3.甘い子供
 バッターは、不意に思い立った。
 今まで、浄化して回ったゾーンを再び回ってみたことはあった。つい先ほどまでいた場所もその一つ。浄化したばかりのゾーン3だった。残すところは、創造主の欠片とクイーンが住まうthe roomのみ。バッターの目的も最終段階に差し掛かったといえる。けれども、そこで彼は気づいたのだ。
 ただ一つ、戻ったことのない場所があることに。
「最後にあの場所も見ておくか」
 亡霊の体液に塗れたバットを振り下ろし、彼は向かう。幸いなることに、プレイヤーもあの場所のことを思い出してくれたらしい。あるいは、この画面の内側から、何らかの作用を向こう側に送り出すことができたのかもしれない。
 ともあれ、バッターの足は迷いなく進んでいく。最初のゾーン。平穏で、ともすれば虚無にも見えかねないあのゾーン0へ。
 ガーディアンを内包することなく成立していたあの空間は、今もまだ色を伴っているのだろう。ガーディアンが居ない故に何もなく、ガーディアンがいないからこそ亡霊も存在していない。空虚で穏やかなゾーン。最終局面を前に、あの場所でざわめく胸を押さええるのも悪くはない。
 それに、気になることもあった。
 かつて、目に痛いばかりのピンクで構成された世界で、あの猫、哀れな猫は賢明に言っていた。ゾーン0に地下を作ったのだと、悲しみを忘れられるような場所を、と。
 正直なところ、バッターには彼らの悲しみがわからない。かつて、世界が滅びたときのことを彼らが覚えているのか、この歪な世界に胸を痛めていたのか。あるいは、もっと別の、バッターが欠片も関与していない部分での悲しみなのか。だが、悲しみを忘れられるようなものには心当たりがあった。できた。
 ゾーン3で触れたあの白いシュガーは、全くもって悲しみを忘れさせるに相応しいものではないか。あのゾーンのエルセンは、洗脳の効果もあったのだろうけれど、見事に亡霊の存在を恐れず、未来を恐れず、シュガーの不足だけを怯えるように変わっていた。
 未だ見たことのない地下、バッターが知らぬ場所。そこにあの白い粉があるのであれば、確認しておきたい。あれはきっと、この世界が創造主の幸福のために作られていた証明なのだから。それをバッターはもっと間近で見てみたかった。己には許されていなかったからこそ。
「――あぁ、穏やかな世界だ」
 白い海。静かな世界。何もかもが白に染まりつつあるこの歪んだ世界で、ただ一つ、このゾーン0のみが、見る者、留まる者の心を落ち着けてくれる場所だ。この場を望み、赴いたプレイヤーも、もしかすると心身ともに疲れきっているのかもしれない。
 使命とはそれほどまでに重く、苦しいものだ。
 しばしの間、バッターは呆然と海を眺める。プレイヤーもそうしているのだろう。この世界の終わり、否、彼、彼女にとってはゲームクリアを目前に、この奇妙な世界へ愛着と諦念を持って惜しんでくれている。
 バッターの足が進む。建物をぐるっと一周し、ザッカリーを見つけ、首をかしげた。
「地下?」
 そんなものはどこにもない。
 かつて謎解きをした建物の最下層は一階で、新しいモノといえばザッカリーくらいのもの。地下のちの字も存在していなかった。だが、そんなバッターを横目に、プレイヤーは何かを思いついてくれたらしい。
 操られるがままに足を進めたのは、謎解きのヒントがあった小さな部屋だ。
「ほう」
 バッターは尊敬の念をこめて息を吐く。
 そこには地下へ続く階段があった。
 かつては存在していなかった、地下への道。プレイヤーがいたからこそ見つけることができた、といっても過言ではない。バッターは意気揚々とその階段を下りていく。
 一段下がるごとに、甘ったるい匂いが下のほうからしてくるのを感じた。
 どうやら当たりらしい。
 バッターの足が地下へつく。甘ったるい匂いが充満し、部屋には山のように積み上げられたシュガー、シュガー、シュガー。そして、一人の女の子。
「……ほっといてよ……」
 口角を上げながらも、どこか不満げな声。可愛らしく、またかすかに高いその声にバッターは軽く驚いた。
 それもそのはずだ。この世界に住まう「女」は、クイーンだけのはずだったのだから。
「どうしてあれもこれも、ぎょっとするモノばかりなんだろ」
 ドッ、とバッターの心臓がなる。
 表情には出さず、声にも出さず、画面向こうのプレイヤーに悟らせることもなく、ただ静かに焦っていた。
 この世界に女がいないのは、創造主が幼かったからだ。病弱で外にも出ることができず、自分と違う性別の人間など、母親しか知らないような子供。それ故に、住民もガーディアンも、性格に差異こそあれど、性別はみな男。母の象徴であるクイーンにのみ「女」が許された。
 だが、目の前に立つ彼女は、そう、彼女だ。女。
 この世界が、未だ、創造主と繋がっている証拠、ではないのか。
 大人になり、元気になり、外に出て、創造主は女と出会っただろう。恋をすることも、もしかすると子供ができているかもしれない。バッターの考えを肯定したいのか、彼女の格好は実にきわどい。
 バッターは手のうちにあるバットを強く握る。
「ここで何をしているんだ?」
「そんなつまんない前置きで時間を潰すのはやめにしない?」
 彼女は倒さなければならない。
 こんな歪んだ世界が、創造主と繋がっていてはならない。現実の彼を損なうようなことだけは、あってはならない。眼前の証拠さえ消してしまえば、繋がっている可能性は、可能性に終わる。悲痛な現実よりも、悲痛な現実かもしれない、という予測のほうが心穏やかに使命をまっとうできる。
「ねえ、踊りましょう。オトモダチさん」
 甘い、甘いシュガー。
 彼女の名前。
 きっと、創造主は彼女を愛したのだろう。
 かつて、この世界のエルセンは創造主の心を慰めるシュガーだった。誰もが彼に対して甘く、優しかった。現実世界では与えてもらえぬ甘味を存分に与えてくれる存在として、誰もがこの世界に在った。
 だからこそ、この歪な世界でもエルセンはシュガーになるのだ。彼らの体は、甘いモノでできている。
 その名前を冠する彼女は、きっと誰よりも創造主に愛され、また、彼を愛しているのだ。
 憎くなどない。羨ましくなどない。妬ましくなどない。
 そういえるほど、バッターは聖人ではないのだった。

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