紋土は夢を見る。それは二年前の夢だ。
 夢はいつも同じ場面から始まる。小さなアパートに大亜と二人で暮らしているところから。小さな部屋は薄汚れていて、隙間風も酷い。何とか雨から身を守っているだけとも言えるような場所だった。
 それでも、それなりに幸せではあった。暴力を振るってくる父親はおらず、尊敬している大好きな兄との生活。思えば、あの時期が最も幸せだったのかもしれない。
 幸福が崩れたのは、紋土が中学三年になろうかという時のことだ。
「オレ、族から抜けるわ」
 その日の天気を口にしたのかと思ってしまうくらい、大亜の口調は軽いものだった。
「え?」
 紋土と二つ違いの大亜は、当時高校二年を目前にしていた。中途半端な時期であることは誰の目から見ても明らかだ。兄が暴走族を辞めるなど、考えたこともなかった紋土でさえ、抜けるのならば来年だろうと思ったほどに。
 高校卒業を期に暴走族から足を洗うのは珍しいことではない。大和田兄弟よりも年上が多い暮威慈畏大亜紋土では、そういった者も数多くいた。例外として家庭の事情や恋愛関係から抜ける者もいたが、そのどちらも大亜には当てはまらない。実の弟であり、同じ屋根の下で暮らしている紋土はそう確信している。
 ならば、何故今なのか。
 疑問は顔に出ていたのだろう。大亜は苦笑いをして、紋土の眉間を軽く突いた。
「他にやりてぇことができたんだよ」
 場の空気を和ませようとしているのはわかるが、今の状態でからかい混じりな行動は紋土が持った複雑な感情を怒りに転換してしまう。
「んだよ! じゃあ、暮威慈畏大亜紋土はどうすんだよ!」
 大亜の手を払い除け、目の前にある顔を睨みつける。
 兄弟喧嘩をしたことは何度もあったが、今以上に本気で苛立ったことはない。
 彼は言っていたのだ。暮威慈畏大亜紋土は、兄弟で作った最高のチームだと。長い間、心を落ち着かせることができる居場所がなかった自分達が、ようやく得ることができた場所なのだと。
 それを放って、大亜はどこへ行こうというのだろうか。紋土にはわからなかったし、わかりたくもなかった。
「お前に任せる」
 一転して、大亜の声は真剣なものに変わっていた。
「……は?」
 紋土の時間が制止する。
 兄は何を言っているのだろうか。あの大きな居場所を、偉大な兄が作り上げた居場所を、弟である自分に任せる、そう言ったのか。
 目がぐるぐると回り、脳が情報処理を拒絶し始める。真っ先に浮かんだ思いは、できるわけがない、だった。
 大好きな兄のようになりたくて、紋土はずっと大亜の真似ばかりをしていた。男の中の男になるには、それが一番の近道だと、いわば盲信していた。暮威慈畏大亜紋土を作り上げ、周囲も大亜のことを素晴らしいと口にして憚らなかったのも紋土の盲信を後押しする結果となっていた。
 血は繋がっているが、紋土は大亜ではない。所詮、兄の猿真似だ。そんな自分に、大亜の代わりが勤まるわけがない。プレッシャーで吐きそうになる。
「大丈夫。お前はオレの、最高の弟だからよ!」
 笑う兄の思いが重かった。
 ここで夢の場面が変わる。胸に重みを抱えたまま、紋土は次の光景を見るしかない。
 次は、暮威慈畏大亜紋土の集会で、大亜が自身の引退を宣言したシーンだ。それまでは静かに総長の話を聞いていた面々がとたんにざわめく。聞こえてくる声の中には、二代目総長となる予定の紋土に対する不安と不満も多分に含まれていた。
「紋土さんか……」
「喧嘩は強ぇけど、頭はそれだけじゃ勤まらねーよ」
「何言っても、所詮は大亜さんのチームだからなぁ」
 耳を塞ぎたくなる。今すぐにでも怒鳴り声をあげ、口を開けている奴らを一人残らず血達磨にしてやりたい。だが、それでは駄目なのだ。結局、自分が兄よりも劣っていることを認めてしまうことになる。
 認めるだけならまだいい。それがチーム全体の不安と不満になれば、暮威慈畏大亜紋土はお終いだ。兄に託された思いを果たすことができなくなってしまう。紋土は気丈に振舞った。
「突然のことで悪ぃな!
 だけど、今すぐ引退ってわけじゃねぇ。そうだな、再来月いっぱいってとこか」
 二ヶ月などあっという間だ。そんな短い期間で、紋土はチームの連中に己を認めさせなければならない。今までのように、ただ力を誇示すればいいわけではない。チームをまとめる総長としての力量を見せなければならないのだ。
 中学三年生にもなっていない身には、とても大きな重圧だった。しかし、大亜は中学に入るとほとんど同時にチームを作り始めていたのだから、紋土は年齢を理由に負けるわけにはいかなかった。
 そこから、夢はダイジェスト風になる。
 大亜が引退宣言をしてからの二ヶ月は、本当にあっという間だった。
 今まで通りに日々は過ぎていく。暴走ることも、喧嘩することも、変わらない。ただ、紋土を取り巻く環境が変わってしまっただけだ。今までは笑顔で話ができていた連中も、どこかぎこちなくなり、紋土から距離を置くようになっていた。
 先陣を切れば、無鉄砲な人間に総長が勤まるのか、と言われ、じっと構えていれば、皆を率いることのできない人間に総長は任せられない、と言われる。どれも直接言われたわけではないが、負の感情を滲ませた言葉というのは、どこからともなく漏れだしてくるものだ。
「くそが……!」
 誰にも相談できないことだった。
 兄を越えなければならない現状で、兄に相談はできない。かといって、紋土には族仲間以外に話相手などいない。八方塞がりだ。今まで、碌に交友関係を広げようとしなかったツケがここにきたらしい。
 毎日聞こえてくるチームからの不安と不満。学校へ行けば暴走族だと避けられる。心を許していた兄も、今となっては勝たなければならない相手、敵になっていた。どこにも発散されぬ感情は、紋土の中で鬱々と溜まっていく。
 そして、夢はクライマックスを迎える。
 二年前の光景。悪夢以上の悪夢。紋土の「弱さ」が招いた最悪の出来事。
「兄貴、勝負だ」
 紋土は自分なりにできることをしてきたつもりだった。兄のように、チームを率いる存在になれるように、認められるように。だが、二ヶ月の間では、どれも果たすことができなかった。
 認められぬままにやってきた大亜の引退式。これを機に暮威慈畏大亜紋土を抜ける、という噂を聞いた者の数も多い。ここが最後のラインだった。ここで止めることができなければ、近い将来ではなく、今すぐにチームは崩壊する。
 ようやくできた居場所を失うわけにいかない。何より、兄から託された思いに応えないわけにはいかない。大亜に幻滅されることは、あまりにも恐ろしいことだった。今は越えるべき敵となってしまった大亜だが、やはり紋土にとっては唯一の兄であり、理解者だ。失うことはできない。
「いいぜ」
 二つ返事で勝負を受けた大亜は、やはり余裕の表情だ。己が負けるはずがないと思っているのだろう。だが、紋土も負けるわけにはいかない。負ければ、すべてが崩壊するのだ。何も残らぬ場所に一人立っているのは御免だった。
「んで、何で勝負するんだ?
 喧嘩か? 暴走りか?」
「暴走りだ」
 暮威慈畏大亜紋土は喧嘩を主としているわけではない。売られた喧嘩は買う主義ではあるが、基本は暴走ることが好きな連中の集まりだ。その頭を決めるというのだから、勝負の方法は当然、暴走りになる。
 これは公平を期すためにも有効な手段だった。まだ中学生の紋土と、もう高校生の大亜。この二人が平等になる勝負方法でなければ、チームの連中も納得しないはずだ。後から手を抜いていたに違いない、などと文句をつけられてはかなわない。
「わかった。
 じゃあ、お前が審判してくれ」
 紋土が指名するまでもなく、大亜が近くにいた男に審判を頼む。彼はチームの中でも古株に分類される男で、信頼も厚い。例えどちらが勝ったとしても、公正な判定を出してくれることだろう。
「はい」
 男は二つ返事で返し、紋土は兄と仲間達に暴走るコースを説明する。特別なコースではない。いつも暴走っている、いつも通りの道だ。あくまでも公平に、そして、皆が認めずにはいられない状況で勝たなければならない。
 用意ができた段階で、紋土と大亜がスタート地点に並ぶ。
 エンジン音と周囲の声がうるさい。紋土は無意識に思い、驚く。今まで、単車の音や仲間達の声をうるさいと思ったことなどなかったはずなのに。
「いきますよ」
 審判が声をあげる。
「よーい」
 紋土の心臓は痛いくらい鳴っていた。
 これから始まるわずかな時間で、すべてが決定するのだ。緊張しないわけがない。
 一瞬だけ、兄を横目で見る。同じように緊張しているのかと、わずかな期待をこめて。
 だが、期待は打ち砕かれる。
 紋土が見た大亜の顔は、いつもの暴走りと変わらぬ表情だった。口元には笑みを浮かべ、最後の暴走りに楽しささえ感じていた。途端に理解してしまう。きっと、この勝負は負ける。
 気持ちが負けた時点で、勝敗は決したようなものだ。それでも、紋土は奥歯を噛みしめてどうにか気合を入れなおす。
「スタート!」
 声と同時に二機の単車が線を描く。
 出だしは悪くなかった。二人の間に明確な差は見られない。だが、背後にあったチーム連中の姿がなくなった頃、それは見え始めた。
「オレは、勝たなくちゃ、なんねーんだ」
 口にしてみたところで、大亜との差は縮まらない。大きな差ではないが、越えることのできない差。紋土はここでも兄の背中を見るばかりだった。今までと何も変わっていない。越える対象として、大亜が大きく存在しているだけだ。
 培ってきた技術を使っても、スピードを限界まで上げても、何故か縮まらない。
 やはり勝てない。どう足掻いても大亜に勝てるはずがない。力も速さも心も、何一つとして紋土は大亜に勝てない。その現実がはっきりと見える壁となって現れていた。
「くそがぁ!」
 絶望的な差だ。しかし、紋土には勝つしか道がなかった。
 何もかも失くすわけにはいかない。負けるわけにはいかない。兄を失望させるわけにはいかない。もう、何をしてでも勝つしかない。多少の無茶も、怪我も覚悟の上でやるしかないのだ。
 叫び声と共に単車を傾ける。兄の横をすり抜けるつもりだった。
「――――あ」
 だが、それは致命的な失敗を呼び寄せた。
 急く心が紋土の腕を鈍らせたのか、そもそもが無謀だったのか。紋土は対向車線に出てしまったのだ。
 光が見える。トラックのライトだ。左右のどちらに避けるのも、間に合わない。
 死ぬ。それだけが紋土の脳裏を過ぎった。
「紋土!」
 声が聞こえたのは、目を開けていられないほどの光量に世界を焼かれた瞬間だった。
 横からの衝撃を感じた。外部からの力によって、紋土はもう一つ向こう側の車線に追い出される。その時、紋土は確かに聞いていた。何かがぶつかり合う音と、吹き飛ばされた音。
 思わぬ位置からの衝撃により、単車は転倒し、紋土自身もそこから放りだされる形になった。しかし、死ぬような怪我はなく、多少のすり傷ができた程度だ。そのおかげで、紋土はすぐに顔を上げることができた。
 あるいは、起き上がることもできない方がよかったかもしれないけれど。
「……あ、にき」
 紋土は目を見開く。
 眼前に広がっている光景は、現実のものとして受け入れることができないものだ。
 大亜が、最愛の兄が血を流して倒れている。顔を上げる力もないのか、もしくは既に生き絶えているのか、彼は動かない。
「あにき、なあ、あに、き」
 ふらつく足で大亜に近づき、彼の隣に膝をつく。
「もん、ど……」
 大亜の目が薄く開いた。かろうじて息はあるようだ。しかし、そう長くはないことも紋土は理解できてしまった。こんなときばかり巡りのいい頭が恨めしい。
 紋土は震える手で兄の上半身を抱き上げる。全身が震え、満足に言葉さえ話せない。謝らなければならないというのに。何か言わなければいけないというのに。
「あにき……。おれ、おれは……」
 涙が溢れる。
 とんでもないことをしてしまったというショックからか、最愛の兄を目の前で亡くすという恐怖からか、どちらなのかはわかるはずもない。
「なぁ、もん、ど」
 大亜の手がそっと伸ばされる。涙を拭おうとしているのだろうか。
 違う。
「ぐあっ!」
 伸ばされた手が、紋土の首を締め上げる。
「お前の、せいで」
 先ほどまで力なく倒れていた兄が起き上がり、紋土をコンクリートの地面に押し倒す。抵抗する暇もなくマウントを取られてしまった紋土は、必死になって大亜の手を引き剥がそうとするが意味をなさない。
 片手だというのに大亜の力は強く、紋土の気道を着実に締め上げていく。
「か、はっ……」
 息ができない。死んでしまう。その一心で首に絡まる手を殴りつけるが、力は弱まる気配さえ見せない。酸欠で頭が朦朧とし、目からは先ほどとは明らかに違う理由で涙が溢れる。
「お前が「弱い」から、オレは死んだんだ。
 この人殺しが」
 酸素を取り込むことができないのに、何故か紋土は死ぬ気配を見せない。こんな光景を見せられるくらいならば、いっそのこと死ねた方が楽だというのに。
「お前がもっと「強い」人間だったなら、誰もお前に不安も不満も持たなかっただろうに。
 「弱い」から、誰にも認められねぇんだよ。そんで、最後にはオレを殺しやがった。
 唯一の兄をだ!」
 鬼神の目だ。夢の中の大亜は、鬼のような目で紋土を見おろしていた。
 あの優しい兄に、これほど恐ろしい目をさせてしまうことを、自分はしてしまった。紋土は口を開き、言葉を吐こうとする。
「おっと、紋土。謝ってくれるなよ?」
 紋土の考えを先読みしたかのごとく、大亜が言う。
 目は鬼のまま、声だけはあの優しい兄を模している。
「謝るってことは、「弱さ」を認めるってことだ。
 ……まさかとは思うが、男の約束、忘れたわけじゃねぇよなぁ?」
「わす、れ、ない」
 掠れた声を上げる。
 あの日、夢ではなく、現実にあったあの時、紋土は大亜と約束を交わした。
「ぜ、ってぇ、ちーむは」
「そう。潰すな。
 そのために、お前は?」
「つよ、く、ある」
 嘘でいい。口先だけの「強さ」でいい。誰にも「弱さ」がばれないように、「強い」自分を演じ続ける。それが、紋土に許された唯一の贖罪方法だ。
「よしよし。良い子だ」
 言葉も声も優しいのに、目と仕草は恐ろしく紋土を傷つけていく。
 大亜は紋土の首を締めていない方の手で彼の顔面を殴り始めた。
「だけど、それだけで済むわけがないよな?
 お前は殺したんだから」
 呼吸ができない苦しさと、殴られる痛さと、刺されているような罪悪感。三つの苦痛が紋土を激しく責め立てる。
「どうした! お前は「強い」んだろ?
 やり返してみろよ!」
 大亜が叫ぶ。紋土はわずかな抵抗はみせるものの、されるがままになっている。
 「強く」あらねばならない。だが、やり返すことはできない。夢の中とはいえ、これ以上、大亜を傷つけるわけにはいかなかった。すでに紋土は、これ以上ないほどに大亜を傷つけてしまったのだから。
「この人殺しが!」
 謝れるものならば、謝りたかった。

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