石丸と義兄弟になってから数ヶ月が経った。季節が変わり、紋土はあの夢を見なくなり始めていた。兄の代わりになってしまった石丸と日々を過ごし、喧嘩をして笑いあうことで、彼の心の隙間が埋まっているようだ。
 初日は気持ち悪いだの、天変地異の前触れだの、好き勝手に騒いでいたクラスメイトも、時間と共に石丸と紋土が隣合っていることに慣れていった。元から個性の強い連中の集まりだ。多少の違和感はすぐに消えていく。
「兄弟、まーた雑用か?」
「むっ。雑用と馬鹿にするのは感心しないぞ、兄弟!」
 風紀委員であるはずの石丸は、不思議なくらい雑用を任される。今日も彼は両手一杯にプリントの束を抱えていた。初め、紋土は石丸のこういったところを、人が良いからそうなってしまっているだけだと思っていた。互いを認め合うまでは、それを馬鹿にしていたし、認め合ってからもしばらくは必要のないことなのにと口を挟んでいた。
 だが、共に学園生活を過ごすようになって、今までにない新しいや深い人物像を知ることができるようになっていった。
 石丸は単純に人が良いというわけではない。状況によっては、持ち前の空気の読めなさを最大限に発揮し、面倒な奴になることもある。そんな彼が雑用をこなすのは、周囲の人間のためだった。
「悪ぃ、悪ぃ。
 手伝うから勘弁してくれや」
 そう言うと、紋土は石丸の抱えていたプリントを半分奪うようにして取る。
「ありがとう!」
 石丸は遠慮することなく紋土の好意を受け入れ、礼を述べた。
 天賦の才ではなく、努力することによって得られる才を好む彼は、そのために必要な環境を作り上げることにも熱心だ。特に、学校という場所は自分を含め、学生達が勉強に集中し、努力を重ねることができるような場所であるべきだという自論を持っている。石丸が他愛もない雑務を進んで受けるのはそのためだ。
 いつだったか、その話を聞き、紋土は石丸の優しさに感動すら覚えた。勉強は嫌いであったが、兄弟と呼ぶ石丸がそこまでして勉学のための空間を作っているのだから、これからは少し真面目に授業を受けよう、と周囲からしてみれば驚愕以外の何物でもない思いを抱いてしまったくらいだ。
 同時に、紋土は思った。こういうところは兄貴と似ていない。
 大亜ならば、自分の力だけで空間も才も掴みとれ、と言うだろう。他者がお膳立てしてやらねば努力の一つもできないような男に価値はないと。
「んで? これをどこに持って行きゃいいんだ?」
「無論、職員室だ!」
 この学園に職員室は一つしかない。生徒数も少なければ、教師の数も少ないのだ。
「だよなー。
 チッ。生徒指導のセンコーがいなけりゃいいんだけどよぉ」
 編入してきて以来、素行について文句を言われたことはない。成績や出席状況について注意を受けることはあったが、それだけだ。頭髪や制服、単車についても咎められたことはない。流石は特殊極まりない学園、といったところか。
 そんな状況に加え、紋土がたかだか教師の一人や二人に怯えるわけがない。おかげで、今までは生徒指導に対しても思うところはなかった。
「まだ気にしているのか?」
「向こうがオレを見て笑いやがるんだよ。クソが」
 紋土のこめかみに青筋がたつ。思い出すだけでも腹立たしい。
 きっかけは石丸の言葉だった。紋土の考えも、男気のある価値観による行動理念があることも理解できる。しかし、それでも規則は守らねばならない。兄弟になる前も、なった後も、ぶれない石丸の有り方だ。この辺りについては、紋土も相手の考えを理解し、尊重することにしていたため、感情に任せた反論はしなかった。
 だが、規則のために、頭髪について許可を取りに行こう、と言い出したときは流石にどうかと思った。
「職員室中に響く笑い声だったな」
 兄弟となってからしばらくしたある日、紋土は石丸に引きずられるようにして職員室へと連衡された。彼は半ば諦めと共に、促されるまま頭髪について許可を取ることとなったのだ。
 普通の学校であれば、認められないと言われるか、よく許可をとりにきたと褒められるか。大体はこの二択になるだろう。しかし、残念なことに希望ヶ峰学園は、普通とはかけ離れた学校だった。
 生徒指導の任についていた教師は、あろうことかその場で大笑いをしたのだ。
「よっぽど面白かったんだろーぜ」
 それもそのはず。希望ヶ峰学園には、暴走族なんぞよりもずっと恐ろしくて性質の悪い超高校級がいたこともあるのだ。たかだか暴走族が、たかだか頭髪のために許可を求めにやってくる。
 ギャグでないならば何なのだ。
 教師のツボだったのか、それ以来、生徒指導の教師は紋土を見かける度に肩を震わせるようになった。恐怖で相手の体が震えるところならば何度も見てきた。だが、己を見て笑いで震えている相手なんぞ、紋土の傍に未だかつて存在していなかった。
 すべては石丸と出会い、義兄弟として心を通わせたのが運の尽き、というやつだ。笑われる可能性があると知りながらも、こうして彼の手伝いをしている紋土にもある程度の原因はあったりするが。
「おっ。超高校級の凸凹コンビ、何してるんだべ?」
 二階への階段を登ったところで葉隠が顔を見せた。どうやら、三階にある娯楽室からの帰りのようだ。悪友仲間である桑田の姿は見えないが、どこか楽しげな足取りを見る限り良いカモにでも出会えてご機嫌なのだろう。
「その呼び方やめろっての」
 紋土はため息をつく。石丸とひとまとめにされることは嫌ではないが、その名称はどうかと思う。
 二人が兄弟と呼びあうことにクラスメイト達が慣れたころ、誰からともなく言い出した呼び方だ。暴走族と風紀委員という肩書きを持つ者同士が手と手を取り合う。周囲が違和感を感じて当然な二人のくせに、そのコンビネーションはそこいらの仲良しでは太刀打ちできない。
 ある種の敬意と笑いを含んだ名称は、あっという間にクラスメイトの中で広まった。
「ボクらはこのプリントを職員室に運んでいる途中だ」
「相変わらず石丸っちは真面目だべ……。
 でも、並んでプリントを運んでる大和田っちも真面目だべ……」
 どうしてそうなった。葉隠の口からは出なかったが、表情からその言葉が滲み出ている。
 元はといえば、紋土も彼や桑田と同じグループに属していた人間だ。真面目とは程遠く、クラスの中で点数を競い合えば間違いなく下から数えるはめになるだろう人間。それが今ではどうだ。風紀委員の石丸につられ、授業は真面目に受ける。教師の手伝いをする。テストでも赤点ギリギリとはいえ、補習を受けるような点数を取ることは少なくなっていた。
「気持ち悪ぃこと言ってんじゃねーよ」
 思わず眉間にしわが寄る。
 確かに、石丸と共に行動するようになってからは、比較的真面目な学生になっただろう。だが、それはあくまでも兄弟分の言葉に耳を傾けているからであって、紋土自身が良い子になったわけではない。
 努力している人間や真面目な人間を馬鹿にするわけではないが、根っからの不良である紋土としては、真面目扱いされるのはどうにも気味が悪い。
「葉隠君。それは間違っているぞ」
 石丸は軽く肩をすくめ、紋土に目をやった。
「兄弟は以前と比べれば真面目な学生になったかもしれない。
 だが! 相変わらず服装は乱れているし、許可を得たとはいえ頭髪を直す気はないようだし、無断外泊も相変わらずだ」
 つらつらと文句が口から飛び出す。
 身内ということで甘い判定にはなっているようなのだが、それでも風紀委員として思うところは多いのだ。紋土の方も似たような思いで、何かの拍子に長々と説教を垂れてこられるのはどうにも受け入れがたい。
「余計なこと言ってんじゃねーよ」
「正直、すまんかったべ」
 スイッチが入ってしまったらしく、石丸は風紀の有り方について述べ始めている。こうなっては簡単には止まらないことを紋土を含め、クラスメイト全員が知っていた。ただの軽口が目の前にある面倒な事態を引き起こしてしまった、という自覚がある葉隠は、素直に紋土へ謝罪を向けた。
 しかし、彼が許そうが、許すまいが、現状を打破できるわけではない。紋土はいっそ大きなため息をつく。
 勤勉さと規則正しさは社会を担う身として当然持つべきもので、学生はそれを学ぶための期間なのだといつだったか石丸は言っていた。本気で言っているのは、彼の普段の生活を見ることが何よりもの証拠になる。
 誤りであるとは言えないが、紋土は石丸の考えに同調もできない。
 学生であるのは一定期間だけで、いずれは社会を担うと言われても、働かずに生きる期間というのも人生には存在している。どこかに空白があるのだ。きっと石丸ならば、その空白の期間さえ学びの時間に変えてしまうのだろうけれど。だが、紋土は違う。
 一定期間のために良き学生であるより、一生連れ回ることになる男としての自分を磨いていたい。
 そのために必要なのは、机に向かって国語や算数を学ぶことではないはずだ。彼の兄、大亜がそうであったように。
「――と、いうわけでだな。
 聞いているのか、兄弟?」
「あー。あんまし」
「石丸っちの話は長いべ」
「なっ……!
 ボクの話が長くてわかりにくかったというのならば反省しよう!
 次は改善に務めたいと思うので、どの辺りがわかりにくかったのか教えてくれたまえ」
「まーた始まったべ」
 葉隠も苦笑いだ。
 頭のできだけでいうならば、石丸は努力のかいもあってか上位に入る。しかし、もっと根本的な部分に目を向ければ、悲しいかな、彼は馬鹿だった。
 長年友人らしい友人がいなかったのも頷ける。大和田と共にいて、政治や経済の話が口から出てきたのも一度や二度ではない。基本的に、石丸は相手を見て話題を選ぶということをせず、軽い世間話というものに縁もなかった。
 個性的なクラスメイトに囲まれ、彼とは真逆の兄弟を持ち、それもずいぶんマシになってきたのだが、こういった瞬間にはやはり石丸節が炸裂してしまう。
「兄弟。お前が風紀のことを大事にしてるってのはよーくわかったからよ。
 さっさとプリントを運んじまおうぜ。な?」
 付き合いの長さは無駄にならない。紋土は素早く割り込み、石丸の意識をそらさせる。
「そうだな! 先生を待たせてはいけない!」
 疑うことなく紋土の言葉に乗った石丸は、すぐさま足を進めていった。ちらり、と紋土が葉隠を見れば、彼は両手をあわせてすまない、と言外に示している。誰だって面倒なことは回避したいものだ。
 紋土は今度、アイスでも奢ってもらおうかと算段をつけながら石丸の後を追った。
 希望ヶ峰学園は縦に長い構造になっているが、何故かエレベーターの類はつけられていない。その他の設備を充実させるためにも、なくてもどうにかなりそうなものは設置しない方針なのかもしれない。
 そのおかげで、紋土は長ったらしい階段を一段一段登るはめになっている。せめて、職員室が一階にあればよかったのに、と思ってしまうのも無理はない。
「兄弟は職員室に行くことが多いけどよ、登るのが面倒にならねーのかよ」
「特にそのようなことを思ったことはないな。
 階段を登るというのはいい運動にもなる」
 質実剛健を口にしてやまない石丸らしい意見だ。
 苗木とはまた違った方向の前向きさを持っている彼に、紋土は尊敬と同時に呆れを抱く。その時、石丸の足が止まり、紋土よりも数段上の位置から彼を見ていた。
 察しがいいとは言い難い石丸のことだ。わずかとはいえ、呆れを抱いていたことになど気づくはずがない。わかっていながらも、紋土の体は思わず強張る。
「……もしかして、疲れたのか? 見かけによらず兄弟は体力がないのだな」
 やはり、紋土の緊張は的外れであった。
 どことなく申し訳なさげな顔をしている石丸に、沸点の低い彼は声を荒げる。
「疲れてねーよ!
 このくらいでへばるようで、族の総長が勤まるかってんだ!」
 紋土はさっさと足を動かし、前にいた石丸を追い越す。
 大神や石丸のように、鍛錬という目的で体を鍛えているわけではないが、日々喧嘩をしていれば必然的に体は鍛えられる。体力と腕力にはそれなりの自信があった。
「そうか。すまない」
 言葉は硬いが、その口調は柔らかい。
 気になって後ろをちらりと見れば、お堅い風紀委員の顔とはまったく違う、穏やかな笑みを口元に浮かべた石丸の姿があった。
 変わったな、と思うと同時に、こんな顔を兄はしなかった、とも思う。大亜は優しい男ではあったが、いつも薄皮一枚をまとっているようで、石丸のような透明で真っ直ぐな笑みを浮かべたことなど一度としてなかった。
「失礼します」
 四階にある職員室の前で、ノックと声かけをしてから石丸は扉を開ける。
 中にはよく知っている教師から、あまり面識のない教師まで様々な顔が揃っていた。
「プリントを届けにきました」
「おー。すまないな。ありがとう」
 石丸は教室の中にいた担任にプリントを手渡した。後から紋土も続き、手に持っていたプリントを渡す。
「いやー。お前ら、本当に仲が良いな」
 担任が嬉しそうに目を細めて二人を見る。
「はい!」
 石丸は担任の言葉に対し、わずかな曇りもなく応える。人並みの羞恥心を有している紋土としてはこっ恥ずかしいこと極まりないのだが、石丸に悪気がないことはわかっているので何とも言えない。紋土にできることといえば、嬉しげな担任や周囲の教師達から目をそらすことだけだ。
「お前らはいい影響を与えあっている。
 同じクラスにして本当に良かったと思っているし、お前らがうちのクラスで良かったと思っているよ」
 そんなことを言われて、どんな反応をすればいいのだろうか。紋土は気恥ずかしさで胸が一杯になる。褒められることには慣れていない。それも、教師という立場の人間から褒められたことなど、希望ヶ峰学園にくるまでは一度としてなかった。
 隣にいる男はどのような反応をするのだろうか。見ずとも予想はついていたが、答えあわせも兼ねて隣を見る。
「うおっ! きったねぇ!」
 予想通りといえばそうなのだが、紋土の考え以上の顔をした石丸がそこにはいた。
 滝のような涙を流し、鼻も垂れている。この男は、喜びにしろ、悲しみにしろ、表現が豪快すぎる。紋土が声をあげてしまったのも納得できるというものだ。素直というものは好まれるものかもしれないが、度を超えれば好感も反転しかねない。
 近場の机に置かれていたティッシュの箱を拝借し、石丸に押し付ける。すまない、というくぐもった声が聞こえ、涙と鼻水をが拭われた。その様子を眺めながら、そういえば、自分は兄の涙を見たことがなかった、と紋土は考える。
 兄という立場だったからか、彼自身の性格のためか。クソ親父に殴られたときも、母親が出て行ったときも大亜は涙を見せなかった。
「止まったか?」
「はい。すみません。
 ……あまりにも嬉しくて」
 誰かから認められるというのは、それだけで嬉しいものだ。紋土は経験からそれをよく知っている。
 真面目で優等生な石丸としては、担任教師から教え子でよかったと思われることが至上の喜びなのかもしれない。
「兄弟は嬉しくなかったのか?」
 ぼんやりとしていると、石丸が不思議そうな顔をして紋土を覗き込んでいた。顔が近づいていることにも気づけないほどに意識が飛んでいたようだ。慌てて言葉を返そうとするが、その前に石丸の言葉が被さる。
「ボクとキミが隣合うことは正しいのだと、大人も同級生も思ってくれているのだぞ」
 年齢や性別に関係なく、二人が二人であることを認めてくれている。石丸はそう言った。
 互いが真逆の性質を持っていることは自覚していたし、今のような仲になれたのは半ば奇跡だとも感じていた。だからこそ、自分達の仲の良さや、それによって改善された部分について、互いの中だけで完結していまいたくはなかったのだ。周囲にもそれを認めてもらい、隣合う素晴らしさを知って欲しいと願っていた。
 言葉にはされなかった思いが、目をあわせるだけで流れ込んでくる。きっと、これは妄想でも何でもないのだろう。
「嬉しくねぇわけねーだろ」
 強引に肩を組み、笑みを浮かべる。
 互いが認め合っただけでない。そのことを周囲が後押ししてくれているのだ。喜ばないはずがない。
「そうだろう! そうだろう!」
「でも、兄弟は泣きすぎなんだよ」
「泣くということは生命活動の上でも大事なことなんだぞ!」
 二人は大きな笑い声をあげる。
 仲良きことは美しきかな。しかし、彼らの声量をいささか邪魔でもあった。
「あー。はいはい。
 お前ら、もう帰れよー」
 石丸に柔軟性が生まれたことも、紋土が真面目になったのも喜ばしいことだ。しかし、二人がそろって大きな音を生み出すのは、対立していたときよりも、肩を組み合ってからの方が圧倒的に多い。
 担任は次の学年に上がるときにはこの辺りも改善されているといいなぁ、などという無理のある願いを抱きながら、二人を職員室から追い出した。
「んじゃ、帰るとするか。
 兄弟はまた勉強か?」
「あぁ。そうだな」
 一先ずは寮へ戻るべく、二人は階段を降りる。
 特に用事のない紋土は、自室に戻ってから何をしようかと考えた。暴走りに行くのも悪くはないが、ガソリンのことを考えれば少し控えたい気持ちもあった。誰かと遊ぶにも、隣にいる石丸は多少の社交性が生まれてきているものの、休みの日や学校終わりには参考書を開いて勉強をしている。断られるか、小難しい勉強に付き合わされるかのどちらかになってしまう。
 桑田や葉隠が部屋にいればいい、そんなことをぼんやりと考えていた紋土は、石丸が黙っていることにまで気にかけることができなかった。
 寮へ続く渡り廊下の手前、正面玄関前を通る。授業が終わってしばらく経っているが、自宅から通っている生徒がまだ何人か通っていた。
「兄弟」
 石丸が足を止め、先へ進んでしまった紋土の背中に声をかける。
「どうした?」
 かけられた声が、いつになく切羽詰っているようで、紋土は首を傾げた。職員室を出るまでは、あれほどご機嫌だったというのに。わかりやすい石丸にしては珍しい様子だ。
「話したいことがあるのだが」
 言いにくそうな顔に、ここでは話しづらいことなのだろうと判断する。
 まばらとはいえ、まだ人がいる場所だ。何を話すのかはわからないが、気軽に話せる場所でもない。
「なら、オレの部屋に来るか?」
「いや……。
 できれば、外がいい」
 本当に珍しいこともある。紋土はわずかに目を丸くした。
 何事にも真っ直ぐぶつかっていく石丸が、煮え切らない言葉を吐いている。よほどのことなのだろう。こういったときに力になれずして、何が兄弟だ。紋土は頷き、正面玄関へ向かって歩きだす。
 外とはいっても、近所にある喫茶店にでも行こうというわけではない。
 無駄に広い敷地を有している希望ヶ峰学園だ。校舎から出てグラウンドと逆方向に歩けば、それだけで人気のない場所がごろごろと存在している。二人は適当なところにまで足を進め、互いに向きあう。
「で、どうしたってんだよ」
 石丸が悩みそうなことといえば、勉強や風紀のことだ。しかし、それを紋土に相談するとは思えない。ならば、他のことか、と思いはするが、具体的には何もわからない。
「その、だな……」
 目がそらされる。
 これも珍しい。
 石丸は大きくて意思の強い目で他人を真っ直ぐに射抜く。目の前にいる人物から目をそらすなど、そうそうないことだ。
「兄弟。オレは舞園みてぇなエスパーじゃねーし、葉隠でもねぇからよぉ。
 はっきり言ってくんねぇとわかんねーぞ」
 頭を掻き、言葉を促す。
 日が暮れるまではまだまだ時間があるが、ずっとこんなところに立っているわけにもいかない。
「……こんなことを言うと、兄弟は気を悪くするかもしれないが」
 赤い瞳はそらされたままに、言葉が紡がれる。
 普段、石丸が他人の気に触るようなことを言うのは珍しいことではない。しかし、それを自覚し、なおかつそれでも口にするというのはあまりないことだ。根っこのところが善人である石丸は、理解できれば人の気持ちを優先できる人間だ。
「それでも、聞かずにはいられないボクを許してほしい」
 赤と薄紫が交わる。
「おう」
 何を言われるのかわからないが、ここまで石丸が真剣に悩み、それでも言わずにはいられないというのだ。受け止めてやるのが男の役目。紋土は気合を入れなおす。
 石丸の口が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「兄弟は、ボクを通して誰を見ているんだ?」
 入れなおしたはずの気合が砕け散った。。
 紋土は、己の呼吸が止まってしまったのではないかと錯覚してしまう。それ程に、石丸からの言葉は衝撃的だった。
 周囲の空気が硬直し、彼の体を固定してしまう。
「時々、兄弟は遠い目をしている。
 それは、ボクでない誰かを見ているからなんだろ?」
 真っ直ぐな目が恐ろしい。そらしてくれ、と願わずにはいられない。
 どうして、何で、という言葉が紋土の思考を埋め尽くす。
「すまない。言えないなら、言いたくないならばそれでいいんだ。
 兄弟には兄弟の事情というものがあるのだろうから」
 悲しげに目が伏せられる。
 ようやく真っ直ぐな視線から解放されたというのに、紋土の心臓は相変わらず激しく脈打っていた。かすかな痛みもある。罪悪感なのか、嘘がばれるときの痛みなのか。判別はつかない。
「その上で言わせて欲しい」
 紋土がその時見た赤い瞳は、今までにないほど弱く、それでいて優しい色をしていた。
「いつかは、ボク自身を見てもらえるようになりたい」
 目が細められ、口元が穏やかな曲線を描く。
「ボクは、たぶん兄弟が好き、だから」
 その瞬間の衝撃は、言葉に言い表すことができないものだった。
 朴念仁であった石丸が誰かに好意を抱くことも、それが自分に向けられたものであることも、互いが男同士であることも。すべてが一度に襲ってきた。
「いつから想っていたのかはわからない。
 だが、腐川君の小説を読ませてもらって、ボクはハッキリとわかったのだ。
 ボクが兄弟と共にいたいということも、兄弟についてたくさん知りたいということも、触れあいたいのだとうことも。
 恋をしているから、なのだということを」
 もう紋土の頭は限界だった。
 告白をしたことはあるが、されたことなどない。こういったとき、何を言えばいいのだろう。女の子達のように、ごめんなさい、とでも言えばいいのか。だが、それは違うような気がする。
「希望ヶ峰学園は学生同士の恋愛を推奨している節さえあることを感謝したのは始めてだったよ」
 天才と天才の間に生まれる子はまた天才である可能性が高い。超高校級を集めている希望ヶ峰学園では、生徒同士の恋愛は特に禁止されておらず、煽っている節さえある。寮の防音などは、次世代を生み出すために設置されているのではいか、という邪推が飛び出すほどだ。
 しかし、それはあくまでも次の天才を生み出す過程の一つであるからして、異性同士であることが前提になっているはずだ。子をなすこともできない同性同士の恋愛が推奨されているわけではけっしてない。
 ツッコミどころはあるのだ。だが、今の紋土にそんな言葉が吐けるはずもなく、悪戯に時間ばかりが過ぎていく。
「兄弟は兄弟のままでいてくれればいい。
 後はボクが頑張ろう。ボク自身しか見えなくなるように」
 石丸は紋土の手を掴む。
 手を通して伝わる温もりが紋土をさらに混乱させた。振り払えばいいのに、それさえできない。
「今日のところはこれで失礼する。
 聞いてくれてありがとう。すっきりした」
 それだけ言うと、本当に石丸は背を向けて行ってしまった。
 心なしかいつもよりも早足だったような気がするが、今はどうだっていいことだ。
 石丸の姿が見えなくなり、紋土はその場に座り込む。
「……嘘だろ」
 バレていた。告白された。宣言された。
 どれをとっても言う言葉は同じだ。
 目をそむけていたとはいえ、石丸を大亜の代替品にしている自覚はあった。同じくらい、バレるはずがないとも思っていた。だが、そんな考えはあっさりと覆されたのだ。
「それに、好きって、アイツ……」
 恋愛感情を向けられるなど、始めてのことだ。
 大亜ならば絶対に向けてくることのなかった感情だ。何を言っても、紋土と大亜は実の兄弟だ。そんなこと、ありえるはずがない。
 違う違う違う、と紋土の思考が一色に染まっていく。
 そして、薄く笑った。
「はは……。
 全然、似てねぇよな……」
 知っていた。
 共に学園生活を送ってきて、気づいていないはずがない。
 同じような言葉を吐いた。二人の共通点といえば、それだけだ。他は全く違う。性格も、やり方も、何もかもが違う。当然だ。彼らは別人なのだから。同じはずがない。
 受け入れることができなかっただけだ。せっかく見つけた代替品が、代わりにならないモノだと認めたくなかった。心の隙間を埋める道具を手放したくなかった。
「アイツ、時々オレより馬鹿だし、クソ真面目だし、人が良いし……」
 大亜とは違う。それは、代替品としての役割が果たせなくなるのと同じだ。ならば、もう石丸はいらないのか。そう考えると、胸が酷く痛んだ。
「良い、奴なんだよなぁ。
 兄貴とは違うけど、全然似てねぇけど……」
 いつからかなどわからない。けれど、紋土は石丸の隣にいたいと思うようになっていた。兄と違うとどこかで気づいていても、傍にいる理由が欲しくて無意識に嘘をついた。心の隙間を埋める代替品が欲しいだけなのだと。
 本当は、もっと別のもので埋められていたはずなのに。
「オレは兄貴の代わりを作っちまうほど弱ぇ奴だけどさ」
 ポツリと零す。それは、今まで口にすることもできなかった彼の「弱さ」だ。
「でも、いいかな」
 涙が溢れる。
 今まで溜め込んでいたものが流れ出すように。
「アイツの気持ちに、応えちまってもいいかな」
 ずっと胸が鳴っている。
 罪悪感もあったかもしれない。けれど、そこに喜びの色がないなんて言えない。
「きっとアイツになら、兄貴のことも話せる気がするんだ。
 弱いオレでも強くなれる気がするんだ」
 嘘が一枚一枚剥がれていく。
 いつだって誰かに懺悔したかった。謝ることを許して欲しかった。
 石丸ならば、黙っていてくれと言えば誰にも言わないだろう。一緒に秘密を共有して、支えてくれるだろう。そして、きっと、紋土も石丸を支えるのだ。想像するだけで、とても幸福な未来ではないか。
「ごめんな、兄貴」
 空に謝罪を投げ、紋土は歩き始める。
 石丸の部屋に行って、返事をしてやるのだ。
 本当は、ずっと前から好きだった、と。
 もしも、またあの夢を見たとしても、大亜は笑ってくれているような気がした。

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