北条家に身を寄せる官兵衛の手には、もう枷は付けられていなかった。身軽になった体で長曾我部を出迎える。
「で、小生に聞きたいことって何だ?」
「大谷について聞きてぇんだ」
 その名を出すと、前髪の向こう側で目が丸くなっているだろうことがわかった。知性派と言うわりに、官兵衛は考えていることが表情にすぐ出る男だった。
「……刑部、ねぇ。あんたにとっちゃ憎い仇の名だろ?
 あんな奴のこと知ってどうしようってんだ」
 官兵衛は手首をさすりながらそう尋ねた。以前はそこに枷がはめられていた。そのためか、手首の部分だけが他の部分と色が違っている。
「信じてくれるかはわからねぇけどよ……」
 長曾我部は大谷の幽霊と言葉を交わしたことを正直に話した。隠す類の話ではなかったし、本当のことを告げたほうが楽に話が進むと考えたのだ。その考えは間違ってはいなかった。
「なるほどね」
「信じてくれるのか?」
「刑部なら言いそうだし、やりそうなことだ。
 しかも、小生が刑部の死体を埋めてやったことを知ってるなんて、信じるしかあるまいよ」
 大谷は様々な人間から恨みを買っていた。そのため、官兵衛は誰にも知られぬようにこっそりと大谷を埋葬した。あのような人間でも、墓を荒らされては可哀想だとその場所を誰かに告げたこともない。
「なあ、あんたは昔豊臣にいたんだろ。あんたから見た大谷を教えちゃくれねぇか」
「小生から見た刑部、ねぇ……。あんたも知ってるだろ? あいつが小生に何をしていたか。お優しい大谷吉継の話なんざ、できねぇぞ」
「それでもいい。オレは噂でも見かけだけでもなく、大谷を大谷として見ていた人間の話が聞きたい」
 ならいいと言い、官兵衛は顎を触る。改めて聞かれると何と言っていいのかわからないといった風だ。急かすこともないだろうと、長曾我部はじっと官兵衛が口を開くのを待った。

熊と蝶の話

 そうだなぁ。まあ刑部は嫌な奴だよ。小生に枷をつけたのも、その鍵を餌に小生を縛っていたのも全部あいつだ。三成? 三成は小生の野望をチクっただけだよ。ムカツクけど、刑部ほど嫌な奴じゃない。
 しかもだぞ、あの鍵は偽物だったんだ。何せ、刑部が死んだ途端、枷がはずれたんだ。今まで何をしても壊れなかったのにだ。こう……ポロっとな。外れた枷を見て、小生はああ、刑部が死んだのかって思ったよ。
 その点に関しては、お前さんに感謝している。
 うーん。改めて考えてみると、何を話したらいいかわからんな。まあ、刑部は小生や半兵衛に告ぐ悟性を持っていたからな。そこにあのよく回る口と意地の悪さだ。よく他の者にやっかまれていたよ。しかも、病持ちともなれば、無駄に矜持の高い連中は許せなかっただろうな。刑部が存在していること自体が、だよ。
 病という枷を持った者に負けるなんざ、良い気分じゃないだろうね。小生にはわからんが。
 三成は刑部がやっかまれているってのが気に食わないらしくてな、よく刑部の陰口を聞いては怒声を上げてたな……。
 そうだ。一つ面白くない話をしてやるよ。刑部の矜持の高さと嫌味ったらしさと、周りの醜さがよくわかる嫌な話さ。この話はお前さんにするのが始めてだ。なに、小生も誰かに話したかったのさ。この胸糞悪さを解消するためにもな。
 まだ秀吉も半兵衛も生きていた時代だ。刑部が病を諦めた時期でもある。始めの頃はあいつも病と戦おうって意思があったんだ。でもな、ずっとそれが続いて飽きたんだろうな。刑部は己の病を見て逃げる人間を見て楽しむようになった。小生も酷い扱いを受けたもんだ。
「秀吉様も半兵衛様も何を考えているのやら」
「あのような業の者を置いておくなど」
「見たか。あの爛れた姿。おぞましい。前世で何をしたのやら」
 なんだ。変な顔して。これは刑部が言われていた言葉のほんの一部さ。お前さんだって似たような言葉を聞いたことあるだろ?
 こんな言葉を吐いているとな、決まって三成が現れるんだ。
「貴様ら……刑部の半分も功績を残せないで何を言う!」
 まさに修羅ってやつさ。触らぬ神になんとやら、と思って小生がこそっと見てみぬふりをするとな、気配に敏感な三成は必ず気づくんだ。そして、お決まりの台詞をぶつけてくる。
「官兵衛! 貴様もこのような愚図を放置しておくな! 秀吉様の兵が穢れる!」
 刑部の陰口はこうして駆逐されたんだ。表面上はな。当たり前だろ? 人の心はそう簡単には変わらない。もし、本当に陰口が消えうせたならお前さんのところにまであいつの病は知れ渡らないだろうさ。
 表面化しないだけで、刑部への風当たりはますます強さを増した。陰口で発散できないぶん、陰湿で嫌なものになっていたとも言えるな。
 三成? あいつがそんなことに気づくはずないだろ。人の心を読むことができないあいつは、表面上が穏やかになっただけで満足してたさ。刑部がそう思いこませていたってのもあるだろうがな。刑部は矜持が高いからな。守られたくなかったんだろうよ。
 だから三成がいる間は平和だった。とはいえ、四六時中三成がついてるわけにもいかないだろ。病で戦場に出られない――。ああ、当時はまだあの術も上手く使えてなくてな、もっぱら策を練るだけだったんだよ。
おお、察しがいいな。そう。その時を狙って刑部は虐められたんだ。小生がそのことを知ったのも、ずいぶんと時間が経ってからだっった。刑部は絶対に言わないし、奴らも頭を使っていてな、見ただけじゃわからんところにしか傷をつくらないんじゃ。まあ、刑部の奴は包帯を巻いてるから、大抵の場所は傷を負っても気づかんがな。
 体力のない刑部はよく臥せっていたが、考えてみれば三成がいない間に臥せることが多かったように思う。たぶん、傷を負って体力が無くなったために、ただでさえ悪い体調を悪化させていたんだろうな。
 そう、それほど酷いもんだった。
 小生が始めてそれを知った時、当然三成は城内にいなかった。秀吉について、遠征に行っていた。本当は小生も行くつもりだったんだが、半兵衛に言われて大坂に残っとたんだ。
 仕事で廊下を歩いていたらな、声が聞こえてきたんだ。
「ほら、歩いてみろ」
「その足は何のためについている」
 何だと思って物陰から覗いてみたらな、杖を奪われた刑部がいた。さっきも言ったが、当時の刑部は杖がなけりゃどうにもならんかった。動けぬ刑部に周りの奴らは歩けと囃したてとった。
 そん時の刑部? じっと座っとったよ。騒ぐこともせず、怒りもせず。ただじっと座って男達を見とった。それが気に喰わなかったんだろうな。一人が刑部に石を投げたんだ。殴らなかったのは触れるのが怖かったんだろうな。
 一人がそんなことをすりゃ、次々に続くのが人間ってもんさ。刑部の周りに石が散らばって、土が見えなくなっても刑部はじっとしとった。包帯が赤く滲んどったのが小生のいた場所からでも見えた。
 何故助けなかった? 触らぬ神になんとやら、さ。
 ……動けなかった、ってのもある。陰口くらいならば小生だって聞いたことはあった。だがな、石を投げられ唾を吐きかけられてるなんて、誰が想像するんだ。普段はヘラヘラご機嫌とりに精を出しているような連中がだぞ。
「そのように薄汚れてしまって……。清めてしんぜよう」
 一人がそう言って、その場を去った。その後、どうなったと思う?
 そいつはな、井戸から水を汲んできて刑部にかけたのさ。流石の刑部もそれは始めてだったようで、驚きながらも顔の包帯を緩めとったよ。包帯が張りついて息ができなかったんだろうな。
 そうだな。半分死んでるような病人になんてことしやがるって、心優しいあんたなら思うんだろうな。小生は思わなかったよ。早く終われと願っとったね。小生が行きたい場所に行くには、そこを通らにゃならんかったんでね。
「本当に気味が悪い。悲鳴の一つもあげん」
「人ではないものに、そんなものを期待してどうする」
 その時の笑い声は小生から見ても醜かったね。刑部の素顔の方が数百倍はマシだろうさ。
 男達は笑いながら次に砂をかけた。濡れた刑部に砂がつき、先ほどよりもずっと薄汚れていった。刑部が口を開いたのはそんなときだ。口を覆う包帯がなくなっちまったために、砂が入ったみたいだったが、それでも刑部は言葉を紡いだ。
「嫌と逃げ惑えば、主らの気が済むのか?」
 目を細めた笑いは、薄ら寒いものがあったね。
 砂を投げつけていた奴らも、一様に動きを止めて後ずさっとった。だがな、また余計なことを言った奴がいたんだよ。
「――そうだな。そうだ。蛆のように這いずりまわり、泣き叫び、許しを乞うなら、我らの気も安らかになるな」
「おお。そうだそうだ」
「それは名案」
 わきたつ声に、刑部も小生も首を傾げた。
 その間に、一人がいそいそと何処かへ出かけてな。帰ってきたときには手に布と縄を持っとった。縄を持っとるんだから、することなんて一つだろうに、その時の小生や刑部は奴らが何をするのか見当もつかんかった。
 呆然としてる間に、刑部の腕を布越しに掴まれてな、そのまま片手を縄で縛られた。刑部もそこでようやく何が起こっているのか理解したらしくてな。慌てて抵抗しとったが、もう遅かった。男達は刑部を引きずるようにして歩きだした。
「何をしやる! 早々に縄から手を離しやれ!」
 珍しく焦ったような声だったよ。地面に手をついても、力を入れても刑部が健常な男に勝てるわけがなくてな。包帯越しとはいえ、弱った肌には痛かっただろうな。足掻く刑部を男達はニタニタと笑って見下ろしとったよ。
「もっと必死に命乞いしてみてはいかがですか?」
「我らの溜飲も下がることでしょう」
 男達の向かってる先は階段だったよ。つき落としでもする気だったんだろうな。
 どうなったかって? 刑部はあんたが殺すまで生きていた。それが答えだろ。そうだなぁ。小生はな、すごく腹が立った。いつも飄々としてる刑部があんな奴らにいいようにされてるなんて、いつも虐められている小生は何なんだってな。
 全てが終わった後、刑部は言ったよ。
「三成には言いやるな」
 また三成が騒ぎを起こせば、あいつの立場が悪くなる。刑部はそのことをよーく知っとったよ。
 それだけの話さ。
 知ってるか? あいつが小生に枷をつけたときの笑みを。
 ひどく嬉しそうな顔だったよ。人を引き止める術なんて知らないって顔してな。
 小生の話はこのくらいさ。何? まだ足りない?
 なら徳川のところにでも行けばいいだろ。お前さん達はナカヨシコヨシなんだろ? 徳川は昔豊臣にいたわけだし、刑部との接点もあったからな。と、いうか。小生と徳川くらいしかあいつについて話す奴なんていないだろ。
 ……最後に一つ、言っておいてやるよ。お前さん、刑部に同情しただろ? だけどな、あいつがどんな悲惨な過去を持ってたところで、傷を得ていたところで、やったことに変わりはないぞ。奴は四国を滅ぼした。惨たらしく、悪鬼の如く所業を成した。
 お前さんはそれを忘れるなよ。お前さんの部下達のためにも。


 狸と蝶の話