徳川家康率いる東軍と戦うため、西軍も力を整えていた。安芸の毛利と共に、西海の鬼を絡めとったのも、その一つだ。大谷にとって予想外だったのは、鬼島津が西軍に下ったことだ。九州の者達を制圧する気ではいたが、まさか自らやってくるとは思いもしていなかった。
 思わぬ事態ではあったが、それは歓迎すべきものだった。他人を評価することの少ない三成ではあるが、以前から島津のことは勇者として認めていた。西軍にやってきたことを疑問に思いつつも、三成は彼を受け入れたのだった。
 島津や長曾我部は大坂に滞在している。いつでも出陣できるように、というのが表向きの理由だ。本当の理由は、彼らがおせっかいだからだろう。
「三成……。主はまた幾日飯を喰うとらんのだ」
 呆れたような声が三成に向けられるのは日常であった。けれど、西軍に下ったばかりの二人の鬼にとっては衝撃的な言葉だったのだ。
「……三日、だ」
「三日って……おいおい倒れちまうぞ?」
「たんと喰いんしゃい。力が出なかとよ」
 二人が三成を挟みこみ、しきりに飯を食えと告げる。大谷も毎日のように告げてはいるのだが、彼は三成に無理矢理なにかをさせるということがなかった。宥め、上手くことを運び、説得する。そうしてようやく三成の口に米が入る。
 だが、鬼達は違っていた。いらぬと三成が口にすれば、何故だ、ダメだと言葉を重ねる。苛立ちに目を吊り上げ、悪鬼のごとく怒鳴りつけても、彼らは己の意思を曲げようとはしなかった。
 その様子を呆然と見ていた大谷は、口角を上げた。とはいえ、彼の口元は布で覆われているため、誰一人その笑みを見ることは叶わなかった。
「長曾我部、島津、主ら朝餉は喰ろうたか?」
「あ? いや、今からだ」
「ほう、それは良い」
 白黒が反転した目が細められる。彼がどのような人物であるかは、四国や南にも届いていた。碌なことを考えていないのだろうと、長曾我部は身構える。何せ、彼の知っている策士は、それはそれは恐ろしいことを平然とやってのけるのだ。二人を重ねることは容易であった。
「三成よ、その者達と朝餉を喰うがよかろ」
「何を言っている。私にそんな暇などありはしない」
 いつもの言葉が返ってくるが、今回はそれに対する返しが大谷は思いついていた。
「なれば、そこの二人から話を聞くついでに飯を食えばよかろ」
 どういうことだと三成は問いかける。
「島津の力は主も知っておろう。長曾我部の水軍は豊臣にはなかったもの……。
 ここいらで、他の軍のことを知っておくのも良かろう」
 この言葉に乗ったのは島津が先だった。大谷の考えはよくわからなかったが、ここでもう一声を上げれば、三成と言葉を話す機会となるだろうと思ったのだ。島津は、三成に未来を見て欲しいと常々願っていた。けれども、休みを取ろうともしない三成と会話をすることなどそうそうできるものではなかった。
 誰が作ったきっかけでもいい。若者の未来を切り開くためならば、罠の中にでも飛びこんで行く。島津にはその覚悟があった。
「よかね。古き戦で良ければ、いくらでも語らせてもらうばい」
 戦を重ねた大きな手のひらが三成の背を叩く。平均よりも薄い体には衝撃が大きかったようで、痛みに目を細める。それでも怒声を上げないのは、島津を認めているからなのであろう。少しばかり不満気な顔をして、長曾我部を見た。助けを求めるのではなく、もう一人の鬼の反応が気になったのだ。
 三成と目があった長曾我部は笑みを浮かべ、オレの話でよければいくらでも。と、答えた。元々隠さなければならないようなことなどあまりないのだ。しいて上げるならば、カラクリの作りかたくらいのものだ。
「……刑部、お前は食べないのか」
「我は主と違って、起きてすぐ鍛錬などせぬゆえな。もう喰ろうたわ」
 独特の笑い声を上げ、大谷は三成を急かす。早く食べなければ日が暮れてしまうぞ、と言えば、渋々ながらも二人の鬼に連れられて朝餉を取ることにした。ここで問答をするくらいならば、さっさと食事をして鍛錬に戻った方がマシだと判断したのだろう。
 そして何より、島津や長曾我部の話も気になっていた。秀吉や半兵衛の指示した戦い方が至高であることは変わりないが、様々な戦い方を見ることは嫌いではなかった。それがいずれ、豊臣の力になると教えられてきたからだ。
「おめぇ、嫌いなもんはなんだ?」
「特にない」
「好き嫌いがないのはよかね。好きなものは何か?」
「特にない」
「お前そればっかだな」
 朝餉の用意をしていた小間使い達は、二人に連れられてきた三成を見て目をわずかに丸くする。秀吉が亡くなってから今まで、彼が朝餉にきたことはなかったのだ。口にするのはおにぎり程度。時折用意されたものも食べていたが、中途半端な時間に大谷に言われ、渋々口にするばかりであった。
「み、三成様の分もご用意してよろしいのでしょうか」
「おう、とびっきりの飯を頼むぜ!」
 長曾我部に言われると、小間使いは嬉しそうに顔を綻ばせた。食事を取ろうとしない三成のことを彼女達も心配していたのだ。ようやく三成にも安息の時が訪れるのかと、彼女達の心は穏やかになった。
 元々大目に作っていたのか、朝餉の用意はすぐにすまされた。それでも、小食である三成の膳は他の二人と比べて少ない。
「そげな食事で大丈夫ね?」
「問題ない」
 米を箸でとり、口に含む。その動作を見るだけで、小姓や豊臣の兵は感涙を流すだろう。その姿を見ることはできないが、部屋の外にある人の気配でそれがわかってしまう。普段は気配に敏感なはずの三成は気づいていないようだが、二人の鬼ははっきりとその気配を感じとっていた。
 凶王だ何だと恐れられてはいるが、それなりに好かれているようだ。鬼達の顔にも笑みが浮かぶ。
「それで、貴様達の戦とはどのようなものなのだ」
 三成が切り出すと、長曾我部が海について語る。そこには戦の話だけでなく、潮の匂いや海の雄大さ、恐ろしさなども含まれる。いつか一緒に釣りにでも行こうと誘ってみるが、そんな暇はないと一刀両断されてしまった。
 小食な三成が食事を終えるのは早く、島津の話を聞くだけの猶予はなかった。
「……また明日、貴様の話が聞きたい」
「おお、オイはいつでも歓迎するきに。明日と言わずいつでも来るとよか」
 島津からの返答を聞くと、小さく頷いて三成はその場を後にする。また剣を奮うのだろう。
「とりあえず、明日も飯は食ってくれるみたいだな」
「三成どんは真に生きる気がないとね……」
 それはとても悲しいことだった。
 未来を生きるはずの若者が、この戦いを終えたら死ぬと言うのだ。そのことを考えると、この戦を終わらせるのが恐ろしいような気さえしてくる。けれど、今の三成にはこの戦いを終わらせることこそが全てであり、終わらせないなどという選択肢は存在していない。
 残っている時間がどれほどあるのかはわからない。しかし、残された時間の中で、どうにか三成に未来を見てもらえるようにしなければならなかった。
 鬼達は顔を見合わせる。そこに言葉はなかったが、二人とも三成を生かそうとしていることだけはわかりあっていた。
 友を、若者を、見殺しになどできるはずがない。
「つか、あいつは今までよく生きてられたな」
 自分の朝餉を口につめながら言葉を投げてみる。
 三日も食事を抜き、それでもまだいらぬと言った男の顔が忘れられない。前々から血の気が見えぬ肌だとは思っていたが、実際に血が足りていないのだろう。あれで馬よりも早く駆けることができるのだから、人間というのは不思議なものだ。
「確かに。おまはんは何か知っちょるか?」
 二人の食事が終えるのを待っていた小間使いに尋ねる。彼女は一瞬、体を奮わせ、視線を上げずに言葉を紡いだ。
「……限界の前に、大谷様が食事に連れてこられておりました」
 その声は硬い。先ほどまで、三成の食事を喜んでいたとは思えぬほどの硬さだ。
 何の感情を含んでいるのか、それは非常にわかりずらいものだった。恐怖か、怯えか、それとも嫌悪か。
 二人にわかったことといえば、これ以上彼女に言葉を重ねるのは酷だということくらいのものであった。
 結局、その日のうちに三成が島津の元を訪れることはなかった。
 彼は昼に執務をこなし、夜は大谷の部屋へと訪れたのだ。
 食事もそうであったが、彼は眠ることもしない男だった。時折、睡魔が襲ってくることもある。そんなときは大谷の部屋に身を寄せるのが常であった。
「刑部、長曾我部の話は海のことばかりだった」
「ほう」
 大谷の膝の上に頭を乗せ、今朝のことを口にしていく。本当ならばもっと早くに伝えたかったような気もするが、軍師として忙しく働いている大谷の邪魔はできなかった。何より、三成にも仕事はあった。
 言葉を交わしたい夜であるというのに、睡魔が襲ってきていることがたまらなく不愉快であった。だが、この時間をそんな苛立ちで無為にしたくないのも事実である。その気持ちのためか、部屋の中は穏やかな空気で包まれていた。
「広さや匂い、美しさ。そんなことばかりを語っていた。
 終いには釣りに行こうなどとほざいていた」
「さようか。
 三成、しばらく大きな戦はない。長曾我部と海に行くが良かろう」
「……何故だ」
 途端に不機嫌が顔を出す。
 わかりやすい男だと、大谷は内心ほくそ笑む。
「今、西軍には優秀な水軍がついておる。それを使わぬ手はあるまい」
「それとこれとは話が違う」
 眠気眼で文句を言う三成の頭を優しく撫でる。少しでも気持ちを落ち着かせてやろうという大谷なりの配慮だ。
「否。主が船の上で戦わぬという保障はできかねる。なれば、今のうちに慣れておくのか得策よ。トクサク」
 三成の戦いは何を言っても速さがものをいう。しかし、船上でその速さが十二分に出せるかと言われれば、その答えはわからない。何せ、三成は今まで陸でしか戦ったことがないのだ。船酔いをせぬとも限らない。そのことをゆっくり、丁寧に、三成の気を逆撫でぬように大谷は紡いでいく。
 食事や睡眠のことは別として、戦についてのことならば三成は大谷を信じ、その言葉に従う。それが最も家康の首に近いと知っているのだ。その大谷が海に慣れておけと告げる。不満はある。疑問も残る。しかし、理屈は通っているようにも思えた。
「主から言いにくいのであれば、我から長曾我部に頼んでおいてもよいぞ」
「子供扱いをするな。
 ……長曾我部には私から言っておく」
「さようか。出立する日と帰着する日は伝えよ」
 それを把握しておかねば戦の容易もままならぬ。三成は是と言い、目蓋を閉じた。
 穏やかな寝息を聞きながら、大谷は幾日ぶりの眠りかと考える。月明かりを反射して美しく輝く銀糸の髪を撫でながら、一息ついた。
「主は真に手のかかるやや子よ」
 長曾我部の行動を頭で考える。あの男のことだから、三成が海へ行くと告げればすぐにでも用意をし、出立するだろう。そこから帰ってくるまでの間に、なさねばならぬこともある。長く留まるか、だが、三成の性格を考えるとトンボ帰りという可能性もないとは言いきれない。
 戦のことを考えるよりも、こうしたことを考える方が難しい。どのような手を打つのがよいかと考える。



 朝の光に三成が目を覚ます。頭の下には昨晩と変わらず、大谷の足がある。
「……刑部?」
 少しして、この状況がおかしいことに気づく。
 今もまだ三成の頭の下に彼の足があるということは、一晩中彼は起きていたのだろうか。もうすでに足の感覚は殆どないので、長時間の膝枕ごときでは痛みもしないとは言っていたが、病身に不眠は辛いものがあるはずだ。
 慌てて身を起こす。見れば、大谷は膝を折ったままの状態で後ろに倒れていた。体が柔らかいことは知っているが、一晩中この態勢で眠れるかと問われれば微妙なところだろう。
「大丈夫か? 刑部、刑部」
 足を伸ばさせながら呼びかける。枝のように細い足に触れると、骨を折ってしまうのではないかと不安になる。
「……み、つなり?」
「朝だ」
「ああ、主もよう寝やったようで。重畳」
 上半身を起こすと、一晩中三成の頭を乗せていた脚を撫でる。痛みはないが、血の巡りが悪くなっているのは感覚としてわかる。放っておけば腐り落ちるのではないかと不安に駆られたのだ。
「すまない」
「いや、主の寝顔など早々見れるものではないゆえな。我も起こすのを忘れていたのよ」
 下手な言い訳だと思う。けれど、そのことについて触れるつもりはなかった。大谷が三成の身を案じるのはいつものことであったし、問い詰めたところで何の意味もなさない。第一、大谷は自分が話したくないと思ったことはのらりくらりとはぐらかしてしまう。
 三成はいつも大谷の下手な言い訳を受け入れていた。そして、一人心の中だけで次は気をつけようと決めるのだ。
「そうだ。今日も長曾我部達と朝餉をとる約束をしている」
「ほう。それは良い。早に行きやれ」
 包帯が巻かれた手をひらひらと振る。三成はそれを容易く掴んでみせた。
「何を言っている。今日は貴様も共に行くのだ」
「は?」
 大谷の目が丸くなる。よく行動を共にしている三成でも、滅多に見ることのない表情だ。三成はこの顔が好きだった。いつもは一枚も二枚も上手を行く大谷にしては珍しい、そして三成にしか見せない顔だ。
 その顔をわずかばかりの時間堪能し、三成は立ち上がる。同時に足の弱っている大谷が立つのを手助けする。普段から大谷の移動を手助けしているので、手慣れたものだった。大谷もそうされるのに慣れてしまっているのか、混乱しながらも素直に立ち上がる。
「待て。まちと待て。我は行かぬぞ」
「何故だ。昨日はもう朝餉がすんでいたのだからしかたないが、今日はまだ食べていないだろ」
 その言葉は間違ってはいない。だが、根本的なことを三成は忘れているように思えてならない。大谷はあからさまにため息をつく。
「我は病を帯びた身よ。他の武将に病を感染したらどうする」
「感染らぬ」
「三成。聞き入れよ」
 この手の話しになると、三成はより一層の頑固さを持つ。
 幼い頃から共に過ごしている自分が平気なのだから、というのがいつもの言い分だ。けれど、それはたまたまかもしれない。病は既に三成の中に潜んでいるが、姿を現していないだけかもしれない。
 病を帯びた大谷自身がこれだけの憶測を立てている。第三者はより多くの憶測を立てるだろう。そして病を恐れる。大谷を恐れる。人の良い鬼達はそんな顔をすることはないだろうが、彼らの兵がどう思うかまではわからない。
 どのような些細な事柄であったとしても、争いの火種はないにかぎる。
「……ふむ。実はな、昨晩あのような態勢で寝ていたためか、我はまだ疲れが残っている。急ぎの用事は終わっているのでな、今日はゆっくりしたいのよ」
 ゆっくりと膝を折り、畳の上に座り込む。
「私のせいか」
「主のせいとは言うまいよ。だが、今日のところは聞き入れてもらえぬか」
 自分の体を盾にするのには慣れている。三成が眠っていたことを咎めるのは気が引けたが、こうなってしまっては仕方がない。
「……わかった。朝餉はここで食べるのか」
「そうよな。小姓にでも持って来させるわ」
「私が言っておこう」
「それはありがたい」
 一つの要望を通したのだから、相手の要望も通してやる。それが人と上手く付き合っていくコツだ。大谷は笑顔で三成の申し出を受け入れた。
「ああ、そうだ。長曾我部に船の件、しかと伝えて参れ」
「わかっている」
 睡魔に襲われてはいたが、昨晩の話はしっかりと覚えていた。三成は一人部屋で座っている大谷を背に、朝餉の席へと向かう。途中、運悪く出くわした小姓に大谷への朝餉を命じる。一瞬、眉をひそめたのが見て取れた。
 大谷がこの大坂城でも忌み嫌われていることを三成は知っている。以前ならばその頭蓋を粉々に砕いてやるところだった。何度も大谷の陰口を耳にいれ、その度に兵を切り捨てていたたが、そのつど大谷から大目玉をくらった。特に、西軍として東軍と対峙するようになってからは、兵を減らさぬようにと大谷からきつく言われ続けていた。小姓一人切り落としたがために、多くの兵が逃げるのだと言う。
 そんな軟弱な兵などいらぬというのは簡単だった。だが、大谷に叱られるのはどうにも居心地が悪い。
「どうした? 朝から機嫌悪そうじゃねぇか」
 朝餉の席に顔を出した三成に、長曾我部が開口一番に告げた。
「……うるさい」
 どうにか激情を抑えたものの、腹の収まりが悪い。
 普段から口にしたいとは思わない食事だが、今日はことさら口にする気が起きない。
「まあ、とりあえず食べるとよかよ。腹が空いとると、苛立つもんじゃ」
 島津の言葉にとりあえず腰を降ろすが、やはり食べる気はまったく起きない。それどころか、あの小姓に運ばれた朝餉を一人で食べる大谷のことを思うと、すぐにでも駆けだしたい気持ちがわきあがる。
 それをしないのは、昨日の約束があり、今朝大谷から言われた言葉が胸に残っているからでもある。
「今日の魚はな、野郎共が釣ってきたもんなんだぜ」
「まっこと美味かー」
 二人に進められ、一口だけ食べる。食の味などとうの昔に忘れてしまったが、吐き出すようなものではないと感じた。それを素直に伝えると、怪訝な顔をされる。思い返してみれば、大谷にこのことを告げたときも似たような顔をされていた。
「お前って、本当に食べることに興味ねぇんだな」
「体に悪か」
 そう言われても、興味がないものは仕方がない。
「……そうだ。長曾我部」
 こうなれば、用事をさっさと済ませてしまおうと考えた。島津の話はまたいずれ聞けばいい。今はとにかく大谷の隣にいたいと感じていた。
「いつでもいい。私を貴様の船に乗せろ」
 頼みというには横暴で、命令といったほうがしっくりくる物言いだった。だけれどと長曾我部は喜びを顔全体に浮かべた。
「おお! オレはいつでもいいぞ? お前はいつなら都合がいい?
 なんら今からだっていいぜ!」
 嬉々として三成の都合を聞く。島津も若い二人が共に過ごすことを良しとしているようで、笑みを浮かべている。
 つい昨日までは、海の話をしても無反応。戦いの話以外に耳を傾けようとしなかった男が、こうして行楽めいたことをしようとしているのだ。三成の未来を心配している鬼達からしてみれば、これは喜び以外のなにものでもない。
「いつでもいいと言ったはずだ」
「よっし。なら明日だ。明日向かおう! な?」
「わかった」
 無論、三成にも仕事はある。しかし、戦に関わる仕事は刑部がこなしているし、三成に回される仕事は比較的簡単なものが多い。普段から仕事をなおざりにすることのない三成にとって、都合をつけるのは簡単なことだ。
 約束を取り付けるや否や、三成はすっと立ち上がる。
「すまないが、今日はここで失礼させてもらう」
「え? お前まだ一口しか喰ってねぇだろ」
 長曾我部の言葉に島津も頷く。具合が悪いようではなさそうだが、普段から健康そうとは言えない風貌をしている三成だ。体調が悪いのかもしれないと、二人は心配しているのだ。
「今日は気分が悪い。それだけだ」
 隠そうともしない二人の気持ちはしっかりと伝わった。しかし、それに対して気づかいで返すことをしないのが三成だった。はっきりと事実だけを告げ、その場を去る。残された二人はその背を呆然と見送ることしかできなかった。
「……どうしちまったのかねぇ」
「夢見でも悪かったのかもしれんね」
 そんな会話をしながら二人は食事をする。今日は三成がいないが、それでも二人は戦のことについて話した。島津は元々戦うことが好きだったので、この手の話しには苦労しない。長曾我部も戦うこと、というよりは野郎共と暴れることが好きだったが、会話の内容としては似たようなものだった。
 美味い食事を終え、席を立つ。一応客人としての扱いを受けているので、日中は暇をしていることが多い。兵の相手をしてみたり、己の鍛錬をしてみたり、国許から自分に当てられた仕事が届くのを待ったりする程度だ。
「おっと、オレは明日の準備もしねぇとな。
 向こうの野郎共に書状でも書いて送るか」
 今日出せば、向こうにつくまでに用意を整えておいてくれるだろう。そう言って長曾我部は自分に与えられた一室へと向かう。その姿を見送り、島津は一人になった。昨日は兵と鍛錬をした。自分の兵だけではなく、石田や長曾我部の兵とも話ができて楽しい一日であったことを思い返す。
 空を見上げれば見事な日本晴れが広がっている。
「こりゃ、今日も良い日になるの」
 兵の集まる場所へと足を運んでいく。けれど、慣れぬ城内ということもあり、道に迷ってしまった。適当に歩いていれば、見知ったところに出るだろうが、他の武将には見せたくないような物がある場所もあるだろう。うっかりそこへ足を運んでしまったら殺されても文句は言えない。
 どうしたものかと腕を組む。運の悪いことに、辺りに人の気配はない。
「じっとしてても仕方なかね」
 そう思い、今までよりも少し警戒して進む。本当に立ち入ってはいけないところには、見張りがいるだろうと考えた。人に会えれば道を聞くこともできる。重要なのは、思いもよらぬ場所から変な場所に出ないようにすることだ。
 しばらく進んでいくと、人の気配を感じた。どこか冷たいその気配には覚えがある。
「主にしては珍しい」
「五月蝿い。もう一度長曾我部に会ってくる」
「よいよい。向こうについてからゆっくり決めるといい。案外、主は船に弱いやもしれん」
「そうだとしたらすぐに帰ってくる」
「それでは何のために海へ行くかわらかぬではないか」
 楽しげな声だった。引きつったような笑いにも覚えがある。ただ、その声に含まれる優しさを島津は知らない。
「我はもう大丈夫よ。ダイジョウブ。主は早に仕事を終わらせるが良かろ」
「……わかった。だが、けっして無理はするな。いいな? けっしてだ」
「あいあい。凶王三成の言うことには従っておくが吉よ」
 障子が勢いよく開かれる。現れたのは三成だ。その姿を確認した島津は、さも今きたばかりですという顔をつくる。
「おーい。三成どーん」
「……鬼島津か。何だ」
「いやー。道に迷ってしもうての。稽古場はどの方向かの?」
 三成は少し考える素振りを見せ、私も一緒に行こうと言って歩きだした。
「おお、すまんね」
「気にするな。どうせ通る道だ」
 三成は自分の速度で歩く。その後を島津は適当な話題を振りながら追う。
 戦の話は飯のときにしようと言い、道中は知りあいの男の笑い話などした。三成からの返事は少なかったが、島津の言葉はしっかりと耳に届いているようだ。
「あそこだ」
「それじゃオイは兵と鍛錬でもするかね。三成どん、明日から海へ行くんじゃ。仕事はしっかり終わらせておきんしゃい」
「わかっている」
 憮然とした三成を見送る。
 島津はあの部屋から聞こえてきた三成の声を思い出していた。もう一つ聞こえていた声は大谷のものだった。聞いたこともないような穏やかな声からは、噂に聞いているような悪逆非道さは感じられなかった。
 考えてみれば、三成に食事を促したときも彼の目は穏やかだったように思える。
 大谷の第一印象はけっして良いものではなかった。かつての豊臣を色濃く残しているのを感じるものだ。力を欲し、そのためならば外道と呼ばれることも良しとしていた。秀吉を崇拝している三成よりも豊臣らしいと言える。
 彼の存在を島津は危惧していた。若者が作り出す新たな世界を壊してしまうような気さえしていた。未来を見ず、破滅へと向かう三成を煽るような言動がそれを裏付けていると思っていた。
「……オイの勘違いじゃったのかの」
 わからないだけだったのかもしれない。
 彼は彼なりに友人のことを考えていたのかと思うようになりはじめた。
「あ、島津様」
 島津の姿を目に止めた兵達が手を振ってくる。それに手を振りかえして笑みを浮かべた。様々な軍の兵達がいるこの場所は新たな戦術を知ることもでき、知らぬ風俗を感じることもできる。老年と言っても過言ではない歳になってしまったが、新たなことを知る楽しみというのは変わらない。
「そういえば、三成様は朝餉をちゃんと食べてましたか?」
 そう尋ねてきたのは石田軍の兵だった。彼らは豊臣に仕えていた兵であり、三成と同じ志を持っている。総大将の体調や生活習慣を心配する心優しい者達だ。
「今日は気分が悪いっちゅうて、喰わんかった」
「そうなんですか……」
 悲しげに眉が下げられる。
 三成はもう己には何も残っていないとよく零す。けれど、こうして見れば彼の周りにはまだたくさんのものが残っている。兵も思い出も、友もまだあるのだ。
「三成様にはもっとご自愛して欲しいのだが」
「ちゃんと飯喰って、眠ってくださればな」
「刑部様の元へ行くのも止めていただきたいものだ」
「ああ、それはもっともだ」
 潜められた声には悪意があった。
「万が一、三成様に病が感染ったら」
「恐ろしや。恐ろしや」
 そんな言葉に引き寄せられるように、兵達が集まってくる。
「あの包帯の下はすでに人のものではないとか」
「巻かれた包帯に触れただけで、肌が爛れるという」
「前世の業というが、あの様子では来世でも病を抱えるであろうな」
「刑部様の部屋を知らぬ者もいるだろう。教えておこう。
 あの部屋には近づいてはならんぞ。病を感染される」
 他の軍のことだ。口を出していいものか迷う。島津自身、第一印象が良かったわけではない。噂はどれもろくでもないものであったこともあり、周りの兵達は石田軍の言葉を鵜呑みにしていく。
 悪意は身を裂く。島津は眉間にしわを寄せる。
 やり方は気に喰わないが、大谷は策士だ。人を騙すことは当然だろう。悪意の原因は何だ。病か。
「悲しか……」
 病に侵されたのは彼の責任なのだろうか。



 三成が長曾我部と共に海へ向かった。一人になった大谷のもとに島津は訪れようとした。話をしてみたいと思ったのだ。
「三成様、長曾我部様と共に海へ行ったそうだな」
「あのお方ならば、三成様の良き友となってくださるに違いない」
「病の者にいつまでもご執着されることもなくなるだろう」
「いい気味だ。病の者がいつまでも豊臣にいるのが間違いなのだ」
 その声は潜められることもない。三成がいないということが大きな要因となっているのだろう。だが、この場所でそれを吐くことは感心できない。
 ここは、大谷の部屋のすぐ近くだ。この声は確実に彼の耳に届いているだろう。
「あれ、島津様。どうなさったんですか」
 兵の一人が笑みを浮かべて島津を見る。敬意の念が込められた言葉が紡がれる口から、先ほどまで同じ軍に所属する軍師を蔑む言葉吐かれていた。そのことを島津は許容しきれない。無垢な悪意というのは、どうしてこうも扱いづらいのだろうか。
 どのような言葉を返そうかと悩んでいると、大谷の部屋の障子が開かれた。
「主ら、何をしていやる。凶王殿がおられぬとはいえ、仕事を蔑ろするのは感心せぬなぁ」
 奇妙な色を持った目が細められる。口元は布に覆われているため見えないが、おそらくは口角が上がっているだろう。
 独特な笑い声が上がると同時に、兵達は引きつった声を上げて立ち去って行く。残されたのは大谷と島津だけだ。互いに向かい合った二人はしばらくの間沈黙を守る。
「……我は長い間立つのが苦手ゆえ、中に下がらせてもらおう」
「ワシはおまはんと話がしたい」
「我の部屋は毒よ」
「三成どんは平気な顔をしているど」
 すでに部屋の中に引き返してしまった大谷の表情を島津は知ることができない。だが、三成の名前を出した途端に訪れた沈黙は、彼が顔をしかめているだろうことを予想させるには十分なものだ。
「だが、おまはんが気にするなら、ワシはこちらにおる。
 それなら話の一つや二つ、してくれても良いじゃろ」
「……あい、わかった」
 島津はその場に腰を降ろす。
「おまはんは良いのか」
「はて。何の話かわからぬ」
 さらりと零れる嘘は、何度も重ねてきたが故の自然さがある。
「兵達が話していたことじゃ」
「良い良い。いつもは凶王が恐ろしゅうて、己の内に溜め込むばかりよ。たまには抜いてやらねば体に悪い」
 笑い声が部屋から聞こえてくる。それが嗚咽のように聞こえたような気がした。一瞬、障子を開け、その姿を見てやりたいとも思った。けれど、それをすることは許されないということはわかっていたので我慢する。
「三成どんは」
「あれはな、一つしか見えぬのよ」
 島津の声に重ねるように言葉が紡がれた。
 姿は見えぬが、彼がいる方向に目を向けて島津は次を待つ。
「生きる意味がな、一つしかないのよ。
 昔は太閤。今は家康。それしか持たぬ男よ。家康を討てば死ぬであろうな」
 その声に悲しみは見えない。されど、喜びも見えない。ただ事実を呟いているだけなのだ。彼もまた、何かを諦めてしまっているのだろうか。島津は心の臓が締め付けられるような感覚に陥った。
「主は三成の未来に成りやるか」
「大谷どん。それはオイではなく、おまはんが相応しいじゃろ」
 沈黙。そして大きな笑い声が響いた。しばらく笑い声が聞こえたと思うと、次はむせ返ったような咳が聞こえる。大谷は体が弱い。慌てて立ち上がるが、大谷がそれを制した。
「大丈夫よ。それにしても、鬼島津でも冗談は言うと見える」
「冗談じゃなか」
 先ほどよりも小さな、それでもよく響く笑い声が聞こえる。
「我のような未来も幸福も知らぬようなモノが、それらを与えられるはずもなかろ」
 病は未来を奪った。幸福もどこかへ消し去ってしまった。残ったのは人を恨む気持ちだけだ。
 大谷はこのままでは駄目だと気がついていた。家康を討ち取ったとしても、三成は死ぬだろう。そのことに気が付いたとき、失ったと思っていた感情が込み上げてきたのだ。それは恐怖という名前だった。
 ただ、彼は彼なりに三成を生かすつもりではあった。世を不幸にし、平等にしてしまえば良いと考えていた。この考えが間違っていると気づいたのはいつだっただろうか。
 三成は他人と己を比べない。秀吉を失った空漠こそが一番だと信じているからだ。ならば、世を不幸にすることに何の意味があるというのだろうか。本当に彼を生かすためには何をなせばよいのだろうか。
「三成と話やれ。飯を喰いやれ。未来を見せてみやれ」
 大谷は三成が自分から離れるのを望んでいた。いつまでも病を持った人間の隣にいる必要などないはずだ。直接そのことを伝えれば、三成は怒り狂うだろう。昔、大谷の陰口を叩いていた兵達を殴り倒した経歴のある男だ。彼自身でも病のことで己を卑下するのは許さない。
「もうすぐ真田も来やる。主も仕事が増えて大変よな」
 雑賀も来る、そうすれば戦の準備は整い始めるだろうと大谷は語った。できるかぎり時間を引き伸ばす。その間に三成を変えて見せろと言った。
 見守るだけのつもりだった。背中を押すと言うよりは先に立っていてやりたかった。けれど、大谷はそれだけでは駄目なのだと遠まわしに伝えていた。いや、この言葉は三成の背中を押してやって欲しいという懇願なのだろう。
 酷く悲しい気持ちになってしまった。何かを伝えようと口を開く。
「――すまぬな。我はちと疲れた」
 空咳が聞こえてくる。海へ行った総大将の分まで彼は働くのだろう。普段から多くの責務を抱えた病身に、如何ほどの疲労が溜まっているのかはわからない。大谷の矜持を尊重するのならば、そのことに触れてはいけない。
 島津は口を閉ざした。一言、失礼するという言葉だけを残し、大谷の部屋の前から去る。
 胸の中にはもやもやとしたものが溜まっていた。
「お? 鬼島津じゃねぇか」
「官兵衛どん」
 鉄球を引きずって歩いている男の姿を見つける。
「何だ。あんたらしくない顔してるぞ」
「……大谷どんは、悲しか人ね」
 ぽつりと言葉を零す。
 思い浮かべるだけの姿を島津は知らない。彼が知っている大谷の姿に、悲しげなものはない。
「刑部がか?」
 驚いたような声が上がる。官兵衛は元々豊臣に所属していた。大谷との付き合いも長いが、彼のことを悲しい人だと称した者を見るのは始めてだった。
「病っちゅうだけで、仲間からも嫌われちょる。それを当然のように受け取とりよる。
 友人のことを考えちょるのに、自分では何も与えられんと諦めちょるなど……悲しか」
 島津の言葉を聞いていた官兵衛は鉄球を引き寄せ、その上に腰を降ろす。慣れたその動作は、彼と枷の付き合いが長いことを示している。
「小生はな、刑部にコレをつけられた」
 枷を軽く上げると、鉄の鎖がじゃらじゃらと音を立てる。
「あいつは嫌な奴だ。性格も悪い。病で多少歪んじゃいるが、まあ大半は元々の性格さ」
 人は一つの言葉だけでは説明できない。優しいと思っていた人物であったとしても、見る方向を変えればその姿は真逆に映ることもある。島津が見た大谷とは、一部分でしかない。噂と違う暖かい部分だけを見て悲しいと決めるのは早いと官兵衛は言うのだ。
 大谷との付き合いが長い官兵衛の言うことには説得力がある。お人好しな官兵衛に殺してやるとまで言わせるのだ、あの大谷という軍師は。
「悲しい奴何てのは見当はずれもいいとこさ」
 官兵衛の口が歪む。
「あいつはな、不幸なだけさ」
「不幸、とね」
 そうさ。と言い、官兵衛は空を見上げる。彼も大谷と同じように何かを見ているのだろうか。まだ太陽が昇っている空は青い。雲がかすかに見えるだけで、他には何も見えてはこない。
「蔑まれるのが嫌なら逃げりゃよかったんだ。だけど、ここには三成がいる。
 生きるのが嫌なら死ねばよかったんだ。だけど、この世は三成一人では生きにくい。
 三成の隣にいるには、残された時間は短すぎる。
 刑部は全部知っているのさ。知らなけりゃ楽に生きることも死ぬこともできただろうにな。
 賢すぎたのも不幸なら、捨てられないものを持ったのも不幸なのさ」
 力ない笑いを浮かべていた。
 島津は官兵衛の言葉を聞きながら考えた。やはり、それは悲しいことではないだろうか。捨てられないものを持つことは幸福であるはずだ。人生で一つでも、自分よりも大切なものを見つけられるというのは、誰にでもできることではない。
 大谷は数少ない人間に入っているのだ。だというのに、病のために幸福が不幸へと転じている。それを悲しいと、哀れだと言わずして何と言うのか。
「あんたは若者の未来を見たいって言ってたな」
「そうね。それがオイの最後の仕事ね」
「なら一つ教えてやろう」
 浮かべられている表情は相変わらず力のない笑みだ。どのような状況に追い込まれたとしても、前しか見ていない男のものとは思えない。
「刑部と三成の歳はな、そう変わらん。一つか二つの差だ」
 意外だと思った。掠れた声もそうだが、あの冷静に状況を判断する様子など、歳を重ねた貫禄のようなものがあった。それが、まだ三成とそう変わらない歳だという。
「案外若いだろ?」
 そう尋ねてくる声色に、島津は目を少し丸くした。
「……何とも、わかりにくか」
「そうだろうな。あいつは歳くって見えるからな」
 歳のことではない。官兵衛も承知の上で言葉を紡いでいるのだろう。
 若者を見守ると言うのならば、大谷のことも見守ってやって欲しいと官兵衛は言ったのだ。彼はもう大谷のことを大人として見守ることはできないのだろう。枷の恨みか、それとも近づきすぎたためか。
 どちらにしても、官兵衛は大谷のことを気にかけているという事実には変わりない。
 大谷といい、官兵衛といい、豊臣の人間は愛情表現が下手なのだろう。もしも、彼らが素直にその感情を出せたのであれば、周囲は変わっていただろう。
「――やはり、悲しかね」
 それは大谷に向けた言葉ではない。豊臣へ向けた言葉だった。

   中編