしれない。
「大谷、吉継」
 中身を伴わぬ名を口にする。虚無でしかないそれはすぐに霧散して消えた。
 忘れ去られる恐ろしさを長曾我部は目の当たりにした。その恐怖は背筋を這い上がる。誰かいないのかと、ろくに動かぬ頭で必死に考えた。
「……黒田官兵衛」
 忌まれていた大谷を埋葬したという男だ。彼ならば大谷について何か知っているかもしれない。長曾我部はさっそく黒田が身を寄せる北条へと向かうことにした。三成が忘れてしまった分、とまではいかないかもしれないが、自分が大谷のことを覚えてやろうと思った。


熊と蝶の話