海へ出た三成は潮風を体いっぱいに浴びていた。
長曾我部が言っていたように、海は太陽の光を反射して煌いている。それを美しいと感じることはなかったが、ここにあの病弱な友がいたのならば息を飲んでいたのではないかと思う。彼は昔から美しいものが好きだった。三成にはただの葉にしか見えぬ紅葉を見て顔を綻ばせていたこともあった。
病を得てからはそんな表情を見ることも少なくなったような気がする。
一度考えてしまうと、城に置いてきた友のことばかりが頭に浮かんだ。
「どうよ。海の上もいいだろ?」
久々の船で気分が高揚しているのか、長曾我部の顔色はいつもよりも良いように見えた。
「そうだな。船酔いもない」
揺れはするが、この程度で動けなくなるようなことはない。動ける範囲が限られていることを考えると、戦いにくくはあるだろうがそれは相手も同じはずだ。
三成からしてみれば、ここへきているのはあくまでも戦のためであり、遊びにきたわけではない。もうしばらく様子を見たらすぐにでも城に戻る心づもりだった。
「広い海を見てるとよ、悩みも吹き飛びそうだろ」
目を細めて海を見ている男は、言葉とは裏腹に悲しげな色を目に映していた。家康に裏切られたことを忘れることなどできないのだろう。三成は拳に力を込める。あの雨の日のことを忘れられるはずがない。その後のことなど見えていない。
二人は沈黙を守る。互いに紡ぐべき言葉が思い浮かばなかった。
「……なあ三成」
「何だ」
海は静かだ。船を動かしている者達も今は姿が見えない。まるで世界には二人しかいないような錯覚さえ覚える。
「家康を討ったらどうするんだ」
「まずは家康を討つ。それ以外のことなどどうでもいい」
決然たる態度で言い放つ。その様子に長曾我部は胸を打たれた。それは感動や羨望ではなく、悲しみや不安だった。
三成が死んでしまうのではないかと思った。友であった家康を討ち、新たに得た友までも失ってしまうのかと思うと唇を噛む。
「そうか……。他にしたいことはねぇのか」
「ない」
再び切り捨てられる。
「なあ、海にいる間は仕事も鍛錬もできねぇんだし、のんびりと釣りでもしようぜ」
手にしていた釣竿を見せる。せめて、海の上にいる間くらいは心を休めて欲しいと思って持ってきたのだ。
釣竿を見た三成は眉をひそめる。そんなことをしている暇は無いと言いたげだ。しかし、長曾我部の言うとおり、ここでは執務も鍛錬もできない。下手に素振りをして船を傷つけでもしたら申し開きもできない。
迷う気配に、長曾我部は後一押しすれば三成が折れるであろうことを悟る。
「新鮮な魚は滋養もあるし、体作りにはもってこいだぞ」
滋養という言葉を聞き、三成はあからさまなほどの反応を見せた。
「……それは、大坂へ持って帰ることはできるか」
「大坂? あー。塩漬けにすりゃなんとかなるんじゃねぇの」
流石に生のまま運べば腐るだろう。
「わかった。釣り方を教えろ」
「持って帰るつもりか? 海の上で捌いた方が美味いぞ」
「私ではない。刑部に食べさせる」
「大谷に?」
三成は小さく頷き、城があるであろう方角へ視線を向ける。その瞳は心なしか穏やかなものだった。
「刑部は病を得ている。そのため、軽い風邪でも数日寝込む。
私にとって、なくてはならぬ人間だ。少しでも元気でいてもらいたい」
「そうか」
手にしていた釣竿を三成に手渡す。餌を取ってくると言ってその場を離れる。次に戻ってきたときには己の分の釣竿も手にしていた。
慣れぬ三成の代わりに餌をつけてやり、魚がかかったときにどのような行動を取ればいいのかを教えていく。自分の知らないことについては素直に聞き入れ、吸収していく三成はすぐに釣りを理解したようだ。
糸を垂らす三成と同じように長曾我部も糸を垂らす。
「お前にとっての大谷ってのを聞かせちゃくれねぇか」
長曾我部から見た大谷というのはどうにも好かぬ雰囲気の人間だった。何を考えているのかわからない。あれならば、まだ中国のためと豪語している毛利の方が何を考えているかわかりやすいとまで思った。大谷に関する噂も碌なものがなかったのも好かぬ理由に入る。鎧の亡霊だとか、包帯の中身は空だとかいったものだ。
けれど、三成からしてみれば違ったように見えるのだろう。長曾我部よりも大谷との付き合いはずっと長い。真っ直ぐな彼は噂に惑わされぬ大谷を知っているのだろうと思った。
「……長曾我部。貴様は刑部を忌むか?」
静かな声だったが、その声は確かに怒りを含んでいた。長曾我部の視線は海の方を向いていたが、三成の顔が歪むのがわかった。
忌むかと問われ、長曾我部は考えた。仲良くなりたいと思っていないのは確かだ。けれど、それを直接言えば彼と友である三成は良い気がしないだろう。とはいえ、嘘をついたところですぐにばれてしまうのは目に見えている。そうなったときの三成を抑えられる大谷はここにいない。
「オレは毛利がすぐ近くにいたからよ、知将ってのには警戒する癖があるんだ。だから、苦手ってのはある」
それだけを言い、反応を待つ。嘘は言っていないと誓える。
「ならいい。それは刑部の悟性を認めているということだろ」
三成の視線も長曾我部を見ようとはしない。ただじっと、釣り糸を見つめている。
「刑部は……見ての通り病を得ている」
体中に包帯を巻いたその姿は常人では考えられない。同じ軍に所属しているが、長曾我部はあの包帯の下がどうなっているのか見たことがない。噂で酷く爛れているとだけ聞いていた。
「それを理由に刑部を忌む者がいる。刑部ほどの働きも出来ぬ者が、奴ほどの矜持を持たぬ者が、だ」
歯を食いしばる音が聞こえてきそうだった。
人はどうしても見た目で判断し、区別してしまう。それも、病であのような姿になってしまったというのならばなおさらだろう。感染ってしまうのは恐ろしいことだ。
「わかるか。穢れだと忌まれ、何故まだいるのだとなじられ、時には石を投げられた!
怒り、刀を手にした私に刑部は言うのだ。放っておけばいい。仕方のないことなのだと! 仕方ないだと、そんなはずない。刑部が何をしたと言うのだ!」
三成の怒りが長曾我部の胸に突き刺さる。悲しいほどまでに真っ直ぐな嘆きだった。友を忌む者を制裁することを、友自身が止めるのだ。どうにもできない焦燥感だけが胸の内にくすぶっていく。
長曾我部は己の故郷を思い返してみた。誰もが自分に優しく、悲しみと喜びを共有しあってきた。それを幸せだと感じながら、当然だと感じていたことを否定できない。自分ではどうにもできない理由で責められる。その痛みは長曾我部にはわからない。胸が押しつぶされそうになるばかりだ。
「刑部は決して泣かない。嘆かない。だから、私も奴の病について嘆くことはしない」
もしも大谷が嘆くのであれば、三成は共に嘆くであろう。そうやって、互いに支えあっていくのだ。長曾我部は理解した。三成の声は大谷と共に生きる決意をしている声だ。彼がいなければ三成は生きぬだろう。
「そうだ。貴様には教えてやろう。刑部はな、美しい物が好きだ。私は物の美醜に興味はないが、この海も奴なら相応しい言葉で形容するだろう」
感情の起伏が激しい人間だとは常々思っていたが、こうも雰囲気が一変すると肩透かしをくらったような気分になる。先ほどまでの怒りは何処へ消えたのか、三成の口から紡がれるのは穏やかな色だ。
大谷は綺麗なものが好きで、書物が好きで、頭が良く、機転が利き、時折自愛を忘れるのが欠点だそうだ。自愛に関しては三成に言われたくないだろうと、長曾我部は苦笑した。
聞けば聞くほど大谷という人間は『人間』だった。
誰が彼を化け物と形容したのだろうか。
「綺麗なお宝も良いけど、オレはやっぱカラクリが好きだな」
「カラクリの類は昔刑部も集めていたな」
「マジかよ! 意外だな」
「そうか? あれは戦力になる。小さなカラクリは美しい細工のものが多いと言っていた」
「へー。帰ったら見せてくれねぇかなー」
「まだあるかわからん。が、言ってみるといい」
「そうだな」
本人の知らぬところで、そんな話が進んでいた。
その日、二人は一匹ずつ魚を釣り、それを塩漬けにした。
三成が帰着した頃、真田幸村と共に雑賀孫市が西軍に入った。
家康の首への道が着実に作られていた。そんな中、三成は新たな仲間と共に戦場をかけていた。朝餉や夕餉は彼らと取ることが日課となっている。執務が滞っているなどの理由なしに食事を拒否した場合、孫市の銃が火を吹く。
食事の席に姿を現さないのは大谷だけだ。始めは三成も不満気にしていたが、大谷の説得のかいあってか今では口を挟まない。
けれど、大谷の部屋で就寝することに変わりはなかった。食事の件を許可する代わりに、これだけは譲らないと三成が言い張ったのだ。そのうち心変わりもするだろうと思い、大谷は放置することにしている。眠っているかどうかと気を揉む必要がないというのも、放置の理由の一つだ。ただし、同衾だけは何があっても認めぬと強く主張している。
「大谷ー。たまにはお天道さんの所に出てこいよ」
部屋の前で声をかけているのは長曾我部だ。彼は三成と共に大坂へ帰ってきてから何かと大谷を気にかけるようになっていた。帰着した直後など大谷の収集したカラクリや品を見せて欲しいとやってきた。
今まで大谷の傍に好んでやってくる人間などいなかった。唯一の例外とも言えたのが三成だ。だというのに、今では長曾我部や島津、幸村といった面々が大谷のもとへ訪れていた。騒がしい彼らに嫌気がさした大谷は仕事の邪魔をするなと告げ、ようやく静かな一時を得ることができた。彼が騒がしさを厭うと知っている三成が猛威を奮っていることも知っている。
それでも時折、こうして声をかけてくる者がいる。自分に声をかけるくらいならば、三成にかけろと毎回思う。そもそも、大谷の仕事が終わることなどこの戦が終わらぬ限りありはしないのだ。
「我の体に日は毒よ」
「でもよー。綺麗な花とか、美味そうな実があったりするんだぜ?」
こういう時、どうすればいいのかわからなくなる。大谷は己の心に湧きあがってくる謎の感情を消し去ることで手一杯になってしまうのだ。
「……なれば三成と共に行くが良かろ。我には花の一つでも持ち帰ってくれれば良い」
「そうか! じゃあ行ってくるぜ!」
嬉しそうな声が上がり、どたどたとした足音が遠ざかって行く。夕刻にもなれば、長曾我部と三成が腕いっぱいの花を持ち帰ってくるのが目に見えていた。それを悪くないと思う自分がいることも、またわかりきっていた。
どうするべきかとため息を一つ吐く。
彼らと三成を深く繋げるのは大谷から引き離すためだ。未来を共に生きる者の存在を馴染ませるためであり、彼らと共に病人の世話をさせるためではない。未来へつながる布石は整いつつあるはずなのに、思い描いている未来へと進んでいる気がしない。
三成は以前と違い、寝食をおろそかにすることが減った。血色も良い。感情の起伏も穏やかになり、秀吉が生きていた頃の三成を思わせる。良い方向に向かっているはずなのに、彼は未だに大谷の傍を離れようとしないのだ。誰かと遠乗りに行けば必ず土産を提げて大谷のもとを訪れた。大谷がそれを受け取ると、それは嬉しそうな顔をするのだ。
「どうせならば、我にではなく麗しき女人に貢げばよいものを」
例えば、孫市などはどうだろうか。
賢しき女は好かぬが、それは大谷の好みだ。三成と引き合わせれば中々良いようにも思える。彼女ならば三成の感情を上手く操ることができるだろう。彼が暴走すればそれを止めることも容易いはずだ。
三成の子を孕み、世継ぎとして生み出すこともできる。元々、その算段で孫市を引き入れたのだ。故に、雑賀には良い働きさせ、三成の目に止まらせている。最終的に大谷の諾が必要となるような案件であったとしても、一度は三成を通させている。恋というのは顔をあわせる回数も重要なのだとどこかの書物に書いてあった。
「ああ、けれどあの女は香や紅を欲する者でもないか」
ヒヒ、と笑い声を上げる。
孫市が香や花を貰って喜ぶ姿など想像できない。それならば働きを評価し、銃火器を与える方がよほど良いだろう。
「大谷。少しいいか」
思いを馳せていた人物が障子の向こうに現れた。大谷の手元には悪巧み用の文があったが、それほど急ぐものでもない。
友人が将来娶る女を優先するのは当然とばかりに、大谷は良いと返事をした。この場合の良いとは、その場で話すことを承諾するものだ。彼は三成以外の人間を部屋に入れることを良しとしたことはない。
「あまり無駄なことはしないほうがいい」
「はて、何のことやら」
とぼけているのではなく、本当に孫市が何を言いたいのかがわからなかった。
「石田から銃火器を貰った。雑賀にではなく、私にだと言っていた」
そうするようにと進言したのは確かに大谷だ。三成が孫市を気に入るかは後々策を練ればどうにでもなる自信があった。今は孫市が三成に惚れるように進めるのが一番の道なのだ。
「主は気に入らなかったか」
「いや、中々の物だった。ありがたく貰っておく」
品を見定めたのは三成であった。物の美醜はわからぬと言っていた男だが、物の価値はわかる男だ。その目は未だ狂っていなかったようだと安堵の息をもらす。やはり贈り物というのは、贈り主の手で選んでこそのものだということは大谷にもわかる。
「では何が不満か」
「……貴様は思っていたよりもカラスのようだ」
どこかで聞いた覚えのある台詞だ。誰だったかと思い返してみると、大谷の同胞である毛利の台詞だった。思ったよりも愚かな男だと言われたが、その言葉の真意は未だにわからない。どれほどの策を弄したところで、最終的には毛利が全て掻っ攫うつもりなのだろうかとも思ったが、今のところその様子はない。
無言の大谷に、これ以上の言葉は必要ないと孫市はその場を去る。
孫市は大谷が自分と三成を結びつけようとしているのは知っていた。正直なところ、あの苛烈な男の妻になる気はない。そもそも、三成が自分のことを好くとは思っていない。万が一にでも、そんなことがあれば子を孕むくらいやってやろうとさえ思える。何せ、三成は常に大谷しか見ていない。
このことに気づいているのは孫市と毛利くらいのものだ。長曾我部達も、三成や大谷本人達も気づいていない。気づいている孫市からしてみれば、このような茶番は腹を抱えたくなるほど面白かった。
三成が孫市に贈り物をするのは、そうすれば大谷が喜ぶからだ。いわば、孫市の手にある銃火器とは大谷のおこぼれだ。そのことに嫉妬したりしない。ただ笑いが込み上げてくるだけだ。
そんな孫市の心境など露知らず、大谷は頭の中で毛利と孫市の台詞を噛み砕いていた。どれほど噛み砕いたところで、彼自身が己を恋愛という枠組に入れぬかぎり答えがでることはないのだが、それに気づくはずもない。
しばらく頭を悩ませた末、今はとりあえず先のために動く。という結論に達する。すなわち、今までと何ら変わりない。
決めてしまえば心は楽になる。
再び悪巧みのために筆を動かす。三成がやってくる前にはすませておきたいものだ。けれど、それを阻むように足音が聞こえてきた。近頃、訪問者は増えていたが、邪魔だと告げてからは二日に一度程度だったはずだ。今日は厄日なのだとうかと遠い目をした。
「大谷殿!」
障子越しだというのに、その声量は確かな威力を持って大谷の耳に響いた。
「……真田よ、もうちと声を潜めてはくれぬか」
「某としたことが。すみませぬ」
まだ声は大きいといえる範囲だが、先ほどよりも幾分か静かになったので良しとする。
「で? 何用か。三成ならば長曾我部と花を見に行きやったぞ」
将ではあるが、幸村は軍や策について大谷に進言することはない。長い間、主君に付いていくだけだった身のため、未だその辺りには知恵が回らぬのだろう。それを補うように副将となった忍が手を回していることを大谷は知っている。
そんな理由もあり、大谷は三成と共に団子でも食おうと思い、探しているのだろうとあたりをつけた。事実、つい先日にその用件で来られたところだ。
「いえ、この度は違う件でありまする」
障子の向こう側で幸村が正座をしたのがわかる。何か真面目な話をしようとしているらしい。青天の霹靂かと思いつつ、大谷は耳を傾ける。どのような話かはわからぬが、同盟国の将が真面目に話そうとしているのだ。しかと聞かなければならぬだろう。
全ては義のため。三成のため。
「先日、食事の際に先の話をしたのでござる」
話を振ってきたのは未来に関心のある島津だったようだ。
長曾我部は国の復興を掲げ、幸村もそれに続いた。孫市は傭兵なので新たな雇い主を探すだけだと告げ、三成はいつもの様に先のことなど知らぬと答えたそうだ。それに反論したのが、障子の向こうで正座をしている幸村だ。
彼が主君の意思を継ぐように、三成もそれを継がないのかと問いかけた。すると、返ってきた答えは否定的な当たり前だというものだった。
「私ごときが秀吉様の跡を継ぐなど恐れ多い」
という言葉に幸村は押し黙った。それは違う、と頭の中では思ったのだが、それを上手く説明できなかった。少しは考えてから口に出せと、腹心である佐助に咎められているのが実をなした結果であった。
長曾我部達は三成達とは立場が違うためか、口を挟むことができずにいた。
その日、三成が食事中に口にした言葉はそれだけだった。
「そこで、大谷殿にお尋ねしたい」
「ほう」
「大谷殿ならば何とお言いになさるのでござろうか」
そうよなぁ、と言い、少しばかり考える。家康を倒した後のことを考えていない三成に未来はない。彼は秀吉を失った空漠を復讐で埋めているにすぎないからだ。次にそれを埋めるのは、同盟国となり西軍を支えている武将達だろうと思っていた。けれど、それだけでは足りぬとも思っていた。何事も幾重の策を弄しておくのは策士のたしなみだ。
幾重の一つに、秀吉の意思を受け継ぐというのはうってつけだろう。しかし、それはまたしても修羅の道だ。上手くお膳立てしてやらねば、秀吉の二の舞になりかねない。大谷は、三成に平和な世界を生きて欲しかった。穏やかに妻子でも持ち、城の中でゆるりと生きる。そんな彼を夢見る。
「三成は立派な太閤の後釜よ。跡を継がぬというほうが不敬やもしれぬな。
しかし太閤は心の広いお方よ。三成がどのような道を進もうとも許してくださるであろう」
穏やかな世を過ごす道を与えながらも、大谷はこれを三成に言えば修羅の道へ走るだろうことは予測がついていた。
戦わずにはいられない。陣で篭ることも厭う彼の性だ。
「おお! 流石大谷殿でござる。某、差し出がましいとは思いまするが、石田殿には徳川殿の先をも見て欲しいと願っていまする。
いずれ、その言葉を石田殿に向けていただければと」
「主のような友を持てて、三成は果報者よなぁ。あい、わかった。それとなく告げてみようぞ」
「ありがとうございまする! わざわざ大谷殿のお手をわずらわせてしまい申し訳ございませぬ。
某がもっと言葉を上手く使える人間であれば……」
彼に犬の耳がついていれば、悲しげに垂れていることだろう。表情どころか姿も曖昧にしかわからぬ中、大谷はそう思い小さく笑った。
「良い良い。主ができぬことは主の腹心がしやる。それで良かろう」
「佐助にも苦労をかけていると、近頃は特に思いまする」
申し訳なさげだが、あの忍は主のできぬことをできるのが嬉しいと感じているだろう。そう、大谷が三成に思うように。
純粋さが、愚直とも言えるほどの心が好きなのだ。彼らの心を美しいままに保っておけるのであれば、どのようなことに手を染めてもいい。ただ、汚れた己では彼らの心に触れることができないのが、少しだけ寂しい。
「適材適所よ。まあ、気に病むのであれば、腹心の苦労に報いるような将になってみせよ」
「はい! 某、これからも精進していきまする!」
それでは失礼いたします。と、幸村が遠ざかって行く。
「我の身体よ。病よ。まちと待て。我はまだ生きなければならぬ」
日々広がっていく病へ向けて言葉を投げる。その答えとばかりに、身体が軋んだ。
進軍も着々と進み、家康の首が見えてきた。
家康を討った後、秀吉の意思を継いで世界を目指すと決めた三成も、胸のざわめきを抑えられずにいるようだ。同盟国の将達によって、人並みに行われるようになっていた寝食もまたおろそかになりはじめていた。
島津達も三成を気にかけて声をかけるが、気がたっているために聞く耳も持たない。かろうじて大谷の言葉を聞く程度だ。聞く、とは言っても、それは聞き入れると同意義ではない。本当に聞くだけなのだ。
「はあ……。あの状態の三成を戦に出すわけにもいかぬ」
かといって、あの三成が戦に出ぬことをよしとするはずもない。数々の謀略を作りあげてきた頭脳でも、その答えを出すことは容易ではない。同胞である毛利はそんな大谷のことを、いつも蔑んだ目で見ていた。
己も含めて全ての人間は駒の一つであるとしている毛利からしてみれば、あのような扱いにくい駒は挿げ替えてしまえばいいと思う。けれど、大谷は肯定しない。盟約を結んだ当初はそのことに気づいていないようだったが、近頃では自覚して甘やかしているらしい。それがまた馬鹿馬鹿しく、毛利は彼を哀れな者だと感じていた。
「主が中国を思うように、我は三成を思っているだけよ」
そう言ったのはいつのことだっただろうか。その時の穏やかな目を見て、毛利は大谷が病ではないもので死ぬだろうと憶測をたてた。三成を庇うか、策を弄したがための過労で死ぬか。形は変われども三成を原因として逝くだろう。それが三成を最も傷つける行為だと知っているはずなのに。
大谷の悟性は確かだ。ただ、他の武将達と同じように甘い。己を律しきれていないというだけの話だ。惜しい、と己を律しきっている毛利は思わずにいられない。
「大谷。貴様はこの先をどう見る」
「先、とな」
毛利の目をじっと見る。腹の底を探るような目は互いに嫌いではなかった。
「家康を討つ。そして日ノ本を整えさせ、兵を調達する。道のりは長かろう。されど、三成は愚かではない。待つことはできるであろ」
できるのではない。させるのだ。
日ノ本を整えるのにどれほどの時間がかかるのだろうか。おそらくは三成の代だけでは終わらないだろう。大谷はそれを見越している。己が死んだ後も三成が急くことのないよう策を張り巡らせておくのだろう。
「ならばよい」
下手に世界に進出されては、再び中国に火が上がるやもしれない。それだけは避けねばならなかった。毛利もこの世に生まれ落ちて長い。いつ死ぬやもわからぬという点では、大谷と大差ないだろう。
「さようか」
それからはいつもと変わらぬ悪巧みをし、毛利が立ち上がる。大坂にいる間、彼の日課となっている日光浴に赴くのだろう。今日は陽射しも暖かく、外でのんびりするには丁度良い。ただし、日の光自体が毒にしかならぬ大谷は例外ではあるが。
毛利が部屋を出る前に、外から足音が聞こえてきた。誰のものかは察しがつく。足音の主を疎んでいる毛利は眉をひそめる。せっかく見た目麗しく生まれたのであるから、あのような顔は止めるべきだと大谷は常々思っている。無論、それを口にしたことはない。
「貴様の悩みの種が訪れたぞ」
「そのようだな」
入室の許可を得る声もなく、障子が開かれる。開け放ったのは、足音の主であり西軍の総大将である三成だ。
「……何故、毛利がいる」
毛利が三成を疎むように、三成も毛利のことを好いていなかった。見た目麗しい二人がそろって眉をひそめる様子に、大谷はひっそりとため息をつく。
「策を弄しておったのよ。何、もう終わった」
こちらに来るがよかろ。と、大谷が隣に手を置けば、三成は迷うことなくそこへ向かう。彼が座るのを見届けた毛利は、目を細めて鼻で笑う。世話の焼けるやや子だとその目は語っていたが、幸いにも三成の視界にその目は入っていなかった。
気づかれぬうちに、と大谷は毛利に目配せをする。彼も面倒事を嫌う人種であるため、その目配せの意味を正確に読みとり、部屋を後にする。
「それで、どうしやった三成」
時刻はまだ早い。見たところ仕事の用事できたようではない。そうなると、三成がこの部屋へ訪れる理由がわからない。近頃不眠であったため、早い刻限ではあるが眠気がきたのだろうかと顔を覗きこむ。
三成の目の下には薄っすらと隈ができている。良くはないが、まだ限界は遠そうだ。
「……貴様に渡したい物がある」
「我に、か?」
「貴様にだ」
袖の中から小さな入れ物が取り出された。黒く艶のあるそれは漆塗りのようで、蓋には金で蝶が描かれている。差し出され、思わずそれを受け取った。
見た目は美しいが、三成にとっての贈り物とはそれではないのだろう。一度、琥珀色の瞳を見てから蓋を開ける。中を見て欲しいという言葉がありありと見てとれたのだ。
中身は白濁色の塗り薬だった。薬草独特の香りが大谷の鼻まで届く。慣れ親しんだものとはまた違った香りに目を細めた。大谷自身は己のことでもあるのである程度、薬についての知識を持っている。だが、三成は興味がないのもあって薬については詳しくないはずだ。わざわざ特注と思われる入れ物に入れて差し出してきたくらいなのだから、効果があると目処をつけて持ってきたのだろけれど、どこでこれを見つけてきたのかは見当もつかない。
「三成、これは」
「もう持っていたか?」
少しばかり眉が下がる。正直なところ、大谷はこの顔に弱い。
「いや、我も始めて見る薬よ。どこで手に入れやった?」
三成を疑うわけではないが、入手経路によっては使うかどうか考えた方がよいかもしれない。
「……孫市から、わけてもらった」
自分の力で見つけたわけでないことが悔しいようだ。
「雑賀が?」
「そうだ。私は薬に対する知識が薄い。だが、雑賀の情報収集力ならば何か知ってるのではと思った」
大谷は驚きを隠すことができなかった。あの三成が、己の薬に関して態々動いたというのだ。それが例え、情報を聞く程度のことだったとしても、だ。三成は己の耳に陰口が届けば怒った。これが病に効くと聞けばそれを得るために赴いた。だが、それはいつも受身だった。自ら情報を得ようとしたことはなかったはずだ。耳にして、始めて大谷の病を思い出すような男だった。
「主が、態々……」
手のひらに収まる程度の薬だ。けれど、それがとてつもなく大きな物に感じた。
「情報も薬も雑賀のものだ」
「だが、タダで分けてくれたわけでもあるまい」
金か、それとも三成の懇願か。何にせよ、対価が求められたことは間違いないだろう。金子ならばそれほど痛くないが、三成の矜持を傷つけるようなものだったらと、思わず手に力が篭る。
「……食事だ」
「食事?」
思わず尋ね返す。
「私が、朝餉と夕餉を取ることが条件だった」
「……ヒ、ヒヒ」
抑え切れずに笑いが漏れだす。三成が不愉快そうな顔をしたが、笑いに拍車がかかるばかりだ。
やはり、孫市に三成を任せるのが良いと考える。病の身である己が餌に使われ、死んだ後のことを考えると不安が残るが、それでも上手く食事をさせてくれたようだ。三成は約束を違えない。これからもしっかりと食事を取ってくれることだろう。
「とりあえず使ってみろ。足や腕に塗りこむように使うらしい。
効くようなら、また作らせる」
「さようか。ならば、今日から使わせてもらおう」
「私が塗ってやろうか」
「それはならぬ」
時折、三成はこのようなことを言ってくる。答えはいつも決まっているのだが、彼は諦めを知らぬ男でもあった。
「いくら主と言えど、病んだ身を晒すのは辛い。ツライ」
悲しげに言ってやればその場は引くことを知っているので、大谷は真のような嘘、嘘のような真を吐く。
「……わかった。その代わり、私の頼みを聞いてはくれないか」
「ほう。主が頼み事とは珍しい。何ぞ。言うてみよ。我ができることならば、何でもしよう」
無意識のうちであろうが、三成は大谷が己の言葉を聞くのが当然だと思っている節がある。そのため、頼み事というのは滅多に聞けるものではない。
「今日は一緒に食事をしてくれないか」
瞬間、時が止まった。
「三成よ、そのような――」
「先ほどは何でもしようと言ったではないか。貴様、約束を違えるのか」
強い目で睨みつけられる。ここは戦場ではないというのに、三成の眼光は戦場でのそれだ。何の心構えもしていなかった大谷には少々辛いものがあった。
どうするべきかと考えを巡らせる。同じ部屋で寝ているのだ。食事など今さらだろうと言われるかもしれない。だが、今まで食事だけは別々に取っていた。一つ破ってしまえば、後は転がり落ちるように破られるような気さえするのだ。
第一、食事というのは、口に含み、体の中へ飲み込むものだ。食物に病がついたらどうするのだ。内から病が侵食すれば、もうなす術がない。気がついたときには手遅れだろう。それだけはならない。
「後生よ三成。それだけは、それだけは……」
「何故だ刑部。動くことが辛いのならば、ここで食せばいい。大勢が嫌ならば、私一人がこちらへ来よう。静かな食事がいいのであれば、何も話さない。見られるのが嫌ならば見ない。
だから、同じ場所で食することだけは許してくれないか」
縋るような、懇願するような、それでいて命令するような声だ。瞳も声と同じ色を持っている。
何故、と聞きたいのは大谷の方だ。何故、そこまでして病人である己と食事をしたいと言うのだろうか。
「刑部。一度だ、一度だけでいい」
「三成」
「刑部」
互いの名前を呼び、見つめあうこと一寸。
「……あい、わかった。今回だけよ」
折れたのは大谷だった。
「ああ。わかった」
三成は満足げに笑い、立ち上がる。夕餉まではまだ時間がある。残してきた仕事を終わらせるつもりなのだろう。
「食事はここへ持ってこさせる」
「わかった、わかった。早に仕事を済ませてきやれ」
「そうする」
足音が聞こえなくなると同時に、大谷はその場に倒れてしまう。
「押し切られてしもうた……」
次はどこを許しの境界線にしようか。いや、境界線などもう意味をなさないだろう。。三成が変わったことは素直に嬉しいと感じるが、この変わりかたはお断りだ。そして、三成から貰った薬を使うのがもったいないと思ってしまう自分も嫌だった。
悶々と考えているうちに日が暮れる。仕事に慣れ親しんだ体は、本人の意思に関係なく執務を終わらせてくれていた。
「刑部、食事だ」
「あい」
障子が開く。三成が入ってくる。いつも見ているはずの光景であるのに、胸が痛んだ。それを緊張と呼ぶことは知っているが、己の身にひりかかってきたのはいつぶりだっただろうか。緊張のあまり、食欲も失せる。しかし、それを告げればまた何だかんだと世話を焼きたがるのは目に見えている。結局のところ、腹を括るしか道は残されていなかったりするのだ。
いつもと変わらぬ食事を目の前に、手をあわせる。三成もそれに続き、静かな食事が開始された。
共に食事をしてくれと頼んだときのことを覚えているのか、三成は黙々と食事をした。顔を上げなければ三成と共にいることを忘れてしまいそうなほどいつも通りの静けさが部屋を支配している。
「……三成」
「何だ」
声をかければ返事がくる。
「何故共に食事など。今までは別々で良しとしていたではないか」
再び降りる沈黙。しかし、先ほどまでとは違い、三成の箸は止まっている。答えを探しているのか、答えることができぬのか。大谷はただじっと待った。
「近頃、会っていなかっただろ」
言いにくそうに、ご丁寧に視線をそらしながら告げられた。
食事を共にしようと言われたときと同じくらい、いや、それ以上に大谷は目を白黒させた。そして思い出してみる。確かに、近頃は顔をあわせる回数が減っていたように思える。
家康を討つための準備も佳境に入り、世界へと向けた策も慌しくなっていた。それに加え、三成が眠る回数が減っていたことも原因だ。眠るとき以外は忙しい大谷に気をつかい、部屋に訪れることがなかったのだ。
「少しでも、共にいたい」
恐る恐る向けられた目に、大谷は膝の上で拳を握る。
嬉しかった。悲しかった。共にいたいと思うけれど、これでは死した後の未練を断ち切ることができない。安心して死ねるようにと策を弄しているはずなのに、日に日に死が恐ろしくなる。
「刑部。私にはわからない。この気持ちは何だ」
「……主は我が心配なのであろ? 我は病持ちであるゆえな、知らぬ間に失くすのが恐ろしいのであろ」
表面上は平静を保ち、心の中で安堵の息をもらす。三成の抱いている感情など、大谷にもわからない。だが、それが良いものだとは思えない。気づかぬならばそのままで、適当な名前をつけておけばいい。
「そうか。死ぬことは許さない」
「わかった。わかった。我は死なぬ」
嘘しか吐けぬ。大谷は小さく笑った。
後編